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その日の夜のこと。この邸宅に来てから久しぶりの独り寝に何だか落ち着かず、何度も何度も寝返りを打っていた。
ビクトリアやトラヴィンがいれば、寂しく無くなるほど喋り続けていつの間にか寝落ちしてしまうのに、今日はそれがない。もう夜もとっぷりと更けて、暖かい飲み物を頼むのも忍びない。
仕方なしにアリスティドはベッドから起き上がって、近くの椅子にかけてあったカーディガンを羽織った。ほんの少しの肌寒さに思わずブル…と身を震わせた。水でも飲みに行こうと調理場へ向かうことにした。
いつもは陽が登った後にしか通らない廊下は、静かすぎて不気味だった。実家よりも長い廊下であり豪奢な飾りがされていることが一層不気味さを引き立たせた。
早く水を飲んで自室に戻ろうと決めたアリスティドは、小さな蝋燭を乗せた燭台をギュッと持ちながら調理場への道を早足に向かった。
調理場へ着くと、明かりが漏れている。こんな夜更けに一体誰がいるのか。下働きの子が調理を学んでいるのか、それとも新しいレシピでも考えようと料理人が頑張りすぎているのか。料理長がたまたま仕事をしていて遅くなったのか。
兎にも角にもアリスティドは人の気配にホッとする。この侯爵家は厳戒態勢が常に引かれており、ネズミ一匹だって盗みに入っては来れない。安心して過ごせると言うものだ。なのに夜は暗くて怖いというのだから人間の心理というのはよく分からない。
しかしその安心は脆くも崩れ去る。
明らかに料理人ではない姿が調理場でワインを飲んでいた。顔は上手く見えなかったが、アリスティドは一応使用人を全て覚えたつもりだった。なのに、見かけた覚えがない。
使用人ではない?では一体誰が。ドアをゆっくりと開けて、小さな隙間から調理場を覗く。
「え…」
それはアリスティドがよく知る、この家の主人であるヴィクトールであった。
驚いて微かに漏れ出た言葉がヴィクトールの耳に入ってしまったようで、ピク、と肩が揺れた。
マズい、と思った時には遅かった。ヴィクトールはすぐさま立ち上がり、アリスティドがいる入り口の扉までやってきてしまった。足取りは少しフラついているが真っ直ぐこちらに向かってくる。
焦って燭台を落としてしまった。いつの間にか火は消えていたので燃えることはなかったが、落ちた金属音は確実に人がいることを証明してしまった。
「誰だ」
怒っている様子はない。しかし、詰問はしようという意思は伝わる声の低さだった。
アリスティドは観念して、扉を自ら開いた。俯いているのでヴィクトールの顔は見れないが、見なくても分かる。
プライベートは干渉しない、という契約を破ってしまった。明らかにこれはプライベートだ。
「すみません。水を飲みたくて来ただけなのですが」
一応言い訳はしようと口にした。こんなことならコソコソせず、堂々と入って水を貰えば良かったとアリスティドは後悔した。
「…そうか」
ヴィクトールはそんなアリスティドを攻めることなく、ただ返事をしただけだった。ホッとしたのと同時に、ヴィクトールが立ちはだかっているので水を飲みに行くことができない。
不思議に思って見上げる。
そこには明らかに許容量を超えていそうな酔っ払い、とにかく、顔が真っ赤になったヴィクトールの姿があった。ヒック、としゃくり上げてもいる。目の焦点があっている様には見えない。飲み過ぎている。
水が必要なのはアリスティドよりもヴィクトールの方であった。
「あ、あの。大丈夫ですか?少し水を飲んだ方がよろしいのでは?」
「…水?そんなの飲んでどうする」
「少し酔いを覚ました方が…」
そうアリスティドはおずおずと言うと、ヴィクトールは酔ってない!と常にないほど調理室が震えるほど大きな声で叫んだ。びっくりして肩が震えるどころか一歩も動けないし、息をするのも忘れてしまった。
「…今日飲まないで、いつ飲むのだ…!」
かと思えば、彼は震えるような声でか細く、苦しそうな叫び声を上げていた。
そうだ、明日は。いや、もう今日になっている。
「奥方の、命日…」
アリスティドも子供たちと一緒に墓へ命日を悼む予定だった。
いつもビシッとしているヴィクトールが、こんなにも情けないほどに酔っ払ってしまいたくなるほどに好きだった前妻を想って、泣いていた。
ポロポロと涙を流している。
国を背負う騎士団長が、領地を背負う侯爵家当主が、立派な三児の父が。好きな人を亡くした、ただの男なのだとようやっとアリスティドは理解した。
見る人が見れば、一体何をしているのかと思うだろう。けれど、アリスティドにはこれしかできなかった。
調理室の入り口で、泣いている男を抱きしめた。男も誰かに縋りたかったのかもしれない。アリスティドの背中に手を回した。
それ以上、何を言うでもなく背中を摩り続けた。
水を飲みたかったことなど、とうに忘れ去っていた。
いや、今思えば喉が渇いて良かった。アリスティドという契約上の妻役だとしても、恋焦がれ続けた好きな男が一人苦しんでいるのは心苦しい。
息子の前でも、娘の前でも気を張っているのだろう。けれど命日だけは無理だったのかもしれない。
悲しみを忘れたくて飲んでいるのか。それとも、悲しみたいから飲んでいるのか。アリスティドには分からない。
「…っ、う…」
少しだけ漏れ出る低い、唸るような、我慢しているような声に切なさを感じる。
アリスティドは、結婚して半年、初めて彼の素顔を感じることができた。こんなにも彼が泣いていて、心苦しいのに、不謹慎にも嬉しく感じてしまった。
アリスティドは何も言わなかった。何を言ってもヴィクトールには慰めにならない。
だからただ抱きしめて、背中を摩ることしかできなかった。
泣き疲れたのか、ずるずると重みが肩にのしかかって来る。アリスティドは重さに耐えきれず、そのまま床に寝かせた。体格差のあるヴィクトールを部屋まで運ぶなんて無謀なことは出来やしない。
自分の部屋に急いで戻って毛布を持って来た。あんなに暗くて怖いと思っていた廊下のことなどすっぱり忘れ去っていた。
戻ってきてもヴィクトールは目を真っ赤に腫らして寝ていた。
アリスティドは優しく毛布をかけて、自分も毛布の中に包まることにした。朝彼が起きる前に起きれば大丈夫。毛布だけじゃきっと寒くて風邪をひいてしまう。だから人肌があればきっとよく眠れる。そう、言い訳をしながら。
酒臭い吐息と、心地よい体温を感じる。
独り寝は寂しかったから、ちょうど良かった。
ビクトリアやトラヴィンがいれば、寂しく無くなるほど喋り続けていつの間にか寝落ちしてしまうのに、今日はそれがない。もう夜もとっぷりと更けて、暖かい飲み物を頼むのも忍びない。
仕方なしにアリスティドはベッドから起き上がって、近くの椅子にかけてあったカーディガンを羽織った。ほんの少しの肌寒さに思わずブル…と身を震わせた。水でも飲みに行こうと調理場へ向かうことにした。
いつもは陽が登った後にしか通らない廊下は、静かすぎて不気味だった。実家よりも長い廊下であり豪奢な飾りがされていることが一層不気味さを引き立たせた。
早く水を飲んで自室に戻ろうと決めたアリスティドは、小さな蝋燭を乗せた燭台をギュッと持ちながら調理場への道を早足に向かった。
調理場へ着くと、明かりが漏れている。こんな夜更けに一体誰がいるのか。下働きの子が調理を学んでいるのか、それとも新しいレシピでも考えようと料理人が頑張りすぎているのか。料理長がたまたま仕事をしていて遅くなったのか。
兎にも角にもアリスティドは人の気配にホッとする。この侯爵家は厳戒態勢が常に引かれており、ネズミ一匹だって盗みに入っては来れない。安心して過ごせると言うものだ。なのに夜は暗くて怖いというのだから人間の心理というのはよく分からない。
しかしその安心は脆くも崩れ去る。
明らかに料理人ではない姿が調理場でワインを飲んでいた。顔は上手く見えなかったが、アリスティドは一応使用人を全て覚えたつもりだった。なのに、見かけた覚えがない。
使用人ではない?では一体誰が。ドアをゆっくりと開けて、小さな隙間から調理場を覗く。
「え…」
それはアリスティドがよく知る、この家の主人であるヴィクトールであった。
驚いて微かに漏れ出た言葉がヴィクトールの耳に入ってしまったようで、ピク、と肩が揺れた。
マズい、と思った時には遅かった。ヴィクトールはすぐさま立ち上がり、アリスティドがいる入り口の扉までやってきてしまった。足取りは少しフラついているが真っ直ぐこちらに向かってくる。
焦って燭台を落としてしまった。いつの間にか火は消えていたので燃えることはなかったが、落ちた金属音は確実に人がいることを証明してしまった。
「誰だ」
怒っている様子はない。しかし、詰問はしようという意思は伝わる声の低さだった。
アリスティドは観念して、扉を自ら開いた。俯いているのでヴィクトールの顔は見れないが、見なくても分かる。
プライベートは干渉しない、という契約を破ってしまった。明らかにこれはプライベートだ。
「すみません。水を飲みたくて来ただけなのですが」
一応言い訳はしようと口にした。こんなことならコソコソせず、堂々と入って水を貰えば良かったとアリスティドは後悔した。
「…そうか」
ヴィクトールはそんなアリスティドを攻めることなく、ただ返事をしただけだった。ホッとしたのと同時に、ヴィクトールが立ちはだかっているので水を飲みに行くことができない。
不思議に思って見上げる。
そこには明らかに許容量を超えていそうな酔っ払い、とにかく、顔が真っ赤になったヴィクトールの姿があった。ヒック、としゃくり上げてもいる。目の焦点があっている様には見えない。飲み過ぎている。
水が必要なのはアリスティドよりもヴィクトールの方であった。
「あ、あの。大丈夫ですか?少し水を飲んだ方がよろしいのでは?」
「…水?そんなの飲んでどうする」
「少し酔いを覚ました方が…」
そうアリスティドはおずおずと言うと、ヴィクトールは酔ってない!と常にないほど調理室が震えるほど大きな声で叫んだ。びっくりして肩が震えるどころか一歩も動けないし、息をするのも忘れてしまった。
「…今日飲まないで、いつ飲むのだ…!」
かと思えば、彼は震えるような声でか細く、苦しそうな叫び声を上げていた。
そうだ、明日は。いや、もう今日になっている。
「奥方の、命日…」
アリスティドも子供たちと一緒に墓へ命日を悼む予定だった。
いつもビシッとしているヴィクトールが、こんなにも情けないほどに酔っ払ってしまいたくなるほどに好きだった前妻を想って、泣いていた。
ポロポロと涙を流している。
国を背負う騎士団長が、領地を背負う侯爵家当主が、立派な三児の父が。好きな人を亡くした、ただの男なのだとようやっとアリスティドは理解した。
見る人が見れば、一体何をしているのかと思うだろう。けれど、アリスティドにはこれしかできなかった。
調理室の入り口で、泣いている男を抱きしめた。男も誰かに縋りたかったのかもしれない。アリスティドの背中に手を回した。
それ以上、何を言うでもなく背中を摩り続けた。
水を飲みたかったことなど、とうに忘れ去っていた。
いや、今思えば喉が渇いて良かった。アリスティドという契約上の妻役だとしても、恋焦がれ続けた好きな男が一人苦しんでいるのは心苦しい。
息子の前でも、娘の前でも気を張っているのだろう。けれど命日だけは無理だったのかもしれない。
悲しみを忘れたくて飲んでいるのか。それとも、悲しみたいから飲んでいるのか。アリスティドには分からない。
「…っ、う…」
少しだけ漏れ出る低い、唸るような、我慢しているような声に切なさを感じる。
アリスティドは、結婚して半年、初めて彼の素顔を感じることができた。こんなにも彼が泣いていて、心苦しいのに、不謹慎にも嬉しく感じてしまった。
アリスティドは何も言わなかった。何を言ってもヴィクトールには慰めにならない。
だからただ抱きしめて、背中を摩ることしかできなかった。
泣き疲れたのか、ずるずると重みが肩にのしかかって来る。アリスティドは重さに耐えきれず、そのまま床に寝かせた。体格差のあるヴィクトールを部屋まで運ぶなんて無謀なことは出来やしない。
自分の部屋に急いで戻って毛布を持って来た。あんなに暗くて怖いと思っていた廊下のことなどすっぱり忘れ去っていた。
戻ってきてもヴィクトールは目を真っ赤に腫らして寝ていた。
アリスティドは優しく毛布をかけて、自分も毛布の中に包まることにした。朝彼が起きる前に起きれば大丈夫。毛布だけじゃきっと寒くて風邪をひいてしまう。だから人肌があればきっとよく眠れる。そう、言い訳をしながら。
酒臭い吐息と、心地よい体温を感じる。
独り寝は寂しかったから、ちょうど良かった。
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