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第二章

四、

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家督継承から一年半ののち、弾正は藤左衛門家の娘、いぬいとの祝言の日を迎えた。
藤左衛門とは清洲での評定や結納などでたびたび顔を合わせたが、干渉無用という態度を弾正は貫き通した。その度に藤左衛門は苦虫を噛み潰すような顔をした。
祝言の宴が始まっても弾正は気が抜けない。藤左衛門の前でわずかでも失態を犯せば、それに付け込んで何を言われるかわかったものではない。
警戒しているのはいぬいも同じであった。藤左衛門が言うほどいぬいは器量が良いわけではなかったが、菱形の目が妙に弾正の心に残った。その目が見たくなり、弾正は時折隣のいぬいに目をやるが、いぬいは正面を見据えたままで、弾正のことなど気にも止めぬと言いたげな様子であった。
「五郎左、見ろあの女子の気位の高さよ。あれでは弾正様がお気の毒じゃ」
居並ぶ弾正忠家の重臣に紛れて、与三が五郎左に言った。
「緊張しておるのではないか」
「何を生ぬるいことを。お前は見る目がなさすぎる。よいか、藤左衛門とは離れても、あの女子とは毎日顔を合わせることになるのだぞ。今から俺が檄を飛ばしに行く。お前もついて来い」
「おい、与三」
五郎左が止めるのも聞かず、与三は腰を上げた。こうと決めたら与三は曲げない。女子衆から酒を受け取ると、与三は五郎左の袖を取り、ともにいぬいの席へと向かった。
「弾正忠家家臣、青山与三右衛門秀勝にございます」
「同じく、平手五郎左政秀にございます」
仰々しく名乗ったのち二人は顔を上げるが、いぬいはさも迷惑そうに眉をひそめた。与三が徳利を傾けているのに盃を手に取ろうともせず、目の前の二人が見えぬのかと思うほど無下な扱いであった。
与三は床に置かれた盃にむりやり酌をしてから、膝をずいと一歩前に進めた。
「これから奥方様となられるいぬい様にご注進いたします。その気位の高さでは、弾正様のご寵愛は受けられませぬぞ」
与三のあからさまな物言いに五郎左の身が縮む。いぬいが泣き出してしまわないかと気が気でない。しかしいぬいは平然と言い返した。
「わたくしは寵愛を受けるために来たのではない。これは弾正忠家を見張るための輿入れじゃ」
祝言とは思えぬ無粋な言いざまに、与三までもが唖然とした。五郎左に至ってはいぬいに同情さえ覚え始めている。二人には返す言葉がない。
「よい。二人とも下がれ」
弾正の言葉を受けて二人は下座へ戻ったが、残された弾正は実に居心地が悪そうであった。もう少し打ち解けぬと先が思いやられると思っていた矢先のあの言葉に弾正は嫌気がさしたが、藤左衛門の手前、嫌な顔もできない。
宴席は尚も続く。与三と五郎左は示し合わせて弾正に目配せし、廊下で待つと合図を送った。小用で席を立つふりをして弾正は廊下に出た。見回すと、厠の前で与三と五郎左が待ち構えていた。
「あれでは全く気が抜けませぬな」
与三の言葉に弾正が頷く。
「ありていに申せば、あの場に戻りとうない」
珍しく弾正が弱音をこぼした。が、それを諫めるのは五郎左の役目である。
「弾正様、それはなりませぬ。いぬい様も待っておられますぞ」
「待っておるものか。あの女子とどのようにしたらうまくやれるというのか」
「とにかく優しくなさいませ。何を言われても、人形じゃと思うてぐっと堪えるのです。勝とうとしたら負けですぞ。そして嫌でも毎晩通いなされ。一刻も早く子を作る事です。子さえ出来れば、生家のことは忘れましょう」
所帯持ちの与三の言葉は理に適っているように聞こえるが、それでは弾正の立つ瀬がない。五郎左は弾正のためを思って言い返した。
「いいや、ああいう女子はことわり通りにはなりませぬ。むしろ早いうちに喝を入れたほうが良いと俺は思いまする」
珍しく言い返してきた五郎左に、与三は色をなした。
「何を言うか、女子も知らぬくせに。それでは逆効果じゃ」
「与三こそ物事を知らぬ。あれはああ見えても藤左衛門の娘じゃぞ」
「やめよ。もうよい。俺は戻る」
二人の応酬の中に確たる答はなく、弾正はあきらめて首をもたげた。
「弾正様、お役に立てず申し訳ありませぬ。明日は、その、事の次第を詳しく教えて下されよ」
五郎左の言う事の次第とは、個人的な興味が多分に含まれていた。
「この期に及んで要らぬ重荷を背負わすでないわ、たわけが」
弾正は笑いながら言ったが、それが本心であると二人にはわかる。
弾正の背中を見送ってから、五郎左は与三に言った。
「大和守様の前でも動じなんだ弾正様が、女子一人にあのように悩まれるとは」
「当たり前だ、女子ほどやっかいなものはない」
与三はそう言い捨てると、一人かわやへ行ってしまった。

宴が終わり、湯あみを終えた弾正は寝所に向かっていた。足取りは重い。
襖を開くと、いぬいの背中がそびえていた。息を一つ吐き、弾正は掻巻かいまき※の上に腰を下ろした。
正面からいぬいを眺める。菱形の目が珍しく、不躾なほどまじまじとのぞき込むが、いぬいは目玉をぴくりとも動かさない。まるで根気比べの様相であった。
「どうじゃ、弾正忠家の屋敷は。不便はないか」
弾正は優しく問いかけた。
「不便だらけにございます。これほど小さな屋敷とは思わなんだゆえ」
何としても弾正の上に立ちたいのか、いぬいは棘のない言い方が出来ぬようだった。与三の言う、勝とうとしたら負けという言葉を、弾正は心の中で繰り返した。
「藤左衛門殿は城を持っておられるゆえな」
大和守は元々小田井城を拠点としていたが、武衛家が京から尾張へ下向したのを機に、武衛と共に清洲城に移った。小田井城は藤左衛門家に下賜され、いぬいもそこで過ごしていた。
「ええ。城も持たぬ家に嫁いだ事に、我ながら少し驚いておりまする。弾正様ではなく、大和守様に嫁ぐものと思っておりましたゆえ」
「そうか。それは残念じゃったな」
厭わしくなった弾正は話すのをやめた。早く事を済ませ、眠りにつきたかった。
掻巻の中に一人入ると、儀式のように搔巻の裾を半分だけ捲った。意外にもいぬいはその中にすんなり入ってきた。
互いに一言も話すことなく事を終えると、弾正は襦袢を整え、帯を締めた。まるで牛や馬のようだと笑いたくなった。
支度を終えたいぬいも、枕を頬にあてがい弾正に背を向けた。互いの息が聞こえる。
「寝るな」
「起きておりまする」
「目を見せよ」
「眠りまする」
「聞け。大和守様に嫁ぐ気だったと言ったな」
「ええ」
「大和守様などのどこがよい。わが身可愛さだけの、何の気概もないお方じゃぞ」
いぬいはその時ようやく振り向いて、初めて弾正に菱形の目をしかと見せた。
「嘘です」
「嘘なものか。そなた、大和守様に会ったことはあるのか」
「ありませぬが、父上が昔から申しておりました。たいそうご立派なお方じゃと」
「そうか。されど我が父が身罷り、若輩の俺を見張るため弾正忠家に嫁がねばならなかった。そなたも災難じゃな」
「知りませぬ。政のことなど、考えたこともございませぬ」
「ならば今後は考えよ。藤左衛門家の利のためにそなたは嫁に出された。政を知るべきじゃ。手始めに申すが、俺は藤左衛門が嫌いじゃ」
弾正の唐突な物言いにむっとする半面、どこか痛快な思いもある。いぬいは歯を見せて少し笑った。上品ではない笑い方がかえって好ましい。
「よくもわたくしにそのようなことが言えましたなあ。して、何故にございます」
「大和守様の機嫌ばかりを伺い、耳の痛いことは何も注進せぬ。公方様が代わったことで、世が大きく動こうとしている。ゆえに我らは変わらねばならぬのじゃ」
いぬいの前で自らがやけに多弁であることに弾正は驚いていた。言葉が湧き出てくる。
「何故私にそのような話をなさるのです?」
「言うたであろう。そなたは政を知るべきじゃ。知りたいことは何でも話す。妻になる気があればな」
「もう契りを交わしました」
「なかったことにしてもよい」
その一言に、いぬいは菱形の目を吊り上げた。
「そなたが知るべきことを、一つ話しておく。俺はいずれそなたの父を殺めるだろう。俺より父御が恋しければ、今すぐ俺と縁を切れ」
弾正はそう言ったきり押し黙った。二人はにらみ合う。
長い沈黙が流れたのち、いぬいが口火を切った。
「私も侮られたものです」
どちらの意か判じかねた弾正が、いぬいの目の奥を覗きこむ。
「早う城を作りなされ。父上は強うございます」
「よし」
弾正は微笑んだ。
それから二月も経たぬうちに、いぬいは身ごもった。


※掻巻・・・分厚い着物。昔の布団。
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