花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第四章

愛とスープの法則(5)

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(この人が『大天使』ことガブリエル・ドゥ・ロスコー…アカデミー・グルマンディーズの主宰であり、ここの社長、そして、ローランの最愛の人)
 ずっとその存在を意識してきたガブリエルと初めて直接真見えたルネは、混乱と衝撃のあまり、しばし石と化したかのように固まっていた。
(僕にそっくりだと聞いていたけれど…嘘だ、ちっとも似ていない。この人に比べたら、少しくらい綺麗だと言われたって、僕なんかあまりにも平凡でつまらなく見えてくるはずだ)
 確かに顔の造作は一部を除いてよく似ているのだろうが、滑らかなクリームのような肌といい、淡い薔薇色のふっくらとした唇も、根元から混じりけのない金色に輝いている髪も、ここまで綺麗な生き物が存在するなんて奇跡のような、ほとんど人間離れした美しさだ。
(こんな顔を間近でしょっちゅう見てきたわけだから、自然とローランの目も肥えているんだろうな。ああ、今更だけど、僕、あの人を振り返らせる自信なんかなくなってきた)
 ガブリエルは、話で聞く限り、ルネより1才年上のはずだが、あどけないと言っていいほど無邪気な微笑みを浮かべた顔は少年のようにも見えたし、同時に実年齢を遥かに超越した老成した雰囲気もまとっていた。
(実は百年や二百年生きていたとしても少しも不思議でないような…確かに『大天使』と渾名されるのも頷ける。こんな人の身代りになんか、この僕がなれるはずがない…あれ…? おかしいな、それなら、どうしてローランは、わざわざ僕に髪の色まで変えさせて、ガブリエルを真似た恰好なんかさせたんだろ…?)
 ふいに湧きあがった疑問をルネが斟酌しようとしていると、彼とのにらめっこに飽きたのだろう、ガブリエルが小さな欠伸をした。そして、おもむろに手を伸ばしてきて、ルネのころっとした鼻を白い指先でつまんだ。
「可愛らしい鼻ですね」
 にっこり笑う天使に鼻をつままれたまま、ルネは目をぐるっと回した。
「ハ…ハァッ…??!!」
 素っ頓狂な声をあげて、ルネはガブリエルの手を振り払いざま、後ろに飛びのいた。
「ななな、何をするんですか?!」
 真っ赤になって鼻を手で押さえ、動揺のあまり震える声で訴えるルネを、ガブリエルはつまらなそうに唇を尖らせ、見返した。
「可愛いと思ったから、つい触ってみたくなったんですよ。怒ることはないでしょう、私は褒めているんです」
「褒めてって…初対面の人にいきなりあんなことされたら、誰だってびっくりしますよ」
 ガブリエルは悪びれもせず、おっとり首を傾げた。
「ああ、では、あなたは別に怒っている訳ではないんですね。それを聞いて安心しましたよ。ローランのお気に入りの秘書に、出会いがしらから嫌われたくはないですからね」
 ルネは何やら毒気を抜かれた気分で、恋敵であるはずの人が砂糖菓子のような甘い笑みを浮かべるのを見守った。
「…失礼しました、ムッシュ・ロスコー。まさかあなたが突然社にお越しになるとは夢にも思っていなかったものですから――申し遅れましたが、僕はルネ・トリュフォー…ムッシュ・ヴェルヌの秘書です」
「ふふ、言わずもがなな気もしますがね。あなたのことはローランからよく聞いているので、何だか初めて会った気がしませんよ」
 ガブリエルの台詞に胸がざわめくのを覚えたが、ルネは問い返したくなる衝動をぐっと堪えた。
「さっきはあなたを驚かせてしまって、すみませんでしたね、ルネ。最初は奥の社長室に行ってみたのですが、久しぶりに中を覗いてみたら、私には身に覚えのないガラクタが色々置かれていて物置みたいなことになっていたので、仕方なくここで待たせてもらっていたんです」
 ルネは、額が薄っすらと汗ばんでくるのを覚えた。
「あまり社の業務には関係なさそうな、健康器具みたいなものもありましたねぇ…あれはたぶん、ローランが通販番組か何かで見かけて衝動買いしたものでしょう。彼の家にも似たようなものが転がっていましたが、軽い気持ちで取り寄せてもいざ使ってみると気に入らなくて、すぐ放置ということになるんですよ。これ以上ガラクタを増やしても邪魔になるだけだから、よく考えてから買えと言い聞かせるんですがね」
「す…すいません、僕がいけないんです。あんなものを副社長室に置くと目障りだし邪魔になるだけから、独断で社長室に片付けてしまいました」
 恐縮するルネに向かって、ガブリエルは鷹揚に頷いて見せた。
「別に構わないですよ。あんな広い部屋を遊ばせるのも、確かにもったいないですからね」
「そ、そう言えば、他の社員達は一体何をしていたんでしょう。社長を独りきりでお待たせして、コーヒーの一つもお出しせずに…?」
「今回の訪問は極秘のものですから、あえて誰にも知らせなかったんです。社員達が騒ぎ立てて、もしも外で張り込んでいるマスコミ関係者に知られたら、うるさいでしょう? だから私も、大げさなことは抜きにして、正面玄関から普通に目立たぬよう入ってきたんですよ」
「普通に、目立たぬよう…あなたが、ですか…?」
 ルネは怪しむような顔をした。
「ふふ、実際、社内ですれ違った社員達は誰も、私が何者なのか気付かなかったようですよ? あなたのおかげですね、ルネ…彼らにとって、今ここにいるのは、ガブリエルによく似た姿のルネ・トリュフォーだという先入観が強烈にあるものだから、本物のガブリエルが目の前を通り過ぎても気付かなかったんです」
  顔を引きつらせるルネに向かって、ガブリエルは悪戯っぽく片目を瞑って、付け加えた。
「ああ、ここに来る途中社員に呼び止められて、後で会議室にコーヒーを持ってきてくれないかと頼まれましたが、私は自分でコーヒーを淹れたことなどないので、それは無視しましたよ。あしからず」
「うわぁ、申し訳ありませんっ。だ、誰だ、社長を捕まえてコーヒーを淹れろだなんて失礼な頼みごとをしたのは――」
「別に謝る必要はないですよ、ルネ。あなたが私を見誤った訳ではないでしょうに…それに、私自身、この状況を楽しんでもいます。何しろ、最近私の身辺では皆ぴりぴりしていて、常に誰かに見守られ、独りきりでほっとくつろぐこともできなかったものですから、ここでしばらくあなたのふりをしながらのんびりできたことは幸運でした。ああ、でも――」
 ガブリエルはふいに思いついたかのように、軽く両手を打ち鳴らした。
「ね、ルネ、お願いがあるんですが、聞いてもらえますか?」
「は…僕にできることであれば善処しますが、何でしょう…?」
「コーヒーを一杯もらえませんか? あなたの淹れたコーヒーは格別に美味しいとローランが褒めていたものですから、是非一度飲んでみたいと思っていたんです」
「は…あ…」
 ローランはガブリエル相手に、ルネのコーヒーは美味しいと自慢していたのか。何となくくすぐったいような気分になりながら、ルネは指先で頬のあたりを引っ掻いた。
「ムッシュ・ヴェルヌのコーヒーの好みなら心得ていますけれど…普通にコーヒー・メーカーで作ったものですから、アカデミー・グルマンディーズ主宰の口にあうものか、保証はできませんよ…?」
「構いません」
 ガブリエルは膝の上で両手をピラミッドのような形で組み合わせながら、謎めいたきらめきを放つ青い瞳をルネに向け、ゆるゆると眦を下げていった。
(それにしても、ローランはてっきりガブリエルの傍についているものかと思っていたけれど、今日は違ったんだろうか…? ローランがいたら、大切なあの人に単独行動なんかさせるはずがない。実際、あの柄の悪いパパラッチ達とも危ういところでニアミスだったわけだし…今ガブリエルがここにいることをローランが知っているかも、怪しいな。一応知らせておくべきだろうか…?)
 コーヒーを用意する間、ルネはそんなことを考えていたが、ローランに知らせるのは後回しにして、取りあえずガブリエルの相手をすることにした。
「お待たせしました」
 ルネは、いつもの手順で淹れたコーヒーをガブリエルの前に置き、彼がそれを手に取って口元に運ぶのを見守った。
「オフィスで出すものにしては、なかなかいい豆を使っていますね。鮮度も申し分ないし、ブレンドや焙煎の度合いは、まさにローランの好み通り…これなら、彼が気に入るはずですよ。ここまで細やかな気遣いができるなんて、ローランはいい秘書を持ちましたね」
「恐れ入ります」
 アカデミー・グルマンディーズの大天使に褒められて、ルネは嬉しそうに綻びそうになる唇をきゅっと引き締め、慎ましく目を伏せた。
「ところで、ムッシュ・ロスコー…あなたが今日こちらにおいでになることを、ムッシュ・ヴェルヌは御存知なのでしょうか?」
「たぶん知らないと思いますよ。別にローランにまで内緒にするつもりはないんですが、うっかり話すと自分も付いてくると言い出しそうですし、ただでさえ私の代わりに表に立って、今回のスキャンダルの火消しに回って忙しい、彼の仕事をこれ以上増やしたくはないですからね」
 成程、ローランはガブリエルの今回の行動を承知している訳ではない。社員に知らせることもなく、不意打ちのようにここを訪問したのは、ガブリエルの個人的な用件が何かあってのことか。
「あの…社長であるムッシュ・ロスコーにこんなことをお尋ねするのは不適切かもしれませんが、よりによって今この時期に、あなたがわざわざ極秘で社を訪問されたのは、一体どのような理由からなのでしょうか?」
 ルネの生真面目な顔に含みのある眼差しを向けながら、ガブリエルは至ってシンプルに言った。
「ほとんど名のみの社長の私ですから、別に仕事がらみの理由ではありませんよ。私は今日、あなたに会うためにここに来たんです、ルネ」
「え、僕…?」
「ローランの自慢の秘書と一度直接会って、話をしてみたくなったんです。何しろ、あの人があんなふうに他人のことを褒めるのは珍しいものですから」 
 ルネはぽかんと口を開けたまま、しばし絶句した。
「ムッシュ・ヴェルヌは、そんなにしょっちゅう、あなたに僕のことを話していたということですか…?」
「ええ、それはもう…特定の恋人のいない私に対する当てつけかと思うくらい、大変なのろけっぷりですよ。そこで、ルネ・トリュフォーとはどんな人物なのか、どうしても知りたくなった。本当にローランが語るような素晴らしい人なのか、この目で確かめようと思ったんです」
 ルネは何だかもう色々信じられなくて、混乱を鎮めようと額に手を置いた。コーヒーが美味しいというくらいの自慢なら聞き流してもよかったが、ローランとガブリエルが自分をネタに楽しげに語らっている図など想像してしまっては、冷静でいられるはずがない。
「ムッシュ・ロスコー、ロ、ローランは…教えてください、あの人は僕のことを一体どんなふうにあなたに話しているんですか――あ、失礼…」
 うっかり素に戻ってガブリエルを追求しかけたルネは、ぱっと顔を赤らめた。
「別に隠すことはないですよ、ルネ。あなたがローランを愛していることは、先程のあなたの絶叫を聞くまでもなく、私もよく知っています。あなた方の間であったことは、おそらくほぼ百パーセント、私には筒抜けだと思ってもらっていいくらいですから」
「え…う…っ…まさか…?」
 ルネが目を白黒させながらガブリエルを見返すと、彼はいかにも当然というかのような平静さで深々と頷いた。
「つ…筒抜けって…僕にとっては誰より一番あなたには知られたくないプライバシーを…どうして、あの人は軽々と話すんだ…信じられないっ…!」
 込み上げてくる羞恥心と怒りに身悶えして、ルネが頭を抱えて低く呻くのに、ガブリエルはしまったというような素振りで口元を押さえた。
「ああ、あなたにしてみたら、これは恥ずかしいことでしたか。気がつかなくてすみません、ルネ…私とローランの間に基本的に秘密は存在しないので、それがお互いの恋愛に関することでも、ついいつもの癖で右から左へと情報が伝達されてしまうんです。それが原因で恋人が離れていったことも今までないでもないんですが、こればかりは昔からの習慣なので、なかなか改められないんですよね」
 そよ風のような軽やかさで言い放つガブリエルに、真面目なルネは、相手が社長だということも忘れて本気で切れた。
「習慣だから改められないって、それで終わりですませるようなことですか! その習慣が非常識だということくらい、あなた方だって立派な大人なんだから分かるでしょう! 変ですよ…熱々の恋人同士だって長年連れ添った夫婦だって、そこまで仲良くできるものじゃありません。そう言えば、ミラさんもあなた方は一心同体だと評していた。ローランは、自分をあなたの影だと躊躇いもなく言いきるし…一体、あなた方はどういう関係なのか、僕は常々頭を悩ませていたんです。そうだ、この際だから、あなたにも聞かせてもらいますよ、ムッシュ・ロスコー。あなたにとって、ローランは一体何なんです?」
 
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