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第二章 うつつの刺客ゆめの仇
第14話『鬼退治(上)』
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幽玄の世界に、過去と現在の喘月が抜き放たれた。
時間のみならず、場所に留まらず、昼と夜も綯い交ぜになった空間に、鬼気と瘴気があふれ出る。
「うわぁあ……」
悲鳴にならぬ悲鳴を上げ、御嶽兵衛が腰を抜かしてへたり込む。
「喘月、あの刀、なんだ、あの刀は。正気ではない。なんであんなものを抜いて平気でいられるんだ。なあ、御前、教えてくれ。あの刀はなんだ。いや、あの男は何者なんだッ。――」
叫び声は、落葉御前にも藤斬丸にも届いている。
が、両名とも、この光景に息を呑んでいる。
「よもや、よもや。反魂香による死者の呼び出しが、ここまでの幽鬼を生むとは」
冷や汗が、流れる。
人の形をした本間入道から全員に叩きつけられる鬼気たるや、本気を出し正体を顕した女郎蜘蛛・落葉御前の鬼気を上回っている。あれは、人ではない。人鬼である。
藤斬丸が見るは、宗章の喘月である。
刃長、二尺四寸五分。
沸が妖しく暗闇を照り返している。人が耐えられる妖気ではなかった。鬼の藤の目には、刀身から侵略してくるどす赤い粘液めいた呪いが宗章の肉体を覆い始めているのを確と観た。
その切っ先が、ツイと立てられる。
左拳が右頬の横に。自然八相の構えである。
宗章は鼻から呼吸し、口より深く深く吐き出している。そして、喘月から絡みつく呪いの瘴気も、呼吸とともにたっぷりと腹の底に溜め、しかし……じっくりと吐き出している。
(なんだ、あのニンゲンは)苦悶、御嶽の呻き。
目の前で起きている男の泰然自若差に、泡を噴きそうになった。あんなに濃厚な呪いを腹に落とし、眉ひとつ動かさぬ。あの呪いに反抗するは地獄の痛苦であろうに、息をするが如く呪いを呼吸している。
たまらず、御嶽は嘔吐。余波のみで数百年を生きた妖怪がはやくも肉と心を蝕まれている。刀身を直に見てはまずいと、頭を抱えて地に額を擦りつけ目を閉じて念仏を唱える。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
「どぉれえ……どおれ」
鬼入道が目が、黄から黄金に変わりゆく。
変生が成ったのだろう。
右片手下段に、じわりじわりと宗章へと間合いを詰めて行く。
「いまはいつじゃ。まあよい、黄泉平坂より呼ばれしは僥倖。ふふふ、喘月が言うておる、貴様を斬れば鬼の生を得ると。貴様の喘月は儂がもらう。寄越せ、どぉれ、寄越せ。――」
「あいにくと、討たれてやることはできぬ。せいぜい頑張ってくれ。それにな、こちらもお主をこの世に解き放つことはできぬ。けっしてできぬ。いまこうして、のうのうと言葉らしきものを発していることすら許せぬ」
宗章の鼻孔から、一筋の血液が流れる。
浅手を負ったか。
否――呪いを呼吸した影響か。
否――闘志が血潮を沸き立たせているためか。
三度否――ひとえに童子と父親の魂を陵辱した悪鬼への義憤である。哀しみと怒りが綯い交ぜとなった感情を腹に溜める圧が鮮血となって噴き出したのだ。
「貴様もはや、人に非ず。外道よりも外れ、人の気を逸脱せし魔性と成り果ておった。正しき引導を渡してくれよう。――」
「吠えてくれるわ。犬の吠え声は、魔を払うというから喃。それも好し。ああ、好し。それで払われてやってもよいが、この入道頭は伊達ではない。せいぜい念仏でも唱えてくれや。どおれ、どおれ、念仏を唱えてくれや。――」
ぴぅ。
入道の片手が振るわれた。左手、無手である。にも拘わらず、宗章の背後の巨木がみしりとへし折れ、隠れていた御嶽の体が弾き飛ばされる。
「ぬわあ」ともんどり打って、さらに木の陰へと隠れる。
無事である。
無事であるが、こんどは合掌して縮こまり、なんまんだぶ、なんまんだぶ……と繰り返しては震える始末である。
「下手くそな念仏よな。臭い、獣臭い。鹿の獣か、猪の獣か。臭い息で念仏を唱えてくれるなよ、下賤の獣めが」
「生きておるか」とは、御嶽へ向けた宗章の言葉である。
返事はないが、念仏らしきモゴモゴが聞こえてくる。
無事なのだろうが、心胆は粉々だ。
「しかし、瘴気を放つだけでたいした威力よな、蛸入道」
「身のうちより力が湧き出して持て余す。どれ、貴様を殺し、その肉体を悦しませてもらうとするか喃」
「ふむ。――」
八相から、切っ先をツイと下ろす。宗章もダラリ下段である。いや、下段ですらない。単なる佇立である。
「鬼というものは……」
そして、入道に問う。
「成ったときから、人よりも強いと聞く。まことか、本間入道。膂力も、感受も、気力心胆も、人を遙かに凌駕していると。――」
「ふうむ」
入道は小首を傾げてにやりと笑う。
目の前の武士が戦意を消失しかけたのだと思ったのだ。
「そうと聞かれれば、そうであろうなという確信がある。貴様の呼吸も、動きも、すべてが手に取るように理解できる。心臓の鼓動も、血潮の駆け巡りすらもだ」
「それを聞いて安堵した」
宗章は入道を見据えたまま、背後に声を掛ける。
「よく、見ておくがよい」
そしてそれは、藤斬丸と――さらには落葉御前に向けられていたのであろう。
「一手ご指南。――」と宗章。
「……。――」表情を引き締める本間入道。
無遠慮ともいえる接近だった。
彼我の間合いが撃尺の間合いにまで接近したとき、凄まじい速度で本間喘月が宗章の頭蓋に落ちてくる。その稲妻の如き一撃は、するりと更に右手前へ出た宗章に躱されていた。
はたと、切っ先を跳ね上げようとするも、宗章の身体が己が身体にぴったりと貼り付くように接近しきっているため、踏み込み直して弾き飛ばそうとする。が、容易く重心を入れ替えられてたたらを踏む。
ああくれば、こう。
こうきたら、ああ。
人外の速度と動きが、滑らかな――しかし完全に人理の範疇の動きで悉く制されている。
薄目で見ていた御嶽兵衛のアゴが、外れてしまったかのように開かれている。
「愚弄するかっ」
魔気が鬼入道の一喝となって口中から放たれるも、頭蓋を消し飛ばす威力のそれは完全に見切られ、あっさりと躱されてしまう。
新陰流、『肋一寸の見切り』である。
相手の具えた威力を、身体より一寸の距離で躱す術である。宗章はこの術を、さらに三分の見切りにまで昇華させている。
鬼入道の身体が、ダンと地を蹴り飛び退る。
宗章の身体が、ふわりと跳び鬼に追従する。
まったく離れない。
完全なる封殺である。
「えいやあ」
腕を抱えてひと拍子一挙同で鬼入道の身体を転倒させるや、はじめて宗章は喘月の刀身を颯とばかりに閃かせる。
「ぎゃああ」
避けられなかった。
受けることすら出来なかった。
人間の動きが鬼を凌駕するとは、信じられなかった。
顔面を押さえ、よたよたと後退る鬼入道。
宗章の喘月は、入道の頭蓋を存分に両断した手応えを残している。常なら、死んでいるはずである。されど、対手は呻いて、よろめき、喘月を苦し紛れかぶんぶんと振り、見えぬ宗章を斬ろうとあがいている。
「しぶといものよ」呟く宗章。
鬼は、顔を真っ二つにして哭いていた。脳を零しかけながら、圧で飛び出た目玉を手で戻し、おのれおのれと呻いている。
「なぜじゃ、なぜ殺せぬ」呻く鬼。
「俺の台詞だ」正直な吐露の宗章。
そのとき、喘月がピインと鳴る。
ひとつではない。
ふたつの喘月が、共に鳴る。
「うう。――」
よろめく入道へ止めを刺さんと、喘月を平水平に構える宗章だが、「いけませぬ」と悲鳴を上げる落葉御前の言葉が放たれる直前、ひりつく殺気を感じて武士の体が実に二間は飛び退っていた。
膨らんだ、気がした。
いや、膨らんだ。
鬼入道の肉体が、膨張したのだ。
人の体から、実に身の丈十尺を越えるまでに、膨らんだのだ。腕は太く、足も太く、胴体はもっと太増し、僧衣は圧力と瘴気で引き裂かれ、青黒く変えた肌と金色の瞳、猛々しき一本角を生やした巨魁青鬼が姿を現していた。
「あぎゃあああ……」
こんどこそ、こんどこそ、御嶽兵衛は死を覚悟した。
ついに、肉体の出来すらも自分を凌駕する本物の鬼に出くわしたのだ。気を失いかけるも、呆然とするほかはなかった。
「これは、凄まじき」藤斬丸は呻く。
「人が鬼に変生し、さらに鬼が変生すれば。――」御前は独りごちる。
人の魂は、人の肉体に在る限りは、ひとの範疇のままで在る。
だが、肉体が死したとき、魂だけがなぜか生き残った場合、魂だけが別の生を得た場合、あり得ぬほどの力をもたらすという。
反魂香は、その性質を利用し、いっとき魂を変質させ、鬼を呼ぶ道具である。
魂の強さが、肉体の枷から解き放たれるとき。
ああ、見よ。
数世紀を生きた魔性のふたりは絶望し、藤斬丸はただただ息を呑むほかはなかった。
青鬼入道が息を吐く。「どおれ……」と深い暗闇の声である。「喘月を寄越せ、下郎」と、その顔を上げる。
青い肌、真っ赤の口中からは、無数の牙。
目は金。魔性の色である。呪詛そのものの瞳は魔術を帯び、見る者の心胆を石と化す。
ぶんと、鬼のその手が喘月を振るう。喘月か――いや、それは香取新十郎が手にしていたような、黒き剣である。靄ではない。はっきりとした、黒き魔性の剣であった。
「――反魂香は消すな、御前。消せば、すべてが水の泡だ」
「しかし」
「なあに、案ずるな」
宗章は、喘月を祈るように垂直に立てる。口元には右手、胸元には左手。拝み撃ちの構えだ。
「斃してしまえばよいだけだ」
魔性の気が満ちる中、清然たる気迫が満ちる。
巨魁へ、一歩滑り寄る。
間合いは鬼が広し、宗章は狭し。
されど――。
「俺には、柳生新陰流がある。――」
白刃が、閃いた。
時間のみならず、場所に留まらず、昼と夜も綯い交ぜになった空間に、鬼気と瘴気があふれ出る。
「うわぁあ……」
悲鳴にならぬ悲鳴を上げ、御嶽兵衛が腰を抜かしてへたり込む。
「喘月、あの刀、なんだ、あの刀は。正気ではない。なんであんなものを抜いて平気でいられるんだ。なあ、御前、教えてくれ。あの刀はなんだ。いや、あの男は何者なんだッ。――」
叫び声は、落葉御前にも藤斬丸にも届いている。
が、両名とも、この光景に息を呑んでいる。
「よもや、よもや。反魂香による死者の呼び出しが、ここまでの幽鬼を生むとは」
冷や汗が、流れる。
人の形をした本間入道から全員に叩きつけられる鬼気たるや、本気を出し正体を顕した女郎蜘蛛・落葉御前の鬼気を上回っている。あれは、人ではない。人鬼である。
藤斬丸が見るは、宗章の喘月である。
刃長、二尺四寸五分。
沸が妖しく暗闇を照り返している。人が耐えられる妖気ではなかった。鬼の藤の目には、刀身から侵略してくるどす赤い粘液めいた呪いが宗章の肉体を覆い始めているのを確と観た。
その切っ先が、ツイと立てられる。
左拳が右頬の横に。自然八相の構えである。
宗章は鼻から呼吸し、口より深く深く吐き出している。そして、喘月から絡みつく呪いの瘴気も、呼吸とともにたっぷりと腹の底に溜め、しかし……じっくりと吐き出している。
(なんだ、あのニンゲンは)苦悶、御嶽の呻き。
目の前で起きている男の泰然自若差に、泡を噴きそうになった。あんなに濃厚な呪いを腹に落とし、眉ひとつ動かさぬ。あの呪いに反抗するは地獄の痛苦であろうに、息をするが如く呪いを呼吸している。
たまらず、御嶽は嘔吐。余波のみで数百年を生きた妖怪がはやくも肉と心を蝕まれている。刀身を直に見てはまずいと、頭を抱えて地に額を擦りつけ目を閉じて念仏を唱える。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
「どぉれえ……どおれ」
鬼入道が目が、黄から黄金に変わりゆく。
変生が成ったのだろう。
右片手下段に、じわりじわりと宗章へと間合いを詰めて行く。
「いまはいつじゃ。まあよい、黄泉平坂より呼ばれしは僥倖。ふふふ、喘月が言うておる、貴様を斬れば鬼の生を得ると。貴様の喘月は儂がもらう。寄越せ、どぉれ、寄越せ。――」
「あいにくと、討たれてやることはできぬ。せいぜい頑張ってくれ。それにな、こちらもお主をこの世に解き放つことはできぬ。けっしてできぬ。いまこうして、のうのうと言葉らしきものを発していることすら許せぬ」
宗章の鼻孔から、一筋の血液が流れる。
浅手を負ったか。
否――呪いを呼吸した影響か。
否――闘志が血潮を沸き立たせているためか。
三度否――ひとえに童子と父親の魂を陵辱した悪鬼への義憤である。哀しみと怒りが綯い交ぜとなった感情を腹に溜める圧が鮮血となって噴き出したのだ。
「貴様もはや、人に非ず。外道よりも外れ、人の気を逸脱せし魔性と成り果ておった。正しき引導を渡してくれよう。――」
「吠えてくれるわ。犬の吠え声は、魔を払うというから喃。それも好し。ああ、好し。それで払われてやってもよいが、この入道頭は伊達ではない。せいぜい念仏でも唱えてくれや。どおれ、どおれ、念仏を唱えてくれや。――」
ぴぅ。
入道の片手が振るわれた。左手、無手である。にも拘わらず、宗章の背後の巨木がみしりとへし折れ、隠れていた御嶽の体が弾き飛ばされる。
「ぬわあ」ともんどり打って、さらに木の陰へと隠れる。
無事である。
無事であるが、こんどは合掌して縮こまり、なんまんだぶ、なんまんだぶ……と繰り返しては震える始末である。
「下手くそな念仏よな。臭い、獣臭い。鹿の獣か、猪の獣か。臭い息で念仏を唱えてくれるなよ、下賤の獣めが」
「生きておるか」とは、御嶽へ向けた宗章の言葉である。
返事はないが、念仏らしきモゴモゴが聞こえてくる。
無事なのだろうが、心胆は粉々だ。
「しかし、瘴気を放つだけでたいした威力よな、蛸入道」
「身のうちより力が湧き出して持て余す。どれ、貴様を殺し、その肉体を悦しませてもらうとするか喃」
「ふむ。――」
八相から、切っ先をツイと下ろす。宗章もダラリ下段である。いや、下段ですらない。単なる佇立である。
「鬼というものは……」
そして、入道に問う。
「成ったときから、人よりも強いと聞く。まことか、本間入道。膂力も、感受も、気力心胆も、人を遙かに凌駕していると。――」
「ふうむ」
入道は小首を傾げてにやりと笑う。
目の前の武士が戦意を消失しかけたのだと思ったのだ。
「そうと聞かれれば、そうであろうなという確信がある。貴様の呼吸も、動きも、すべてが手に取るように理解できる。心臓の鼓動も、血潮の駆け巡りすらもだ」
「それを聞いて安堵した」
宗章は入道を見据えたまま、背後に声を掛ける。
「よく、見ておくがよい」
そしてそれは、藤斬丸と――さらには落葉御前に向けられていたのであろう。
「一手ご指南。――」と宗章。
「……。――」表情を引き締める本間入道。
無遠慮ともいえる接近だった。
彼我の間合いが撃尺の間合いにまで接近したとき、凄まじい速度で本間喘月が宗章の頭蓋に落ちてくる。その稲妻の如き一撃は、するりと更に右手前へ出た宗章に躱されていた。
はたと、切っ先を跳ね上げようとするも、宗章の身体が己が身体にぴったりと貼り付くように接近しきっているため、踏み込み直して弾き飛ばそうとする。が、容易く重心を入れ替えられてたたらを踏む。
ああくれば、こう。
こうきたら、ああ。
人外の速度と動きが、滑らかな――しかし完全に人理の範疇の動きで悉く制されている。
薄目で見ていた御嶽兵衛のアゴが、外れてしまったかのように開かれている。
「愚弄するかっ」
魔気が鬼入道の一喝となって口中から放たれるも、頭蓋を消し飛ばす威力のそれは完全に見切られ、あっさりと躱されてしまう。
新陰流、『肋一寸の見切り』である。
相手の具えた威力を、身体より一寸の距離で躱す術である。宗章はこの術を、さらに三分の見切りにまで昇華させている。
鬼入道の身体が、ダンと地を蹴り飛び退る。
宗章の身体が、ふわりと跳び鬼に追従する。
まったく離れない。
完全なる封殺である。
「えいやあ」
腕を抱えてひと拍子一挙同で鬼入道の身体を転倒させるや、はじめて宗章は喘月の刀身を颯とばかりに閃かせる。
「ぎゃああ」
避けられなかった。
受けることすら出来なかった。
人間の動きが鬼を凌駕するとは、信じられなかった。
顔面を押さえ、よたよたと後退る鬼入道。
宗章の喘月は、入道の頭蓋を存分に両断した手応えを残している。常なら、死んでいるはずである。されど、対手は呻いて、よろめき、喘月を苦し紛れかぶんぶんと振り、見えぬ宗章を斬ろうとあがいている。
「しぶといものよ」呟く宗章。
鬼は、顔を真っ二つにして哭いていた。脳を零しかけながら、圧で飛び出た目玉を手で戻し、おのれおのれと呻いている。
「なぜじゃ、なぜ殺せぬ」呻く鬼。
「俺の台詞だ」正直な吐露の宗章。
そのとき、喘月がピインと鳴る。
ひとつではない。
ふたつの喘月が、共に鳴る。
「うう。――」
よろめく入道へ止めを刺さんと、喘月を平水平に構える宗章だが、「いけませぬ」と悲鳴を上げる落葉御前の言葉が放たれる直前、ひりつく殺気を感じて武士の体が実に二間は飛び退っていた。
膨らんだ、気がした。
いや、膨らんだ。
鬼入道の肉体が、膨張したのだ。
人の体から、実に身の丈十尺を越えるまでに、膨らんだのだ。腕は太く、足も太く、胴体はもっと太増し、僧衣は圧力と瘴気で引き裂かれ、青黒く変えた肌と金色の瞳、猛々しき一本角を生やした巨魁青鬼が姿を現していた。
「あぎゃあああ……」
こんどこそ、こんどこそ、御嶽兵衛は死を覚悟した。
ついに、肉体の出来すらも自分を凌駕する本物の鬼に出くわしたのだ。気を失いかけるも、呆然とするほかはなかった。
「これは、凄まじき」藤斬丸は呻く。
「人が鬼に変生し、さらに鬼が変生すれば。――」御前は独りごちる。
人の魂は、人の肉体に在る限りは、ひとの範疇のままで在る。
だが、肉体が死したとき、魂だけがなぜか生き残った場合、魂だけが別の生を得た場合、あり得ぬほどの力をもたらすという。
反魂香は、その性質を利用し、いっとき魂を変質させ、鬼を呼ぶ道具である。
魂の強さが、肉体の枷から解き放たれるとき。
ああ、見よ。
数世紀を生きた魔性のふたりは絶望し、藤斬丸はただただ息を呑むほかはなかった。
青鬼入道が息を吐く。「どおれ……」と深い暗闇の声である。「喘月を寄越せ、下郎」と、その顔を上げる。
青い肌、真っ赤の口中からは、無数の牙。
目は金。魔性の色である。呪詛そのものの瞳は魔術を帯び、見る者の心胆を石と化す。
ぶんと、鬼のその手が喘月を振るう。喘月か――いや、それは香取新十郎が手にしていたような、黒き剣である。靄ではない。はっきりとした、黒き魔性の剣であった。
「――反魂香は消すな、御前。消せば、すべてが水の泡だ」
「しかし」
「なあに、案ずるな」
宗章は、喘月を祈るように垂直に立てる。口元には右手、胸元には左手。拝み撃ちの構えだ。
「斃してしまえばよいだけだ」
魔性の気が満ちる中、清然たる気迫が満ちる。
巨魁へ、一歩滑り寄る。
間合いは鬼が広し、宗章は狭し。
されど――。
「俺には、柳生新陰流がある。――」
白刃が、閃いた。
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