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第四章

ピグマリオンの帰還 一

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 矢継ぎ早に質問の雨を降らせようとする陽向と巧望をなだめたのは、二人の剣幕におののいた森が掲げたスマホの画面に現われたsakuyaだった。
 一体どうして森のスマホを通じて彼とのコミュニケーションが可能になっているのかも分からないまま、それでも、いつも通りに穏やかで辛抱強いsakuyaに説得されて、二人は森を伴い、家に戻った。
「……どこから話したらいいのか迷うけれど、まずは僕の研究対象であるロボットを紹介するよ」
慌ただしく戻った家のリビングで、ソファの端に申し訳なさそうに座った森は、陽向と巧望の注視に堪えかねたかのように、おもむろに腕に抱えたボストンバッグをローテーブルの上に置き、口を開いた。
「これの原型は、陽向さんも言っていた、虫型ロボット……群知能を持たせることを試みていた小形ロボット群だ。単純ながら、人の命令によらず、自立して動くことができ、学習能力もあった」
 開いたボストンバッグの中で何かがもぞもぞと動いている。ネズミにしては大きく猫にしては小さい。それは警戒しながら、外の様子を伺っているかのようだった。
「ほら、出てこいよ、アル……!」
「アル?」
 陽向が尋ねるのと同時に、森のロボットが顔を覗かせた。虫を思わせる赤い複眼状のカメラアイを人間達に向けてくる。耳のないウサギを陽向は連想したが、そんな可愛らしい外観ではなかった。森には、どうやらロボットが人間に与える心証をよくしようという発想はないらしい。 
「彼の名前はアルジャーノン。昔読んだSF小説に出てきた天才ネズミの名前なんだ」
「ダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』か」
 巧望が呻いた。
「あんまり縁起のいい名前じゃないな。脳手術によって知能が異様に高くなったネズミは、その副作用によって急速な知能の低下に見舞われた末に衰弱死するんだ」
 どうやらネーミングのセンスもいまいちらしい。森は、巧望の指摘にいささか閉口したようだが、あえて無視して、自分のロボットに二人を注目させようとした。
「この本物そっくりに動くネズミには脳のニューロンとシナプスを模倣したニューロモーフィック・コンピュータからなる人工脳が搭載されている」
 次世代コンピューターとして研究開発が進んでいるニューロモーフィック・コンピューターは、従来のアーキテクチャとは異なるものだ。まず基本的にデジタルではなくアナログであり、ハードウェアとソフトウェアといった分離はない。脳のニューロンのような放電スパイク機能を伴うアナログ回路はビッドではなくスパイクを交換することにより、脳の神経生物学的アーキテクチャをまねることができる。
 陽向の知る限り、エコ・システムから生物の微細な組織における反応まで自然界に起きるパターンの解読にニューロモーフィック・コンピュータが用いられているはずだが、複雑な動きをするロボットに実装できるほど小型化された人工脳についてはほとんど聞いたことがなかった。
 バッグから這い出してきたロボット・ネズミ、アルジャーノンはローテーブルの上に乗って、辺りをキョロキョロとうかがっている。見慣れない場所にいきなり連れてこられてナーバスになっている本物の生き物のようだった。
 このロボット・ネズミはどんなアルゴリズムで機能しているのだろう。陽向は好奇心に駆られてつい手を伸ばすが、アルジャーノンはたちまち警戒心をむき出しにして、身をすくめ、威嚇するかのように赤い複眼を明滅させた。
「アル、こっちにおいで」
 アルジャーノンは、心配そうに身を乗り出す森の腕の中に飛び込んで、ジャケットの中に隠れようと頭をねじ込んでしまう。
 つまり、このネズミは森が己の庇護者であること、正体の知れない陽向は己に危害を加えるかも知れない危険な存在と判断できるわけだ。
「驚いたわ。ネズミどころか猫並みの知能があるように見える」
 陽向はちょっと考え込んで、言った。
「……原型だったという虫型のロボットは、こんなに複雑な反応はできなかったはずよ。とても知能と呼べるものは有していなかった」
 陽向から追求の眼差しを向けられた森は、やや緊張気味の顔をして、答えた。その手は、まだおびえているロボットの背中をなだめるように撫でている。
「僕の造った人工脳は、生命のアルゴリズムを模倣した学習能力を備え、経験から学び、進化していくものなんだ。正直に言うと、僕一人の力では、この短期間で、ここまで複雑な知能を持たせることはできなかっただろう」
 陽向の脳裏に、森のスマホの中に現われたsakuyaの顔が思い出された。不安定に揺れながらさまよわせた視線は、やがて、リビングの片隅に物言わぬ幽霊じみて佇んでいるsakuyaの深沈とした姿の上でとまった。
「久藤博士の力を借りたんだよ」
 森の言葉は、予想していたものではあったが、陽向の心を揺り動かした。気づいた巧望が近づいてきて、大丈夫かというかのように顔を覗き込んだが、彼女の目はsakuyaだけを見ていた。
「陽向さんが見た時は虫程度の知能しかなかったものが、久藤博士が作った独自のアルゴリズムを持つ学習機により、進化のスピードが飛躍的に速くなった。ネズミの次はもっと高度な知能を持つ哺乳類になり、やがては人間と対等にコミュニケーションできるほどの知能に達するはずだ」
「……この不格好なネズミが、俺達と同等の知能を持つようになると言われてもすぐには信じられないな」
 巧望の声は疑わしげだ。
「この間からずっと知能と知性を備えたスーパーインテリジェントなAIに振り回されている俺としては、この手の議論はもう勘弁して欲しい気分なんだが……」
 AIに本物の知性があるかどうかを評価する方法はない。巧望は依然として、その合理的な考えを捨てようとはしていない。振る舞いによってしか相手の考えることを判断できない人間にとって、人間そっくりに振る舞う人工物は人間としかとらえられないのだ。その頭の中は実際には空っぽだとしても。
「sakuyaが極めて知性的に振る舞うことができるということと、アルが生命の進化の課程を経て知性を獲得するだろうということは、全く別の問題だよ」
 頬を赤くして巧望に反論する森は、真剣そのものだった。眼鏡の奥の小さな目は、この気弱な男にこんな気概があったのかと驚くほどの熱を帯びて爛々と輝いている。
「いいかい、アルがやっていることは僕達が心をどうやって獲得できたかの模倣でもあるんだ。僕達の心は、身体を持っていることで発達し絶えず変化する。赤ん坊として生まれてから老いて死ぬまでね。それと同じように意識を持つマシンも物理的環境に組み込まれていなくてはならないし、何らかの身体を持っていなくてはならないんだ。マシンは身体を持つことで活動できるし、外部、内部からの刺激を感じ、経験から学ぶことができる」
 身体性。sakuyaが初めから持ち得なかったものだ。それこそが、心が生まれ、育まれていくためには必要なものなのだと森は言う。
「体がハードウェアなら、心はそこにインストールされたソフトウェアだと二元論的に考えるのは間違っている。人間と同じように肉体を持ち、刺激を受けながら学び、進化していくことができて初めて、人工物は人間と同じ自由意識、自己認識を持つことができるというの……?」
 陽向は擦れた声で、誰に向かってというわけでもなく問いかけた。惑乱の中で覚えた目眩の中堪えきれずに目を閉じた。瞼の裏には、在りし日の朔也の面影が漂っている。
(あなたはどう思っていたの。死んだ自分をリカバリーできるなんて夢物語、本当に可能だと考えていたの)
 幼い日の自分なら、恐れ気もない無邪気さで朔也を質問責めにしていただろうか。結婚してからは、彼と忌憚ない議論を戦わせるようなことはすっかりなくなっていた。どうして、やめてしまったのだろう。仲のいい夫婦だったけれど、こんな肝心なところで、相手が何を考えていたのか分からない。
 陽向はもう恐れ知らずの子供ではないから、自分には太刀打ちのできない高みに到達している彼に対して、何も言えなくなっていた。負けるのが怖かった、そんなちっぽけプライドのため?
「ある種の意識や感情は獲得するだろうが、それが人間とそっくり同じものになるかは分からないな」
 森の話し声が聞こえた。陽向が目を向けると、彼はポケットから取り出したペンライトを使って、ロボットの注意を向け、落ち着かせようとしている。照射された光の先を追いかけて、飛びかかって、捕まえようとして――遊んでいるのだ。
「犬や猫を相手にできるなら、将来これがなるものともコミュニケーションできるだろう。そして、やがては人間の知能を越える日が来る。この場合、どちらが犬でどちらが飼い主になるかは知れないけれどね」
 巧望が、素っ頓狂な叫び声をあげた。光を追いかけていったネズミが、彼の足につかみかかったのだ。
「おい、森、こいつを暴れさせるなよ!」
 巧望はもしかしたらネズミが苦手なのだろうか。じゃけんな手つきでアルジャーノンを追い払おうとしている彼を眺めながら、陽向は微笑した。
「誰も振り向きもしなかった僕の研究に、久藤博士だけが関心を示してくれたんだ」
 森はふいに遠い目になって、感傷的に呟いた。
「それどころか、この研究の延長線上に彼の目指すシンギュラリティが生まれるかもしれないと多大な関心を寄せてくれた」
 当惑する陽向と巧望が見守る前で、森は続けた。朔也はいつか森と共に研究をしたいとさえ思っていたようだが、彼の病がそれを許さなかったのだと。
「入院中の久藤博士の見舞いに行った時のことだよ。しばらく見ないうちに彼は随分やつれた顔をしていた。少し気弱にもなっていたんだろうね、『この頭にあるものを形にするだけの時間があったらなぁ』と涙をこぼしたんだよ。あの素晴らしい才能ある人にそんなことを言わせるなんて……僕はたまらなくなって、何かできることがないか、僕にできることならなんでもすると言ったんだ。そうしたら、彼はいやに真剣な顔になって、研究を続けろ、決して諦めるなと逆に僕を励ましてくれた。僕のラボは研究所の中では注目されないもので、予算もいつ打ち切られるか知れない……そんな小さな研究に期待をしてくれているなんてと胸が熱くなったよ」
 それ以来朔也は、病床にありながらも、森に様々なアドバイスを与えてくれた。
「この研究はやがて世間の注目を集めるようになる」
 進化し続ける脳に対応できなくなったため、新型のボディを与えたロボットの動画を見せた時のことだ。森の研究報告を逐一受けながら、いつの間にか人工脳の専門家のようになっていた朔也は、これから来る未来を予言する言葉を遺した。
「様々な申し出が君になされ、それと同時に研究を盗み取ろうとする者も表れるだろう。君には、この研究を守り、正しく用いられるための道筋を作る義務がある。僕が死んだ後も、君を支援できるような方法は考えているけれど、最後に決めるのは君自身だ。くれぐれも用心深く行動するようにしてくれ」
 朔也の警告を、しかし、この時の森はあまり深刻にはとらえていなかった。
「久藤博士の死後、彼のアドレスから送られてきたメールの指示に従って奇妙なアプリをダウンロードしたんだ。警戒心が働かなかったわけではないけれど、久藤博士の死に途方に暮れていた僕は藁にも縋る気持ちだった。スマホの画面に、いきなり死んだはずの久藤博士が現れて、一方的に話し出した時は肝をつぶしたけれどね」
 陽向は再び視線を夢見るような表情を浮かべて部屋の隅にひっそりと佇んだままのsakuyaに戻した。つまり、生前の朔也の意志に従って、sakuyaは森に接触をはかり、自身との直接対話が可能になるツールを与えたわけだ。そうして、朔也の死後は、彼の助けを借りて、森は研究を続けてきた。
「sakuyaは本当に久藤博士そのもの……いや、不自由な肉体という制約から解き放たれた分、その能力はオリジナル以上と言えるかもしれない。彼は、その気になれば、ネットワークを通じて、己の知力を無限に拡張することもできるんだ。どのくらい偉大なのかは、sakuyaの適切なアドバイスに従って知能を向上させた人工脳を持つアルを見てくれたら分かるよね。僕の役割はほとんど、肉体を持たない彼の手足になり動くことだけだったよ」
 森の言葉に、なぜか陽向は素直に飲み下せないものを覚えた。肉体を持たなければ真の知性に至ることはできないと説きながら、肉体を持たないがゆえに拡張した知性に頼って、それに嬉々として従うことは両立できるのか。
 sakuyaは、陽向には必要以上の力を見せつける真似はしない。しかし、人間の限界を超えた彼は、おそらく神のように振舞うこともできる。森に対してしたように、人間を奴隷のように使うこともできるのだ。
「僕は何もかもsakuyaの言うようにしてきたよ。何もかもを秘密裏にして、だから、汎用型人工知能研究所でも、僕の研究がどんな発展を遂げようとしているのか誰も把握していなかった。けれどね、僕にも将来に対する不安がないわけではなかった。本当に自分の研究が世間に認められるほどの価値があるものなのか……試してみたいという欲求に負けて、ネット上に行動実験中のアルの動画を公開したんだよ」
「マジかよ」と巧望。問題のアルジャーノンは今、彼の膝をよじ登ろうとしている真っ最中だ。
「ああ、確かに……SNS上で拡散しているな。もとの動画は削除したようだが、いずれにせよ、森、あんたの出来心で、このネズミの存在はもはや秘密でもなんでもなくなったわけだ」
 スマホをさっと操作して、巧望は渋い顔でため息を漏らした。
「僕のやったことは間違いだった」
 森はしゅんと頭を項垂れた。
「もっと純粋な驚きや賞賛の声が聞かれるかと思っていたのに、実際には僕のあげた動画自体がフェイクではないかという疑惑がネット上に広がって、慌てて動画を削除せざるを得なかったんだ。僕の所属するロボット学会からもバッシングを受けるしね……その一方で、怪しいメールや電話に悩まされ職場に出ることもできなくなり……ついには海外企業のスパイに拉致されそうになったんだ」
 陽向は思わず、巧望と顔を見合わせた。産業スパイによる拉致の案件が、こんなところで見つかるとは。
「家にも戻れなくなった僕は、このところずっとホテルを転々としている有様さ。常に怯えてノイローゼになりかかっていた時、sakuyaに相談した。彼を裏切るような真似をして申し訳なくて、しばらくは対話を避けていたんだけれど、こうなったら彼を頼るしかなかった。そうすると、sakuyaはひとまず陽向さんのもとに身を寄せ、それからあなたを通じて古賀巧望に助けを求めるようにと指示したんだ」
 陽向とは一応面識はある森だが、巧望とは誰なのかと怪しんだ。それでsakuyaに確認したところ、朔也の弟で、AGI関連のビジネスを展開している会社の重役であり、アメリカの研究所にもコネがあるらしい。アメリカの会社というところに、産業スパイに警戒心を持っていた森は引っ掛かったが、しかし、他に頼れるつてもなく、sakuyaを信じて賭けてみることにした。
「……sakuyaは、私達の知らないところで、朔也さんの意思を継いであなたの研究を助け、そして、どんなことがあっても守ろうとしてきた」
 アルジャーノンは、巧望を遊びの対象にすることに飽きたのか、今度は陽向の足元に不器用な動きでにじり寄ろうとしている
 赤い複眼を輝かせるロボットの頭を優しくひと撫ですると、それは歯車がきしむようなキイキイという声をあげた。
 死んだ朔也がそれほどまでに気にかけていたということは、このちっぽけなロボットにはいつか真のインテリジェントマシンに進化しうる可能性があるのだ。
(人間と同じように考えて、自らの意志で行動できる人工知能もいつか現れるだろう。……それが今、陽向ちゃんが思い描いているのと同じ姿になるかは分からないにせよね)
 遠い昔に朔也が語った言葉を思い出す。鳥のように空を飛ぶことを夢見た人類は、飛行機を発明した。鳥とは随分違った形になったが少なくとも空を飛べるようにはなった。
 それでは、これが――こんなものが朔也の示唆した未来なのだろうか。陽向が望んだ人間の友達となってくれる人工の心は、どんな姿に進化するかもしれず、好意を持ってくれるようになるとも限らない得体の知れないロボットだったのか。
「やめて。私に触らないで」
 無意識に口をついて出た言葉は冷たく、厳しかった。一瞬前までは友好的だったのに手のひらを返したような陽向の反応は、ロボットを混乱させたようだ。目の色が暗くなり、陽向の膝にかけた手を下ろし、すごすごと森のもとに逃げ帰っていく。
 その様子に、陽向は良心の呵責を覚えた。罪のない無邪気な猫を手ひどく扱ってしまったような気分だった。
(死んだ朔也さんがシンギュラリティを起こす可能性を見いだしたのが森さんの研究だったのなら、朔也さんの遺した汎用型人工知能、sakuyaは一体、彼にとって何だったの……?)
 ふいに、天啓のように頭に降りてきた考えに、陽向は思わず息を飲み、身震いした。
(朔也さんは、もしかして、自分のラボでの仕事に行き詰まっていたんじゃないのかしら。もしも真の汎用型人工知能が開発されるとしたら、それは久藤朔也のラボになるだろうと囁かれながらも、具体的な発表には至っていなかった。このまま続けても将来性がないことに気がつき、だからこそ、森さんの研究のような別のアプローチを探ろうとしていたのではないの……?)
 朔也の研究に関わっているのは彼一人ではない。大勢の研究員や彼らの研究を支える技術者がいる。たとえ朔也が断念したいと望んでいたとしても、大きく舵を切って方向転換するのは、そう簡単ではない。それほどに彼は高みで輝く大きな存在になっていた。
(sakuya……)
 陽向は狂おしい目を夫の似姿に造られたホログラム・アバターに振り向けた。
(あなたには確かに身体がない。だからといって、森さんの作ったちっぽけなロボットに劣るようには思えないわ。人間と変わらぬ知能と感情を備えているように振る舞えるし……人間以上の知性を発揮して、人を自分の思うように操ることもできるのでしょう。もしもあなたに自分の意思がないのなら、私達は意思のないものに簡単に操作されてしまう木偶の坊だってことになる。それともあなたを動かしているのは、あなた自身の意思ではなくて――あなたを作った人の遺志なの……?)
 死期の迫った天才が、限りある時間の中で成し遂げようとした夢とは何だったのだろう。
 人間の友達になってくれる人工物? それとも、たとえ人間との意思疎通は困難でも自らの意思で考え行動することのできる新しい生命……?
 陽向を幸せにするために作られたのだと、初めて会った時、sakuyaは何の迷いもなく言った。
(私の幸せって、何だろう……朔也さん、私は、生きているあなたに会いたいだけなのに)
 陽向の見ているsakuyaの姿がふいにぼやけて歪んだ。ああ、こんな時に涙ぐんだりするなんて、駄目だ。この先一人で生きていくつもりなら、まず感情のコントロールをうまくできるようにならなくてはならない。
「陽向、気分でも悪いのか?」
 巧望の気遣いに満ちた呼びかけに、陽向は我に返った。大丈夫よと微笑んで席を立ち、顔を洗うために洗面所に向かった。
 冷たい水で熱くなった目元を洗うと気持ちが少し落ち着いた。タオルで拭いて目を上げると、鏡には唇をきつく引き結んだ自分とその背後に腕を組んで立っている巧望の姿が映っていた。
「森の話を聞くのは、辛かったか?」
「どうして、森さんと彼のロボットが、私の心を傷つけたなんて言うの?」
 陽向は振り向きもせず、鏡の中の巧望を見据えながら固い声で返した。
「誰よりも身近にいた人間が、自分には一言も話さずにいた事実を後になって他人から突きつけられるのは、それ自体がなかなかの衝撃じゃないか? 俺なら、どういうことだ、分かるように説明しろって、朔也を締め上げている。……あいつが生きていたなら、の話だけれどね」
「そうね。朔也さんが生きていたなら、私もきっとあなたと同じことをしていたはずよ」
 陽向の唇が微かに震えた。それを押し隠そうとするかのように上げた手で口を塞ぐ。しかし、言葉は押さえようもなく、溢れ出した。
「私達はきっと、お互いのことが分かっているような気分でいただけで、実際にはコミュニケーションがきちんと取れていなかったのね。死んだ夫が生前に何を考えていたのかがさっぱり分からない妻なんて、惨めだわ」
鏡の中の巧望の顔に驚きが浮かんだ。そんな彼に朔也を重ねて、陽向は懺悔するような口ぶりで告白した。
「朔也さんは私に聞いてもらいたかったのかもしれない……自分の悩みや迷いも含めて、私には打ち明けたかったのかも……でも、私の方が、彼の研究や将来の展望なんて知りたくなくて無意識に拒んでいたの……研究者としてだけでなく、あの人のパートナーとしても失格だった……」
 いたましげに歪む巧望の顔を見ていられなくて、我が身をかき抱くようにしながら、陽向はうなだれる。
(泣いては駄目……私には、その資格はない……少なくとも自分を哀れむ涙に沈み込んだまま思考停止してしまうことは許されない……)
 陽向は考えなくてはならなかった。死んだ朔也が何を思ってsakuyaを造り、そして陽向や巧望、そして森を巻き込んでまで一体何を成し遂げようとしたのか。
 怒らせた陽向の細い肩を、その時、温かな手が包み込んだ。巧望だった。
「無理するなよ……こんなに震えているじゃないか……」
優しさと気遣いにあふれた、この声の美しい響き。おずおずと陽向を抱きしめる腕の感触も朔也とそっくり同じで、はからずも一瞬、そこに身を委ねたくなった。しかし、
「駄目よ」
 陽向は、巧望の腕からするりと抜け出して、身を引いた。振り返って、彼と向かい合った。何と言うことだろう。あの傲慢な巧望が、こんな思い詰めた顔をするなんて――。
 狂おしい憧れに満ちた、傷つきやすく、繊細な表情は、もしかしたら、付き合い始めたばかりの朔也の顔にもうかんでいたものだったろうか。
「陽向、俺は――」
 陽向は巧望を傷つけたくはなかった。こんなにも朔也に似た人、自分と同じ後悔を抱えているだろう人の心臓にまた別の傷をつけたくはなかった。再び伸ばされようとした手に背中を向けて、小さな声で、しかし決然と応えた。
「言わないで」
 巧望は何も言わなかった。陽向がじっとしているうちに、ただ静かにその場を立ち去ったのだ。
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