【完結】君と笑顔と恋心

七咲陸

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  目が覚めたら、ベッドの上だった。アリスティドはガバッと勢いよく起き上がった。
  ベッドなのはどうしてなのか、不思議に思って仕方なかった。彼が調理室で酒をかっくらっているのも、泣いていたのも、毛布をかけて一緒に眠ったことは全て夢だったのか。

「あ…」

  しかし、カーディガンを羽織ったままだった。水を飲みたくて起き上がった時に羽織ったカーディガンだ。
  それになんとなく毛布から酒臭さがほんの少し鼻腔をくすぐった。ヴィクトールが先に起きてしまったのだと悟った。

「…後でなんて言われるのかな」

  今日は前妻の命日。ヴィクトールと顔を合わせる数少ない日だ。

  ヴィクトールと顔を合わせるのは、子供たちの誕生日と前妻の命日、どうしても参加しなければいけないパーティーの日だけである。ちなみにパーティーも誕生日も半年経つがまだ来ていないので、実質今日が結婚して初めての顔合わせと言っても過言ではない。
  いや、昨日バッチリ顔を合わせたわけだが。

  考えていても仕方がないので、ため息をついてからベッドを降りた。メイドたちが着替えを手伝ってくれることがあるが、基本的にアリスティドは遠慮させてもらっている。メイドたちは寂しそうにこちらを見てくるが、そこは心を鬼にして遠慮する。同性ならばまだここまで遠慮しなかったかもしれない。要するに気恥ずかしいのだ。

  とりあえず、朝食のために着替えていると、ノックの音が部屋に響いた。ちょうど着替え終わったところだったので返事をして入室を促した。
  扉が遠慮がちに開かれると、そこにいたのはヴィクトールだった。腫れていた目はすっかり引いている。

「…おはよう。昨日…いや、もう今日か。悪かった…」

「え、あ、はぁ。いや…僕も運べなくて申し訳なかったと…いや、運んでもらって申し訳ないです…」

  お互い謝り合う。シン…と静寂に部屋が包まれた。
  この雰囲気をどうしたら良いのか分からなくて戸惑っていると、ヴィクトールが一歩、アリスティドに近づいた。
  夜にヴィクトールが泣いていた位置だ。そのまま俯けば、アリスティドの肩に頭が乗る位置。
  ヴィクトールは普通ではなかったし、アリスティドも泣く子をそのままに出来ずどうかしていたのだ。

  今更、こんな近くに好きな男がいて普通で居られるはずもない、と思ったのだ。

「あ、あの…っ、え。近」

  婚姻関係を結ぶ時だってこんなに近くに立ったことはなかった。アリスティドはびっくりして後退りする。しかし、アリスティドが下がった分だけ、ヴィクトールは近づいてくる。
  顔はもう上げられない。どうなっているのか自分でもよくわかっている。絶対に熟れたリンゴより真っ赤だ。それも耳まで。耳を隠せている髪型で助かったと変なことまでぐるぐると考えてしまう。

  もうどうしていいのか、アリスティドには分からなかった。

「ち、近くないですか? …っ」

  ヴィクトールがアリスティドの右手を優しく持ち上げる。指先に触れる手が心地よくて、引っ込めることなんて出来なかった。
  すると、ヴィクトールはその右手の指先に、恭しく、ちゅ、と音を立ててキスをした。

「な、な、んな…!」

  変な声が出てしまった。半年。半年間何もなかったのだ。婚姻関係を結んだ日はもしかしたら夜に来るかもしれないと思って無駄にドキドキしたこともあった。しかしそんなことは儚い夢だったと一日で諦めた。
  多分白い結婚になるのだろうな、なんてずっと思ってた。だって、抱きしめられたこともなければキスもない。あるのは書類上の夫夫という関係のみ。

  なのに。一体全体どうして変わってしまったのか。

「いきなり口にキスをするのは、どうかと思った」

  それは確かにどうかと思う。昨日今日で近すぎる空気に圧倒されているのに、キスなんかされたらこれから墓参りに行くのに卒倒する自信がある。

「だから、今日は指先で我慢する。…また、食事で」

  指先を離され、後ろ髪引かれたような視線を送られ、彼は部屋から出て行った。昨日の憔悴して弱々しい彼は一体どこに行ってしまったのだ。
  アリスティドはヘナヘナと腰を抜かしてしゃがみ込んだ。

「ひぇ…」

  変な声しか出ない。今日は墓参りだ。前妻に会う男のすることじゃない。ちょっとおかしい。

  なのにアリスティドの体は、全身から、芯から、脳から、ただただ歓喜に包まれていた。
  だってずっと焦がれていた。まだちゃんと意識してなかったけれど、前妻がいた時から。前妻が亡くなって意識するようになってからは、もっと。

「な、なんでぇ…?」

  最早情けない声しか出ない。アリスティドは、食事に来ないことを不審に思ったメイドがやって来るまで、ぐるぐると混乱し続け、立ち上がることが出来なかった。

  食事は味がしなかった。婚姻した日も味がしなかったが、今日はさらに砂を噛んでいるようだった。シェフに申し訳ない。しかし今日だけは許してほしい。
  だって彼が食事中もずっと見てくるのだ。微笑んでさえいる。アリスティドは俯いて食事するほか無かった。

  子供たちは皆不審がった。ヴィクリスは苦笑したような視線を。トラヴィンは不思議がっている視線を。ビクトリアは父親に対し睨みつけるような視線をしていた。ヴィクトールはそれに気づいているのか、いないのか、ずっと微笑んでアリスティドを見つめてくる。

  何とも言えない朝食が終わると、ビクトリアと手を繋ぎながら墓参りに向かった。領地ではなく、邸宅の裏にある小高い丘にあるようだった。ヴィクトールと子供たちがいつでも会えるように、そして何より、前妻が寂しくならないようにすぐ近くにしたようだった。
  前妻の実家という案もあったようだが、ヴィクトールが頑なに拒否をした。寂しい思いは絶対にさせない、と約束をして。

  綺麗なお墓を少し磨いて、花を添えて、祈りを捧げた。
  ヴィクトールが愛した女性に、嫉妬という感情は湧かなかった。亡くなっているからなのか。それはよく分からなかったが、ヴィクトールという人を語る上で前妻はなくてはならない人物だ。とてつもない愛妻家だったと聞いている。彼の一部のような人物に嫉妬などできるはずもなかった。

  そして墓参りが無事に終わり、その帰り道、我慢出来なくなったと言わんばかりにトラヴィンが発言をした。

「…なあ!なんでそんなにアリスはギクシャクしてんだよ!んで親父はなんで墓参り中以外はニコニコしてんだよ!気味悪ぃよ!」

  あえて長男のヴィクリスも、長女で末のビクトリアも触れないようにしてきたことを、この次男はいとも簡単に荒々しく掴み取るように話題に出してきた。

  アリスティドはなんて返していいのか分からなかった。理由を言うのはとても難しい。アリスティドですら半信半疑なのだ。
  ビクトリアがキッと睨みを効かせると、トラヴィンはビクリと肩を震わせた。

「馬鹿トラ!みんなわざと言わないようにしてるのがわかんないの!?」

  十歳に気を遣われていた事実は分かっていても、くるモノがある。有体にいえば、辛い。

「な、なんだよ!だっておかしいだろ!?兄貴もそう思うよな!?」

  振られたヴィクリスはとてもとても、とっても、困ったように「あ、はは…」と苦笑している。
  ちなみに家族だけで来ているわけではない。メイドも護衛も一緒に来ている。彼らも含めて言わないようにしてくれているとビクトリアは言ったのだ。メイドも護衛も自ら聞けるはずがない。メイドたちはアリスティドに聞きたそうにウズウズしているのが伝わってくるが。

「父様は今更、本当に今更アリスの良さを知っただけ!アリスが優しくて穏やかで出来た人間だったことをね!私たちがたった一週間で分かったことを、父様は半年間知らなかっただけ!忙しさにかまけてアリスのことを知ろうともしてなかったのを!つい昨日だか今日だか、なんでだかは知らないけど、分かっただけなのよ!」

  ヴィクトールは声も出さずその場にしゃがみ込んで落ち込んでいた。十歳にここまで責められようとは思っても無かったようだ。

「どういう意味だよ!親父が馬鹿って言いたいのか?!」

「そうよ!大馬鹿なのよ!まだ空気の読めない馬鹿トラの方がマシなレベルよ!」

  ヴィクリスも使用人一同も、どうヴィクトールを庇えばいいのか分からない。アリスティドもどうしていいのか分からなかった。
  ビクトリアはそれでも父親に追撃をした。

「馬鹿トラにもちゃんと分かるよーに言ってあげるわ!良い?!父様は蠅のように寄ってくる貴族の女たちが鬱陶しくて仕方なかったの!女だと後継問題が面倒臭いから男にしようって適当に考えて、伯爵家で家柄も問題ないし、男で後継問題にも引っかからないアリスを後妻に選んだのよ!」

「お、おう…」

  若干引き気味にトラヴィンが返事をする。ビクトリアの勢いは止まらなかった。

「そしたらアリスに、プライベートも仕事も口を出すな、子供には仲睦まじく演技しろ、果ては自分は相手をしないくせに浮気やギャンブルはするななんて言い出すクソ父様だったの!それをアリスは忠実に守ってるもっと馬鹿なの!」

  今度はアリスティドが落ち込む番だった。可愛い可愛い実の娘に思っていたビクトリアにまさかそんなふうに思われていたなんて。

「け、契約のこと、僕話してないよね…?」

  何とか気力を振り絞って尋ねると、ビクトリアはフン、と鼻息を鳴らして両手を胸の前で組んで大袈裟に言う。

「父様の書斎に入って契約書を見たからに決まってるじゃない!」

  ザル警備だった。

  つまり、アリスティドは来て一週間で十歳の娘に全てを悟られ、憐れまれ、馬鹿だと思われていたのだ。この三ヶ月、いや、半年の事をずっと気を遣われていたのだ。十歳に。
  辛すぎて涙すら出てきそうだった。ヴィクリスに肩を叩かれ慰められる。やっぱり辛い。

「アリス!良い!?ちゃんと今日は話し合いなさい!契約のことも全部!」

「ひぇ…」

「アリス!?」

「ひゃいっ」

  十歳に叱られる二十歳の図はとても痛々しいものがあるに違いない。道の真ん中で思わず正座をしてしまった。周りの視線は生暖かいし、ようやく理解したトラヴィンですら憐れむ瞳を向けてくる。

「父様も!ちゃんとアリスに優しくしなきゃダメよ!分かった!?」

「はい…」

  家に帰って、ヴィクトールの書斎に行くことになった。アリスティドとしてはもう少し落ち着いてから話し合いたいと思っていたにも関わらず、ビクトリアに押しに押されて負けた。押し込まれた書斎で、ソファに座るようにう流されたので、アリスティドは所在なさげにソファに座るしか無かった。

  それでも静寂は流れる。どうして良いのか二人とも分からないのだ。
  子供たちには全て悟られてしまっていたし、居た堪れない。静寂を破ったのは、ヴィクトールだった。

「…条件は無かったことにしよう」

  俯いていた顔をハッと上げた。アリスティドが一番恐れていたことだった。
  好きな人の近くに居られればそれでいいと本気で思っていたのだ。それこそ白い結婚だとしても全く構わなかった。
  契約が無かったことになれば、それすなわち、離婚である。

「…そ、うですか…」

  しかし、アリスティドに縋る勇気などない。どうしようもできない。彼が始めた契約で、彼が終わらせるものだ。アリスティドに決定権などありはしない。
  また俯いて、キュッと膝に置いた手を握り締めた。ズボンの皺ができようが構っていられなかった。

「それで、新たな条件を結んでほしい」

  彼の言葉がよく分からなくて、もう一度ゆっくり顔を上げた。
  なんと言ったのだろうか。よく分からない。けれど彼に悲壮感はなく、まるで凱旋パレードの時のキラキラを纏っている。アリスティドの中の彼の一番古い記憶だ。

「新しい…条件?」

「そうだ。…そうだな、まず…」

  彼は一瞬だけ考え込む仕草をして、やっぱりキラキラとした微笑みで、アリスティドを見た。

「君のことを教えてほしい。なんでも構わない。なんの食べ物が好きとか、何をするのが好きなのか…とにかく、なんでも良いから…話をしよう」

  まずはそこから始めよう。

  差し出された手を見て、彼が何故だかギョッとしている。不思議に思っていると、どんどんヴィクトールの顔がぼやけていく。
  ちゃんと見ていたいのに。やっと半年前に見た彼を間近で見れるのに。全然見えない。

  ポタポタと、顎を伝って落ちていく水滴が、握り拳の上に乗ってようやく泣いていることを理解した。

  やっとヴィクトールが、アリスティドを見てくれたのだ。
  彼の近くにいればそれでいい、他の何を望むわけでもないと思っていた。別になんら辛い思いをしたわけでもない。この半年、三人の子供に囲まれて、メイドに囲まれて、楽しかった。
  けれどやっぱり寂しかった。こんなに近いはずの彼は、半年間姿すら見かけなかったのだ。
  それこそ、調理室で見かけた酔っ払いが一瞬誰だか分からない程度に見なかった。

  きっと彼は困っている。わたわたと焦っている気配を感じる。けれどアリスティドは涙を止められなかった。

  どんどんと溢れて、零れる。そのうち、ふわり、と馴染みのない香りがアリスティドを囲んできた。暖かい体温と共に触れた先から優しい力強さを感じるほどに抱きしめられていた。

  アリスティドは、ようやく夫夫として認めてもらえたと、感じられたのだった。
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