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第三章

コギト・エルゴ・スム 一

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 突然に現れた朔也とそっくりな顔をした男――古賀巧望を、初見の衝撃も覚めやらぬまま、陽向はやっとの思いで家の中に案内した。
 玄関に入った時に、ホーム・セクレタリーであるsakuyaが迎えに現れるのを期待したのだが、予想に反して、彼は姿を見せなかった。
 仕方がないので、陽向は一人で巧望の相手をすることにした。
「この家にお客様を迎えるなんて初めてよ。それに、最近は主治医以外の人間と話したこともなかったから、気が利かなくても勘弁してちょうだいね」
 そう言いながら、陽向は手土産のケーキをドリンク・サーバで煎れたコーヒーと一緒にダイニングのテーブルに運ぶ。
 巧望はリビングで立ち止まったまま、頭をゆっくりと巡らせて興味深げな視線を周囲に走らせている。天井のホログラム発生装置に一瞬目をとめた後、ダイニングテーブルの側で待っている陽向を振り返った。
「俺は、もっと早くに日本に来るべきだったんだ。兄さんの葬儀に出られなかったことが、つくづく悔やまれるよ。陽向はきっと俺のことを血も涙もない薄情な弟だと思っただろうな」
 巧望は、朔也のように『僕』ではなく、『俺』と自分のことを呼ぶ。陽向は曖昧な微笑を浮かべて、頷いた。
「そんな後悔を今更するくらいなら、あなたは葬儀に出るべきだったし、きっと朔也さんがまだ生きている間に会いにくるべきだったのよ。二人きりの……双子の兄弟なんでしよう?」
「……陽向は、手厳しいね」
 巧望は軽く肩をすくめると、悪びれない態度でテーブルにつき、出されたコーヒーを一口飲んだ。
「うん、なかなかいい豆を使っているな。これは、兄さんが選んだブレンドなんだろうね」
 何気ない感想に、陽向は一瞬虚を突かれた。
「その通りよ。朔也さんが好きだった専門店のブレンド……巧望さんには分かるの?」
 訳もなくうろたえる陽向を、巧望は物怖じしないまっすぐな目で見つめ、朗らかに笑ってみせた。
「俺と兄貴は、昔から好みが似ているんだ。それぞれが別の店で買ってきたTシャツが同じものだったなんて、笑えない冗談みたいなこともあったくらいさ」
 思わず想像し、陽向はふふっと笑った。それから、今、家のカーポートに二台並んで停めてある濃紺のボディのスマートカーを思い浮かべた。テスラ社製のスマートカーに搭載されているAIはfuture life labs社のOSとも同期できる仕様になっている。
「そう言えば、あなたが乗ってきた車も朔也さんと同じ車種ね。あれは、わざとじゃないの?」
 陽向の指摘に、巧望は端正な顔をちょっとしかめてみせた。
「わざとのはずがないだろう。知っていたら、さすがに別の車を選んだよ」
  巧望はリビングの窓の向こうに見えるカーポートを眺めやり、居心地悪そうに身じろぎをして、綺麗なウエーブのかかった髪をくしゃくしゃとかき回した。
「全く、笑えない冗談だ」
 外見は見分けがつかないくらいにそっくりだけれど、口調や表情、ちょっとした仕草から垣間見える内面はどうやら随分違っているようで、そのことは陽向を少しほっとさせた。
「そのケーキ、美味しいだろう?」
 ふいに、思い出したように、巧望は問うてくる。陽向の前に置かれた、どっしりとボリューム感のあるチーズケーキを一瞥し、自分の皿の大きなチョコレートケーキを一口食べて、満足そうに頷いた。
「え、ええ……こんなに美味しいケーキ、久しぶりに食べるわ。すっごく甘いけれど、最高よ。最近運動していないから、こんなものがばかり食べたりしたら、あっという間に太りそうね」
「頭脳労働をする人間は、適度な糖分を取るべきなんだ。脳はエネルギー源としてブドウ糖しか使うことができないんだからね」
「それって、甘い物好きのこねる屁理屈のように聞こえるけれど、そうね、確かにブドウ糖は必要だわ」
 口の中で甘くとろけるようなチーズケーキを味わいながら、陽向はやっと肩の力を抜いて、巧望と話ができるようになってきた。
 ケーキの皿を下げ、コーヒーのお代わりを持ってテーブルに戻った時、すっかりくつろいだ様子で椅子に座っている巧望に向かって、率直な疑問を投げかけてみた。
「どうして、朔也さんは、あなたのことを私に黙っていたのかしら。巧望さん、よかったら、あなた達のことを私に教えて。朔也さんとあなたが、ご両親の離婚で離ればなれになった、その後は……?」
 巧望はコーヒーを飲みながら目を上げた。射貫くような鋭い眼差しに一瞬ぎくりとさせられたが、すぐにもとの気安い調子に戻って、いいよと軽く答えた。
「両親の離婚で離れて暮らすことになった俺と朔也だけれど、兄弟ではしばらく交流を続けていたんだ。夏休みなんかには、どっちかがどっちかの家に長期間泊まりに行くこともあったし、二人で旅行をしたこともあったな。けれど、19歳の時に大喧嘩をしてしまって、そこから何年も連絡を取り合わない状態が続いた」
 19才の頃と言えば、朔也が父の研究室に招かれ、陽向の家にホームステイすることになった直前の話ではないだろうか。遠い目をして淡々と語る巧望を見つめながら、陽向はふと思い当たった。
「君達の結婚式にも呼ばれなかったのは、きっとまだ兄貴が俺を許していなかったからだと思う。いつも穏やかな兄貴なのに、一端怒るとなかなか気持ちを和らげるのが難しいんだ」
 温和な朔也が激怒するほどの一体何をしたのかと陽向は怪しんだが、うつむいた巧望の顔が思い詰めたように見えて、口を差し挟むことはできなかった。
「音信不通のまま時が流れ、結局、俺達が再会したのは、アメリカで開かれた汎用型人工知能のシンポジウムでのことだった。その時、朔也と連絡先を交換した俺は、友人達と立ち上げたベンチャー起業の中心メンバーとして、改めて会って話をしたいと彼に電話をかけたんだ。俺が持ち出したAGIを搭載したスマートホームの開発に朔也は興味を示し、そこから共同開発が始まった。たぶん、朔也の頭には、スマートホームに導入できるAGIのアルゴリズムは既にできていたんだろう、彼が参加してから、プロジェクトはスムーズに進んで、二年足らずで実装にまでこぎ着けた」
 陽向と結婚生活が始まってからの出来事だというのに、朔也は弟と再会したことも、彼と一緒に仕事を始めたことも一度も話してくれなかったことに、改めて、陽向は何だか裏切られたような落胆を覚えた。
(私、誰よりも身近な場所にいながら、朔也さんのこと、本当は何も知らなかったのかもしれない。彼がいなくなった後に、こんな形で、そのことを思い知らされるなんて……)
 悄然とうなだれて己の思念に捕われていた陽向は、巧望が話をやめて、探るような目を向けていることに気づかなかった。
「陽向」
 低い声に名前を呼ばれて、やっと我に返った陽向は、ぎこちない笑顔を作りながら、正直に言った。
「ごめんなさい、ちょっとぼんやりしてた……あなたから知らされた話は、私にとっては全く初めてのもので……朔也さんが私に黙っていたことが、思いのほかショックだったみたい……」
「どんなに近しい間柄であっても、その人の全ては知り得ないものだよ。君だって、朔也にあえて話していなかったことの一つや二つ、あっただろう?」
「そんなことな……」
 言いかけて、本当にそうだったのかと陽向はたちまち自信をなくしてしまった。自分の研究のどこにどう行き詰まっているのか、彼に相談したことはあっただろうか。東京行きのことを打ち明けたのは、彼に内緒に試験を受けて、その結果が出てからだった。妊娠した時に、すぐに彼に知らせる代わりに、自分を追い詰めるほど仕事をして、挙げ句の果てに彼の子供を流産してしまった。
(私の方こそ、朔也さんに対して、ひどく薄情なことをしていた。黙ったまま、何でも自分勝手に決めてしまう私のことを、本当はどんなふうに思っていたんだろう)
 テーブルの上にあったティシュの箱がすっと目の前に押し出される。陽向は涙ぐんでいたらしい。巧望の方を見ないようにして、引っ張り出したティッシュで目元を押さえた。
「君が今心を痛めていることは、きっと、朔也が生きていたら面と向かって話し合うことで解決できたような、些細な行き違いにすぎないんだよ。そんなに重く受け止めるな……勝手に死んだ兄貴が悪いんだから、泣くだけ損っていうもんだ」
 慰めてくれているつもりかもしれないが、その言い草が陽向の癇に障った。ティッシュの箱をつかんだまま、涙に濡れた顔を上げ、悠然とコーヒーを飲んでいる巧望を睨み付けた。
「さ……朔也さんが若くして死んだのは、彼のせいじゃないわよ! 大体、損って何よっ……私の涙は損得で計れるものじゃないわ!」
 激しくねめつける陽向に対し、巧望は降参したように両手を上げた。
「陽向は見かけによらず気が強いんだな。初対面の義理の弟を罵倒できるくらいには気骨があるのが分かって、ちょっとほっとしたよ。夫を亡くしたばかりのか弱い未亡人に相手に、これからするような話を持ち出すのは、さすがの俺も気が引けていたんだ」
 巧望の口調が、一転、冷ややかで凄みを含んだものに変わった。ぐいっと身を乗り出して、陽向の視線を捉えようとする、濡れたような黒瞳は、朔也にそっくりなようでいて、何かが決定的に違っていた。深沈とした静けさを湛えた朔也の瞳とは違う、星のように煌めく瞳に宿る圧倒的な熱量が、対峙する人を怯ませるのだ。
「future life labs社のスマートホームに導入されているEDENシステム、その核である人工知能のアルゴリズムは朔也が一人で考えたものだ。彼が死んだ今もEDENの動作には滞りなく、アメリカ中のスマートホームの住人にサービスを提供し続けている。だが、そのベースとなる汎用型人工知能の理論を完璧に理解している人間は今や誰もおらず、システム自体がブラックボックスのような状態になっているんだ」
 巧望は今、朔也の弟としてではなく、future life labs社の代表として話しかけているのだ。それも、彼の会社にとって、とても重要な問題を陽向に提示しようとしている。
「しかし死期を悟った朔也が手がかりを何も残さず、この素晴らしい研究を誰にも解けない謎のまま放っていくとも思えない。君は朔也のもっとも身近にいる人間だ。そして、君自身も汎用型人工知能の研究者だ。彼が死ぬ前に、何か聞いていないか、研究者として託されたものはないのか?」
 たたみかけるように追求してくる巧望に対して、陽向は必死になって頭を振りながら、訴えかけた。
「朔也さんは、自分の研究の内容は私にこれっぽっちも教えてくれなかった。私達は、とても仲がよかったはずなのに……思っていたほど、何もかも打ち明け合えるような夫婦じゃなかったのよ!」
 陽向の切迫した表情を見て、巧望は言葉を切った。異様に鋭い眼差しで、陽向の真意を読み取ろうとしている。
「実を言うと、朔也の死後、本社のサーバコンピュータとデータセンターに誰かが不正にアクセスしている痕跡が見つかったんだ。IPアドレスは日本。陽向には、何か心当たりがあるのではないかな?」
「不正アクセス……何のことよ?!」 
 巧望は、陽向が重要な企業秘密にアクセスしようとしたという疑惑を抱えて、ここに来たのだ。決して、兄の妻にただ会いたかったわけではない。
「冗談じゃないわ、この私がどうして、そんなハッカーのまねごとをしなくてはならないの。自分のことだけで手一杯の状態なのに……そんな余裕があったら、精神科のクリニックに通う必要なんてなかったでしょうよ!」
 とっさに、手元にあったマグカップに手を伸ばしかけた。そこに半分ほど残っていたコーヒーを巧望のハンサムな顔にぶちまけてやるつもりで――。
「落ち着いて、陽向」
 しかし、その時、穏やかでありながら凜と響く声が陽向を止めた。天井から降ってきた淡い光と共に二人が睨み合っているテーブル脇に現れたのは、巧望にそっくりな、しかし、醸し出す雰囲気は全く異なる美しい男だ。
「……sakuya……」
sakuyaは陽向に愛情のこもった一瞥を向けた後、事の成り行きに唖然となっている巧望を見据えた。
「巧望、君が問い詰めるべきなのは陽向ではない、この僕だ」
 陽向は、一体このAIは何を言い始めたのだろうと疑いながらも、彼が巧望に対して泰然とした態度を崩さず、意外な告白をするのを、ぽかんと眺めていた。
「そう、この僕が朔也のIPアドレスとアクセスキーを用いて、future life labs社のデータセンターとサーバにアクセスを重ねてきたんだ」
 巧望の口から呻くような声が漏れた。眉間に深いしわを刻みこみ、仇敵に相対するかのように睨み付けてくる『弟』をいなすかのように、sakuyaは言い放った。
「この人工の心の更なる進化と深化のためにね」
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