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第五節
夜の息づかい(2)
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田堂の母は痛みに顔を歪める。
私は田堂の母へ駆け寄り、着衣を一枚脱いで、止血にあてがった。
私は不意に老婆を睨んでいた。
「いかれてる」
私は老婆に言い放つ。
老婆は首を細かく震わしていた。
私は田堂の母を席へ連れ戻した。
田堂の母は負傷した腕をぎゅっと押さえつけている。
呼吸が荒く、痛みに堪えているのがわかる。
その時、私の視界に異変を感じた。
両目で見ている視界に一つ線が見えるのに気が付いた。
視界の左上の端から右下の端まで、線が引かれている。
定規で引いたように真っ直ぐの線。
まるで、ガラスが割れて線が走った窓越しに見ているようだった。
私は前頭部に頭を添えながら、自らの席に戻った。
妻と娘を見る。
視界に映る妻と娘の姿に斜めの線が引かれている。
目をぱちぱちと開閉しても変わらない。
視線をずらして、田堂の親子を見ても、線は無くならない。
目を擦っても線は無くならなかった。
再び妻と娘を見る。
片目を閉じても変わらない。
私は目の違和感に不安を感じる。
しかし、すぐに私の脳は都合の良い理由を探し当てる。
疲れただけだ。
理由を見つけると、不安感は鎮まっていく。
はっと、気が付いた。
腕につけていた腕時計が無い。
周囲を見渡す。
記憶を遡る。
レストランに入ってすぐ、私はお手洗いに行った。
あの時、腕時計を外した。
しかし、確かに腕時計をつけたはずだった。
私は自らの記憶を疑い、立ち上がる。
割れた視界の中、お手洗いへ歩みを進める。
妻は私の横顔を見ている。
しかし、その視線に応える自信が無い。
割れた視界は相手からどのように見えているのかわからない。
そして、明らかに私は今混乱している。
こんな弱い夫は見せられない。
「どうしたの?」
妻が私に声をかける。
「いや」
私は言葉を丁寧に返す事も出来ない。
とにかく、お手洗いに腕時計があるかを確認したい。
老父の血痕がお手洗いに続いている。
お手洗いに着いた。
その血痕は一つの便座へと続いていた。
便座の周りは、おびただしい血で赤黒く染まっている。
便座の足元は、血の湖になっていた。
私は手洗い場を見る。
私の腕時計が置いてあった。
その腕時計を手に取る。
腕時計を取った手が小さく震えている。
確かに私の腕時計だった。
文字盤に間違いなく私の名前が彫られている。
心拍が胸の内側で強く鼓動する。
手洗い場の鏡を見る。
私の顔も斜めに割れて映る。
私は腕時計を握りしめて、お手洗いから出た。
席へ戻っていく。
その時、妻と娘をちらりと見た。
私は驚愕した。
なんと、割れた視界は、より侵食していた。
右上と左下の二枚になっていた視界が悪化していた。
左下の視界は、薄く白い、もやが、かかっている。
光景は映るも、人が映らない。
右上の視界に妻の顔が見える。
しかし、左下の視界に入る、妻の首から下は何も無い。
左下の視界に入る娘は、もう姿の一部すら映っていない。
私は顔を動かして右上の視界で妻と娘を映す。
もっとよく見たいと焦点を妻や娘に合わせると、姿が欠ける。
私は、目に片手を置いて、頭を素早く左右に振る。
「どうしたの? 大丈夫?」
妻は心配そうに、私の隣へ来た。
私は溢れ出す不安感に思わず、妻の手を握る。
柔らかくて少しひんやりとした妻の感触が私の手の感覚から浸透する。
その柔らかな妻の感触は腰を背を軽くして、心地よさを私の脳に届ける。
まるで、芳しい甘い香りをふんわりと嗅いだ時のようだった。
「何でもないよ。少し横になっていいかい?」
私は妻に言う。
割れた視界では妻を直視出来ず、足元に目線を下げる。
「ええ、もちろん。あの子は任せて」
妻は快諾する。
妻から手を離す。
じんわりと汗が滲んだ手の平が冷やされる。
私は席へ戻っていく。
左下の視界は、妻と娘のみならず、客の皆も同様に姿を映さない。
左下の視界には、誰も居なかった。
更に不安が私を追い詰めた。
今、私の背後には、妻が居る。
その記憶すらも存在していないのかもしれない。
不安を払拭させるように素早く振り返る。
その困惑する私の姿を妻は心配そうに見ていた。
私は田堂の母へ駆け寄り、着衣を一枚脱いで、止血にあてがった。
私は不意に老婆を睨んでいた。
「いかれてる」
私は老婆に言い放つ。
老婆は首を細かく震わしていた。
私は田堂の母を席へ連れ戻した。
田堂の母は負傷した腕をぎゅっと押さえつけている。
呼吸が荒く、痛みに堪えているのがわかる。
その時、私の視界に異変を感じた。
両目で見ている視界に一つ線が見えるのに気が付いた。
視界の左上の端から右下の端まで、線が引かれている。
定規で引いたように真っ直ぐの線。
まるで、ガラスが割れて線が走った窓越しに見ているようだった。
私は前頭部に頭を添えながら、自らの席に戻った。
妻と娘を見る。
視界に映る妻と娘の姿に斜めの線が引かれている。
目をぱちぱちと開閉しても変わらない。
視線をずらして、田堂の親子を見ても、線は無くならない。
目を擦っても線は無くならなかった。
再び妻と娘を見る。
片目を閉じても変わらない。
私は目の違和感に不安を感じる。
しかし、すぐに私の脳は都合の良い理由を探し当てる。
疲れただけだ。
理由を見つけると、不安感は鎮まっていく。
はっと、気が付いた。
腕につけていた腕時計が無い。
周囲を見渡す。
記憶を遡る。
レストランに入ってすぐ、私はお手洗いに行った。
あの時、腕時計を外した。
しかし、確かに腕時計をつけたはずだった。
私は自らの記憶を疑い、立ち上がる。
割れた視界の中、お手洗いへ歩みを進める。
妻は私の横顔を見ている。
しかし、その視線に応える自信が無い。
割れた視界は相手からどのように見えているのかわからない。
そして、明らかに私は今混乱している。
こんな弱い夫は見せられない。
「どうしたの?」
妻が私に声をかける。
「いや」
私は言葉を丁寧に返す事も出来ない。
とにかく、お手洗いに腕時計があるかを確認したい。
老父の血痕がお手洗いに続いている。
お手洗いに着いた。
その血痕は一つの便座へと続いていた。
便座の周りは、おびただしい血で赤黒く染まっている。
便座の足元は、血の湖になっていた。
私は手洗い場を見る。
私の腕時計が置いてあった。
その腕時計を手に取る。
腕時計を取った手が小さく震えている。
確かに私の腕時計だった。
文字盤に間違いなく私の名前が彫られている。
心拍が胸の内側で強く鼓動する。
手洗い場の鏡を見る。
私の顔も斜めに割れて映る。
私は腕時計を握りしめて、お手洗いから出た。
席へ戻っていく。
その時、妻と娘をちらりと見た。
私は驚愕した。
なんと、割れた視界は、より侵食していた。
右上と左下の二枚になっていた視界が悪化していた。
左下の視界は、薄く白い、もやが、かかっている。
光景は映るも、人が映らない。
右上の視界に妻の顔が見える。
しかし、左下の視界に入る、妻の首から下は何も無い。
左下の視界に入る娘は、もう姿の一部すら映っていない。
私は顔を動かして右上の視界で妻と娘を映す。
もっとよく見たいと焦点を妻や娘に合わせると、姿が欠ける。
私は、目に片手を置いて、頭を素早く左右に振る。
「どうしたの? 大丈夫?」
妻は心配そうに、私の隣へ来た。
私は溢れ出す不安感に思わず、妻の手を握る。
柔らかくて少しひんやりとした妻の感触が私の手の感覚から浸透する。
その柔らかな妻の感触は腰を背を軽くして、心地よさを私の脳に届ける。
まるで、芳しい甘い香りをふんわりと嗅いだ時のようだった。
「何でもないよ。少し横になっていいかい?」
私は妻に言う。
割れた視界では妻を直視出来ず、足元に目線を下げる。
「ええ、もちろん。あの子は任せて」
妻は快諾する。
妻から手を離す。
じんわりと汗が滲んだ手の平が冷やされる。
私は席へ戻っていく。
左下の視界は、妻と娘のみならず、客の皆も同様に姿を映さない。
左下の視界には、誰も居なかった。
更に不安が私を追い詰めた。
今、私の背後には、妻が居る。
その記憶すらも存在していないのかもしれない。
不安を払拭させるように素早く振り返る。
その困惑する私の姿を妻は心配そうに見ていた。
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