花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第二章

悪魔のように黒く(5)

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 夕方6時を少し回った頃、外出していたローランがオフィスに戻ってきた。
「ルネは、もう帰ったのか?」
「ええ、ついさっき、オフィスを飛び出して行きましたよ。これから秘書の学校ですって…今週は、仕事だけでも新しいことを覚えるのに大変だったでしょうに、学校にも休むことなく通って…真面目な子ですね」
 帰り支度をしていた手を止めて、ミラは何か言いたげな眼差しをローランに向けてくる。
「ムッシュ・ヴェルヌ、ルネのことで少しお話があるのですが、よろしいですか?」
「ああ…俺も、この一週間のあいつの様子を、君に確認しておきたかった。時間は大丈夫なのか?」
「もちろん、きちんと残業時間としてつけさせていただきますので、御心配なく」
 副社長室の自分のデスクに身を落ちつけたローランは、両手を胸の前で組み合わせながら、無感情を装って目の前に立つミラを面白そうに眺めやった。
「それで、教育係として、あいつの仕事ぶりをどう思う? お前の後任として使えそうか?」
「ルネは、とても頭のいい子ですわ。今までここに入ってはすぐに辞めていった人達と比較にならないくらい、物覚えはいいし、すぐに応用できるし、機転も利く…その点、あなたが自分でスカウトしただけはありますわね」
「そりゃあ、よかった」
 ローランはにっと笑って、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「他人の評価に厳しい君がそこまで褒めるなら、あいつは、そこそこできるんだろう。引き継ぎさえちゃんとできていれば、君がいなくなった後も大丈夫そうだな…優秀な秘書の君がいなくなるとは、俺としては残念至極、心細い限りだったんだが?」
 ローランのすっとぼけた態度がだんだん我慢ならなくなってきたのだろう、ミラの柳眉が僅かに逆立った。
「そんなことより…あの子をムッシュ・ロスコーそっくりに変身させるなんて、一体どういうつもりですの? おかげであの子の初出社の時は、社内がひっくり返るほどの大騒ぎでしたのよ。私だって、まさかあんな姿になっているなんて聞いていませんでしたし、どう皆さんに説明したらいいのか、困り果てました」
「ほう、そんなに皆が皆、驚き騒いだのか」
「ええ、さすがの私も、ルネのあの姿を見た時には、ショックのあまり、危うく産気づくかと思いましたもの」
 ミラのどぎつい言葉に、ローランは煙草にむせて咳込んだ。
「いくらムッシュ・ロスコーがあなたにとって特別な人だからといって、何も知らないルネを他人そっくりに作り変えてしまうなんて、あの子の人権を無視した酷い話ではないですか。可哀そうに、ルネは随分ショックを受けていましたよ…あなたに個人的な感情を抱いてしまった後に、自分は他人の身代りに過ぎないと分かってしまった訳ですからね」
「成程…あいつの変身ぶりを見せつけられれば、他人はそういう解釈をする訳か。俺がガブリエルの不在の寂しさを紛らわせるために、同じ顔をしたスペアを傍に侍らせることにしたと…ははっ、そりゃ、大した変態だな」
 飄々としたローランの口ぶりに、ミラは指先で眉間を軽く押さえた。
「ご自分で言わないでください…ああ、また頭が痛くなってきた」
「そういう解釈で皆が納得するなら、そのままにしておくさ。しかし、ミラ…君は本当に、ルネとガブリエルが見分けがつかないほどそっくりだと今でも思っているのか?」
 ローランは、ふいに今までとは違う真面目な顔になると、上体を前に傾けながら、まっすぐミラに問いかけてきた。
「今は別に、それほどまでとは…」
 ミラは戸惑いながら、ローランの問いかけを吟味するよう、考え込んだ。
「確かに、最初は見間違えましたけれど、私も『大天使』と間近で話したことならば何度もありますからね。他の社員達も、本物と会ったことさえあれば、ルネはやはり別人なのだと簡単に見分けがつくでしょう。ルネは普通の可愛い男の子ですけれど、ムッシュ・ロスコーはやはり存在自体が特別ですもの。実際、今となってはルネの存在自体に慣れて、誰も騒ぎたてなくなりました」
「つまり、ガブリエル本人を直接知らない人間にとっては、ルネは充分その身代りになりうるが、あいつを見知っている人間の目を誤魔化すことはできないというわけだ」
 煙草をふかしながら、したり顔で微笑むローランを、ミラは思い切り胡散臭げに凝視した。
「ガブリエルを身近でよく知っている人間…その筆頭は、あなたですわね。すると、あなたにとって、ルネがいくらムッシュ・ロスコーを真似て装うとも、その身代りにはならない…それでは、一体、あの子の外見を変えさせたことには、どういう意味がありますの?」
「さて、どうだろうな…別に深い意味はないのかもしれんぞ。たまたま旅先で出会ったガイドがガブリエルによく似ていて、しかもなかなか頭も切れる上、俺の傍に置いていてもいいかなと思うくらいに可愛かった…実際それだけのことなのかもな?」
「もう、肝心な話となると、そうやってはぐらかす…あなたが何を企もうが、私の知ったことではありませんけれど、せめてルネにだけは、本当のことを打ち明けて、誤解を解いてあげてもいいんじゃありませんか? てっきりあなたに騙されて、ガブリエルの身代わりとして弄ばれたと思い込んでいるんです。ここから逃げ出さなかったのはあの子なりの意地なんでしょうけれど、無理をしていることは傍目からも明らかですわ。ゾンビのように心を殺して黙々と仕事をこなし続ける、あんな不自然な状態が、いつまでも続くはずがありません。近いうちにきっと大爆発してしまうでしょう。御自分で見つけて引っ張ってきた大事な秘書を、このまま壊してしまってもいいんですの?」
 鉄の女も、最後の方は、つい感情的になってしまったようだ。
 しかし、ローランは特に感銘を受けたふうもなく、腹が立つくらいに冷静な態度で、そんなミラを軽くいなした。
「何をそんなにむきになっている、ミラ…どうやら君はルネのことが気に入って、珍しくも感情移入したらしいな。素直で真面目で健気な上、仕事をやらせても優秀な後輩の先行きが心配か? しかし、他人の問題に首を突っ込むなんて、君らしくないぞ」
「ムッシュ…!」
「分かったから、興奮するな、腹の子に障るぞ。なあ、ミラ、君はもうすぐ産休に入る身だろう…自分が去った後のことまで、あれこれと気を回して心配する必要はないんじゃないか? 大体、下手に関わっても、その結果について君は何の責任も負えないわけじゃないか、そうだろう? 君の意見は一応聞いておくが、今の所俺は、ルネに俺の腹の内にあることを打ち明けて説明してやるつもりはない。あいつが本当にのっぴきならない所まで追いつめられて、自分で俺を問い正そうとするなら、話は別だがな」
 口調は柔らかだが、言っている内容は冷徹そのもののローランは、全く悪びれもせずに付け加えた。
「大体、その必要もないのに、他人に自分の手の内全てを明かしてたまるか。あいつはなかなか使えそうな奴だが、今の所、俺にとっては大勢いる部下の一人に過ぎない。特別な感情があろうがなかろうが、あいつが部下として俺の下にいる限り、俺のやり方に従ってもらう」
 ミラが睨みつける中、ローランは煙草を灰皿でもみ消して、椅子の背にもたれかかった。
「ルネの精神状態については、俺も今、君の話を聞いて、どうにかケアしてやらんと駄目だなと考えているところだ。確かに、あいつが不安定になったのは、言い訳のしようもなく、百パーセント俺の責任だからな。そういう訳で、これ以上、俺のルネに対するやり方に、君はあれこれ口をはさむな。あいつは俺のものだからな…どう扱おうと俺の勝手だろう?」
 ローランは、これで話は終わったとばかり、両手を軽く上げてみせる。
するとミラも、もうこれ以上何を訴えても無駄と悟ったのだろう、くるりと踵を返し、苛立たしげにドアを叩きつけるようにして部屋から出て行った。
「妊婦を興奮させたくはないんだがなぁ」
 その後ろを見送って苦笑混じりに呟いた後、ローランはしばらく椅子に身を預けたまま、何事か思案にふけっていた。
「身代りだなんて、真面目なだけに、あいつにはショックが大きすぎたか…さて、どうしたものかな…」
 そして、ふと思いついたようにポケットからスマホを取り出した彼は、迷わず、一番よく連絡を取り合っている相手に電話をかけた。
「…ガブリエル、俺だ。いや、ボルドーの件なら、明日会った時に詳しく報告する。実は別件で、おまえにちょっと相談したいことがあるんだが…」




 夜10時前、専門学校の秘書コースのクラスを終えたルネは、疲れ切った体を引きずるようにして、自分のアバルトメンに戻った。
(そう言えば、この所、人間らしい生活をしていなかったからなぁ。忙しい方が気が紛れるからと昼間は必死に働いて、その後で学校の授業にも出て…アパルトメンに帰ったら、食事もそこそこにベッドに倒れ込むように眠って…そう言えば、昨日何を食べたっけ? 冷蔵庫にまだ何か食べれるものは残ってたかな…)
 昼間にカフェでサンドイッチを食べたきり、何も口に入れていなかったので、今更のようにルネはひどい空腹を感じていた。ポケットから取り出した鍵でアバルトメンのドアを開け、よろよろと中に入った。
「これで1週間が終わったぁ…はぁっ、疲れたよぉ…」
 テキストが入った重い革のバッグを床に落とし、スーツもその辺りに脱ぎ散らかしながら、ルネはまっすぐにキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。
「あはは…食べられるものが何もない…帰りに何か買って帰ればよかったな…」
 ビールの缶だけがぎっしり入った冷蔵庫の中身を覗きこんで、乾いた笑い声をたてたルネは、取りあえず喉も渇いていたので、その中の一本を取り出し、冷蔵庫にもたれかかったまま、一気に飲んだ。
「はぁっ…」
 一息に空けた後、ルネはそのまま床に座り込んだ。当たり前のことだが、空きっ腹にアルコールはよく回る。
(どうしよう…お腹はすいたけど、外に食べに出かけるだけの元気はもうないや…お酒も回って、ふらふらしてきたし、このまま朝まで寝てしまおうかな…)
 ルネはくすんと鼻を鳴らして、床にごろりと横になった。
(おかしいなぁ…体力ならあるはずなのに、どうして、こんなに疲れているんだろう…やっぱり、慣れない都会暮らしと仕事のせいで、精神的なストレスが大きいのかな)
 それにしても、ここまで心身ともに追い込まれたのは初めての経験だった。我ながら、一体どうしたのだろうと恐くなるほどに、日常生活が破綻寸前になっていることは、冷蔵庫の中身を見るまでもなく薄々分かっていた。
(やっぱり、このままここに踏みとどまって仕事を続けるなんて、僕には無理なのかもしれないな。今日ローランに会って分かった…僕は今でもあの人が好きだし、諦めることなんてできそうにない…)
 一時は、ローランとの間であったことは一夜の遊びと割り切って、忘れてしまおう、個人的な感情を仕事に持ち込まないことが大人のやり方だと自分を納得させようとした。しかし―。
(僕は、そんなにあっさりと自分の気持ちを切り替えてしまえるようなタイプじゃない。たった一回えっちしただけで別に恋人面するつもりはないけど、好きになっちゃったんだから、仕方ないじゃないか! クールに遊ぶのが都会に住む大人の男のスマートなやり方なのかもしれないけど、僕はどうせ田舎者だし、いきなりそんな物分かりのいい大人になんかなれないよーっ!)
 感情が一気に高まったルネは、キッチンの床に倒れ伏したまま、めそめそと泣きだした。
(ローランの馬鹿…本当に悪魔みたいな酷い人…)
 アルコールが頭にまで回ったせいか、服を半分脱ぎかけただらしない恰好のまま、ルネは本当に床でうとうとし始めた。
 他人がこんな自分を見たら、何かの発作でも起こして倒れたのではないかと、さぞや肝をつぶすだろう。そんなことをぼんやり思いながらも、動く気にはなれず、一体どのくらいの時間が経ったのか。
 遠くでアバルトメンのブザーが鳴ったような気がしたが、こんな時間に来客があるはずもなく、夢だろうと思ってルネが放置していると、そのうち今度は、鍵を使って玄関のドアを開けるような音がした。
(あれ、おかしいな…誰かが、部屋に入ってくる…?)
 朦朧とした意識の片隅で、ルネは玄関から入ってきた足音が、キッチンに近づいてくるのを聞いていた。
(夢だよね…それとも本当に泥棒とかだったりして…)
 それでもまだ起き上がって確かめる気になれずじっとしていると、その侵入者は、半裸のまま冷蔵庫の前に倒れ伏しているルネを発見したようだ。はっと息を飲んだきり、しばし固まった。
 ついで、切羽詰まったような足取りで歩み寄って、ルネを見下ろす。
(あれ、何だろう…プールみたいな臭いがする…)
 次の瞬間、その侵入者が、動揺の滲んだ声でぼそっと呟いた。
「き…救急車…」
 その低い声を聞いた途端、ルネはぱっと目を見開いて、自分の顔のすぐ傍にあった、その男の足首を掴み締めた。 
「そんなもの呼ばないで…別に死んでないからっ…」
 びくっと震えた足が誰のものなのか、ルネにはもう分かっていた。のろのろと頭を上げると、やはり、スマホを握り締めたまま凍りついているローランと目があった。
「ムッシュ・ヴェルヌ…ど、どうして、あなたがここに…?」
 不法侵入という言葉がルネの頭を過ったが、ローランは別に後ろめたい素振りも見せず、ルネが持っているのと同じ鍵を堂々と目の前に示した。
「この部屋のスペア・キーだ。今夜ジム仲間のマティアスに会った時、預かったんだ。帰りにお前のアバルトメンに立ち寄るつもりだったから、ついでに渡そうと思ってな」
「マティアス…ああ、あの不動産屋さんの…」
「スペア・キーができたら、仕事の帰りに取りに行くという話になっていたそうだな。おまえがいつまで経っても事務所に現れず、留守番電話にメッセージも残していたのに連絡もないが、どうしているんだろうと心配していたぞ」
「ああ、そうでした…取りに行くの、すっかり忘れてたし、留守番電話なんて、この所確認してもいなかった」
 一瞬ローランが自分に無断でスペア・キーを作ったのではと疑ったルネは、ほっと胸を撫で下ろした。
「やれやれ、それにしても想像以上にひどい有様だな。この部屋も、おまえ自身も…」
 ローランはキッチンのテーブルの上に持ってきた荷物を置いて、再びルネの所に戻ってきた。
「おい、いつまでそんな所で寝ているつもりだ。気分が悪いなら、ベッドで休め。キッチンの床で寝たりしたら、健康な人間でも風邪をひくぞ」
 そう優しく声をかけながら、ローランは上体を起こそうともがいているルネの傍に膝をついた。
「何だかまだ目が回る…ビールのせいかな…」
 吐き気を堪えるよう口を押さえるルネの頭を抱き寄せ、もう片方の手で、ローランは目の前の冷蔵庫のドアを開けた。
「…ビール以外は見事に空だな。俺の家の冷蔵庫よりひどいぞ。差し入れを買ってきて、正解だった」
 呆れたように呟くローランの声を聞きながら、ルネは抱き寄せられた胸におずおずと頬を寄せていったが、大好きなあの匂いがしないことに顔をしかめて、手で押し返した。
「ふにゃー…嫌だ、塩素臭いっ…!」
 ローランも気になったらしく、持ち上げた腕に鼻を押し付けるようにして臭いをかいだ。
「仕事帰りにジムに寄って、1時間ほどプールで泳いできたからな…今夜はやけに消毒薬の臭いがきついと気になって、シャワーでよく洗ったんだが、まだ残っていたか。それにしても、犬並みに鼻が利く奴だな」
「…あなたに言われたくはありません」
 力なく言い返すも、まだ動くのも辛そうなルネを見かねたのだろう、ローランは、その体の下に腕を回して持ち上げようとした。
「あっ、駄目です、ムッシュ…!」
 案の定、ルネの体重の目算を誤ったローランはよろめき、とっさに冷蔵庫にもたれかかって体を支えた。
「…おまえ、意外と重いな…?」
 ローランに怪しむような目を向けられたルネは、耳まで真っ赤になりながら、その腕から逃げ出した。
「す、すみませんっ…そういう体質なんです。体脂肪が極端に少なくて、見かけよりも重くて…」
 要するに、筋肉は重いということだ。すっきりとスリムにまとまったこの体は、実はぎゅっとしまった筋肉質。プールになど叩きこまれたら、きっと底まで沈んで二度と浮かび上がってこないだろう。
 そんなことをローランに知られたくないルネは、間違っても、彼がもう一度自分を抱き上げようなんて気を起さないよう、自力でふらふらと歩いて寝室に逃げ込み、ベッドの上にあった部屋着に着替えた。そうして、再びキッチンに戻って、テーブルの前の椅子に腰を下ろした。 

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