ただ、愛を貪った

夕時 蒼衣

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彼の部屋

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 冷たい風がふいた。この季節にしては、寒い日だった。私と日野さんの間にひんやりとした空気が流れた。
「冗談ですよ。本気にしましたか。」
少し突き放した言い方。私はこの話し方を知っている。このまま、ここで別れを告げれば、もう日野さんに会えることはないと本能的にわかった。もう、一人になりたくない。私は、
「本気ですよ、私は。日野さん。あなたと、まだ離れたくない。」
ああ。距離を置かれる。そう思った。どうして私、言ってしまったのだろう。どうして私、今日、映画になんて彼と行ったんだろう。一人で行けばよかった。まだ、会うべきではなかった。早すぎた。私には負のオーラがまとっていたはずだ。彼のことをまだ知らなかった。冷たい風がまた吹いてきた。私の気持ちはまた、負の方向に進みそうになった。
「日野さんじゃなくて、悟(さとる)な。ついてきて、綾香。すぐ近くだから。ほら、ぼーっとしてないで速く。」
 はじめて、私のことを名前で彼は呼んでくれた。それだけでドキドキした。それだけですべては薔薇色になって、他のことはどうでもよくなった。胸が高鳴った。冷たい風が吹いた。その冷たささえ心地よく、もっと吹けばよいと思った。風が私を励ましてくれる。前に進ませてくれる。いまこの瞬間、風は私の味方になったのだ。

 彼は私の前を少し速足で歩いた。今度は私の手を、しっかりと繋いでくれた。私は彼の歩みに合わせた。私の手を握る彼の手は、私より大きくて、すこし骨ばっていてごつごつしいて、
ああこれが男の人の手なのだと思った。手からは体温が伝わってきた。温かい。人のぬくもり。私が求めていたものだ。
 駅を通り過ぎて、歩道橋をわたり、車がやっと2台すれちがえるくらいの道をまっすぐ歩いた。突き当りを左に曲がった。灰色と紺を混ぜた色の壁面。落ち着いた、雰囲気のアパートが目の前にたっていた。その前には広い駐車場がある。小学生くらいの男の子二人がそこでリフティングの練習をしていた。
「ここって…?」
恐る恐る、そう尋ねた。もしこれで、家庭を壊してでも、自分の家に入れるかと、言われたらどうすればいいのだろうか。小学生の男の子が近づいてきて、お帰りなさい、パパ!と言ったら、その子供を抱き寄せ、抱っこされた子どもに、その人は誰?と聞かれたら。私はどう答えればいいのだろうか。おばさんは、お父さんのお友達だよ、とでも言えばいいのだろうか。どうしようもない不安が、また波のように押し寄せる。
 そんな私の思いを感じ取ったのだろうか、彼は私の手を優しく握りなおした。君が心配することは何もない、そう言われた気がした。
 
 二階の一番奥の部屋が彼の部屋だった。6畳くらいのリビングと寝室が1つある。部屋の隅にはプロジェクターとたくさんの本が棚にびっしり並べられていた。本の並び方から、几帳面な性格があらわれていた。一方で、キッチンには、ものはほとんど置かれておらず、シンクがやけにきれいだった。座ってと手招きされた。そのテーブルも奥さんと子どもと彼が座るにはいささかも小さく感じられた。
「この部屋はね、隠れ家みたいなもので、奥さんと子どもとはここから1時間くらいのところに住んでるんだ。息抜きに、ここを訪れるんだよ。ここには、僕の好きなものがそろってるからね。」
安心した。そう、肩を撫でおろした自分がいた。悪い大人の私がそこにはいた。
「あまり、仲が良くないの?」
「そんなことはないよ。ただ、ずっと一緒にいると疲れるからね。それに、ここは会社から近いから仕事が終わらない時とかは結構いいんだよ。」
ずっと一緒にいると疲れる。優しい顔には、どこか影があった。笑っているようで泣いている。微笑んでいるようで悲しんでいた。彼は心に傷を負ってる人と同じ横顔をしていた。
「わたしにその傷、癒させて。」
 夕日が沈んで部屋は薄暗くなり始めていた。
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