ただ、愛を貪った

言い合い④

　切れた。それまで繕っていた優しい表情、声、行動、彼女の好きな鈴村悟という人物像が崩れていった。たった、一本の細い糸で寸でのところで切れそうになりながら、必死になんとか、やり繋いできた糸が切れた。首根っこを何のためらいもなく掴み上げた。声にならない、叫びがあがった。息の詰まる叫び。彼女の顔はたちまち、血が上り赤くなった。涙が、にじんだ。彼女の手と足が必死に抵抗する。意識が飛びそうになる。悟は一瞬だけ、正気に戻った。正気というのは、いささか間違っているようにも感じる、こんな思考をめぐらせながらだが。
　このまま、彼女をこの状態にしていたら、彼女はどうなるのだろうか。もがいてもがいて、彼女は死ぬのだろうか。私が、ほんの数分彼女に手をかければ、彼女はこの世界から、消えていく運命をたどるのだろうか。そうしたら、彼女を救えるのだろうか。この、生き地獄から。
「さ…と……る………」
　必死の、あがき。俺の名前を彼女は呼んだ。狂わしい。実にこの世のは狂っている。彼女の瞳から、涙が、流れた。苦しいのだろうか。こんなに苦しいのに、俺の名前を呼ぶのか。お前は、僕の名前を。
　彼女の首を絞める、腕を緩めた。彼女は力なく、床に倒れこんだ。この家には何もない。家具も何もかも、捨ててしまった。残っているものと言えば、息子の部屋のものだけだった。殺風景な家。いつからだろうか。そんなことにも、気づかなくなっていた。心を病んでいるのは、彼女だけではなかったようだった。
　呼吸が落ち着くと彼女は僕には何も言わずに、リビングへと入っていった。僕はどうやら、靴を脱ぐのも忘れていたらしい。僕は靴箱の横に掛けてあった靴ベラをとって、靴を脱いだ。そして、三葉の作った、すでに冷めてしまったロールキャベツを食べた。久々に向かい合って、食べた。二人で一緒に。ただ、言葉は一言も交わさずに、僕はそのロールキャベツを食べ終わった。