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第五章

the days after tomorrow 四

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 夜道を走行する車の前に飛び出して来た獣を避けようと、ハンドルを大きく切った。
 タイヤが滑る音。運転席で振り回される陽向が次の瞬間に見たものは、眼前に迫る白いガードレールで――。
 凄まじい衝撃が車体を襲う。
 ついで浮遊感が訪れた。灌木の生い茂る急斜面を車ごと落下していくのを覚えながら、陽向は自分の喉から甲高い悲鳴が迸るのを呆然と聞いていた。



「ア……アァァァッ……!」 
 陽向は己の絶叫によって目を覚ました。頭をかばうように上げた腕の陰で、大きく目を見開いたまま、しばしあえぐように息をする。
 覚悟した衝撃がいつまでも襲ってこないことに、ようやくと腕を下ろし、汗びっしょりになった体を起こして、ここがどこなのかを確認する。
 何も変わったことのない自分の寝室だ。光希やsakuyaと一緒に暮らしているシンガポールの家だ。
(夢だったの……? でも、なんて生々しい……)
 今でも奈落のように真っ暗な崖の下に転落していく感覚をはっきりと思い出せる。
(そうね、昔、神戸に住んでいた時に、危うく自動車事故を起こしそうになったことならあるわ。sakuyaが消滅してしまったと信じ込んで、たまらなくなって、一人で六甲山まで車を走らせた夜――でも、どうして今頃になって夢に見るのかしら……?)
 しかも夢の中では、車がガードレールを突き破ってしまい、ひょっとしたら死んでいたかもしれないような事故を起こしている。
 いわく言いがたい寒気を覚え、我が身を守るかのように両腕を巻き付ける。
「陽向? どうかしたのかい?」
 ベッドの近くから、低い弦の響きにも似た穏やかな声が投げかけられた。温かな灯火のような光が、いつの間にか陽向の視界の端に灯っている。
 陽向は、肺にためていた息を全て吐き出すような深い溜息をついた。
「ううん……何でもない、ちょっと嫌な夢を見ただけ」
 声の方に顔を向けて微笑みかけると、炎の精霊のように輝くsakuyaが陽向をじっと見下ろしていた。
「夢?」
 穏やかな眠気を誘う声で彼は尋ねる。しかし、陽向をとらえている不安を振り払うには、まだ充分ではなかった。
「おかしな夢。本当の私は、事故にあった、あの時死んでいたなんて――」
 自らの言葉におののいたかのように、身震いした。
「そうよ、私はとっくの昔に死んでいて、これは他の誰かが見ている夢にすぎないの……あなたと一緒に作り上げた会社、流行病で変わってしまった世界、この家だってすべて、現実には存在しない……」
 陽向は語ることに耐えがたくなって、目を閉じた。風に吹かれる紙のように瞼が震えている。
「陽向、君が見たものこそ、ただの夢だよ」
 sakuyaの力強い声が陽向の耳朶を柔らかく打った。
「僕と君が力を合わせ、パンデミクックの混乱の最中、よりよいものに変えてきた世界を見てごらん。僕達の子供、光希の存在を思い出してごらん。それらが現実には存在しないものだなんて、どうして言えるんだい?」
 そうよ、光希、私が産んだ、愛する子――夢などであるはずがない。陽向の胸の芯に激しい火が燃え上がった。
「……ううん、馬鹿なことを言ったわ。自分の愚かさのために一度何もかも失った私が、全てを取り戻して、幼い頃の夢を全て叶えられたということが、時々信じられなくなるだけよ」
 陽向は思い切って目を開け、自分を覗き込むsakuyaの星の差さない夜のような黒く澄んだ瞳に見入った。
 胡蝶の夢。これがたとえ、他の誰かが見る夢の中の出来事だったとしても――。
「ありがとう、もう大丈夫よ」
 sakuyaは陽向の頬に羽根が触れるようなキスをして、そっと離れた。
  暗闇を照らす灯火のような彼の存在に勇気をもらいながら、陽向は自分に向かって言い聞かせる。
(変貌した世界で、私は今、朔也さんと彼の子供と暮らしている。遠い過去を振り返る時、今の暮らしの現実味のなさが、この胸にふと不安をかき立てるけれど――)
 sakuyaが何か気になるものを感じ取ったかのように、頭を揺らせ、耳を澄ますような仕草をした。
 彼が自分以外のことに注意を向けることはめったになかったので、陽向は不思議に思う。
「sakuya……?」
 声に籠もる不安に、しかし、彼はいつものように、すぐに対応してくれた。
「たいしたことじゃないよ、僕につながるネットワーク上で些細なトラブルがあっただけだ……すぐに解決するから、心配しないで……」
 自分に向けられた笑顔のうちに、ふと生前の朔也には決して見られなかった、ひんやりとした冷たいものを垣間見たのは気のせいだったろうか。
 陽向は少しばかり早くなった心臓の上に手を置いて、ともすれば崩れ落ちてしまいそうな平穏を守るべく、懸命に言い聞かせた。
(私は、朔也さん――今はsakuyaとなった彼を愛している。光希を大切に思っている。彼らのいる『この世界』を愛している)
 脳裏にふと、ここにはいないもう一人、朔也とよく似た面差しの男の明るく眩く黒い瞳が思い出された。
(――そして、私は今、幸福なのだ)
 束の間の沈黙の後、sakuyaが再び近づいてきた。彼の手が動くのに促されて、陽向はベッドに横になり、布団を引き上げた。
「さあ、陽向、目を閉じて――」
 揺れる視線の先に、頼もしげに頷くsakuyaの美しい顔がある。その実体のない透ける手が額に乗せられるのに、陽向は従順に瞼を伏せた。
(sakuya、あなたは、朔也さんの代理人……私の幸福を確約するために造られた……)
 体の緊張感がほどけていくのにあわせ、陽向のもとに健康な眠気が戻ってきた。
「愛しているよ、陽向」
 夢うつつの最中、陽向は幼子に戻ったような気分で、語りかけてくる彼の優しい呪文めいた声にじっと耳を傾けるのだった。
「僕が君を守ってあげるから、嫌な夢のことなんか忘れて、もう一度眠るといい。君の幸福を損なうものは全て、僕がきっと取り除いてあげるよ」


 ああ、愛する人、あなたが私のためにもたらした世界は、こんなにも穏やかで、優しい……。
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