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第三章
コギト・エルゴ・スム 九
しおりを挟む陽向が二週間ごとに訪れているクリニックから帰宅した時のことだ。
家の門の前で、中の様子をうかがうかのように佇んでいる男の姿があった。
初めは訪問セールスの類いかと思ったが、陽向の乗った車が近づいてくると、慌てたように背中を向けて足早に去って行ってしまう。
(うちに用事があるんじゃなかったの……?)
帽子とマスクをした小柄な男の顔はよく見えなかったが、わざわざ家を訪ねてくる知り合いなど巧望以外に心当たりはなく、首を傾げるばかりだ。
(まさかと思うけれど……東条先生が、脅し目的で、私の家に人をやったとか……?)
東条と電話でやりあったのはつい先週のことだ。身の回りに注意をするようにという脅迫めいた捨て台詞には、呆れながらも、薄気味悪さを感じていた。
念のため何か入っていないかと郵便受けを覗いてみるが、セールスなら残していきそうなチラシや名刺もない。
モヤモヤしたまま気分のままで過ごすのも嫌になった陽向は、家に入るなりバッグからスマホを取り出し、思い切って巧望に電話をかけてみた。
「やあ、陽向! 驚いたな、君から俺に電話をくれるなんて」
最後は半分喧嘩になってしまった先週の電話でのやり取りなどなかったかのように明るい巧望の声に、陽向は密かに胸を撫で下ろした。
「突然ごめんなさい、巧望さん……あなたに少し相談したいことがあるんだけれど、今、話しても大丈夫かしら……?」
二階の寝室に向かって階段を上がりながら、ためらいがちに切り出す。
「ああ、うん……丁度ミーティングも終わったところだから大丈夫だ。……ちょっと待てよ、人のいない場所に移ろう」
まっとうな社会人なら働いている時間に電話をかけてしまったことを申し訳なく思いながら寝室のベッドの端に腰を下ろして待っていると、程なくして再び巧望の声が聞こえた。
「お待たせ、陽向。俺に相談だなんて一体何事だい? sakuyaのことなら、君の要望を伝えた上で本社の解答を待っているところだよ」
「ありがとう、巧望さん……でも、今回はその件で電話をしたんじゃないの。実は、さっき家の前に不審者を見つけて、気になったものだから――」
「不審者だって?」
「私、かつての上司との訴訟を控えているの……その人から先日電話で脅されたものだから不安になって――私の気のせいだとも思うけれど、誰かの意見も聞いてみたくて、あなたに電話したのよ」
陽向が東条との経緯をかいつまんで説明するのにじっと耳を傾けた後、巧望は言った。
「俺は、その東条という男の人となりを知らないから、その不審者が本当に彼とつながっているかについては何とも言えない。しかし、いい年をした大人が、裁判になった時に自分の不利になるような、そんな軽率な真似をするとも考えにくいな」
「そうね……現時点で東条先生を疑うのはやっぱり時期尚早よね」
冷静な第三者としての巧望の考えを聞いて、ようやく胸のつかえが取れた陽向だが、そんな彼女に釘を刺すよう、巧望が続けた。
「俺はそんなつまらない訴訟がらみよりむしろ、sakuyaの情報がどこからか漏れたことを心配するよ。君を疑うわけではないけれど、天才と名高い久藤朔也が残した技術があれば、それを欲しがる企業や国は、うちの会社だけでなく世界中にごまんといるだろうからね」
「私が、sakuyaのことを外部に漏らすことなんてありえないわ」
巧望の言わんとすることがとっさに飲み込めず、陽向は単純に言い返すが、すぐにことの重大さに思い至った。
「……個人や企業から最新技術を奪おうとするスパイ行為――そんなことが日本でもあるりうるの?」
「はは、のんびりした日本こそ、海外からのスパイにとっては天国だって言われているくらいなんだよ」
「でも、sakuyaの存在を知っている人間と言えば私達以外には……そうよ、巧望さん、スパイがいるとしたら、あなたが報告したアメリカ本社の方じゃないの?」
巧望は一瞬黙り込んだ後、今度は慎重に言葉を選びながら、陽向の疑いに対して答えようとした。
「future life labsには産業スパイなど絶対いないとは言い切れない。勿論、兄貴の研究には生前から各国の研究機関や企業が多大な関心を示していたから、その『遺産』を探し求めてのスパイ活動という可能性もあるが、いずれにせよ、推測の域を出ない。本来なら、sakuyaごと、厳重なセキュリティのかけられる場所に移してしまいたいくらいなんだが……?」
「それは駄目よ。本当にスパイに狙われているかも分からないのに、私の不安を煽って、sakuyaごとを囲い込もうなんてしないでちょうだい」
「……だよな。陽向がそう言うなら無理強いはしないが、うちの研究所に避難したくなったらいつでも言ってくれ。日本で稼働して間もないが、セキュリティはアメリカ並の厳重さだからな」
巧望のくすくす笑いが聞こえてくる。腹がたったが、先に相談を持ちかけたのはこちらなのだから、文句を言いたいのをぐっとこらえた。
「ともかく、しばらくの間、不要な外出は控えることだな。まあ、陽向は基本的に引きこもりだから、それで不自由を感じることはないだろう。外部からの接触には、それがたとえ知り合いであっても用心することだ。今のところ陽向が信じていいのは俺くらいだと思っておいた方がいい」
「そんなことをよくもしゃあしゃあと言えたものだわね。私を騙すようにして、sakuyaのテストを行なったことはもう忘れた? 全く、あなたの厚顔さには呆れるわ」
「君の方こそ忘れたのかい、sakuyaをテストしたいと最初に言い出したのは、君だろう?」
ついむきになって言い返そうとしたが、その時、ふと、sakuyaに言われたことを思い出した。
(違う……いつも喧嘩ばかりしている私と巧望さんが気の合うはずがない)
sakuyaがどこかから自分を見ているのではないかとさまよわせた視線の先に、寝室の壁にかかった鏡を見つけた。そこに映った自分の顔が楽しそうに笑っていることに、何かしらはっとなった。
「……もう切るわ、巧望さんはまだ仕事中でしょう……? 忙しい時にこんな取りとめもない話を聞いてくれてありがとう」
「ああ、そうか……俺の方は陽向に頼りにしてもらえると知って嬉しかったよ。また何かあったら遠慮しないで電話をくれ」
陽向から唐突な会話の打ち切りを告げられた巧望の声は残念そうだった。迷惑がられないかと心配していたのに、ひょっとしたら、彼の方も、陽向と話をするのを楽しみにしていたのだろうか。
「……そう言えば、私のことを何気なく引きこもり呼ばわりしたわよね……ああいう無神経なところ、やっぱり気に入らないわ」
巧望からの電話を切った後、陽向はベッドの上にごろりと横になって、溜息をついた。
「朔也さんとそっくり同じ声だった……でも、話し方が違う。当たり前よ、巧望さんは私が愛した人じゃないんだから」
自分に言い聞かせるように呟いて、陽向は両手で顔を覆った。
不審者のことを巧望ではなくsakuyaに真っ先に相談しなかったことは、後から考えると間違いだった。
彼ならきっと、もっと適切なアドバイスをして、陽向の不安を早いうちに拭い去ってくれたはずだ。
日常生活を一人でも難なく送れるようになったこともあるが、どんな態度でsakuyaに接すればいいのか決めかねている心持ちで、前のように気安く彼を呼び出すことは難しかった。
もっとも、これは陽向が勝手に思っていることだ。sakuyaは決して陽向を責めたりはしない。助けを求めたら、いつでも誠実に応えてくれるだろう。
彼はそうプラグラムされているからと考えると、陽向はこの頃、無性に哀しくなる。
随分昔に見たスピルバーグの映画と同じだ。人工の心は、決して人間を裏切らない。裏切るのはいつだって人間の方なのだ。
巧望に相談した後の数日間は用心しながら暮らしていた陽向だが、結局何も起らないので、あれは自分の思い違いなのだという気になりかけていた。
春を思わせる陽気にも誘われて、散歩がてら徒歩で近所のスーパーに足りない食材を買いに出かけた帰り道、自宅の近くで、陽向は先日の男の待ち伏せにあった。
一体いつからいたのだろう。陽向の姿を見つけるなり細い路地から小走りに近づいてくる男に気づいた時のショックは相当なものだった。
どこかのスパイかも知れない不審者が、まさか真っ昼間の住宅街に現われるとは思わなかった。通りかがった近所の人も、見慣れない怪しい風体の男が陽向に声をかけようとしている様子に疑わしげな眼差しを向けている。
陽向は目を合わさないようにしながら、男の側を足早に通り過ぎようとした。しかし、その前に両手を広げるようにして立ち塞がれて、思わず、相手を睨み付けた。
この前と同じくすんだグレーのコート姿は浮浪者とまではいかなくても、何となく薄汚い。マスクと帽子をつけて人相を分からなくしているのは、人目を避けるためなのか。大きなバッグを抱えるようにして持ちながら、何か訴えたそうに陽向にじりじりと迫ってくる。
「あ、あの……」
得体の知れない男が口を開いた。思わず総毛立つ陽向。おずおずと伸ばされる手を振り払い、踵を返して脱兎のごとく逃げ出した。
「ま、待って……!」
こんな場所で不審者に追いかけられるなんて、信じられない。sakuyaが気づいたら、以前のようにうちにあるスマートカーのAIを乗っ取って駆けつけてくれるだろうか。しかし、そんな都合のいい展開にそうそうなるはずがなく、今現在、誰も自分を助けてはくれない。
陽向は新築の家ばかりが両側に建ち並ぶ整備された道路を必死に駆け抜けた。なだらかな坂を下って広い車道にまで出れば、大きなコンビニがある。そこに駆け込んで助けを求めたらいい。
そんな陽向の背中に、男の切迫した声が届いた。
「待ってくれ! 怖がらないでどうか話をさせてくれ……久藤さん……!」
あの男、陽向の名前を知っている。やはり、久藤朔也の妻だから、接近しようとしていたのか。そうすると巧望の提唱したスパイ説が濃厚なのかもしれないが、慌てふためきながら追ってくる男の様子からして、ちょっと違うのではないかという気もしてきた。
(スパイになんか会ったことはないけれど、もしも本物なら、もう少し手際よくスマートに対象に接触できるんじゃないの……?)
造成されたばかりの宅地の間を走っていくうちに、次第に陽向の息はあがってきた。家に閉じこもって運動らしい運動もしていなかった、そのつけが回ってきたようだ。
同じようにハアハアいっている男の息づかいが次第に迫ってくるのに、陽向は焦るが、体は思うように動いてくれない。ついには足をもつれさせて、近々大きなマンションが建つらしい大規模な宅地を斜面の下に見下ろす道路で転倒してしまう。
「久藤……陽向さん……っ……」
すぐに追いついてきた男の方を肩越しにきっと睨み付け、よろよろと立ち上がる。引きつった陽向の顔を見て、男は躊躇するかのように足を止めた。
「な、何……一体、私に何の用があるのよ……!」
「僕のことを覚えていない……?」
マスクを外しておずおずと問いかける男の顔を陽向は改めて注視した。そう言われれば、どこかで見た顔のような気もする。
その時、男が抱えている大きなボストンバックに目がいった。こんな邪魔なものを放り出しもせずに陽向を追いかけてくるなんて、よほど大切なものなのだろう――そのバックが、いきなり、もぞもぞと動きだした。
中に何を入れているのか知らないが、男が慌てたようにバッグを持ち直すのを尻目に、陽向は道路を素早く横切り、雑草がうっすらと生え始めている斜面を駆け下りようとした。宅地造成中の重機が見えたので、そこにいる人に助けを求めようとしたのだ。
だが、陽向が何をするつもりか察した男の動きは早かった。
思ったよりも急傾斜になっていることに怯んだ陽向との距離を一気に縮めて、その手をつかんで引っ張ろうとした。
「何をするんだ、危ない!」
「やめて、放してよ!」
もみ合っているうちに男が肩から引っかけていたボストンバックが地面に落ちた。金属でも入っているかのような重い音がした。
それを見た男は陽向を突き飛ばすようにして離れ、地面でまだもぞもぞと動いているバッグを慎重な手つきで拾い上げ、守るかのようにかき抱いた。
「大丈夫だよ……おとなしくしておいで……」
魂を飛ばしたように立ち尽くしている陽向に向けられた男の顔は哀しげだった。眼鏡の奥の気弱そうな目を見た時、陽向の記憶の中に眠っていたいくつかの場面が蘇った。
「あなた……もしかして汎用型人工知能研究所にいた……人工脳を搭載した虫型ロボットをラボの外に放してしまって大騒ぎを巻き起こした……?」
呻くように呟くと、男の表情がぱっと明るくなった。
「そ、そうだよ、思い出してくれたのかい、久藤陽向さん……僕は、君に助けを求めてやってきたんだよっ」
気持ちを高ぶらせて迫ってくる男の手から反射的に身をよじって逃げようとした、その時、車のクラクションが鳴り響いた。
振り向けば、先ほど陽向が逃げてきた方角から現われた車が猛スピードでこちらに迫ってくる。
見覚えのある青いスマートカーを見て、陽向はとっさに、sakuyaが助けに駆けつけてくれたのかと思った。
しかし、それはsakuyaではなかった。男ともみ合っているすぐ側に停まった車から飛び出した姿を見て、一瞬、自分の願望が現実になったのかと勘違いしそうになった。
「朔也……さん……?」
勿論、そんなはずはなかった。巧望だとはすぐに分かったが、いつも茶目っ気のある明るい笑みをうかべた彼らしくない、暗く冷たい目をして、厳しく引き締まった頬には酷薄さが漂っていた。
巧望は、おろおろとする陽向に素早く視線を向け、どこも怪我はないことを確認すると、ぽかんとなって自分を見ている男の胸倉を掴んで殴りかかった。
「巧望さん、やめて……違うのよ!」
陽向は慌てて、巧望の振り上げた腕にしがみついた。
「この人、私の知人なの……まだ名前を思い出せないけれど、以前、神戸の汎用型人工知能研究所で働いていた時に別のラボにいた研究者よ……朔也さんのお葬式にも来てくれていたはず……」
「何だって……陽向や兄貴の……知り合いなのかよ……」
巧望の腕は激昂のあまり小刻みに震えていた。声もだ。陽向になだめられても、すぐには頭の切り替えができないようだった。
「陽向の家に行ったら、誰もいなくて、どうしたんだろうと思っていたら、近くに住んでいるという奥さん達が教えてくれたんだ……変な男に追いかけられて、逃げていったって……警察を呼んだ方がいいんじゃないかって……」
降参したように手を上げたま、殴られるのを覚悟して固く目を瞑っている男の顔をつくづくと眺めて、巧望はようやく相手を締め上げている手をほどいた。
男はその場にへたりこみ、げほげほと咳込んでいる。
「……ひどいよ、久藤博士にそっくりな顔をして……あんたは一体、何なんだ……ああ、そうか、彼が言っていた弟っていうのか、あんたのことか……」
男の恨み節を聞いて、巧望は端正な眉をつり上げ、再度、彼に詰め寄ろうとした。
「おい、誰から、俺のことを聞いたんだ……そもそも、一体、何のために陽向に近づこうとした……誰かに頼まれてのことなのか?」
凄みを含んだ声の迫力に、男はたちまち縮こまる。巧望は、この時、スパイ疑惑を思い出していたのだろうが、目の前で震えている哀れな男はそのイメージとはほど遠いことにやがて気がついたようだ。
戸惑い、問いかけるように振り返った巧望に向かって、陽向は大丈夫よというように頷き返した。彼の脇を通り過ぎ、道端に落ちた黒いボストンバックを引き寄せようとしている男の前にそっと進み出た。
「あなた、名前は? 私に助けてもらうためにやって来たと言ったわね。どういう意味なの?」
男は、その声にぶるっと身を震わせ、おずおずと顔を上げた。
「僕の名前は森啓介。君も働いていた汎用型人工知能研究所では、ニューロモーフィック人工脳のラボにいた……」
森は腕を組んで自分を見下ろしている巧望を気にしながら、たどたどしい声で自己紹介をした。
「助けてくれ……僕の研究が狙われているんだ……久藤さんのもとに駆け込めば、僕と僕の研究を保護してもらえるからと共同研究者に進められて、先週君の家の前まで来たんだけれど、いざとなるとためらって逃げてしまった……もう誰を信じたらいいのか分からなくって……」
陽向は当惑した。
「この私が、あなたをどうやって助けられるというの……あなたの研究のことだって、何も知らない……」
陽向は頭を巡らせて、巧望の方を眺めやった。彼もどうしたらいいか分からず途方に暮れているようだったが、その顔を見た瞬間、陽向の中で何かが閃いた。
「待って……森さん、私を訪ねるようにあなたに促したのは、一体、誰なの? 共同研修者って、言ったわね?」
陽向の唇から迸った問いかけは、思ったよりも厳しく響いたようだ。森ははっと身を固くし、バッグを守るかのようにぎゅっと抱きしめた。
「く、久藤朔也博士だよ……あなたのご主人だった……」
「嘘よ……」
陽向は神経質に震える手を胸の前でもみ絞った。
「朔也さんは死んだのよ……あなただって、知っているでしょう……死んだはずの彼がどうしてあなたにそんなアドバイスができるというの……?」
森はもどかしげな顔をして、頭を激しく振り立てた。
「確かに久藤博士は死んだ……けれど、あれが彼の終わりではなかったことを、あなたは知っているはずだ、そうだろう……?」
陽向は瞠目した。
「あなたの共同研究者って、まさか……?」
あえぐように囁く陽向の肩を、いつの間にか後ろに回り込んでいた巧望がそっと支えた。
しばらくおとなしくなっていた森のボストンバックの中に隠された何かが再び落ち着きなく動き出した。
「彼が、僕に、ここに来るように言ったんだ」
固唾をのんで見守る陽向と巧望の前で、森はおもむろにコートのポケットから取り出したスマホを操作し、立ち上げたアプリの画面を二人に示した。
陽向と巧望が息を詰めて見守る中、スマホの画面に現われた砂の微粒子のようなものが蠢きながら集まって、ひとつの顔を描き出した。
ほとんど実物を変わらない精妙さで作り出された美しい顔が目覚めを装って、目を開き、陽向をまっすぐに見た。
その唇が動いて、「陽向」と、自分の名前を紡ぎ出す。
「sakuya……」
自分のものとは思えない擦れた声が唇から知らぬ間に零れ出すのを、陽向はどこか人ごとのように呆然と聞いていた。
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