豊家軽業夜話

黒坂 わかな

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太閤の言う「倅」の意を、すぐに解せるものはいなかった。どういうことかとざわつきながら皆が考えを巡らす中、縁側の下に控える若侍が、出番だと言わんばかりに竹早に向かって言った。

―太閤様はお主を養子にと仰られておる。格別なるお取り計らいじゃ。早う、礼を申さぬか。

太閤の言葉の意も若侍の言葉の意も、竹早には解せない。養子が何たるかも知らない。ただ言われるがままに礼を言おうとすると、太閤が頓狂な声をあげた。

―誰が養子と言うた。これはわしの誠の子じゃ。ほれ、この、竜子(松の丸殿)との子よ。

太閤に子胤がない事は、家中から市中に至るまで知れ渡っている。晩年にようやく出来たお子も、側室淀殿の不義の子ではないかと噂されている。

戯れごとか、それとも耄碌されたのか。中庭はさらに騒然となり、太閤が次は何を口にするのかと、皆が固唾を飲んで待った。

その時、松の丸殿が太閤のしなびた手を取って、皆に聞かせるように大きな声で、にこやかに言った。

―仰せの通り、私と太閤様のお子でございます。

寝耳に水とはこのことである。
真偽のほどを見定めようと、皆の興味は竹早に移り、竹早の姿形を舐めるように眺め始めた。

―さては、大きな目は松の丸殿に似たか。

―背丈は太閤様譲りじゃ。

この顛末に、どうすればいいのか見当も付かない竹早は、誠の子とは偉いお方の物の例えに違いないと思い込み、曖昧なままで再び言った。

―おおきに。

これがよろしからず、あたかも子と二親が共に認めたような形と取られ、城内は天地がひっくり返ったような騒ぎとなった。

下々の者はともかく、侍衆や身内の者で竹早を実の子と信じる者はいなかった。大半は、松の丸殿が耄碌した太閤に調子を合わせただけだと思っていた。

一方で、松の丸殿は敢えて騙ったのだという者もいた。その所以は、幾月か前の醍醐の花見での揉め事による。

大坂と伏見を繋ぐため、水路を大幅に変えて築城した伏見城には、桜が無かった。数えで六つとなる秀頼公が桜を見たいと言い出した時に太閤が思い付いたのは、満開の桜を集め、醍醐寺に植え替えることであった。

家中の女性おおよそ千人ほどを招き醍醐寺で行われた花見は、道中名だたる武将が鎧姿で警護に付き従い、まるで戦に向かうような物々しさであった。
ところが花見が始まると一転、鮮やかな毛氈の上で太閤と秀頼公は諸将が持ち寄った各地の名物を頬張り、女性らは境内の所々に設けられた茶屋でお色直しなどして、大層華やかな場となった。

その花見の場で、太閤は大きな杯を側室に順に回した。ところがその順番を巡って、側室同士で争いが起きた。秀頼公の生母である淀殿が先に杯を賜ると、松の丸殿が異を唱えたのである。
確かに、家柄から言えば松の丸殿が上であった。しかし世継ぎの母である淀殿も引かない。
客人の取りなしでその場は収まったが、その時の恨みが冷めやらぬ松の丸殿が、太閤の妄言を咄嗟に誠に仕立てた、というのである。

それが嘘か誠かは、ほどなくしてわかった。
松の丸殿は竹早の出自を知る誓願寺の住職を捕らえ、追放した。また、座頭と一座の者に口止めとして金子を渡し、竹早を寺に入れた訳を憚りなく口にするようになった。

―先の夫との子を殺されて側室になったのじゃ。次に子が生まれたら、必ずや寺に入れると決めておった。今の今まで口にせずにおったは竹早を守るためぞ。

竹早は自分と太閤の子だと松の丸殿が宣言した折、すぐ隣で聞いていた淀殿は、その場をぐっと耐え忍んでいた。太閤の目の前で嘘だと言うわけにはいかない。しかし、軽業披露の数日後、近侍の者と策を巡らせ、勢い勇んで太閤の元へ赴き、太閤を揺さぶり起こした。

―早う秀頼に姫を娶らせて下さいませ。

されど先日の燥ぎぶりが祟ってか、太閤は終始ぼんやりとして、起き上がるのもままならない。

それからご歴々で話し合いがなされ、内府(徳川家康)の姫君、千姫様と秀頼公との婚約が相成った。淀殿はしたり顔で喜んだが、松の丸殿は歯牙にもかけぬ様子であった。

お世継ぎの秀頼公は未だ齢六つ。万にひとつ、秀頼公が早世されれば婚約も立ち消えとなる。太閤健在のうちに言葉一つ引き出せば、次の天下人が竹早になることも夢ではない。太閤自身が皆の前で、竹早は我が子だと宣言したのは、松の丸殿にとって揺るがぬ証であった。

出自が嘘か誠か判じられることのないままに、竹早は早々に城に引き取られることになった。

―とんだ茶番よ。お前は寺の門の前に捨てられた孤児じゃ。住職が太閤の子を軽業師にするわけがねえ。

伏見城から寺へ帰る道すがら、座頭に言われた言葉を竹早は思い出す。座頭の言葉はただのやっかみではなく、真実味を帯びていた。しかし竹早は親を知らず、今や確かめようもない。竹早はただただ運が良かったのだと自らに言い聞かせ、たらふく飯が食えることに期待を膨らませ、入城の日を心待ちにした。

数日ののち、城からの使者が誓願寺に参上した。松の丸殿の時と同じ豪華な輿での迎えに竹早は仰天した。新たな住職の愛想笑いに見送られ、竹早は背中を丸め輿に乗り込む。道中、輿を担ぐ従者は疲れないか、重くはないかと気になってしょうがなかった。

城に着くと、まずは大きな湯殿に案内され、生まれて初めて足を伸ばして湯に浸かった。さらの小袖を身に付けて、髪を整えた竹早は、もはや軽業師には見えなかった。

昼餉には真っ白な飯に尾頭付きの魚、菜の入った汁に水菓子までが出された。この暮らしが続くかと思うと、竹早はすっかり嬉しくなった。

だが、嬉しいのは初日のみで、二日目からは何をするにも窘められた。所作や食べ方話し方、大きな目が災いして目の動きにまで小言を言われた。
太閤がいれば多少の粗相は目を瞑れとでも言ってくれるだろうが、その太閤は一日中床に伏している。竹早は日ごとに物憂さを増していった。

居室で一人脇息にもたれながら、竹早は昔を思い出す。
誓願寺にて下男となり、飯炊きや雑用をしていた頃、出自の良い小僧どもによく苛められた。嫌になって境内に逃げ込むと、人々が軽業師に釘付けになっていた。客と一緒になって眺めていると、金がねえならあっちへ行けと、座頭に追い払われた。

それから竹早は住職に頼み込んで、一座に弟子入りした。少ない給金は寺に渡し、かわりに寝床を供してもらった。
政や世の中のことには疎かったが、各地を回る傀儡子や鉦叩、猿曳などから世情を聞き、寺領外の世界に憧れた。伏見城に住まうことになるとは、思ってもみなかった。
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