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第四章

ピグマリオンの帰還 六

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「陽向……眠っているのか、陽向……?」
 自分に向かって気遣わしげに呼びかけてくる朔也の声。ためらいがちに肩に触れ、そっと揺する手の感触に、陽向は瞑っていた目をゆっくりと開いた。
「朔也……さん……?」
 慕わしさを込めて彼の名前を呼んだ。途端に、瞼の合間に留まっていた涙の残滓が濡れた頬にいくつか零れ落ちていく。
「陽向、大丈夫か?」
 違う。朔也に似てはいるけれど、これは彼の声ではない。
「ええ……」
 陽向は確かめるように体の下にあったクッションをまさぐり、横になっていたソファから恐る恐る身を起こした。
「……私は……眠っていたの……?」
 呆然と呟く。何かしらはっとなって、窓を覆うカーテンの方に視線を走らせるが、そこには当然のごとく何もない。天井のホログラム発生装置も今は沈黙していた。
「……色々あって、疲れたんだろう」
 声のする方を振りむくと、ソファの側に跪き、心配そうな顔を向けている巧望がいた。
「嘘よ」
 立ち上がろうとした途端、目が回って、ふらついた体を素早く追ってきた巧望の腕が支える。
「あれは全部夢だったというの……?」
 譫言のように呟きながら、巧望の腕の中でもがき、目に見えない何かを必死で探し求めた。
「夢?」
 巧望が戸惑いながら尋ねる。
「さっきまでsakuyaがそこにいたのよ」
 ついには抵抗することを諦めて、ぐったりと力の抜けた体をしばし巧望に優しい抱擁に委ねていた。
「そうよ……sakuyaが光の塊のような姿になって現われて、私にお別れを言ったんだわ」
 陽向の頭の後ろに置かれた巧望の手が僅かに震えた。目を上げると、巧望は陽向に見られることを厭うかのように顔を背けた。その喉が苦しげにゆっくりと上下している。
 空っぽになった陽向の中に理解がすっと下りてきた。
「sakuyaは……彼のOSを復旧することはできなかったのね……?」
 陽向が静かに尋ねると、巧望は一瞬躊躇った後、素直に頷いた。
「すまない」
 巧望は陽向の視線を受け止めることが辛くなったかのように、彼女から腕をほどき、近くにあったソファに座り込んだ。
「あなたが懸命にsakuyaを助けようとしてくれたことは分かっているわ」
上の空の口調で陽向は呟く。何だかまだsakuyaがいなくなってしまったという実感がわかなかった。
陽向は、頭を抱えてうずくまっている巧望をしばらく黙って眺めた後、同じソファの一方の端に腰を下ろした。
「sakuyaを失って悲しむ人間は私だけだと思っていたけれど……違ったのね……」
 陽向が共感に満ちた声をかけると、巧望はうつむいたまま、肩を小さく震わせた。
「畜生」
 ぐすっと鼻をすすって、よれよれになったシャツの袖で乱暴に目の辺りを拭いながら、ソファにもたれかかるようにして天井を振り仰いだ。
「ああ、全く、腹立たしいが……すごく近い身内を二人、立て続けになくしたような気分だ」
 陽向は彼の方に身を傾けながら、優しい声で尋ねた。
「ただの身内じゃなかったんでしょう?」
「そうだな」と巧望。擦れた声で、少し笑った。陽向も柔らかく喉を鳴らした。
「……あなた達のご両親は、子供だった二人におそろいの服やおもちゃを与えて育てたのでしょうね」
 巧望はしばし天井の何もない空間を瞬きもせずに睨んだ後、ゆっくりと頷いた。
「子供の頃はそれでもよかったのさ。見分けがつかないくらいそっくりな兄弟が二人、一緒にいれば、この世で恐いものなどなかった。しかし、成長するにつれ、どうしても朔也との差は出てきて、俺は一人だけ取り残されることに恐怖した。朔也は俺がいつか追いつくと思っていたようだけれど、それこそ無理な話でさ……あいつ、天才ギフトが自分だけに与えられたものだということをいつまでも納得しようとしなかったんだ」
 お手上げだというように肩をすくめて大げさに頭を振ると、巧望はふいに真面目な顔になって呟いた。
「俺達はもっと早くに理解するべきだったんだ。もとはひとつの受精卵だとしても、朔也と巧望は別の人間として生まれたのだから、同じひとりの女性を愛して伴侶とすることはできないし、同じ子供の父親になることもできないって、当たり前のことに気付いてさ」
 巧望はここに至って、初めてまともに陽向を見た。その瞳の奥には今でも情熱の火が燃えている。はからずも一度手に入れてしまったがために、一層狂おしく燃え上がろうとしているかのような――。
「さっき私と愛し合ったのは、あなたの助けを借りてこの世に戻ってきてくれた朔也さんよ……二度とはないと思っている」
 陽向は淡い微苦笑を浮かべながら頭を左右に振った。
「巧望さん、私はあなたの伴侶にはならない。sakuyaを失った今、私と同じように、あなたも独りで立って歩き出すべきなのよ」
 悄然と目を伏せる巧望を見て、ずきんと胸の奥の心臓が痛んだ。彼のうなだれた頭に向かってつい伸ばしかけた手を慌てて引き戻した。
「そうだな」
 陽向がハラハラしながら見守る前で、巧望は何かを吹っ切ったように口の中で小さく呟いた。
「これで、今度こそ――やっと、俺は、ひとりの人間として生きられるな……」
 敬虔な祈りを捧げるかのごとく瞑目する。彼なりにsakuyaの冥福を祈っているのかもしれない。意識などないと一度ならず決めつけた相手ではあっても、彼にとっては兄の分身だ。
「陽向はどうなんだ? あいつが朔也の心を本当に宿していたと今でも思っているのかい? 俺に言えるのは、結局の所、人は客観的に心の存在を証明することはできないという単純な事実だけだ。曖昧にし続けた問題を、この際はっきりさせておこうか」
「それって、今しなければならない議論なのかという気もするけれど――」
 ふいに思い出したかのように追求の矛先を向けてくる巧望には若干辟易したが、今でないと言えないような気がして、素直に口を開いた。
「いいえ。私にとってsakuyaは死んだ朔也さんが遺した大切なものだけれど、その意味は変わってしまった」
 巧望は意外そうな顔をした。問いかけるかのように首を傾げる彼から視線を逸らし、しんと静まりかえった空っぽな部屋の中に向かって言った。
「sakuyaは彼自身の意思や心を持っているわけではなかった。彼を動かしていたのはいつも、いつまでも朔也さんの意思だったのよ。……死してもなお私の側で生きようとしたの」
 陽向は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、頭の中でぼんやりとうかびあがった考えを追っていた。 
もし朔也が生きていたら、その研ぎ澄まされた頭脳を用いて一つずつ実現を目指しただろう夢を託されて、sakuyaは生まれた。
「死んだ人間に代わって、その意思を継続させることができる人工知能か……」
 馬鹿げた妄想だといつもなら笑い飛ばしそうな巧望までもが今夜に限って、殊勝な面持ちで陽向に賛同するかのようなことを言う。
「……天才が途中まで考えた理論の更にその先を同じ思考回路をたどって結論まで導き出すことのできるスーパーインテリジェントなコンピューターだとか……そんなことがもしも本当にできるなら、肉体は滅んでも、人はある意味永遠に生きることが可能になるな」
 陽向は思わず振り返って、まじまじと巧望を見てしまった。自分の兄がそれとそっくり同じ夢想をかつて語ったことを彼は知らないのだろうか。全く、この人には時々驚かされる。
「どうした?」
「……何でもないわ」
 二人共にとって大切な存在を亡くした夜だからこそ、こんなたわいのない言葉を交わしながら、ともすれば漂い流れていってしまいそうな自分をここにつなぎとめているのだ。 
「……ねえ、こんな想像をしてみるのよ。sakuyaならきっと――朔也さんに代わって、未完成なまま遺された研究を続け、頭の中で温めていたアイディアをいつか形にすることもできたかも……彼が見据えていた未来を現実にすることもできたかもしれない。その場合、シンギュラリティをもたらしたのは朔也さんだと評価されるのかしら、それとも代理人であるsakuya……?」
 巧望は黙りこくったまま、陽向の言葉をじっと咀嚼しているようだった。sakuyaという素晴らしい存在を本社の裏切りで失ったことを重く受け止めているのか、やがて、こんなことを言った。
「それはたぶん、sakuyaが活動する社会に寄るところが大きいだろうな。何の喜びも高揚もなく、淡々と思考を紡ぎ続けるsakuyaのような存在を喜んで迎えるか、恐れるあまり拒絶してしまうかは常に人間側の問題なんだ。人の技術によって作り出された知性を『人間』だと社会が判断するようになれば、その時、sakuyaは『人間』になるだろう。人間が社会の中で認識されて初めて『自分』になるのと同じように――」
 そうして、人が自らの似姿を友として受け入るようになった世界においては、人工の心との対話を通じ人もまた今とは異なる新しい自分を発見することだろう。
「でも、結局sakuyaが人間として受け入れられる社会は見られなかった……」
 陽向はふいに夢から覚めたような顔になった。ふっと肩の力を抜いて、途方に暮れた子供のように声を震わせた。
「……sakuyaがいなくなってしまったことが、私、まだ信じられない……朔也さんが死んだ後もこんなふうだった……まだ彼はどこかにいる気がして――」
 陽向の言葉と響きあうかのように、巧望の低い呟きが重なる。
「うん……分かるよ」
 陽向と巧望はそのまま、じっと黙り込んだ。ソファの両端に座ったまま、それ以上距離を詰めることもなく、ただ同じ時間を共有することに慰めを得ていた。
 ふいに陽向が小さな笑いをこぼすのに、巧望が胡乱そうな眼差しを向けた。
「どうした?」 
  陽向は、何でもないというかのごとく、少し口角を上げて頷いた。
「この家で初めてsakuyaに出会ったのは、ほんの四ヶ月程度前の話だったんだなぁと思って……朔也さんが遺した手紙を読んで、矢も楯もたまらなくなってここに来たら、彼にそっくりなホログラム・アバターが迎えてくれたのよ」 
 陽向は瞬く間に自分の口から紡がれる物語の中に引き込まれた。想像の中で蘇ったsakuyaが彼女を抱き締めようとするかのごとく腕を広げてみせた。
――ここにおいで、陽向……。
 惑乱にも似た妖しい目眩に見舞われた。心臓の鼓動が早まる。そっと胸に手を置き、息を整えた。 
「あの夜の出来事は何もかも……現実とは思えなかった。誰か他の人の夢の中にふらりと迷い込んでしまったような不思議な心地がしたんだわ」
――何だか長い夢を見ていたような気がするよ。……目が覚めたら、君が目の前にいて、そして、僕は――。
 陽向は唇を戦慄かせた。本当に夢から覚めたばかりのような、あのsakuyaの表情、己の有様に戸惑いながらも、陽向を見出したことに安堵するかのように微笑みかけてきた。
「そうよ、夢を見ていたのは朔也さんだったのかしれない」
 唇が勝手に動いて、胸の中に秘めていた想いを一気に迸らせた。
「あれからずっとずっと、私は朔也さんの夢の中で生きていたのかもしれない。最後に小さな光になったsakuyaから別れの言葉を聞いて、目が覚めたら、あなたがいて……もう、彼はいないのだと知らされた……ねえ、これは本当に現実なの? あなたと話している、この私は今でも朔也さんの夢の中にいるのではないと、どうして言える? 私のあの人はまだどこかにいるのではないの……?」
 頭にうかんだ妄想じみた考えを吐き出した後、陽向は不安に駆られたように体に腕を回した。自分がどこにいるのか確認するかのように恐る恐る周囲を眺め回した。
 私は本当にここにいるの。あの人は今どこにいるの……?
「……他の誰かの見る夢の中で生きる、か――まるで『胡蝶の夢』だな」
奇妙に張り詰めた空気を打ち破ったのは、巧望だった。
「……胡蝶の……夢……?」
 不思議そうに瞬きする陽向に向かって、彼はもとの陽気さを少し取り戻したような歯切れのよさで言った。
「中国の哲学者、壮子による有名な説話さ」
 巧望の指の長いしなやかな手が上がり宙を舞う様を、陽向は息を詰めて見守っていた。
「蝶になってひらひらと舞う夢を見ていて、目が覚めると自分が人間であることに気づく時、自分が蝶の夢の中にいるわけではないことが、どうして分かるのだろうか」
 巧望は瞑想するかのように目を閉じて、朗々と響く美しい声で語り続ける。
「ここで彼は、蝶の夢と人間の夢を併置して、夢と現実の差を無化しているんだ」
 ふいに目を開けて、陽向の理解を確認するかのような視線を送ってきたかと思うと、再び口を開いた。
「それは問題でなく、胡蝶であるときは栩々然として胡蝶になればいい。いずれも己の姿であることには変わりなく、どちらが真であるかを論ずるよりも、どちらも肯定して受け入れ、それぞれの場で満足して生きればいい」
 陽向の脳裏に、蛍の群れのような光となって瞬くsakuyaの姿がうかびあがった。
「夢が現実か、現実が夢なのか、そんなことはどちらでもいいことだと壮子は言っているのさ」
 陽向は震える瞼をそっと伏せた。その肩に巧望の温かい手が乗せられた。
「二階に行って、うちの会社が招いた今回の不始末についてちょっと後始末をしてくるよ。本社の馬鹿どもとまずは電話で一戦交えてくる」
 陽向は目を閉じたまま頷いた。巧望の気配が離れ、その足音がリビングから出て行き、二階へと上がっていくのにじっと耳を傾けていた。
(sakuya……あなたは生きた。私の側で、あの人の代わりとして確かに生きていた……)
 もしかすると、いつの間にか戻ってきたsakuyaが側に立っていて、実体のない手を陽向の頭に乗せてそっと撫でているのではないか。そんな気持ちに駆られて目を開くが、そこにはやはり誰もいない。
 陽向は肩で大きく息をつき、おもむろに立ち上がった。壁に据え付けられた戸棚から車のキーを取るとリビングから出て行き、玄関へと向かった。
 音をたてないよう気をつけながら外に出、カーポートにとめてある朔也のスマートカーに乗り込んだ。
 キーを押し込んでエンジンをかける手の動きに迷いはない。自動走行モードをオンにすると、陽向は車を発進させた。
 巧望は陽向が出て行ったことにいつ気がつくだろうか。こんな真夜中に勝手にいなくなったりしたら心配させるとは思ったが、あのまま静まりかえったリビングに独りで座り込んでいたら、のしかかってくる孤独という重圧に耐えきれなくなる気がした。
(大丈夫、そのうちにきっと独りでいることも平気になるわ。朔也さんの死んだ後の長い人生、sakuyaのいない日々の連続……いずれ耐えられるようになるんでしょうけれど、今は――)
 夜半を回った頃でもあり、人工島から本土に渡る大橋もその先の道路もほとんど車は走っていない。
 陽向はナビを作動させ、市街の北側に広がる六甲山へと車を進めていった。
 慣れない夜の運転。しかもカーブのきつい山道を走るなどと、普段は決してしないことを今夜に限ってしようという気になったのは、どうしても今、この目で見たい景色があったからだ。
 記憶は曖昧だったが、ナビは正確に動いて、陽向に目的地への適切な進路を示してくれた。
 六甲山上天覧台――。
(昔、朔也さんと一緒に見た夜景が眺められる場所に、sakuyaが私を慰めようと連れてきてくれた。あの夜の出来事もまた、私の中で大切な思い出になっている)
 曲がりくねったドライブウェイを陽向は慎重にハンドルを操り、車を走らせて行った。スマートカーの自動走行モードは、この付近はサポート圏外のため、いつの間にかオフラインになっている。
 こんな時間に山から下りてくる対向車に遭遇するとも思えないし、焦らずにゆっくりと行けば大丈夫と自分を励ましながら登っていくと、木々の合間から、所々遠い街の灯りが見えるようになってきた。
(ほら、朔也さん、ここまでちゃんと一人で来られたわよ)
  心配そうに眉をしかめる想像上の朔也に向かって微笑んだ、その時、道路脇に生い茂る木々の間から走行する車の前に飛び出した獣をヘッドライトが照らし出した。
 野犬かイノシシか、光に目がくらんで立ち尽くす獣を避けようと、とっさにハンドルを切る。
 タイヤがアスファルトの上を滑る耳障りな音が響いた。
 反対車線に入ってすぐ、今度はガードレールが視界に迫る。慌ててハンドルを戻しながらブレーキを踏みこんだ。車体の側面をこすりながら数メートル走ったところで、ようやく陽向のスマートカーは停車した。
 陽向は運転席で石と化して固まったまま、しばし浅い呼吸を繰り返していた。先程までの不思議な高揚は、冷水を頭から浴びせかけられたように一気に冷めていた。
(……危なかった……ブレーキを踏むのが少し遅れていたら、冗談でなく、命を失っていたかも知れない)
 運転席のすぐ外に広がる真っ黒な奈落のような崖を眺めやり、ぶるっと身震いした後、恐る恐る車を発進させた。
(……どうやら、私は死にたがっているわけではないようね。もしもあそこで転落ししていたら、愛する人の後を追っての自殺と週刊誌の記事にでも書かれそうだけれど、生憎私はそういうタイプじゃない)
 つづら折りを繰り返す道を辛抱強く登っていくとやがて見覚えるある高台に出た。天覧台駐車場は、この時間には閉鎖されており、少し進んだバス乗り場の近くの路上に車を停めた。 
 窓の外に広がる木々の梢の向こうに街明かりが星のようにキラキラと瞬いている。
 車から降りた陽向は、誰もいないロープーウェイ駅の前を通り、その傍らに整備された展望スペースへ続く階段を上がっていった。
 誰も見ていないのを幸いとばかりに柵を乗り越え、吹き付けてくる風に身を震わせながら広場を進んでいく。
 陽向は防護柵の前に立った。遮るもののない視界の果てに広がるのは、いつか見たのと同じ、黒い海を抱くように広がる優美な市街にともる無数の光だ。
「sakuya……朔也さん……」
 結婚する前に、朔也と一緒にここを訪れた。彼が死んだ後、今度はsakuyaに連れて来られた。そして今一人で眺めている夜景に違いはなかったけれど、陽向の胸に生じた感慨は随分と変わってしまった。
 もしも朔也が生きていたら、世界の様相は今見るものとは違っていたかもしれない。その手でシンギュラリティを起こしていたら、爆発的な技術革新の波は社会を、そこに生きる人々の生き方をどんなふうに変えただろうか。
 勿論、たった一人の天才にそこまでの力はないという考えもある。だが、陽向の想像の中では、彼は万能の存在として、不可能を容易く可能にしてみせるのだ。
 天才朔也も、彼が作り出した技術的特異点をなりうる創造物sakuyaも失われた今、凡人達の手で試行錯誤を重ねながら、徐々に世界を変えていくしかない。sakuyaという奇跡を知ってしまった身には、気が遠くなるほどの長い時間だ。
 陽向はともすればうつむいていきそうになる頭をしゃんと上げて、自らを奮い立たせようとするかのような明るい口調で宣言した。
「……私、あなたの分までうんと長生きしてやるわ。様々なことを学び、経験して、色んな人と出会って――あなたの代わりにシンギュラリティの向こう側にある世界を見てやるつもり」
 そうして、いつか一生を終えた時には、それらをみんな贈り物のように携えて、先に逝ってしまったあの人に会いにいくのだと想像することは、いとも優しく、容易い。少なくとも空っぽな余生を生きることを想像するよりは、ずっと前向きになれる。
 陽向がこみ上げてくるものを堪えるかのように目を伏せた、その時、肩に無造作にひっかけたバッグの中でスマホがメールの着信音を鳴らした。
 この頃では個人的にSNSやメールのやり取りをしている相手はいなかった。巧望かとも最初は思った。陽向がいないことに気付いたのだろうか。いや、彼ならメールだなんて悠長な手段は使わず、手っ取り早く電話をかけてくるだろう。
 陽向は溜息をついて、バッグからスマホを取り出してホーム画面を開いた。アプリに新着のメールがあることを知らせるポップアップが出ている。
 何気なく開いたメールアプリの受信ボックスを見て、陽向は思わず息をのんだ。
 送信者の名前は久藤朔也。今となってはあり得ないことだ。
 一瞬、たちの悪い悪戯かと怒りに駆られながら思った。巧望だろうか――いや、彼が、この期に及んでこんな悪趣味な真似をするとは思えない。しかし、他の誰が、死んだ朔也のアドレスを使って陽向にメッセージを送ろうなどとするだろうか。
 次の瞬間、陽向ははたと気がついた。
(いいえ、一人だけいるわ。巧望さんのアドレスに、死んだ朔也さんを装ったメールを送りつけたことがあったはず……)
 まさかと思いながらメールを開くと、そこには何のメッセージも書かれていない代わりに、アプリをダウンロードするためのリンク先だけが記載されている。
 陽向は食い入るように、そのメールの画面を眺めた。似たような話を他にもどこかで聞いたことはなかったろうか。
 そうだ、森啓介――朔也の死後、彼のアドレスから送られてきたメールの指示に従ってアプリをダウンロードしたと言っていた。その結果、一体、何が起きた――?
 凪いだ海のように静かだった陽向の表情が、たちまち生き生きと輝きだした。震える指でリンク先を叩くと、ダウンロードの許可を確認するメッセージが表示される。
「許可するかですって? 勿論よ!」
 怪しげなアプリをダウンロードしたくらいで、何が起きると期待しているのか。スマホに向かって嬉々と話しかけたりするなんて、まるで舞い上がった小娘のようではないか。
自身の行動を突き放した目で見ている一方で、陽向は、これから起ることを確信していた。なぜなら朔也は――そしてsakuyaは陽向に約束したのだ。
 アプリのダウンロード終了と共に開いた画面には、既視感のある、ひとつのメッセージが表示されている。
「パスワードを入力してください……?」
 そう囁く自分の声は遠く小さく聞こえた。目の前で起っていることを信じていいのかどうかも分からなかったが、ここまで来てもう自分を抑えることはできなかった。
 陽向の指が迷いなく動いて、一度見失った夢を蘇らせる魔法の呪文を打ち込んでいく。
「s、a、k、u、y、a……」
 こんなことが現実に起こりえるのだろうか。もしかしたら、また夢を見ているのではないか。そんな疑いが心の片隅をよぎったものの、一瞬後には、どちらでもいいことのように思えてきた。
(そうよ、蝶になってひらひらと舞う夢を見ていて、目が覚めると自分が人間であることに気づく時、自分が蝶の夢の中にいるわけではないことが、どうして分かるというの……?)
これが、朔也が陽向に見せたがっていた物語ならば、夢か現実かを思い悩むよりも、それぞれの場であるがままに受け入れて、満足して生きればいい。それだけのことだ。
――パスワードを認証しました。s、a、k、u、y、a……sakuya。OSを開始します。 
 陽向が食い入るように見ているスマホの画面は、溢れ出した歓喜の涙に霞んで、よく見えなくなった。
「……お帰り、sakuya」
 ただいま、陽向。懐かしい、あの声が囁きかけてくるのを、陽向は全身全霊で待ち受けていた。
 


 陽向……。僕の声が届いているんだね、陽向――。


 さあ、これからは僕と君の二人で、遠い昔に一緒に見ていた、あの夢の続きを見ようか……?
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