上 下
20 / 34

20、紅茂/伊深村

しおりを挟む
山を下り、一面に広がる田畑をしばらく歩いた先に、伊深村はある。
普段は山の上に住む私にとって、平らかな田が広がるのを間近で見ることは少ない。今は一面茶色の田圃だが、夏の初めごろには、青々としてそれは美しいことであろう。

その奥に見える集落の、ひと際大きな館が、父上のそれである。
門を過ぎ石畳を進むと、庭が見えてきた。
庭の前にはまだ若いしだれ桜と紅葉が植えてある。何十年か後には、色とりどりの落ち葉がこの石畳を染めるに違いない。

「紅茂、よう来たのう」

母上が庭先から出迎えた。

「母上。ここは誠に、美しい屋敷にございますな」

「木々に囲まれ、穏やかに余生を過ごしておる。山が近いゆえ、たまに狐なども顔を出すのじゃ。大殿には化かされるからやめよと言われるが、どうにもかわいらしゅうて、つい、餌などやってしまう」

母上は城にいらしたときよりも、ずいぶん生き生きしていらっしゃる。
様々な煩わしさから解き放たれ、笑みも増え、若々しくなられた。

「大殿は今、納戸で茶器の手入れをなさっておる。客間に案内いたしましょう」

母上はここへ来てから、何事も下々の者に任せず、できるだけ自分で雑用も行うようにしているのだという。まだまだ呆けてはおれぬと申されるが、その気配は今のところは全くなさそうであった。

客間は一見質素なように見えるが、松が描かれた襖、金の引手、彫刻の施された欄間などは、往年の佐藤の栄華を窺わせる。

母上が下がるのと入れ違いに、父上が参られた。

「これはこれは、奥方様。ようお越しくだされた」

「父上、おやめください。今日は奥方ではなく、娘として参りました。父上に置かれましても、お変わりございませぬか」

「いや、少し肥えた。このところ、飯がうまくての。帯がきつうてならぬ」

確かに、顎のあたりがややふっくらされたように見える。

「さようでしたか。今日は蓬の餅を持参したのです。正月にはまだ少し、早うございますが」

「おお、ありがたい。また肥えてしまうのう。さて、久しぶりにそなたに茶を点てるとしよう」

それから父上は納戸から持参した茶碗を拭き清めた。

幼い頃から何度となく、父上の茶を喫まされた。昔はその苦みに耐えられず、吐き出すことも許されず、涙を浮かべながら喫んだこともあった。そしてそれを喫んだ日は、必ずと言っていいほど眠れなかった。

奥方となった今では、父上の茶を喫むこともなくなった。されど、眠れぬ夜は増えるばかりであった。

喫み終えた後から父上の講釈が始まるのが常であったが、それが始まる前に、私は口を開いた。

「父上、火急のご相談がございます。先だって、信長様からご無体な沙汰が下ったのでございます」

「沙汰とは、どのような」

訳を話すと、父上は眉を寄せ、かつて当主であったときに時折見かけた、厳しい表情をされた。

「信長め…」

信長様のことを呼び捨てにした父上は、隠居によって何か吹っ切れたのか、歯に衣着せぬ物言いをするようになっていた。

「新五殿が今になって美濃斎藤家に帰順し、加治田衆を従え岐阜城を我が物にするとでも考えておるのか。そのようなことはありえぬ」

隠居したとはいえ、父上も殿の人となりには信を置いていた。

「我らを娶せたのは信長様にございます。利堯様に跡目を継がせるとは、我らは無用と言われているのと同じにございます。長きに渡り尽くしてきた殿をないがしろにし、寝返っただけの利堯様を重用するなど、筋が通りませぬ」

「美濃勢の中で一番に寝返ったのは我ら佐藤。我らの離反があったからこそ利堯殿も寝返ったのじゃ。信長は我らを骨の髄まで利用して、後は捨て置くつもりか」

父上にとって私はただの駒にすぎぬと、かつては思っていた。しかしいまや父上もこの斎藤家も、すべてが信長様の駒であった。
しかし駒なら駒なりに、抗うすべを探すことも出来よう。そう思ってここ伊深村へとやって来た。

「父上、私は一刻も早う子を作ります。子が出来たら利堯様の養子にして頂くよう、どうか頼んで頂けませぬか」

私の案に、父上は一層厳しいお顔をされた。長年美濃斎藤家に仕えてきた父上は、利堯様のことを多少はご存じのようだった。

「紅茂よ、利堯殿は凡庸じゃが人一倍自尊心の高いお方じゃ。弟と、かつての家臣筋の娘の子を養子として受け入れるとは到底思えぬ」

自尊心が高いというのは心外であった。私のいまだ知らぬ利堯様の本性なのであろう。

「ならば、殿ではなく利堯様を戦に駆り出すよう、父上から信長様におとり無し頂けませぬか」

父上は溜息をついた。

「利堯殿が戦で名を轟かせたことなど一度もない。信長も存じておるはず。それゆえ跡を継がせたいのよ。信長は戦に長けた新五殿を向後も自らの傍に置き、織田の戦に連れ出すつもりじゃ」

「それでは人質も同じにございます。我らは信長様のお味方であるというのに」


熱く弁じていた私と父上の耳にふと、鳥のさえずりが聞こえた。すぐ側にいる気配がする。

父上が立ち上がって襖を開けると、縁側に座る母上のすぐ隣から、丸々太った雀が一羽、飛び立っていった。

「やれまあ、襖の音に驚いてしもうたか」

母上が振り返って微笑む。

庭先には他の雀が集まっている。母上の足元で、しきりに何やら啄んでいた。

「この地の民がのう、粟をたくさん持ち寄ってくれる。食べきれぬゆえ、こうして時折雀に分けるのじゃ」

母上が長閑な様子で言った。

城ではあまり見かけることのない雀も、平地に近いここ辺りでは餌のにおいや場所を嗅ぎつけすぐにやって来る。

父上は母上に屋敷に上がるように言うが、母上は首を横に振って、言った。

「話は済んだのですか」

「いや、これからじゃ。そなたもここで共に聞け」

父上は私に目を移した。

「紅茂よ、よく聞け。そなた、利堯殿と契りを結べ」

「大殿!」

声を上げたのは母上であった。

「いまだ子が出来ぬ事はむしろ幸いであった。利堯殿とそなたが子を為せば、その子は斎藤家の跡継ぎとなる。佐藤の血を引く紅茂こそが、子を為さねばならぬ」

いかにも父上らしい考えであった。

 「父上は私に、殿を裏切れと仰せになりますか。私は殿を、新五様をお慕いしておりまする」

えくぼの愛らしい殿の隆々とした腕に、何度となく身を任せたい。殿との子を為したい。殿とは似ても似つかぬ利堯様と子を為すことなど、考えたくもなかった。

「紅茂、そなたには酷な事だと重々承知しておる。されど、新五殿は未来永劫信長のものじゃ。そなたのものには決してならぬ。そなたが利堯殿の子を産み、武勇秀でた賢い子に育て上げ、その子と共に斎藤家を意のままに操る。さすれば、信長の鼻を明かせることもあろう」

「私はそのようなこと、望んではおりませぬ!私はただ、女子としての幸せを望んでおるだけにございます」

父上は何故、私の事を考えて下さらぬのか。どれだけ手を尽くそうとも、幸せにはなれぬのか。ここ伊深村へ来たことを、私は深く悔やんだ。

「紅茂…」

母上が、私の肩を搔き抱いた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

鉾の雫~平手政秀と津島御師~

黒坂 わかな
歴史・時代
舞台は1500年頃、尾張津島。 吉法師(のちの織田信定)と五棒(のちの平手政秀)は幼い頃から津島の天王社(津島神社)に通い、神職の子である次郎とよく遊び、夏に行われる天王祭を楽しみにしていた。 天王祭にて吉法師と五棒はさる人物に出会い、憧れを抱く。御師となった次郎を介してその人物と触れ合い、志を共にするが・・・。 織田信長の先祖の織田弾正忠家が、勢力拡大の足掛かりをどのようにして掴んだかを描きました。 挿絵は渡辺カヨ様です。 ※この物語は史実を元にしたフィクションです。実在する施設や人物等には一切関係ありません。

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

大航海時代 日本語版

藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった――― 関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった ―――鎖国前夜の1631年 坂本龍馬に先駆けること200年以上前 東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン 『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです ※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

処理中です...