10 / 20
第三章
一、
しおりを挟む
「三法師様、こんな所におられては寒うておしめしが濡れますぞ」
弾正屋敷の廊下に座り込む三法師に、五郎左は身を屈めて語り掛けた。
三法師は両手を真横に広げた。通せんぼをしているらしい。
「この雨で屋敷に蛙が紛れ込んだのじゃ。ほらそこに」
いぬいが柱の端を指さした。サザエと見紛うようなごつごつとした大きな蛙が、気味の悪い声を出している。
「おお、なかなかの大物じゃ。三法師様は怖がられぬのですか」
「ええ、ちっとも。追い払おうとすると泣いて癇癪を起こすゆえ、困っておる」
「それは難儀な。奥方様も冷えましょう。腹の子に障るといけませぬ」
「居室の中は暗うて落ち着かぬ。外を見ておる方が気が晴れるのじゃ。案ぜずともよい」
いぬいは腰に手をやった。大きくなった腹と雨のせいで腰が痛む。
弾正の嫡男である三法師が生まれて三年が経つ。
三法師はやんちゃで、いぬいや乳母の手を焼かせた。いぬいが腹に二人目を宿したことがわかると、母を叩いたり、わざと抱っこをせがんだり、ますます困らせるようになった。いぬいや乳母が叱っても聞かぬため、多忙な弾正に代わって五郎左が様子を見に来ては時々雷を落とす。
「それにしても、濁流の音のすごいこと」
いぬいがひとりごつが、川の音にかき消されて五郎左には届かない。
一昨日から続く長雨に皆が怯えていた。この辺りでは毎年のように川が氾濫する。昨年は三つの川の合流箇所が氾濫し、様子を見ようと駆け付けた経秀が流され、帰らぬ人となった。
父経秀の他界によって五郎左が弾正忠家の家老職を継いだが、正直なところ荷が重かった。堤の改修のために人を集めれば必ず諍いが起き、寺坊主は所領を返せと毎日のように訴えてくる。日々の政に加え、先々に備えて銭のやりくりや世情にも通じておく必要がある。先代の重臣たちに教えを乞うとあれこれと自らのやり方を押し付けるため、五郎左は次郎大夫を頼った。次郎大夫が諸国から津島に戻ってくる度に、五郎左は真っ先に次郎大夫の屋敷を訪れる。次郎大夫は厭わず諸国の動きを教えてくれた。当初は五郎左の矜持が邪魔をしたが、今では自らの未熟さを受け入れ、素直に次郎大夫の言葉を飲み込めるようになっていた。
雨は止む気配がない。
三法師は柱の近くの蛙を驚かそうと、時折濁流に負けないほどの大きな声を上げる。
五郎左はそろそろ居室に入りなされと三法師に言って、脇に腕をくぐらせ抱き上げた。すると案の定、三法師は五郎左から逃れようと腕の中でのけぞり、手足をバタバタさせて大声で泣き始めた。
三法師の動きに驚いたのか、柱の陰にいた蛙が急に跳ねた。廊下と居室の境までやってきて、喉を膨らませたり凹ませたりしている。
「ほれ、蛙も中に入ろうとしておりまするぞ」
五郎左が三法師に言い聞かせるそばで、乳母といぬいが気味悪がって喚きたてた。
「五郎左、居室に入れるでないぞ。早う蛙を外へ」
「しかしそれでは三法師様が収まりませぬぞ」
五郎左はしかたなく右腕に三法師を抱っこしながら、左手で蛙を鷲掴みにした。
「ほれ三法師様。蛙を抱っこなさいますか」
五郎左は三法師の胸元に蛙を突き出した。三法師は胸に押し付けられた蛙をじっと見つめていたが、やがて火が付いたように泣き始めた。
「こりゃ参った」
五郎左は蛙を外に放り投げ、三法師をあやした。
「ちとやりすぎたかな」
左右に揺れながら背中を叩いてやると、三法師はうとうとし始めた。乳母が代わって三法師を抱いてやる。
「かえって不首尾をいたしましたな」
五郎左がいぬいに頭を垂れる。
「まあよい。今日は川の音で泣き声もさほど気にならなんだ」
「されどさすがの三法師様も、あの大きさの蛙には勝てぬようで」
「ああ見えて、心のうちは弱いのじゃ。いずれこの家を率いる身ゆえ、幼いうちから嫌なことや怖いことに慣れさせねばな」
頼もしい母御じゃと、五郎左は改めていぬいを見直す。
祝言の宴の折はあれほど嫌な女子であったのに、祝言の翌日からは別人のように弾正忠家に尽くすようになった。
藤左衛門へ文を出すこともなく、輿入れと共についてきた侍女にも〝我らは既に弾正忠家の人間じゃ″と言い聞かせ、生家とのやりとりを絶った。
弾正は祝言の翌日からいぬいを家中の人間と同様に扱い、領内で起きた諍いから年貢のことまで躊躇なくいぬいに話した。五郎左や与三に加えて政の評定にいぬいを呼ぶこともあった。当初は家中でも煙たがる者もいたが、時折目の覚めるような案をいぬいが出すと、皆の見る目も変わっていった。奥の差配に加えて子育てに政と、そこらの奥方よりも格段に忙しいいぬいだが、弾正忠家の同士として早々に受け容れられ、嫁いでから初めて生きていると実感しているのであった。
「五郎左も家老になったのじゃ、早う嫁を取らねばならぬのう」
このところいぬいは頻繁に五郎左にこのようなことを言う。
「滅相もない。今は弾正忠家をどうするかで頭がいっぱいにございます。さて、三法師様もお昼寝の時間のようですな。では失礼」
そう言って五郎左が逃げるのも、いつもの流れであった。
三法師を抱いた乳母は居室に入り、三法師の寝息が深くなるのを見計らっている。
いぬいは乳母の邪魔にならぬよう、居室には入らず再び廊下に腰を下ろした。強い雨で庭の水たまりが波打っている。さきほどの蛙はどこかと一面を見渡すが、弾け飛ぶ水しぶきでとても探せそうにない。
庭の奥の紫陽花が激しく揺れた。大粒の雨のせいかと思ったが、花の奥には庭にそぐわない藁の色があった。
―あれは蓑か。
気づいたときにはもう遅く、蓑を被った男が、いぬいに向かって駆けだしていた。
いぬいの心の臓が跳ね上がる。
「いぬい様ですな」
小さく頷く。
「藤左衛門様からの文にございます」
男は蓑の中に手を入れ、小さく折られた紙をいぬいに差し出した。震える手でいぬいが受け取ると、男はすぐさま庭の奥に消えていった。
いぬいは乳母を気にしながら、まだ温かいその紙を慎重に開いていく。短い文に目を通す。読み終わると腹を抱えながら、いぬいはゆっくりと腰を上げた。
「五郎左!五郎左はおるか!」
気持ちが逸り大声を出してしまったいぬいは、すぐにそのことを悔やんだ。居室の中から三法師の泣き声が聞こえる。すまぬと心の中で乳母に詫びて、五郎左の後を追った。
※蓑・・・昔のレインコート。
弾正屋敷の廊下に座り込む三法師に、五郎左は身を屈めて語り掛けた。
三法師は両手を真横に広げた。通せんぼをしているらしい。
「この雨で屋敷に蛙が紛れ込んだのじゃ。ほらそこに」
いぬいが柱の端を指さした。サザエと見紛うようなごつごつとした大きな蛙が、気味の悪い声を出している。
「おお、なかなかの大物じゃ。三法師様は怖がられぬのですか」
「ええ、ちっとも。追い払おうとすると泣いて癇癪を起こすゆえ、困っておる」
「それは難儀な。奥方様も冷えましょう。腹の子に障るといけませぬ」
「居室の中は暗うて落ち着かぬ。外を見ておる方が気が晴れるのじゃ。案ぜずともよい」
いぬいは腰に手をやった。大きくなった腹と雨のせいで腰が痛む。
弾正の嫡男である三法師が生まれて三年が経つ。
三法師はやんちゃで、いぬいや乳母の手を焼かせた。いぬいが腹に二人目を宿したことがわかると、母を叩いたり、わざと抱っこをせがんだり、ますます困らせるようになった。いぬいや乳母が叱っても聞かぬため、多忙な弾正に代わって五郎左が様子を見に来ては時々雷を落とす。
「それにしても、濁流の音のすごいこと」
いぬいがひとりごつが、川の音にかき消されて五郎左には届かない。
一昨日から続く長雨に皆が怯えていた。この辺りでは毎年のように川が氾濫する。昨年は三つの川の合流箇所が氾濫し、様子を見ようと駆け付けた経秀が流され、帰らぬ人となった。
父経秀の他界によって五郎左が弾正忠家の家老職を継いだが、正直なところ荷が重かった。堤の改修のために人を集めれば必ず諍いが起き、寺坊主は所領を返せと毎日のように訴えてくる。日々の政に加え、先々に備えて銭のやりくりや世情にも通じておく必要がある。先代の重臣たちに教えを乞うとあれこれと自らのやり方を押し付けるため、五郎左は次郎大夫を頼った。次郎大夫が諸国から津島に戻ってくる度に、五郎左は真っ先に次郎大夫の屋敷を訪れる。次郎大夫は厭わず諸国の動きを教えてくれた。当初は五郎左の矜持が邪魔をしたが、今では自らの未熟さを受け入れ、素直に次郎大夫の言葉を飲み込めるようになっていた。
雨は止む気配がない。
三法師は柱の近くの蛙を驚かそうと、時折濁流に負けないほどの大きな声を上げる。
五郎左はそろそろ居室に入りなされと三法師に言って、脇に腕をくぐらせ抱き上げた。すると案の定、三法師は五郎左から逃れようと腕の中でのけぞり、手足をバタバタさせて大声で泣き始めた。
三法師の動きに驚いたのか、柱の陰にいた蛙が急に跳ねた。廊下と居室の境までやってきて、喉を膨らませたり凹ませたりしている。
「ほれ、蛙も中に入ろうとしておりまするぞ」
五郎左が三法師に言い聞かせるそばで、乳母といぬいが気味悪がって喚きたてた。
「五郎左、居室に入れるでないぞ。早う蛙を外へ」
「しかしそれでは三法師様が収まりませぬぞ」
五郎左はしかたなく右腕に三法師を抱っこしながら、左手で蛙を鷲掴みにした。
「ほれ三法師様。蛙を抱っこなさいますか」
五郎左は三法師の胸元に蛙を突き出した。三法師は胸に押し付けられた蛙をじっと見つめていたが、やがて火が付いたように泣き始めた。
「こりゃ参った」
五郎左は蛙を外に放り投げ、三法師をあやした。
「ちとやりすぎたかな」
左右に揺れながら背中を叩いてやると、三法師はうとうとし始めた。乳母が代わって三法師を抱いてやる。
「かえって不首尾をいたしましたな」
五郎左がいぬいに頭を垂れる。
「まあよい。今日は川の音で泣き声もさほど気にならなんだ」
「されどさすがの三法師様も、あの大きさの蛙には勝てぬようで」
「ああ見えて、心のうちは弱いのじゃ。いずれこの家を率いる身ゆえ、幼いうちから嫌なことや怖いことに慣れさせねばな」
頼もしい母御じゃと、五郎左は改めていぬいを見直す。
祝言の宴の折はあれほど嫌な女子であったのに、祝言の翌日からは別人のように弾正忠家に尽くすようになった。
藤左衛門へ文を出すこともなく、輿入れと共についてきた侍女にも〝我らは既に弾正忠家の人間じゃ″と言い聞かせ、生家とのやりとりを絶った。
弾正は祝言の翌日からいぬいを家中の人間と同様に扱い、領内で起きた諍いから年貢のことまで躊躇なくいぬいに話した。五郎左や与三に加えて政の評定にいぬいを呼ぶこともあった。当初は家中でも煙たがる者もいたが、時折目の覚めるような案をいぬいが出すと、皆の見る目も変わっていった。奥の差配に加えて子育てに政と、そこらの奥方よりも格段に忙しいいぬいだが、弾正忠家の同士として早々に受け容れられ、嫁いでから初めて生きていると実感しているのであった。
「五郎左も家老になったのじゃ、早う嫁を取らねばならぬのう」
このところいぬいは頻繁に五郎左にこのようなことを言う。
「滅相もない。今は弾正忠家をどうするかで頭がいっぱいにございます。さて、三法師様もお昼寝の時間のようですな。では失礼」
そう言って五郎左が逃げるのも、いつもの流れであった。
三法師を抱いた乳母は居室に入り、三法師の寝息が深くなるのを見計らっている。
いぬいは乳母の邪魔にならぬよう、居室には入らず再び廊下に腰を下ろした。強い雨で庭の水たまりが波打っている。さきほどの蛙はどこかと一面を見渡すが、弾け飛ぶ水しぶきでとても探せそうにない。
庭の奥の紫陽花が激しく揺れた。大粒の雨のせいかと思ったが、花の奥には庭にそぐわない藁の色があった。
―あれは蓑か。
気づいたときにはもう遅く、蓑を被った男が、いぬいに向かって駆けだしていた。
いぬいの心の臓が跳ね上がる。
「いぬい様ですな」
小さく頷く。
「藤左衛門様からの文にございます」
男は蓑の中に手を入れ、小さく折られた紙をいぬいに差し出した。震える手でいぬいが受け取ると、男はすぐさま庭の奥に消えていった。
いぬいは乳母を気にしながら、まだ温かいその紙を慎重に開いていく。短い文に目を通す。読み終わると腹を抱えながら、いぬいはゆっくりと腰を上げた。
「五郎左!五郎左はおるか!」
気持ちが逸り大声を出してしまったいぬいは、すぐにそのことを悔やんだ。居室の中から三法師の泣き声が聞こえる。すまぬと心の中で乳母に詫びて、五郎左の後を追った。
※蓑・・・昔のレインコート。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
織田信長に育てられた、斎藤道三の子~斎藤新五利治~
黒坂 わかな
歴史・時代
信長に臣従した佐藤家の姫・紅茂と、斎藤道三の血を引く新五。
新五は美濃斎藤家を継ぐことになるが、信長の勘気に触れ、二人は窮地に立たされる。やがて明らかになる本能寺の意外な黒幕、二人の行く末はいかに。
信長の美濃攻略から本能寺の変の後までを、紅茂と新五双方の語り口で描いた、戦国の物語。
秦宜禄の妻のこと
N2
歴史・時代
秦宜禄(しんぎろく)という人物をしっていますか?
三国志演義(ものがたりの三国志)にはいっさい登場しません。
正史(歴史の三国志)関羽伝、明帝紀にのみちょろっと顔を出して、どうも場違いのようなエピソードを提供してくれる、あの秦宜禄です。
はなばなしい逸話ではありません。けれど初めて読んだとき「これは三国志の暗い良心だ」と直感しました。いまでも認識は変わりません。
たいへん短いお話しです。三国志のかんたんな流れをご存じだと楽しみやすいでしょう。
関羽、張飛に思い入れのある方にとっては心にざらざらした砂の残るような内容ではありましょうが、こういう夾雑物が歴史のなかに置かれているのを見て、とても穏やかな気持ちになります。
それゆえ大きく弄ることをせず、虚心坦懐に書くべきことを書いたつもりです。むやみに書き替える必要もないほどに、ある意味清冽な出来事だからです。
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
通史日本史
DENNY喜多川
歴史・時代
本作品は、シナリオ完成まで行きながら没になった、児童向け歴史マンガ『通史日本史』(全十巻予定、原作は全七巻)の原作です。旧石器時代から平成までの日本史全てを扱います。
マンガ原作(シナリオ)をそのままUPしていますので、読みにくい箇所もあるとは思いますが、ご容赦ください。
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
トノサマニンジャ 外伝 『剣客 原口源左衛門』
原口源太郎
歴史・時代
御前試合で相手の腕を折った山本道場の師範代原口源左衛門は、浪人の身となり仕官の道を探して美濃の地へ流れてきた。資金は尽き、その地で仕官できなければ刀を捨てる覚悟であった。そこで源左衛門は不思議な感覚に出会う。影風流の使い手である源左衛門は人の気配に敏感であったが、近くに誰かがいて見られているはずなのに、それが何者なのか全くつかめないのである。そのような感覚は初めてであった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる