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士郎×雪夜

本心

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  そんな幸せだと感じた一年記念日の翌日。士郎が機嫌良さげに、けれど珍しく仕事に行きたくないと駄々を捏ねた。いつもならキスをすれば行ってきますと嬉しそうに扉を開けて仕事に向かうのに、昨日の余韻からか士郎はなかなか足を玄関に向けなかった。

「ほら、遅れちゃいますよ」
「…今日は行きたくない」

  内心僕は少しだけ焦っていた。ここが玄関ならばそう焦ることもなかったと思う。扉を閉めればスマホの着信音が響くことがないくらい控えめな着信音にしていた。けれどここはスマホが置いてあるリビングだ。寝室に置きっぱなしにしておけばよかったと後悔していた。

「ね?遅刻したら同僚の人に怒られちゃいますよ?」

  士郎は僕を優しく抱きしめながら首筋に顔を埋めている。こんな我儘は珍しいし、可愛らしくて微笑ましいからいくらでもやって欲しいけれど、背中を小さくポンポンと叩いて士郎を励ました。

「はぁ…仕方ない。行くか」

  僕はホッとした。顔には出さなかったけれど、これでリビングからは脱出できる。士郎は抱きしめていた僕のつむじにキスをして離れ、ダイニングテーブルにあるスマホを取った。

  そして、その隣にある僕のスマホが軽快な音を立ててしまった。

  あ、と思ったときには時すでに遅し。士郎はばっちり僕のスマホ画面に表示された三橋玲香という名前を見てしまったのか、目を見開いて体の動きを止めていた。

「…どうして俺の母から着信が来てるんだ」

  士郎は表情を変えずにただ疑問を投げかけた。相変わらずスマホは軽快な着信音を立てているし、士郎は僕のスマホから目をそらさなかった。どう返答したら分からず悩んでいると、士郎は僕のスマホを手に取り、指をスライドさせた。そのまま、一言も発することなく耳に当ててしまった。僕はどうしたらいいか分からず、立ち尽くしていた。

『雪夜さん?どうしたの?出るのが遅かったわ。まさか寝坊したの?士郎さんも寝坊させたんじゃないかしら?ダメじゃない。ちゃんと朝は食べさせてくれた?まったく。やっぱり男の人は気が利かないわ。分かってる?あなたは家政婦なの。ちゃんと士郎さんの世話をしてあげなくちゃダメよ。これじゃあなたに任せておけないわ。すぐ士郎さんにお見合いの準備をしなくちゃ』
「母さん。俺の恋人に何をしているんだ」
『えっ!?し、士郎さん?!ど、どどういうこと?雪夜さん?!』
「雪夜をどうやって知ったんだ。まさか…このマンションまで来たんだな。来ないという約束で住所を知らせたのに。今日の夜、そちらに行く。父さんも同席した上で話し合う」
『し、士郎さん、お母さんの話を聞いてちょうだ』
「人の約束を破るような貴方の話を今は聞くつもりはない」

   冷たく言い放った士郎は通話を切った。スマホを握りしめたまま、士郎は僕の方をようやく見た。

「どうして母が接触してきたことを言わなかった」
「あ…そ、それは」
「なぜ。いつからだ。全部言うんだ」

  仕事に遅刻するとか、そんなことどうでもいいじゃないか、なんて話題を逸らしたり、誤魔化せる雰囲気では一切なかった。士郎の顔の表情には感情が全く乗っていない。ストーカーの件で怒られた時の方がよほど優しかったと思えるほどだった。

「…このマンションに引っ越して、一か月くらい、です。最初は、優しかったんです。友人だと思われていて…仲良くしてあげてね、って…け、けどあまりにも頻繁に会うから、友達がこんなに会いに来るのかしらって言われて、それで…」

  僕が観念するように白状すると、スマホを強く握りしめて白くなっている士郎の手が震えていることに気づいた。怒りだ。士郎の静かな怒りが、内にある苛立ちが見て取れた。

「恋人だと言ったんだな」
「…はい」
「君の正直で素直な所は美点で可愛らしいが、今は短所でもあるな。この件に関して雪夜は絶対に関わらせない。母には絶対に今後接触させない。もし雪夜が自分から母に会いに行こうとしたら、俺は君をここに監禁する。分かったな」

  冷たい視線で言われ、びくりと体が震えた。士郎の本気が伝わってくる。どうしようもなく不安になるほど、士郎の表情が怖かった。


  士郎はそのまま仕事に向かい、僕もしばらく呆然としていたがとぼとぼと仕事に向かった。マスターは今日は何も聞かないでくれた。心ここに在らずの僕のフォローもしてもらって、マスターには足を向けて寝れないなと思った。



  家で待っている間、どうにも落ち着かなくてソファに座ったり、立ちあがってウロウロと歩いたり、食器を磨いたりとソワソワし続けた。
  士郎は日付が変わる前に帰ってきた。玄関が開く音が聞こえるように廊下の扉を全て解放していた。直ぐに玄関に向かうと士郎はオートロックがかかったことを確認して振り返ってくれた。

「っ、おかえりなさい……!」
「ただいま。雪夜」

  朝とは違いほんの少し穏やかな声にホッとする。士郎の表情も穏やかなものだった。それを見たら泣きそうになる。もしかしたら士郎が二度とここに帰ってこないかもしれないと思うと怖くてたまらなかった。
  けど士郎はちゃんと僕の所に帰ってきてくれた。

  ひとしきり抱きしめあって、落ち着いた頃にリビングへ一緒に向かった。テーブルに二人分の食器が伏せて置いてあったことに気づいた士郎が尋ねてくる。

「雪夜、食べてないのか」
「う、うん。あんまり食欲がなくて」
「じゃあ先に話した方がいいな」

  そう言うと士郎はソファに向かい、隣をぽんぽんと叩いて座るように促された。おずおずと座ると、士郎はため息をついた後話し始めた。

「俺の両親と話し合って、今後一切俺の恋愛関係に口出ししない約束をしてきた」
「うん…」
「母が渋って難航したが、父が諌めてようやく納得した。けど母はそれでも諦めてないようだったから、今後も接触しようとしてくるかもしれない。全部無視していいし、警察を呼んでもいい事にしてある」
「け、警察……?!」

  実の母の仕出かしたこととは言え、国家権力まで持ち出して来るとは思わなくて驚く。士郎を見るとその目は本気だった。

「雪夜。俺に言ってない事があるだろう」
「え?」
「母から聞いた」

『雪夜さんはご自分の立場をよく分かっておいででした!家政婦であることも自覚していました! ……士郎さんが、その内別れたいと言ってくるはずだと!』玲香さんはいつか言った僕の言葉を伝えてしまっていたようだった。

「母を抑える為の嘘にしては随分な言葉だ。雪夜、まさか本心だったとは言わないよな」
「あ……ぅ…」

  顔を青ざめて俯いてしまった。うそうそ、嘘に決まってますよ、と言えば良かったのに。どうにも嘘がつけなかった。

「『男同士だからどうせ続かない』?『士郎さんがフラれた時に居たのがたまたま自分だったから士郎さんは勘違いしてるだけ』?」
「……ぁ」
「これが君の本心なら、君に入れ込んでいた俺は相当滑稽だな」
「ご、ごめんなさ」
「ああ。謝らなくていい。もう決めたんだ」

  するとさっきまで暗く低い声だったはずの士郎さんが、玄関で迎えた穏やかな表情をしていることに気づく。怒っている話ぶりなのに、声色も表情も全く怒ってない。

「余程俺から離れたいようだから、君を四方から雁字搦めにすることにした」

  それは、士郎さんの初めて見る良い笑顔だった。





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