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神宮大会第2回戦
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雪月高校は東海ブロックの優勝高として神宮大会に出場することになった。各ブロックの優勝校10校で行われる大会だ。雪月高校は2回戦から試合が始まる為、3回勝てば優勝できる。
今日はその第2回戦。今日の試合相手はは四国ブロックの安芸工業高校。純はボケーっとベンチからマウンドに向かっていく龍宮院を見ていた。純は不満たらたらな態度を隠そうともせずに拗ねていた。
コーチはピッチャーの中で一番安定している純を決勝に温存したいというある種の信頼のもとそうしている。ただ最近の純が初めて会った時の印象と違いガキになっていく様子を見て目頭を揉んでいた。
「おーい。起きてるか?」
純がベンチに座ったままボケーっとしていると将也に声をかけられた。将也も今日はベンチ入りだ。今日は一ノ瀬がキャッチャーマスクを被っているし、レフトは田中が守っている。将也の出番は今日はおそらくないだろう。
「なんだよ」
「いや、魂が抜けてたから。応援すっぞ」
将也がどこからかブブゼラを取り出し、不要な所持品を見咎めたコーチと口論になり始めた。もちろん将也の言い訳は見苦しいものであるし要約すれば応援に必要だから持ってきたというものであった。それを見た純は呆れた視線を将也に向けていた。
「そんなことしなくても打たれないって……」 と言いつつチラリと純はマウンドの方に視線を投げやった。マウンドの上に堂々と佇んでいるはずの龍宮院は──
(……やばい、吐きそう)
──そんな幻聴が聞こえるほどガチガチに固まって震えていた。
この龍宮院という男、学業をやらせれば常に好成績、スポーツも万能でしかも音楽や絵画などの美術系統のセンスも素晴らしい。普通なら自信に満ち満ちていてもおかしくないはずであるが、どうしたことか彼はとんでもなくチキンハート……否、ガラスのハートと言っていいほどに打たれ弱く脆い。
なんと呼吸も荒い上にフラフラし始めた。既に1、2本満塁ホームランを打たれた戦犯が顔面蒼白になっているような状態である、もちろん彼は全然まだ打たれているわけでもないのにこれなのだ。
純は心配になってきたので応援することにした。この応援で何かが変わるというわけではないが、それでも応援しないよりはマシだろう。
話は変わるが純はそもそも野球大好きおじさんである。もちろん高校野球観戦も大好きであった。推しが撃たれれば悲鳴のような声をあげるし三振にとれば自慢げな顔をする。
純はこれまでカッコつけたいという理由のみで他人が気にならないフリをして応援を我慢してきた。そして今日、その本能を密かに解き放った。
「うん、そうだな応援すっか」
「だろー?」
ブブゼラを構えた岡部を見てコーチが焦る。既に色々と学校の教職員から苦情を受け付けているのだ。どうしてクレーム対応をした教職員たちから責められなければならないのか。
「おい、岡部!それをしまえ!怒られるの俺だから!」
「仕方ないですね……コーチが言うから従いますけど」
「いつもは言っても聞かねぇよな?!」
そんな争いを横目にプレイボールという声が響いた。
────────────────────────
『マウンドの上は1人だ。1人は嫌いだ。こんなにもいつも自分に自信がない自分が嫌になってきた』
龍宮院は右手を胸に当てて深呼吸した。右足と右手が緊張で勝手に震えている。どうしようもなく龍宮院は笑えてきた。
『俺って本当に情けないなぁ……』
目線を地面から上げホームベースへと向ける。一ノ瀬が堂々とミットを構えていた。相手のチームの応援歌が響いているというのに一ノ瀬は全く動じていない。一ノ瀬はインハイ直球のサインを出した。
龍宮院は首を横に振った。最初に直球で高めに投げるのは自信がなかった。一ノ瀬は譲らず同じサインを出した。
──俺を信じろ
一ノ瀬の口がそう動いたように龍宮院には見えた。声なんて応援歌で聞こえないが何年も一緒にいる仲だ、言いたいことは分かった。今日はそのまっすぐな目が一段と頼もしい。
『俺は信じるよ。俺じゃなくて俺の一ノ瀬を』
龍宮院がじっとしていると後ろから声がした。
「打たれても大体どうにかなるからさっさと投げろー!」
「一、三塁間の守備は任せておけ!」
ショートとセカンドのスミダペアが彼らなりの激励を龍宮院に送っていた。
「一、三塁間は守備範囲広すぎっすよ……」
龍宮院はそう言って苦笑した。気づけば震えは無くなっていた。
──────────────────────
パスっと軽い音が鳴る。球が弱々しい。現在5回表、点数は6-4。
5回表の初球でホームランを打たれた龍宮院はその後の制球が乱れ四球、レフト前ヒットと出塁を許したもののその後なんとか1人をアウトに討ち取る。そして5人目の打者にまたもホームランを打たれ4失点。龍宮院の顔は真っ青になっておりマウンドから下ろした方が良さそうだ。
「翔!抑えろ!ッシャァ!ナイピ!」
「純、落ち着け」
「どうした伊藤」
ヘロヘロになりがらも龍宮院がもう一つアウトをとった時、純が吠えた。な純のいきなりの変化に周りは追いついていけない。今日の純は1回表からずっとこんな調子である
クールキャラの崩壊は少し前から見えていたがこの日を持って純の無口でクールっぽいキャラは崩壊した。いつのまにかキャプテンが野球好きのおっさんみたいな状態になったことにショックを禁じ得ないのか打線は不調だった。不調でも6得点である。
「ちょっと行ってくる」
軽く肩を回した新野がマウンドへと歩いていく。それと変わるようにとぼとぼと龍宮院が帰ってきた。プレッシャーなのか責任なのかで頬がゲッソリしているような印象を受ける。
「……」
「新野!抑えろー!」
純は龍宮院に声をかけることなく新野の応援を始めた。新野は困ったような顔で軽く笑い一ノ瀬のミットの方に目線を移し構えた。
純が新野を応援している隣で龍宮院は気まずいのかずっと黙って俯いていた。将也は何か声をかけようと少しの間迷った後、そっとしておくことを選んだ。
新野の垂れるストレートはシュート回転をして手元で微妙に移動する。
振り抜かれたバットが打者に〔アウトローのストレートの芯を捉え損ねた〕という感覚を伝える。それと同時にボールはセカンドのグラブの中へと吸い込まれていった。
回の途中からの登板であるが新野は調子を崩すことなく投げている。新野はしっかり打者を抑えるとこれくらいは何ということでもない、とでもいうような顔をしてベンチに帰ってきた。
「ナイス!やっぱ新野よ!行ってこい一ノ瀬!1発放て!」
新野がベンチに近づくと純が騒いでいる声が耳に入る。新野は新野のことを恥ずかしげもなく褒めちぎっている純から離れたところに座り、耳を澄ませた。新野が耳を澄ませた頃には話題は変わっており新野はただ聞き耳を立てるだけで特に収穫は得られなかった。
攻守交代。いつもの雪月ベンチはおちゃらけている感じだが今日の雪月ベンチは一味違う。ちゃんとベンチから声が飛んでくる。もちろんちゃんとした応援ではないのは当然のことでベンチがはっちゃけている。
そんな態度で純達は一ノ瀬をバッターボックスに送り出した。
『やりにくい』
一ノ瀬はそう感じていた。相手チームの応援歌なんかは確かに呑み込まれそうな雰囲気があるけれどずっと聴いているうちにBGMとして何も感じなくなっていた。ただ、これは違う──
「打てや!」
「振り切っていけー!」
「チキるんじゃねーぞー!」
仲間からの野次なのか応援なのかよくわからない声援。これに調子が乱される。一ノ瀬だけでなく雪月のバッターもそう思っていた。今日の不調の原因は味方からの慣れない応援のせいだと誰もが思っていた。
「ストライィイ!」
眉を顰めた一ノ瀬は両眼でバッターをもう一度見る。これでこの試合3回目の打席、リリースポイントも投げる時のテンポも一ノ瀬は大分掴めてきている。
相手投手はMAX145キロのストレートを持つ投手でそこまで変わった選手でもない。変化球も普通のカーブとチェンジアップでパッとしない。全体的にレベルはそこそこ高いけど普通と言った選手だった。
軽くバットを振るい一ノ瀬がバットを構え直した時、風向きが変わった。ホームベースからスタンドの方へと風が吹きはじめた。相手のサインの交換が終わったようで相手ピッチャーが構えをとった。左脚を高く上げ少しタメを作り……一気に踏み込む!
『ッ!踏み込みがさっきより深い!』
ピッチャーの体が動き始め右腕が振り抜かれる。ボールはストレートではなく遅い変化球、それも──
『チェンジアップ!貰った!』
一ノ瀬がバットを振り抜いた。金属バットが軽快な音を響かせボールを空へと弾き返した。アーチを描くボールは追い風に乗りそのままスタンドへ消えていく。一ノ瀬はバットを丁寧に地面に置くとダイヤモンドを軽く走り抜けていった。
ベンチからの野次は未だ鳴り止まず。もちろん「一ノ瀬ぇええ!信じてたぞぉおお!」と喝采の声も上がっている。めんどくさそうな表情を一ノ瀬は一切顔に出さなかった。もちろんホームランを打ったことによる喜びも顔に出さずクールな顔を心がけていた。内心は勿論ニコニコである。
これで女子の1人でも告白してこないかなと思いながら一ノ瀬はベンチに戻ってくると龍宮院の隣に座った。
「翔、泣くなよ」「その、ごめ──」
龍宮院が謝ろうとしたとき一ノ瀬がそれを止めた。一ノ瀬はただ親友を気遣うことの出来る自分に酔いたいだけであって親友に謝って欲しいわけではなかった。
シリアスを壊さないように、とそんなことには気を使うことができるのか純達は急に黙った。この場で本当にシリアスなのは龍宮院だけであるがそれでも純達は黙った。ガヤが飛んでこないことで調子を取り戻し始めたのか原因は不明だが金属バットの快音が響く。
「1回目のホームランは俺のミスだった。読み間違えた。今日の翔の球は悪くない、むしろ良かった。だから、ごめん」
一ノ瀬が頭を下げた。龍宮院はオロオロしている。ベンチからバットを持って誰かが出て行く。ガヤが黙っている今こそ好機。
「その、勝が謝ることないよ。だって──」
「さっきからぐだぐだと煩いぞ。一本目のホームランは一ノ瀬の責任、その後の2本のヒットともう一本のホームランは龍宮院のせいだろ」
?!
ピシリと空気が固まる。コーチすらも『何言ってるんだテメェ?』もしくは『信じられねぇコイツ』と言わんばかりのギョっとした顔で純を見つめている。2人のシリアスな雰囲気をこっそり楽しんでいた奴らからの視線が純に向けられるが純はそういうのを気にしないタイプだった。
「大体さぁ……龍宮院ってメンタルクソ雑魚だよな。ホームランの1本や2本で動揺しすぎだろ」
これがこれまで1失点もしてない奴の言い草である。誰もがなんか、納得いかない。将也でさえもジト目で純のことを見ている。しかしこの鈍感男、空気が読めていない。前世でのちっぽけな空気読みスキルはどこに置いてきてしまったのだろうか。
「……普通ホームラン打たれたら動揺するでしょう?」
「打たれてもそれを投球に出さないのがピッチャーってもんだろ。俺だってホームランの1本や2本……なぁ、将也」
早口で弁明する龍宮院に堂々と語り始めた純が急に言い淀んだ。純に声をかけられた将也は訝しげな視線を投げかける。
「なんだ?」
「俺ってホームラン打たれたことあった?」
将也はため息をついた。
「ない。先手を打つと失点もしたことないぞ、多分」
純が少し動揺したように周りには見えた。ここにきてようやく純も自慢話のように聞こえてしまうと気づいたのだろう、きっともう余計なことは言わないだろう、と周りは安心した。もちろん間違いだった。
「──というわけで俺だってヒットの1本や2本打たれることはあるが……おいなんだその目は。ちょ、やめろ?!やめてください。暴力はダメだって!暴力反対!」
「なんですか!先輩みたいなアホ強いピッチャーにそんなこと言う資格ないですよ!」
「やめろよ、照れる……冗談だって……ハハハ」
純が満更でもないのか軽く笑いながら目を逸らした。もちろん龍宮院は純を褒めるつもりなど毛頭ない。龍宮院から向けられる殺気にも似た怒気のような何かに純は顔を引き攣らせた。
「アホ!先輩はアホです!」
「あぁっ!?学年首席様にアホって言った!ちゃんと自分のテストの点数見てから言えよ?言っていいことと悪いことがこの世の中にはあるんだからなぁ!」
なんだかんだで学年1位の成績を取っていることを密かに誇りに思っていた純は動揺しているのもあり龍宮院の言葉に過剰に反応した。
「そういう頭の良さじゃないです!俺だって学年15位ですぅ!」
「はい雑魚ぉ!俺は生まれてからずっと学年1位です!」
「うわっ!この人大人気ないですよ!」
「え?俺、高2ですけど」
龍宮院が人差し指を純向け糾弾するように叫ぶが純は急にテンションが通常営業に戻り『スン……』と無表情で自分の現在の学年を宣った。堪らず龍宮院は将也に助けを求める。しかし将也としてはもうお腹いっぱい、正直もう関わりたくないし、よそでやって欲しい。
「将也先輩っ!この人一体なんなんですか!」
「完璧超ド変人」
「その言い方だと語弊がある!俺はそんなに変人じゃない」
「若干変人って自覚があるならもっとじっとしてろよ」
と、ここまではしゃぐとコーチも黙っていられないようで口を挟んできた。
「お前ら頼むから静かにしてくれ!」
コーチが怒鳴ると同時に隅田が豪快にショートライナーを放ってアウトになっていた。走者残塁、得点は惜しくも入らず6-4。しかし次の回では澄田、秋山、鎌瀬と打線が続くので1点は取れるだろう。
6回表、新野がマウンドに立った。その初球、スライダーがキレ味抜群の変化を見せた。会心の手応え、新野の今日の調子は抜群にいいらしい。新野は少し気分を良くした。今日はコントロールもいい感じで思った通りの球が投げられる。本当にイメージぴったりの球が投げられる、そんな日はあまりない。
「ナイスボール」
一ノ瀬がボールを投げ返した。新野はボールを受け取ると珍しくすぐに構えた。いつもは少しだけマウンドの上で構えずにじっとただ立つ時間があるのだが、今日は早く次を投げたいようだ。
2球目はストレート。球筋はいつも通り垂れているものの速い。新野は自己最高の球速で投げれていた。バッターの膝下にズバッと決まるが惜しくもボール。バッターが一度下がり軽く素振りのような動きをした、恐らく癖でやっているのだろう。
3球目、新野が腕を振り切った。ストレートのように見えた腕の振りだが球種はチェンジアップ。ボールがアウトローの際どいところへ飛んでいく。
バッターが早すぎる踏み込みから粘ってバットを振り抜くと弱々しい打球が鎌瀬の頭上を飛び越し一塁線ギリギリに落ちた。バッターが崩れた姿勢から走り始める。
バッターのよろけたスタートダッシュを見た秋山はすぐに捕球し一塁に送球してみたもののセーフ、結果はライト前ヒット。
ノーアウト1塁というあまりいい展開ではない状況、一ノ瀬は次をどうしようか考えていた。新野は打たれたことをさほど気にしてはいないようで調子もまだ良さそうだ。三者三振に取るとまではいかないが抑えることは十分出来ると一ノ瀬は考えた。
一ノ瀬の考え通りにその後、新野は二者を連続で奪三振に抑え4人目のバッターを前に一ノ瀬は少し油断していた。
カウントは2ストライク1ボール2アウト、走者は盗塁を許し2塁。新野にフォークを一ノ瀬が要求すると新野は首を振りスライダーを投げたいとジェスチャーした。一ノ瀬はそれをよしとせずフォークのサインをもう一度出すと新野は『仕方ないなぁ』というように頷いた。嫌々という感じでないようで一ノ瀬は少し安心しながらミットを構えた。
新野のフォークが来ると分かっていたのに少し緩めたその心の隙間を新野のフォークが襲った。
今日最高に調子が良かった新野は自身の持つ最高のフォークを外角低めに投げた。140キロ近いそのボールは減速する素振りをみせず急に落下し始める。それはまさに魔球、新野が自信を持っている渾身の決め球。
ボールはバッターの視界から呆気なく消えた、球審の視界からも消えた。そしてあろうことか一ノ瀬の視界からも消えた。
「……っ!一ノ瀬ぇえっ!」
ベンチからの絶叫とも言える叫び声で何が起こったのかを一ノ瀬は一瞬飛んだ意識で理解した。急いでマスクを取り外し振り返るとボールが壁際に転がっている。
一ノ瀬にはホームベースから壁までの約22メートルが遠く感じられた。
本塁から壁までの距離がやや広めに取られている球場だからいつもより3メートルは遠い。一ノ瀬が立ち上がり走り始める頃には2塁にいた走者が3塁ベースを踏もうとしていた。
新野がホームベースのカバーに入る、ランナーが走る。
一ノ瀬はボールを掴むと同時に何も確認せずにホームベースに送球した。直感で投げられたボールは検討外れの場所に飛ぶこともなく新野の元へ飛んでいく。
ランナーが本塁に滑り込むのと同時に新野が体を反時計回りに回転させながらグラブでランナーに触れた。送球がやや一塁側に逸れていたことによって新野のタッチは間に合わない。ランナーはセーフ。
バッターランナーが走り続けているのを見た新野は2塁へ直ちに送球するがこれもセーフ。得点は6-5。一ノ瀬の捕逸によって2アウト2塁という先程と変わらない状況に戻ってしまった。
「その、すいません……」
「はぁ……そんなに落ち込むなよ。俺もちょっとミスっちゃったからさ」
一ノ瀬は新野にグラブで軽く肩を叩かれ励まされた。新野は笑いも怒りもしていない、その表情からは気が抜けていた。新野はマウンドに戻る途中チラリとベンチの方を見た。その回、新野はさらに1安打を許す。しかし次の打者にチェンジアップを引っ掛けさせセカンドゴロに討ち取った。
攻守交代、6回裏の雪月は9番打者からの攻撃。9番打者の新野はストレート、ストレート、スライダーで2ストライク1ボールに追い込まれ、その場面でのカーブにタイミングが合わずボテボテのショートゴロに終わった。
そして打順は1番に戻る。バッターは澄田。雪月が誇る1番打者、今試合での打率1.00、打点0、出塁率100%、盗塁企画数6、盗塁成功率100%の男。
澄田は左打席に立ち、ユニホームの袖やサポーターを軽く触り整えるとバットを構えた。
試合も中盤、日差しがそこそこに照り付けて入るものの季節は11月。涼しいと呼ぶには少々寒い空気が肺を満たす。ふぅ、と息を吐いてみても白くはならない程度だが多少は体が強張る。さっきからあまり動いていない敵のサードなんかは実に動きが鈍っていそうだ。
澄田はキツいコースに来る球をカット打ちでファールにしながらどうするか悩んでいた。そして常套手段である進塁方法を取ることにしたようだ。7球投げさせてフルカウント、そこから3球粘りフォアボールで進塁することに成功した。
次にバッターボックスに立つのは秋山。右打席に立ち気合いは十分。ツーベースヒット以上を今回も目論んでいる。審判がボールインプレーになったと合図すると澄田が塁から離れてリードをする。
ピッチャーは澄田の事を何回か目で牽制し、それでも気になるのか一塁へと牽制球を投げる。もちろん澄田は普通に帰塁する。そんなやりとりをピッチャーは飽きる事なく2度繰り返す。相当、澄田の盗塁が嫌になったらしい。ここまで牽制して何度も一塁を確認しているあたり頭にキテいるようだ。
投げたボールはウエスト。流石の澄田も盗塁することが面倒くさくなったのかあまりリードを大きく取っておらずただ単にボールとなった。これでも相手のピッチャーは一塁の方に眼を飛ばしている。ここまでくればもはや意地だろう。
6点取られていても然程ヘコまず──むしろ盗塁するランナーに怒りを込めた睨みを効かせるような──それだけの闘志が残っているピッチャーを見て、龍宮院にその闘志の2割程を分けてもらえないものかと純は思った。
そして、ピッチャーからほったかされ仲間から応援の声もなく敵ベンチからもなんの反応も得られず観客席からも自分に対する反応が薄くなっている秋山は……FXで全財産を溶かした人のような顔になっていた。
……まるで覇気がない。
ピッチャーとキャッチャーが秋山の異変に気づいたのは3球目1ストライク2ボールの場面だった。3球目の時秋山がピクリとも動かなかったので顔を見てみれば無表情を超えて顔が溶けていた。もちろん『溶けている』というのは物理的にではなく比喩表現による話であって、秋山の表情はそれくらいグダぁとしていた。
バットをいつも通り構えながら、ぐでぇと溶けた顔をピッチャーに向ける秋山。ベンチでは秋山の溶けた表情を見つけた隅田と将也がゲラゲラと笑っていた。
そんな中投じられた第4球目、秋山は心ここに在らずといった様子で動かず、澄田は2塁に到着していた。この時秋山は何を考えていたかというと……
『多分机の上にエロ本置きっぱなしだ。……終わった』
何故打席に立ったタイミングで思い出してしまったのか分からないが彼にとっては今後家で暮らすことを考えた時にかなりの重大事項である。相手のピッチャーが構えて大きく踏み出した。澄田が三盗のスタートを切っている。
『でも俺の部屋は自分で掃除してるし婆ちゃんが俺の部屋に入らない可能性も……ん?今ここでどれだけ考えたところでエロ本動かなくね?』
腕を振り切った瞬間、秋山が深い思考の海から帰ってきた。
『帰ってから考えるか!』
結論は出た。考えたくないことを後回しにした秋山は現実逃避とばかりに派手なスイングを見せる。アウトロー低め、若干甘く入ったボールはスライダー。秋山は特に何も考えずにフルスイングした。
何も考えずにバットを振った時出たスイングは1番練習していたアウトロー低めを捉えるもの、それは偶然にも配球と噛み合った。外に逃げていく変化球は秋山の振るうバットの芯よりやや外側で捕らえられた。
打球は高いアーチを描くわけでもなく弾丸のように飛んでいく。ピッチャーが飛んでいく打球を見上げる間もなく打球は勢いをそのままにフェンスに直撃する。ライトを守備していた選手が定位置からフェンスに向かって走っていきボールを取って振り返りボールをサードへと送球した。
秋山は1塁ベースを踏んで2塁へと向かうが途中から減速し歩いて2塁ベースを踏んだ。バックホームするようなら三塁を目指していたのだがその三塁に送球されたのだから止まらざるを得なかった。
2塁ランナーだった澄田はボールがフェンスに直撃する頃には既に3塁ベースを踏んでいた。ライトの選手がボールを捕球し振り返った時には澄田はホームベースを踏みそのままの勢いでベンチに向かって走り去っていった。
「三盗失敗した!」
「いや、別に秋山が打つ分にはいいじゃん」
既にこの試合で7盗塁を決めた男が不服そうな顔をしている。ちなみにこの時点で盗塁数7はかなり異質な記録である。そもそもバチバチに盗塁するぞと意気込み気配を出しまくり警戒されてまくっているというのに強引に盗塁するものだからやられる方としてはたまったものではない。
「クッソー、今日こそはホームスチール決めてぇ……」
「2番秋山だし無理だろ」
「秋山がサードゴロの内野安打を打ってくれればワンチャンある!」
……誰もがその光景を想像するがどうにもそうなる気がしない。
「「「いや、ないない」」」
澄田がベンチに戻ってくるなり喧しくなってきた。スミダトリオは大体うるさいのだ。むしろどんな時静かになるのだろうか。ここで新野がベンチに戻ってから初めて口を開いた。
「一ノ瀬」
「なんですか」
一ノ瀬はいかにも気まずいと言った表情で答えた。かなり反省の色が見られる。もちろん新野も一ノ瀬を弄りにきたわけではない。
「まぁ、そのなんだ……気にするなよ。俺もたまに失投するしさ」
「……次は頑張ります」
一ノ瀬は言い淀んだ。失投について『はい、そうですね』などと言えるわけがない。後逸したキャッチャーがそんなこと言えるわけがない。新野は慰めるのが得意じゃなかった。
「いや、ちょっと俺絶好調だったからさ。いやー今日のフォークが落ちすぎたのが悪かったかなぁ」
「その……本当にすいません」
絶好調のピッチャーに水をぶっ掛けるような真似をした気持ちになりますます一ノ瀬は90度腰を曲げながら謝罪の言葉を口にした。そこへ将也がトコトコと歩いてきて一ノ瀬の尻を叩いた。スパァンと快音が響く。
「へ?」
将也の突然の狂った行為に純は意図しない声が出た。
「ん?は?えっ?ちょ……」
新野も状況が理解できていないようで言葉にならない言葉が口から出ている。新野としては一ノ瀬を励ましたかっただけなのにどうしてこうなった。
「ほぉ……」
隅田は面白いものを見るように後方で腕を組んでねっとりと視線を動かしている。控えめに言って気持ち悪い。
「!?……うわ痛っ」
叩かれてから少し間を置いて一ノ瀬が控えめなリアクションを取った。
「反応遅くね?」
「ちゃんとケツに神経通ってるか?」
スミダ達が一ノ瀬の反応の遅さに若干ざわついている。スミダ達がざわつく理由は不明だが一ノ瀬の反応は確かに遅かった。叩いた将也はというと叩く時に使った左手を眺めていた。そして何を思ったのか左手を自分の尻に回して軽く揉んでいた。
「なんか、一ノ瀬のケツ俺より柔らかいんだけど」
「え?お前ホモだったの?」
「違うわい!」
侮蔑の目線を受けた将也は慌てて弁明を始める。
「いやそうじゃなくて!謝罪の仕方が間違ってたから」
「……それと俺のケツになんの因果関係があるんですか」
「全くない!気合い入れてやろうと思って叩いてみただけだ!」
将也は胸を張って開き直り純の方に戻ってきた。
「一ノ瀬!謝罪のプロの謝罪をよく見とけ!」
「えっ?どういうことですか──」
一ノ瀬が何かを言う前に将也がビシッと姿勢を正した。
「純の弁当のデザートの果物をいつも1切れだけ勝手に食べてました」
突然の告白。周りの人達は意味が全くわからない。純はなんとか一言『それで?』と口から絞り出した。
「それと偶に純をコンビニとかで連れて行って買い食いした時とかはバレない程度に勝手に純の買ったチョコとか食べてました」
純はゆっくりと笑顔を作った。
「まだあるよな?」
「勝手にアイシングスプレー使ってました」
「他には」
「テスト前に授業ノートを何回か勝手に借りて返すの忘れてました」
ここら辺から純の笑みが引き攣り始めた。
「まだあるな」
「中学の時ガラス割ったの俺です。擦りつけようとしたのも俺です」
「言うことあるよな?」
「誠に申し訳ございません!」
そう言った後、ビシッと45度腰を折り曲げた綺麗な最敬礼を将也はした。だが純はまだ納得いっていないようだった。
「俺の教科書とか参考書とか専門書とか知らないか?」
「待ってそれは本当に俺じゃない!?」
本当に心当たりのないことを言われて将也は狼狽える。
「嘘をつくなよ、それだけやってるんだ。不法侵入やら盗撮もやってんだろう」
「待って?!違う!不法侵入はやってないし盗撮と言えば……確かに盗撮はやってるけどそれは誤解だ!女の子は撮ってないから!やめて一ノ瀬、そんな目で俺を見ないで!」
みんなが蔑むような目線を将也に向けている。墓穴を掘った将也は手をわちゃわちゃ動かして必死だ。
「お前やっぱりホモじゃん」
「違うって!みんなの練習風景をこそっと撮ってただけだって」
「先輩、幻滅しました」
意外と後輩から言われたその一言が胸に刺さったのか将也が沈黙する。
「女子を撮らない、どうやらただのホモのようだ」
「もし女子撮ってたらそれはそれで問題だろうが」
「もちろんホモから犯罪者にランクダウンよ」
「でも前に将也と一緒にAV見たよな?将也って趣味いいよな」
「そういやそうか、じゃあバイか」
「あれ?お前AV観賞会来てなかっただろ?」
「それはお前の方だろ」
チームメイト達はもちろん分かってからかっているのだが結構マジで将也は弁明しようとしている。将也へと近づいた純が口を開いた。
「その……別に俺は同性愛者を否定しない。戦国時代の武将もそうだったわけだしな、ありのままのお前で大丈夫だ。言いづらいことをよく言ってくれたな……ただ、今後は俺の半径2メートル以内に近づかないでもらえると助かる」
純は将也からの熱い視線を思い出して身震いした。思い出してみれば確かにあの視線にこもった熱は尋常のものではない。まるで特別なものを見るような、それこそ好きな人に向けるような……そこまで考えてしまった純は背筋に這い寄るような悪寒を感じて無意識に少しだけ将也と距離をとった。
「え?それマジで言ってる?」
「意識しないように善処はする。ピッチングに乱れが出るようなら一ノ瀬と変えることも視野には入れている」
思い出せば思い出すほど過去の思い出が疑わしいものになっていく。特に高校に入ってからはそれが加速したように思えた。純は将也との間にコーチを挟むことで心を落ち着かせることにした。
「いや、俺はドノーマルだから!頼むっ!考え直してくれよ」
結構マジで焦り始めた将也。それを周りは煽っていく。
「将也、純に振られてやんの」
「純も悪女だなぁ……一ノ瀬と二股してるなんてよぉ」
ここで将也の態度が急変した。堪忍袋の緒が切れたようだ。随分と容量の小さい堪忍袋である。
「お、お前ら……ふぅ、分かった。なら俺にも考えがあるぞ。絶対後悔するからな」
「ほぉ……?」
「なんだよ言ってみろよ?」
今の将也は怖くない。もちろん平時の将也も怖くないのだが面白がって周りは将也をさらに煽った。
そこからは悲惨なことになった。将也がみんなの性癖を暴露し始めたのだ、そのタイミングで煽りに参加していなかった鎌瀬がホームランを打って帰ってきた。それと同時にとばっちりを受けないようにと次の打者である斎藤がベンチから飛び出していった。
「あれ?この状況はどうしたの?」
鎌瀬がのんびりと将也に聞いた。
「うるせぇ!この純情イチャコラ物好きが!」
「……え?なんのことかな?」
鎌瀬は質問の意図が分からず聞き返した。悪手だった。
「知ってるからな!お前○○○○○○○とか○○○○○○好きだろ!知ってるからな!」
鎌瀬、とばっちりでノックアウト。堪らずコーチの後ろに隠れる。この後選手全員がどこか調子を崩した雪月は失点を多々許したものの8-7というスコアで試合は終了。なんとかリードを守り切ることができた。
勝ったというのに雪月の雰囲気は暗い物だった。チームメンバー全員に自身の性癖が知られるという事態はかなり深刻な物だったようだ。そして1番割を食ったのがコーチである。
時は遡り将也が暴露を始めた頃、コーチはこのままでは選手のコンディションに悪影響が出ると思ったのだろう、将也に注意をすることにした。
「お前らしっかりしろ、気持ちは分かるが……岡部、お前もなぁ度がすぎるんじゃないか?」
「コーチもコーチですよ!この熟女好きが!好みの熟女を作るための光源氏計画を20から始めるとかとんでもないな!」
「……え?なんで知ってる?」
「コーチの奥さんが自慢してたんだよぉ!聞きたくもない井戸端会議に耳を傾ける俺の気持ちにもなってくれよ!帰ったらチーズケーキがあるらしいですよ、良かったですねコーチ!」
その時コーチは純の後ろに回ろうとして鎌瀬に押し戻された。居た堪れない空気になったのは言うまでもない。スミダ達すらも黙り込み無音のままバスに揺られ皆は宿泊している宿へと戻った。とは言ってもそんな気の沈みは一時的なもの。コーチは気分は沈んでいるが美味いものを食べれば多少は気が紛れるだろうと考えていた。
実際コーチ自身も美味いものを食べて寝れば今日のような精神的ダメージは多少癒えると自信を持って言える。雪月高校の皆は宿で美味しい夕食を取り、風呂に浸かり、ふかふかの布団で眠り英気を養った。
そして第3回戦。雪月高校は不戦敗で神宮大会を敗退した。
今日はその第2回戦。今日の試合相手はは四国ブロックの安芸工業高校。純はボケーっとベンチからマウンドに向かっていく龍宮院を見ていた。純は不満たらたらな態度を隠そうともせずに拗ねていた。
コーチはピッチャーの中で一番安定している純を決勝に温存したいというある種の信頼のもとそうしている。ただ最近の純が初めて会った時の印象と違いガキになっていく様子を見て目頭を揉んでいた。
「おーい。起きてるか?」
純がベンチに座ったままボケーっとしていると将也に声をかけられた。将也も今日はベンチ入りだ。今日は一ノ瀬がキャッチャーマスクを被っているし、レフトは田中が守っている。将也の出番は今日はおそらくないだろう。
「なんだよ」
「いや、魂が抜けてたから。応援すっぞ」
将也がどこからかブブゼラを取り出し、不要な所持品を見咎めたコーチと口論になり始めた。もちろん将也の言い訳は見苦しいものであるし要約すれば応援に必要だから持ってきたというものであった。それを見た純は呆れた視線を将也に向けていた。
「そんなことしなくても打たれないって……」 と言いつつチラリと純はマウンドの方に視線を投げやった。マウンドの上に堂々と佇んでいるはずの龍宮院は──
(……やばい、吐きそう)
──そんな幻聴が聞こえるほどガチガチに固まって震えていた。
この龍宮院という男、学業をやらせれば常に好成績、スポーツも万能でしかも音楽や絵画などの美術系統のセンスも素晴らしい。普通なら自信に満ち満ちていてもおかしくないはずであるが、どうしたことか彼はとんでもなくチキンハート……否、ガラスのハートと言っていいほどに打たれ弱く脆い。
なんと呼吸も荒い上にフラフラし始めた。既に1、2本満塁ホームランを打たれた戦犯が顔面蒼白になっているような状態である、もちろん彼は全然まだ打たれているわけでもないのにこれなのだ。
純は心配になってきたので応援することにした。この応援で何かが変わるというわけではないが、それでも応援しないよりはマシだろう。
話は変わるが純はそもそも野球大好きおじさんである。もちろん高校野球観戦も大好きであった。推しが撃たれれば悲鳴のような声をあげるし三振にとれば自慢げな顔をする。
純はこれまでカッコつけたいという理由のみで他人が気にならないフリをして応援を我慢してきた。そして今日、その本能を密かに解き放った。
「うん、そうだな応援すっか」
「だろー?」
ブブゼラを構えた岡部を見てコーチが焦る。既に色々と学校の教職員から苦情を受け付けているのだ。どうしてクレーム対応をした教職員たちから責められなければならないのか。
「おい、岡部!それをしまえ!怒られるの俺だから!」
「仕方ないですね……コーチが言うから従いますけど」
「いつもは言っても聞かねぇよな?!」
そんな争いを横目にプレイボールという声が響いた。
────────────────────────
『マウンドの上は1人だ。1人は嫌いだ。こんなにもいつも自分に自信がない自分が嫌になってきた』
龍宮院は右手を胸に当てて深呼吸した。右足と右手が緊張で勝手に震えている。どうしようもなく龍宮院は笑えてきた。
『俺って本当に情けないなぁ……』
目線を地面から上げホームベースへと向ける。一ノ瀬が堂々とミットを構えていた。相手のチームの応援歌が響いているというのに一ノ瀬は全く動じていない。一ノ瀬はインハイ直球のサインを出した。
龍宮院は首を横に振った。最初に直球で高めに投げるのは自信がなかった。一ノ瀬は譲らず同じサインを出した。
──俺を信じろ
一ノ瀬の口がそう動いたように龍宮院には見えた。声なんて応援歌で聞こえないが何年も一緒にいる仲だ、言いたいことは分かった。今日はそのまっすぐな目が一段と頼もしい。
『俺は信じるよ。俺じゃなくて俺の一ノ瀬を』
龍宮院がじっとしていると後ろから声がした。
「打たれても大体どうにかなるからさっさと投げろー!」
「一、三塁間の守備は任せておけ!」
ショートとセカンドのスミダペアが彼らなりの激励を龍宮院に送っていた。
「一、三塁間は守備範囲広すぎっすよ……」
龍宮院はそう言って苦笑した。気づけば震えは無くなっていた。
──────────────────────
パスっと軽い音が鳴る。球が弱々しい。現在5回表、点数は6-4。
5回表の初球でホームランを打たれた龍宮院はその後の制球が乱れ四球、レフト前ヒットと出塁を許したもののその後なんとか1人をアウトに討ち取る。そして5人目の打者にまたもホームランを打たれ4失点。龍宮院の顔は真っ青になっておりマウンドから下ろした方が良さそうだ。
「翔!抑えろ!ッシャァ!ナイピ!」
「純、落ち着け」
「どうした伊藤」
ヘロヘロになりがらも龍宮院がもう一つアウトをとった時、純が吠えた。な純のいきなりの変化に周りは追いついていけない。今日の純は1回表からずっとこんな調子である
クールキャラの崩壊は少し前から見えていたがこの日を持って純の無口でクールっぽいキャラは崩壊した。いつのまにかキャプテンが野球好きのおっさんみたいな状態になったことにショックを禁じ得ないのか打線は不調だった。不調でも6得点である。
「ちょっと行ってくる」
軽く肩を回した新野がマウンドへと歩いていく。それと変わるようにとぼとぼと龍宮院が帰ってきた。プレッシャーなのか責任なのかで頬がゲッソリしているような印象を受ける。
「……」
「新野!抑えろー!」
純は龍宮院に声をかけることなく新野の応援を始めた。新野は困ったような顔で軽く笑い一ノ瀬のミットの方に目線を移し構えた。
純が新野を応援している隣で龍宮院は気まずいのかずっと黙って俯いていた。将也は何か声をかけようと少しの間迷った後、そっとしておくことを選んだ。
新野の垂れるストレートはシュート回転をして手元で微妙に移動する。
振り抜かれたバットが打者に〔アウトローのストレートの芯を捉え損ねた〕という感覚を伝える。それと同時にボールはセカンドのグラブの中へと吸い込まれていった。
回の途中からの登板であるが新野は調子を崩すことなく投げている。新野はしっかり打者を抑えるとこれくらいは何ということでもない、とでもいうような顔をしてベンチに帰ってきた。
「ナイス!やっぱ新野よ!行ってこい一ノ瀬!1発放て!」
新野がベンチに近づくと純が騒いでいる声が耳に入る。新野は新野のことを恥ずかしげもなく褒めちぎっている純から離れたところに座り、耳を澄ませた。新野が耳を澄ませた頃には話題は変わっており新野はただ聞き耳を立てるだけで特に収穫は得られなかった。
攻守交代。いつもの雪月ベンチはおちゃらけている感じだが今日の雪月ベンチは一味違う。ちゃんとベンチから声が飛んでくる。もちろんちゃんとした応援ではないのは当然のことでベンチがはっちゃけている。
そんな態度で純達は一ノ瀬をバッターボックスに送り出した。
『やりにくい』
一ノ瀬はそう感じていた。相手チームの応援歌なんかは確かに呑み込まれそうな雰囲気があるけれどずっと聴いているうちにBGMとして何も感じなくなっていた。ただ、これは違う──
「打てや!」
「振り切っていけー!」
「チキるんじゃねーぞー!」
仲間からの野次なのか応援なのかよくわからない声援。これに調子が乱される。一ノ瀬だけでなく雪月のバッターもそう思っていた。今日の不調の原因は味方からの慣れない応援のせいだと誰もが思っていた。
「ストライィイ!」
眉を顰めた一ノ瀬は両眼でバッターをもう一度見る。これでこの試合3回目の打席、リリースポイントも投げる時のテンポも一ノ瀬は大分掴めてきている。
相手投手はMAX145キロのストレートを持つ投手でそこまで変わった選手でもない。変化球も普通のカーブとチェンジアップでパッとしない。全体的にレベルはそこそこ高いけど普通と言った選手だった。
軽くバットを振るい一ノ瀬がバットを構え直した時、風向きが変わった。ホームベースからスタンドの方へと風が吹きはじめた。相手のサインの交換が終わったようで相手ピッチャーが構えをとった。左脚を高く上げ少しタメを作り……一気に踏み込む!
『ッ!踏み込みがさっきより深い!』
ピッチャーの体が動き始め右腕が振り抜かれる。ボールはストレートではなく遅い変化球、それも──
『チェンジアップ!貰った!』
一ノ瀬がバットを振り抜いた。金属バットが軽快な音を響かせボールを空へと弾き返した。アーチを描くボールは追い風に乗りそのままスタンドへ消えていく。一ノ瀬はバットを丁寧に地面に置くとダイヤモンドを軽く走り抜けていった。
ベンチからの野次は未だ鳴り止まず。もちろん「一ノ瀬ぇええ!信じてたぞぉおお!」と喝采の声も上がっている。めんどくさそうな表情を一ノ瀬は一切顔に出さなかった。もちろんホームランを打ったことによる喜びも顔に出さずクールな顔を心がけていた。内心は勿論ニコニコである。
これで女子の1人でも告白してこないかなと思いながら一ノ瀬はベンチに戻ってくると龍宮院の隣に座った。
「翔、泣くなよ」「その、ごめ──」
龍宮院が謝ろうとしたとき一ノ瀬がそれを止めた。一ノ瀬はただ親友を気遣うことの出来る自分に酔いたいだけであって親友に謝って欲しいわけではなかった。
シリアスを壊さないように、とそんなことには気を使うことができるのか純達は急に黙った。この場で本当にシリアスなのは龍宮院だけであるがそれでも純達は黙った。ガヤが飛んでこないことで調子を取り戻し始めたのか原因は不明だが金属バットの快音が響く。
「1回目のホームランは俺のミスだった。読み間違えた。今日の翔の球は悪くない、むしろ良かった。だから、ごめん」
一ノ瀬が頭を下げた。龍宮院はオロオロしている。ベンチからバットを持って誰かが出て行く。ガヤが黙っている今こそ好機。
「その、勝が謝ることないよ。だって──」
「さっきからぐだぐだと煩いぞ。一本目のホームランは一ノ瀬の責任、その後の2本のヒットともう一本のホームランは龍宮院のせいだろ」
?!
ピシリと空気が固まる。コーチすらも『何言ってるんだテメェ?』もしくは『信じられねぇコイツ』と言わんばかりのギョっとした顔で純を見つめている。2人のシリアスな雰囲気をこっそり楽しんでいた奴らからの視線が純に向けられるが純はそういうのを気にしないタイプだった。
「大体さぁ……龍宮院ってメンタルクソ雑魚だよな。ホームランの1本や2本で動揺しすぎだろ」
これがこれまで1失点もしてない奴の言い草である。誰もがなんか、納得いかない。将也でさえもジト目で純のことを見ている。しかしこの鈍感男、空気が読めていない。前世でのちっぽけな空気読みスキルはどこに置いてきてしまったのだろうか。
「……普通ホームラン打たれたら動揺するでしょう?」
「打たれてもそれを投球に出さないのがピッチャーってもんだろ。俺だってホームランの1本や2本……なぁ、将也」
早口で弁明する龍宮院に堂々と語り始めた純が急に言い淀んだ。純に声をかけられた将也は訝しげな視線を投げかける。
「なんだ?」
「俺ってホームラン打たれたことあった?」
将也はため息をついた。
「ない。先手を打つと失点もしたことないぞ、多分」
純が少し動揺したように周りには見えた。ここにきてようやく純も自慢話のように聞こえてしまうと気づいたのだろう、きっともう余計なことは言わないだろう、と周りは安心した。もちろん間違いだった。
「──というわけで俺だってヒットの1本や2本打たれることはあるが……おいなんだその目は。ちょ、やめろ?!やめてください。暴力はダメだって!暴力反対!」
「なんですか!先輩みたいなアホ強いピッチャーにそんなこと言う資格ないですよ!」
「やめろよ、照れる……冗談だって……ハハハ」
純が満更でもないのか軽く笑いながら目を逸らした。もちろん龍宮院は純を褒めるつもりなど毛頭ない。龍宮院から向けられる殺気にも似た怒気のような何かに純は顔を引き攣らせた。
「アホ!先輩はアホです!」
「あぁっ!?学年首席様にアホって言った!ちゃんと自分のテストの点数見てから言えよ?言っていいことと悪いことがこの世の中にはあるんだからなぁ!」
なんだかんだで学年1位の成績を取っていることを密かに誇りに思っていた純は動揺しているのもあり龍宮院の言葉に過剰に反応した。
「そういう頭の良さじゃないです!俺だって学年15位ですぅ!」
「はい雑魚ぉ!俺は生まれてからずっと学年1位です!」
「うわっ!この人大人気ないですよ!」
「え?俺、高2ですけど」
龍宮院が人差し指を純向け糾弾するように叫ぶが純は急にテンションが通常営業に戻り『スン……』と無表情で自分の現在の学年を宣った。堪らず龍宮院は将也に助けを求める。しかし将也としてはもうお腹いっぱい、正直もう関わりたくないし、よそでやって欲しい。
「将也先輩っ!この人一体なんなんですか!」
「完璧超ド変人」
「その言い方だと語弊がある!俺はそんなに変人じゃない」
「若干変人って自覚があるならもっとじっとしてろよ」
と、ここまではしゃぐとコーチも黙っていられないようで口を挟んできた。
「お前ら頼むから静かにしてくれ!」
コーチが怒鳴ると同時に隅田が豪快にショートライナーを放ってアウトになっていた。走者残塁、得点は惜しくも入らず6-4。しかし次の回では澄田、秋山、鎌瀬と打線が続くので1点は取れるだろう。
6回表、新野がマウンドに立った。その初球、スライダーがキレ味抜群の変化を見せた。会心の手応え、新野の今日の調子は抜群にいいらしい。新野は少し気分を良くした。今日はコントロールもいい感じで思った通りの球が投げられる。本当にイメージぴったりの球が投げられる、そんな日はあまりない。
「ナイスボール」
一ノ瀬がボールを投げ返した。新野はボールを受け取ると珍しくすぐに構えた。いつもは少しだけマウンドの上で構えずにじっとただ立つ時間があるのだが、今日は早く次を投げたいようだ。
2球目はストレート。球筋はいつも通り垂れているものの速い。新野は自己最高の球速で投げれていた。バッターの膝下にズバッと決まるが惜しくもボール。バッターが一度下がり軽く素振りのような動きをした、恐らく癖でやっているのだろう。
3球目、新野が腕を振り切った。ストレートのように見えた腕の振りだが球種はチェンジアップ。ボールがアウトローの際どいところへ飛んでいく。
バッターが早すぎる踏み込みから粘ってバットを振り抜くと弱々しい打球が鎌瀬の頭上を飛び越し一塁線ギリギリに落ちた。バッターが崩れた姿勢から走り始める。
バッターのよろけたスタートダッシュを見た秋山はすぐに捕球し一塁に送球してみたもののセーフ、結果はライト前ヒット。
ノーアウト1塁というあまりいい展開ではない状況、一ノ瀬は次をどうしようか考えていた。新野は打たれたことをさほど気にしてはいないようで調子もまだ良さそうだ。三者三振に取るとまではいかないが抑えることは十分出来ると一ノ瀬は考えた。
一ノ瀬の考え通りにその後、新野は二者を連続で奪三振に抑え4人目のバッターを前に一ノ瀬は少し油断していた。
カウントは2ストライク1ボール2アウト、走者は盗塁を許し2塁。新野にフォークを一ノ瀬が要求すると新野は首を振りスライダーを投げたいとジェスチャーした。一ノ瀬はそれをよしとせずフォークのサインをもう一度出すと新野は『仕方ないなぁ』というように頷いた。嫌々という感じでないようで一ノ瀬は少し安心しながらミットを構えた。
新野のフォークが来ると分かっていたのに少し緩めたその心の隙間を新野のフォークが襲った。
今日最高に調子が良かった新野は自身の持つ最高のフォークを外角低めに投げた。140キロ近いそのボールは減速する素振りをみせず急に落下し始める。それはまさに魔球、新野が自信を持っている渾身の決め球。
ボールはバッターの視界から呆気なく消えた、球審の視界からも消えた。そしてあろうことか一ノ瀬の視界からも消えた。
「……っ!一ノ瀬ぇえっ!」
ベンチからの絶叫とも言える叫び声で何が起こったのかを一ノ瀬は一瞬飛んだ意識で理解した。急いでマスクを取り外し振り返るとボールが壁際に転がっている。
一ノ瀬にはホームベースから壁までの約22メートルが遠く感じられた。
本塁から壁までの距離がやや広めに取られている球場だからいつもより3メートルは遠い。一ノ瀬が立ち上がり走り始める頃には2塁にいた走者が3塁ベースを踏もうとしていた。
新野がホームベースのカバーに入る、ランナーが走る。
一ノ瀬はボールを掴むと同時に何も確認せずにホームベースに送球した。直感で投げられたボールは検討外れの場所に飛ぶこともなく新野の元へ飛んでいく。
ランナーが本塁に滑り込むのと同時に新野が体を反時計回りに回転させながらグラブでランナーに触れた。送球がやや一塁側に逸れていたことによって新野のタッチは間に合わない。ランナーはセーフ。
バッターランナーが走り続けているのを見た新野は2塁へ直ちに送球するがこれもセーフ。得点は6-5。一ノ瀬の捕逸によって2アウト2塁という先程と変わらない状況に戻ってしまった。
「その、すいません……」
「はぁ……そんなに落ち込むなよ。俺もちょっとミスっちゃったからさ」
一ノ瀬は新野にグラブで軽く肩を叩かれ励まされた。新野は笑いも怒りもしていない、その表情からは気が抜けていた。新野はマウンドに戻る途中チラリとベンチの方を見た。その回、新野はさらに1安打を許す。しかし次の打者にチェンジアップを引っ掛けさせセカンドゴロに討ち取った。
攻守交代、6回裏の雪月は9番打者からの攻撃。9番打者の新野はストレート、ストレート、スライダーで2ストライク1ボールに追い込まれ、その場面でのカーブにタイミングが合わずボテボテのショートゴロに終わった。
そして打順は1番に戻る。バッターは澄田。雪月が誇る1番打者、今試合での打率1.00、打点0、出塁率100%、盗塁企画数6、盗塁成功率100%の男。
澄田は左打席に立ち、ユニホームの袖やサポーターを軽く触り整えるとバットを構えた。
試合も中盤、日差しがそこそこに照り付けて入るものの季節は11月。涼しいと呼ぶには少々寒い空気が肺を満たす。ふぅ、と息を吐いてみても白くはならない程度だが多少は体が強張る。さっきからあまり動いていない敵のサードなんかは実に動きが鈍っていそうだ。
澄田はキツいコースに来る球をカット打ちでファールにしながらどうするか悩んでいた。そして常套手段である進塁方法を取ることにしたようだ。7球投げさせてフルカウント、そこから3球粘りフォアボールで進塁することに成功した。
次にバッターボックスに立つのは秋山。右打席に立ち気合いは十分。ツーベースヒット以上を今回も目論んでいる。審判がボールインプレーになったと合図すると澄田が塁から離れてリードをする。
ピッチャーは澄田の事を何回か目で牽制し、それでも気になるのか一塁へと牽制球を投げる。もちろん澄田は普通に帰塁する。そんなやりとりをピッチャーは飽きる事なく2度繰り返す。相当、澄田の盗塁が嫌になったらしい。ここまで牽制して何度も一塁を確認しているあたり頭にキテいるようだ。
投げたボールはウエスト。流石の澄田も盗塁することが面倒くさくなったのかあまりリードを大きく取っておらずただ単にボールとなった。これでも相手のピッチャーは一塁の方に眼を飛ばしている。ここまでくればもはや意地だろう。
6点取られていても然程ヘコまず──むしろ盗塁するランナーに怒りを込めた睨みを効かせるような──それだけの闘志が残っているピッチャーを見て、龍宮院にその闘志の2割程を分けてもらえないものかと純は思った。
そして、ピッチャーからほったかされ仲間から応援の声もなく敵ベンチからもなんの反応も得られず観客席からも自分に対する反応が薄くなっている秋山は……FXで全財産を溶かした人のような顔になっていた。
……まるで覇気がない。
ピッチャーとキャッチャーが秋山の異変に気づいたのは3球目1ストライク2ボールの場面だった。3球目の時秋山がピクリとも動かなかったので顔を見てみれば無表情を超えて顔が溶けていた。もちろん『溶けている』というのは物理的にではなく比喩表現による話であって、秋山の表情はそれくらいグダぁとしていた。
バットをいつも通り構えながら、ぐでぇと溶けた顔をピッチャーに向ける秋山。ベンチでは秋山の溶けた表情を見つけた隅田と将也がゲラゲラと笑っていた。
そんな中投じられた第4球目、秋山は心ここに在らずといった様子で動かず、澄田は2塁に到着していた。この時秋山は何を考えていたかというと……
『多分机の上にエロ本置きっぱなしだ。……終わった』
何故打席に立ったタイミングで思い出してしまったのか分からないが彼にとっては今後家で暮らすことを考えた時にかなりの重大事項である。相手のピッチャーが構えて大きく踏み出した。澄田が三盗のスタートを切っている。
『でも俺の部屋は自分で掃除してるし婆ちゃんが俺の部屋に入らない可能性も……ん?今ここでどれだけ考えたところでエロ本動かなくね?』
腕を振り切った瞬間、秋山が深い思考の海から帰ってきた。
『帰ってから考えるか!』
結論は出た。考えたくないことを後回しにした秋山は現実逃避とばかりに派手なスイングを見せる。アウトロー低め、若干甘く入ったボールはスライダー。秋山は特に何も考えずにフルスイングした。
何も考えずにバットを振った時出たスイングは1番練習していたアウトロー低めを捉えるもの、それは偶然にも配球と噛み合った。外に逃げていく変化球は秋山の振るうバットの芯よりやや外側で捕らえられた。
打球は高いアーチを描くわけでもなく弾丸のように飛んでいく。ピッチャーが飛んでいく打球を見上げる間もなく打球は勢いをそのままにフェンスに直撃する。ライトを守備していた選手が定位置からフェンスに向かって走っていきボールを取って振り返りボールをサードへと送球した。
秋山は1塁ベースを踏んで2塁へと向かうが途中から減速し歩いて2塁ベースを踏んだ。バックホームするようなら三塁を目指していたのだがその三塁に送球されたのだから止まらざるを得なかった。
2塁ランナーだった澄田はボールがフェンスに直撃する頃には既に3塁ベースを踏んでいた。ライトの選手がボールを捕球し振り返った時には澄田はホームベースを踏みそのままの勢いでベンチに向かって走り去っていった。
「三盗失敗した!」
「いや、別に秋山が打つ分にはいいじゃん」
既にこの試合で7盗塁を決めた男が不服そうな顔をしている。ちなみにこの時点で盗塁数7はかなり異質な記録である。そもそもバチバチに盗塁するぞと意気込み気配を出しまくり警戒されてまくっているというのに強引に盗塁するものだからやられる方としてはたまったものではない。
「クッソー、今日こそはホームスチール決めてぇ……」
「2番秋山だし無理だろ」
「秋山がサードゴロの内野安打を打ってくれればワンチャンある!」
……誰もがその光景を想像するがどうにもそうなる気がしない。
「「「いや、ないない」」」
澄田がベンチに戻ってくるなり喧しくなってきた。スミダトリオは大体うるさいのだ。むしろどんな時静かになるのだろうか。ここで新野がベンチに戻ってから初めて口を開いた。
「一ノ瀬」
「なんですか」
一ノ瀬はいかにも気まずいと言った表情で答えた。かなり反省の色が見られる。もちろん新野も一ノ瀬を弄りにきたわけではない。
「まぁ、そのなんだ……気にするなよ。俺もたまに失投するしさ」
「……次は頑張ります」
一ノ瀬は言い淀んだ。失投について『はい、そうですね』などと言えるわけがない。後逸したキャッチャーがそんなこと言えるわけがない。新野は慰めるのが得意じゃなかった。
「いや、ちょっと俺絶好調だったからさ。いやー今日のフォークが落ちすぎたのが悪かったかなぁ」
「その……本当にすいません」
絶好調のピッチャーに水をぶっ掛けるような真似をした気持ちになりますます一ノ瀬は90度腰を曲げながら謝罪の言葉を口にした。そこへ将也がトコトコと歩いてきて一ノ瀬の尻を叩いた。スパァンと快音が響く。
「へ?」
将也の突然の狂った行為に純は意図しない声が出た。
「ん?は?えっ?ちょ……」
新野も状況が理解できていないようで言葉にならない言葉が口から出ている。新野としては一ノ瀬を励ましたかっただけなのにどうしてこうなった。
「ほぉ……」
隅田は面白いものを見るように後方で腕を組んでねっとりと視線を動かしている。控えめに言って気持ち悪い。
「!?……うわ痛っ」
叩かれてから少し間を置いて一ノ瀬が控えめなリアクションを取った。
「反応遅くね?」
「ちゃんとケツに神経通ってるか?」
スミダ達が一ノ瀬の反応の遅さに若干ざわついている。スミダ達がざわつく理由は不明だが一ノ瀬の反応は確かに遅かった。叩いた将也はというと叩く時に使った左手を眺めていた。そして何を思ったのか左手を自分の尻に回して軽く揉んでいた。
「なんか、一ノ瀬のケツ俺より柔らかいんだけど」
「え?お前ホモだったの?」
「違うわい!」
侮蔑の目線を受けた将也は慌てて弁明を始める。
「いやそうじゃなくて!謝罪の仕方が間違ってたから」
「……それと俺のケツになんの因果関係があるんですか」
「全くない!気合い入れてやろうと思って叩いてみただけだ!」
将也は胸を張って開き直り純の方に戻ってきた。
「一ノ瀬!謝罪のプロの謝罪をよく見とけ!」
「えっ?どういうことですか──」
一ノ瀬が何かを言う前に将也がビシッと姿勢を正した。
「純の弁当のデザートの果物をいつも1切れだけ勝手に食べてました」
突然の告白。周りの人達は意味が全くわからない。純はなんとか一言『それで?』と口から絞り出した。
「それと偶に純をコンビニとかで連れて行って買い食いした時とかはバレない程度に勝手に純の買ったチョコとか食べてました」
純はゆっくりと笑顔を作った。
「まだあるよな?」
「勝手にアイシングスプレー使ってました」
「他には」
「テスト前に授業ノートを何回か勝手に借りて返すの忘れてました」
ここら辺から純の笑みが引き攣り始めた。
「まだあるな」
「中学の時ガラス割ったの俺です。擦りつけようとしたのも俺です」
「言うことあるよな?」
「誠に申し訳ございません!」
そう言った後、ビシッと45度腰を折り曲げた綺麗な最敬礼を将也はした。だが純はまだ納得いっていないようだった。
「俺の教科書とか参考書とか専門書とか知らないか?」
「待ってそれは本当に俺じゃない!?」
本当に心当たりのないことを言われて将也は狼狽える。
「嘘をつくなよ、それだけやってるんだ。不法侵入やら盗撮もやってんだろう」
「待って?!違う!不法侵入はやってないし盗撮と言えば……確かに盗撮はやってるけどそれは誤解だ!女の子は撮ってないから!やめて一ノ瀬、そんな目で俺を見ないで!」
みんなが蔑むような目線を将也に向けている。墓穴を掘った将也は手をわちゃわちゃ動かして必死だ。
「お前やっぱりホモじゃん」
「違うって!みんなの練習風景をこそっと撮ってただけだって」
「先輩、幻滅しました」
意外と後輩から言われたその一言が胸に刺さったのか将也が沈黙する。
「女子を撮らない、どうやらただのホモのようだ」
「もし女子撮ってたらそれはそれで問題だろうが」
「もちろんホモから犯罪者にランクダウンよ」
「でも前に将也と一緒にAV見たよな?将也って趣味いいよな」
「そういやそうか、じゃあバイか」
「あれ?お前AV観賞会来てなかっただろ?」
「それはお前の方だろ」
チームメイト達はもちろん分かってからかっているのだが結構マジで将也は弁明しようとしている。将也へと近づいた純が口を開いた。
「その……別に俺は同性愛者を否定しない。戦国時代の武将もそうだったわけだしな、ありのままのお前で大丈夫だ。言いづらいことをよく言ってくれたな……ただ、今後は俺の半径2メートル以内に近づかないでもらえると助かる」
純は将也からの熱い視線を思い出して身震いした。思い出してみれば確かにあの視線にこもった熱は尋常のものではない。まるで特別なものを見るような、それこそ好きな人に向けるような……そこまで考えてしまった純は背筋に這い寄るような悪寒を感じて無意識に少しだけ将也と距離をとった。
「え?それマジで言ってる?」
「意識しないように善処はする。ピッチングに乱れが出るようなら一ノ瀬と変えることも視野には入れている」
思い出せば思い出すほど過去の思い出が疑わしいものになっていく。特に高校に入ってからはそれが加速したように思えた。純は将也との間にコーチを挟むことで心を落ち着かせることにした。
「いや、俺はドノーマルだから!頼むっ!考え直してくれよ」
結構マジで焦り始めた将也。それを周りは煽っていく。
「将也、純に振られてやんの」
「純も悪女だなぁ……一ノ瀬と二股してるなんてよぉ」
ここで将也の態度が急変した。堪忍袋の緒が切れたようだ。随分と容量の小さい堪忍袋である。
「お、お前ら……ふぅ、分かった。なら俺にも考えがあるぞ。絶対後悔するからな」
「ほぉ……?」
「なんだよ言ってみろよ?」
今の将也は怖くない。もちろん平時の将也も怖くないのだが面白がって周りは将也をさらに煽った。
そこからは悲惨なことになった。将也がみんなの性癖を暴露し始めたのだ、そのタイミングで煽りに参加していなかった鎌瀬がホームランを打って帰ってきた。それと同時にとばっちりを受けないようにと次の打者である斎藤がベンチから飛び出していった。
「あれ?この状況はどうしたの?」
鎌瀬がのんびりと将也に聞いた。
「うるせぇ!この純情イチャコラ物好きが!」
「……え?なんのことかな?」
鎌瀬は質問の意図が分からず聞き返した。悪手だった。
「知ってるからな!お前○○○○○○○とか○○○○○○好きだろ!知ってるからな!」
鎌瀬、とばっちりでノックアウト。堪らずコーチの後ろに隠れる。この後選手全員がどこか調子を崩した雪月は失点を多々許したものの8-7というスコアで試合は終了。なんとかリードを守り切ることができた。
勝ったというのに雪月の雰囲気は暗い物だった。チームメンバー全員に自身の性癖が知られるという事態はかなり深刻な物だったようだ。そして1番割を食ったのがコーチである。
時は遡り将也が暴露を始めた頃、コーチはこのままでは選手のコンディションに悪影響が出ると思ったのだろう、将也に注意をすることにした。
「お前らしっかりしろ、気持ちは分かるが……岡部、お前もなぁ度がすぎるんじゃないか?」
「コーチもコーチですよ!この熟女好きが!好みの熟女を作るための光源氏計画を20から始めるとかとんでもないな!」
「……え?なんで知ってる?」
「コーチの奥さんが自慢してたんだよぉ!聞きたくもない井戸端会議に耳を傾ける俺の気持ちにもなってくれよ!帰ったらチーズケーキがあるらしいですよ、良かったですねコーチ!」
その時コーチは純の後ろに回ろうとして鎌瀬に押し戻された。居た堪れない空気になったのは言うまでもない。スミダ達すらも黙り込み無音のままバスに揺られ皆は宿泊している宿へと戻った。とは言ってもそんな気の沈みは一時的なもの。コーチは気分は沈んでいるが美味いものを食べれば多少は気が紛れるだろうと考えていた。
実際コーチ自身も美味いものを食べて寝れば今日のような精神的ダメージは多少癒えると自信を持って言える。雪月高校の皆は宿で美味しい夕食を取り、風呂に浸かり、ふかふかの布団で眠り英気を養った。
そして第3回戦。雪月高校は不戦敗で神宮大会を敗退した。
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