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第二部【10章】いらない感情
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俺がまだ人型を保てなかった時に、俺を見下ろして笑っていた笑顔がそのままそこにある。胸ぐらを同僚に掴まれ、ハーロルトはライフルを手にしたまま降参したように両手を上げると、ヘラヘラとした態度で口を開いた。
「別にいいだろ。巻き戻しが大前提なら、一回全部殺したらどうだ?」
ハーロルトの言葉を聞きながら、俺は握っていた手をゆっくりと開く。手の中にあるのは、子犬のように丸くなって浅く呼吸をするヨルツの姿だった。
「何かを成し遂げるなら、犠牲はつきものだろ?全部全部なんて、甘いんだよ。取捨選択は大事ってなあ?」
ハーロルトの言葉は、恐らく同僚に向けられている。それなのに、それは全て俺自身を指しているようだった。
ヨルツの腹から大量の血が溢れ、俺の手の平から零れて地面に落ちていく。朦朧としたようにゆっくりとまばたきをするヨルツは、俺を視線だけで見上げた。
「借りはもう…十分、返してもらった。ケットも…俺も…」
手の中から温もりが消えていく。少しずつ動きを緩慢にしていくヨルツが俺に向けて初めて小さく笑った気がした。
「置いていけ…」
言葉の意味が上手く頭に入ってこず、何も言葉を返せない。
バクバクと心臓が激しく音を立てる。言いようのない感情が湧き上がっては、身体の熱を上げた。
ヨルツの身体が機能を止めていく。呼吸が薄くなり、薄らと笑みを浮かべたまま熱を失っていく。
別にいいだろ。借りは返した。キティはまだ生きている。ヨルツは元々死んだはずの生き物だった。元通りになるだけだ。
生きている数がいるほど、いいだろう。だけど、可能性がないなら諦めろ。何を感じたって無駄だろう。頭では分かっているのに、内臓から焼かれていくようなこの感情はなんだ。
怒りか?違う、俺はこんな感情を知らない。
「おい、カラスが暴れるぞ。動揺してんじゃねえ」
ハーロルトが笑いながら隣の人間が持っていたランチャーを取り上げ、俺に向けて発砲する。胸に杭が撃ち込まれて地面に縫われた俺を、取り囲む戦車が狙いを定めて一斉に砲弾を放つ。
激しい爆発に身体中の肉が飛び散り、骨が砕ける。痛みで言葉にならない声が出た。もう生きていないと分かっているヨルツを抱いたままの腕が千切れ、ヨルツの身体が俺の腕ごとゴロゴロと遠くへと転がる。
今まで何とも思っていなかった奴が死んだだけだ。キティを探せ。彼女をだけは守り抜け。身体の再生が追いつかないまま、俺は地面を走る。
ヨルツがいなくなった今、容易に空は飛べただろうが、人間たちが腕を重点的に狙うせいで翼が再生しない。バランスが取れずに頭を地面に擦りつけたまま、ワイヤーを引きちぎり、頭で地面に穴を掘りながら突き進む。戦車をひっくり返し、そのまま育成棟へと走り込んだ。
一階の壁に嘴で穴を空けると、砂煙が建物内に充満した。
警告を知らせるブザー音が鳴り響き、棟全体が赤色に点滅していた。俺が建物を壊して鳴ったのかと思ったが、様子がおかしい。建物内には木の根が張り巡らされ、砂煙以外にも赤紫の煙が充満している。
爆煙に紛れて俺は身体の半分を人間へと変容させて、建物内部に逃げ込む。下半身だけが羽毛に覆われた鳥の足のまま、なんとか再生した右手で欠けた左肩を押さえる。
こんな姿じゃ目立って仕方がないが、出血が酷すぎてコントロールが効かなかった。
「中に入るな、自滅するぞ」
遠くでハーロルトが笑う声がした。それが何を指しているのか分からないまま、俺は牢獄エリアへ向かって、身体を引きずるように足を運んだ。
ロビー内は恐ろしく静まり返っており、あちこちで看守たちが倒れていた。どの顔も良い思い出などないが、見知った顔ばかりだ。外傷はなく、気を失ったように動かない。生きているのか死んでいるのかも分からない。
端末も、カードキーどころか服さえ失った今、力技なしで牢獄エリアに入れるのか疑問に思っていたが、俺とエドヴィンが担当しているAエリアだけは開いている。
正確にはこじ開けられていた。絡みつく大量の木の根が閉まろうと今も動き続ける扉を妨害している。
赤紫色のガスがどんどんと濃くなっていく。再生を始めた左肩の治りが肘の辺りで急激に遅くなる。エリア内に足を踏み入れた瞬間、液体を踏む感触が足の裏に直に伝わってきた。
よく見ると、周囲には大勢の人間が倒れている。壁や床には無数の銃痕が残っており、どこもかしこも穴だらけだ。液体は人間たちの体液のようで、錆び付いたそれらがまだバチバチと火花を散らしている。
「キティ!エド!」
エリア内はもうガスの濃度が高すぎて先が見えない。嫌な予感に名前を叫ぶと、ガスが肺に入り込んで咳き込んだ。喉がやけついて、肺が痺れるように痙攣した。
咳き込みながら奥へと進んでいくと、ケットの檻の傍に見慣れた姿が壁に寄りかかるようにして倒れていることに気付く。金色の髪をした、蛾の群れを顔に貼り付けたその男は、エドヴィン以外にいるはずがなかった。
「エド…」
右腕に生えた羽毛でガスを遮りながら名前を呼ぶ。
エドヴィンの背中には透明な触手のような物が生えており、力なく揺れている。触手から生えた無数の小さな毛がこのガスを撒いているようだった。
「…やあ、ハル…」
俺の呼びかけにエドヴィンがぎこちなく顔を上げた。彼の身体には大量の銃痕があり、すでにかなりの血液を排出した後だ。灰色であるはずのテーラードジャケットが、赤色ケープマントと同色と化していた。
両手に握られた拳銃は装填口を開けたまま空洞になっている。周囲に散らばる大量の空のマガジンが、弾切れになるまで戦っていたことを物語っていた。
「キティは、無事だと思うけど…早く行ってあげてくれ…もう身体の制御が効かないんだ…」
穏やかな笑みを称えたままだが、よく見ればエドヴィンの右目は銃で撃ち抜かれて潰れている。脳まで達しているであろうその傷で生きているのがもはや奇跡だ。
震える手でエドヴィンが胸元から一本の筒状の機械を取り出す。それはひび割れているものの、辛うじてまだ使えそうな注射器だ。
「なんだこれ…」
「解毒剤…これしかないけど…まだ、間に合うかも…」
エドヴィンの手から注射器を受け取る。それを確認するように、残った3つの目が瞬きをすると緩やかに弧を描いた。
「キティは、ケットの根元にいるよ。泣きながら、待ってた…」
そこまで言うと、エドヴィンが口を半開きにしたまま動かなくなる。何もかもが中途半端な状態のまま、時間が切り取られたように止まった。
「…おい、エド。エド!」
肩を揺すると、エドヴィンの首がガクンと横に流れ、床に身体を倒す。広がっていた触手が縮んでいき、放出していたガスが止まる。
「くそっ、ふざけんじゃねえぞ!お前だったらこんな…!」
こんな人間相手にやられたりしねえだろ。そう言いかけた口を噛み締めた。
わかってる。こんなの、見てわからねえほうがどうかしてる。
こいつはキティやケットを守ったんだ。守って死にやがった。ヨルツ一人守れなかった俺に、エドヴィンを罵倒する資格なんかない。
彼の半開きの目を撫でるように閉じてやると、思いのほか穏やかな顔をしていてなんだか眠っているようだった。仕事ジャンキーのこいつが眠っているところなんて見たことねえけど。
やり直しが前提だからこそ、人間はエドヴィンすら殺すのか。ハーロルトの言葉の意味が、今更のように頭に浸透する。
俺が選ばなかったから、こんなことになったのか?切り捨てる物をちゃんと選べば、こうはならなかったのか?
徐々に晴れていく視界の中、隣のケットを見上げると、彼女は相変わらずどこを見ているのか分からないまま床に根を張っていた。
ガタン、ガタンと、ドアが閉まろうと動き続ける音だけが響く。ケットの足元には大きな穴が開いており、抜けた床を隠すように根が覆い隠していた。
「キティ!」
根の奥に広がる暗闇に向かって叫ぶ。よく見れば、奥に小さな人影がある。恐らく、キティだ。咳き込みながら何度も名前を呼ぶが、それはピクリとも動かない。
「ケット!開けろ!もういい!」
木の根を引き剥がそうとするが、檻のように張り巡らされたそれは一向に開かない。
エドヴィンの撒き散らしたこのガスは、恐らく鎮静剤として使われている神経毒だ。俺はエドヴィンと揉めた時にかなりの量を打ち込まれたせいで抗体が身体にあるのだろう。咳き込むだけで済んでいるが、実際に怪我をしたままの左腕が肘の先から治らない。解毒剤をエドヴィンが渡してくるのだ、無事で済む量ではないのだろう。
もしかしたら、ケットも…死んでいるかまでは分からないが、気絶していてもおかしくはない。
「くそ!恨むんじゃねえぞ!」
悪態をつきながら、俺はケットの根を力任せに剥ぎ取る。右腕だけでなんとか入口を開くと、中にいるキティの肩に手が届いた。
「キティ!しっかりしろ!」
ぐったりとしたまま動かないキティを引っ張り上げると、浅くではあったが呼吸がある。恐らく、ガスの影響を懸念してエドヴィンが地中に隠したのが功を奏したのだろう。
託された解毒剤を打てば、まだ希望はある。
…本当にそうなのか?
ヨルツもエドヴィンも死んだ。認めたくはねーがヌッラも俺の為に死んだようなもんだ。
キティだけが助かって人間の干渉のない穏やかな日々に戻ったら俺の気は晴れるのか?
最初からそのつもりだった。俺の計画はまだ頓挫していない。なのにどうして、こうも腑に落ちないんだ。
早くキティに解毒剤を撃たねえと…エドヴィンが死んだ今、ガスの濃度は下がっていくはずだ。今はここが安全だろうが、濃度が薄くなりすぎたら人間たちが攻め込んでくるに違いない。
アイツに託された注射器がやけに重たく感じた。使わないなんて馬鹿な真似はできない。これはエドヴィンが命がけで守った物だ。
キティの腕に解毒剤を打つ。プシュッと音と共に彼女の身体が小さく跳ねたが、まだ意識は戻らない。効くまでに少し時間を要するかもしれない。
不意にエドヴィンの死体からメッセージの着信音がした。キティを抱えたまま、エドヴィンの傍まで行き、彼の小指にハマっている端末からホログラムを開いた。
メッセージの差出人は無名のアカウントだった。
「やり直したいか?」
簡潔に書かれたメッセージ。連投されるようにすぐに新たなメッセージを受信する。
「お前はタイミングを間違えている」
そのメッセージに添えられているのは12桁の数字と英字の羅列。きちんと覚えてはいなかったが、最初の4桁を見る限りハーロルトのIDと同じだ。
まるで全てを見透かされたようなメッセージだ。エドヴィンの小指から端末を抜き取り、自分に装着する。エドヴィンの端末とは言え、あきらかに内容は俺に向けられたものだ。
「それを使えば、装置を起動できる。お前にもこの街の記憶を巻き戻せるようになる。満足がいかないなら、使え」
送られてきたメッセージに目を通してみると、目の端でその送信時刻がおかしいことに気が付く。日付は今日だが、ヨルツがいなくなったとケットから知らされた時刻の少し前だ。この時刻に送信されるように設定されていたのか、電波障害で止まっていたのかは分からない。少なくとも、このアカウントに返信したところで返答は望めないだろう。
「うう…」
腕に抱えていたキティが声を漏らす。彼女はぼんやりとした顔で俺を見上げると、優しく俺の頬を撫でた。
「は…ルくん…?」
「無事か!キティ!」
解毒剤がどこまで効くかと心配していたが、地中に非難していただけあって想像より元気で安心した。思わずキティを抱きしめると、彼女はまだ力が入りきらない両腕で俺の背中に手を回した。
「ハルくん…ハルくん…無事で良かった…」
キティは俺の首元に顔を埋めると、そのまま静かに泣き始めた。こんな惨事の後じゃ、仕方がない。抱きしめたまま、彼女の背中をさする。
「人間が、エドが嘘ついてるんじゃないかって、みんな怒ってて…そこから口論になって、銃撃戦になっちゃって…私、隠れているだけで何もできなくて…」
震える彼女の声が泣き声になっていく。彼女はハッと顔をあげると、涙をぽろぽろと零しながら、俺を見上げた。
「ケットちゃんも動かないの…ヨルツくんは?みんな死んじゃったの?」
キティの問いかけに、俺は答える言葉を持っていなかった。思わず目を逸らす。こんな気持ちで人と目が合わせられなくなることがあるなんて、考えてもみなかった。
俺の様子で全てを察したのか、キティはまた瞳に目いっぱいの涙を溜め込むと、口を固く結んだ。
「…ごめんね、ひどいこと聞いちゃった。ハルくんが生きててくれただけで…こんな酷い怪我までして、生きて帰って来てくれたのに」
そう言って、彼女はゆっくりと立ち上がる。涙を震える手で拭いながら、俺の手を引く。
「逃げなきゃ、いけないんだよね?行かないと、エドもヨルツもケットちゃんも報われないから…」
彼女の手を握ったまま、俺は沈黙する。
キティが前向きで、頑張り屋なのはよく知っている。今だって大声あげて泣きたいだろうが、泣いている場合じゃないことを分かっているんだろう。非力な彼女なりに、前へ進もうと頑張っている。
こんなにキティの心に傷を沢山残して、今まで生きていたはずの生き物まで余分に殺して、それで頑張らせると言うのか?今頃、瓦礫の上で彼女は能天気に卒業式だと笑っていたはずなのに。
「…頑張らなくていい」
声を絞り出す。悔しさで、自分の不甲斐なさに腹が立って、喉が痛くなった。
こんな結末、気に入らない。腑に落ちない。キティが生きてても、こんなのは認めない。
人間が好き放題に結末をいじるなら、俺にだってその権利はある。鈍くなった思考を回すように首を振り、俺は立ち上がる。
端末から先程のメッセージを確認する。送られてきた数字と英字を脳に焼きつけ、ログイン情報を操作する。
恐らく、これはハーロルトが使っている権限が利用できるアカウント情報だ。これなら人間の目を気にせずに上層部のデータにアクセスできる。
データベース内から操作できる機器の一覧を探し出し、その中でも最新の機器にアクセスする。大量の文字の中を視線だけで追うと、ほどなくしてその中に俺が探していた単語が見つかった。
保存地点からの再生。これが世界をやり直すためのリセットボタンだ。
「ハルくん…?早く逃げないと…」
「急用ができた」
不安そうに俺の手を握るキティの頭をぽんぽんと軽く叩く。
次の俺がまた記憶を引き継いでくれるのか保証はない。博打でしかない。それでも、それに掛ける価値を今の俺は感じていた。
「またすぐ会いに行く」
普段の自分なら口が割けても言えないような臭いセリフに自分でも笑ってしまう。画面上に求められたパスワードに、メッセージから得た英字の羅列を打ち込み、エンターキーを押した。
窓から差し込む夕闇が一瞬で白く染まる。実験棟の方面から衝撃波のように広がったそれは、銃痕と血にまみれた牢獄を消し去り、俺の姿も包み込んでいく。
驚いたようにキティが口を開いたが、何を話しているのか聞き取る間もなく全てが光の中へ消えていった。
「別にいいだろ。巻き戻しが大前提なら、一回全部殺したらどうだ?」
ハーロルトの言葉を聞きながら、俺は握っていた手をゆっくりと開く。手の中にあるのは、子犬のように丸くなって浅く呼吸をするヨルツの姿だった。
「何かを成し遂げるなら、犠牲はつきものだろ?全部全部なんて、甘いんだよ。取捨選択は大事ってなあ?」
ハーロルトの言葉は、恐らく同僚に向けられている。それなのに、それは全て俺自身を指しているようだった。
ヨルツの腹から大量の血が溢れ、俺の手の平から零れて地面に落ちていく。朦朧としたようにゆっくりとまばたきをするヨルツは、俺を視線だけで見上げた。
「借りはもう…十分、返してもらった。ケットも…俺も…」
手の中から温もりが消えていく。少しずつ動きを緩慢にしていくヨルツが俺に向けて初めて小さく笑った気がした。
「置いていけ…」
言葉の意味が上手く頭に入ってこず、何も言葉を返せない。
バクバクと心臓が激しく音を立てる。言いようのない感情が湧き上がっては、身体の熱を上げた。
ヨルツの身体が機能を止めていく。呼吸が薄くなり、薄らと笑みを浮かべたまま熱を失っていく。
別にいいだろ。借りは返した。キティはまだ生きている。ヨルツは元々死んだはずの生き物だった。元通りになるだけだ。
生きている数がいるほど、いいだろう。だけど、可能性がないなら諦めろ。何を感じたって無駄だろう。頭では分かっているのに、内臓から焼かれていくようなこの感情はなんだ。
怒りか?違う、俺はこんな感情を知らない。
「おい、カラスが暴れるぞ。動揺してんじゃねえ」
ハーロルトが笑いながら隣の人間が持っていたランチャーを取り上げ、俺に向けて発砲する。胸に杭が撃ち込まれて地面に縫われた俺を、取り囲む戦車が狙いを定めて一斉に砲弾を放つ。
激しい爆発に身体中の肉が飛び散り、骨が砕ける。痛みで言葉にならない声が出た。もう生きていないと分かっているヨルツを抱いたままの腕が千切れ、ヨルツの身体が俺の腕ごとゴロゴロと遠くへと転がる。
今まで何とも思っていなかった奴が死んだだけだ。キティを探せ。彼女をだけは守り抜け。身体の再生が追いつかないまま、俺は地面を走る。
ヨルツがいなくなった今、容易に空は飛べただろうが、人間たちが腕を重点的に狙うせいで翼が再生しない。バランスが取れずに頭を地面に擦りつけたまま、ワイヤーを引きちぎり、頭で地面に穴を掘りながら突き進む。戦車をひっくり返し、そのまま育成棟へと走り込んだ。
一階の壁に嘴で穴を空けると、砂煙が建物内に充満した。
警告を知らせるブザー音が鳴り響き、棟全体が赤色に点滅していた。俺が建物を壊して鳴ったのかと思ったが、様子がおかしい。建物内には木の根が張り巡らされ、砂煙以外にも赤紫の煙が充満している。
爆煙に紛れて俺は身体の半分を人間へと変容させて、建物内部に逃げ込む。下半身だけが羽毛に覆われた鳥の足のまま、なんとか再生した右手で欠けた左肩を押さえる。
こんな姿じゃ目立って仕方がないが、出血が酷すぎてコントロールが効かなかった。
「中に入るな、自滅するぞ」
遠くでハーロルトが笑う声がした。それが何を指しているのか分からないまま、俺は牢獄エリアへ向かって、身体を引きずるように足を運んだ。
ロビー内は恐ろしく静まり返っており、あちこちで看守たちが倒れていた。どの顔も良い思い出などないが、見知った顔ばかりだ。外傷はなく、気を失ったように動かない。生きているのか死んでいるのかも分からない。
端末も、カードキーどころか服さえ失った今、力技なしで牢獄エリアに入れるのか疑問に思っていたが、俺とエドヴィンが担当しているAエリアだけは開いている。
正確にはこじ開けられていた。絡みつく大量の木の根が閉まろうと今も動き続ける扉を妨害している。
赤紫色のガスがどんどんと濃くなっていく。再生を始めた左肩の治りが肘の辺りで急激に遅くなる。エリア内に足を踏み入れた瞬間、液体を踏む感触が足の裏に直に伝わってきた。
よく見ると、周囲には大勢の人間が倒れている。壁や床には無数の銃痕が残っており、どこもかしこも穴だらけだ。液体は人間たちの体液のようで、錆び付いたそれらがまだバチバチと火花を散らしている。
「キティ!エド!」
エリア内はもうガスの濃度が高すぎて先が見えない。嫌な予感に名前を叫ぶと、ガスが肺に入り込んで咳き込んだ。喉がやけついて、肺が痺れるように痙攣した。
咳き込みながら奥へと進んでいくと、ケットの檻の傍に見慣れた姿が壁に寄りかかるようにして倒れていることに気付く。金色の髪をした、蛾の群れを顔に貼り付けたその男は、エドヴィン以外にいるはずがなかった。
「エド…」
右腕に生えた羽毛でガスを遮りながら名前を呼ぶ。
エドヴィンの背中には透明な触手のような物が生えており、力なく揺れている。触手から生えた無数の小さな毛がこのガスを撒いているようだった。
「…やあ、ハル…」
俺の呼びかけにエドヴィンがぎこちなく顔を上げた。彼の身体には大量の銃痕があり、すでにかなりの血液を排出した後だ。灰色であるはずのテーラードジャケットが、赤色ケープマントと同色と化していた。
両手に握られた拳銃は装填口を開けたまま空洞になっている。周囲に散らばる大量の空のマガジンが、弾切れになるまで戦っていたことを物語っていた。
「キティは、無事だと思うけど…早く行ってあげてくれ…もう身体の制御が効かないんだ…」
穏やかな笑みを称えたままだが、よく見ればエドヴィンの右目は銃で撃ち抜かれて潰れている。脳まで達しているであろうその傷で生きているのがもはや奇跡だ。
震える手でエドヴィンが胸元から一本の筒状の機械を取り出す。それはひび割れているものの、辛うじてまだ使えそうな注射器だ。
「なんだこれ…」
「解毒剤…これしかないけど…まだ、間に合うかも…」
エドヴィンの手から注射器を受け取る。それを確認するように、残った3つの目が瞬きをすると緩やかに弧を描いた。
「キティは、ケットの根元にいるよ。泣きながら、待ってた…」
そこまで言うと、エドヴィンが口を半開きにしたまま動かなくなる。何もかもが中途半端な状態のまま、時間が切り取られたように止まった。
「…おい、エド。エド!」
肩を揺すると、エドヴィンの首がガクンと横に流れ、床に身体を倒す。広がっていた触手が縮んでいき、放出していたガスが止まる。
「くそっ、ふざけんじゃねえぞ!お前だったらこんな…!」
こんな人間相手にやられたりしねえだろ。そう言いかけた口を噛み締めた。
わかってる。こんなの、見てわからねえほうがどうかしてる。
こいつはキティやケットを守ったんだ。守って死にやがった。ヨルツ一人守れなかった俺に、エドヴィンを罵倒する資格なんかない。
彼の半開きの目を撫でるように閉じてやると、思いのほか穏やかな顔をしていてなんだか眠っているようだった。仕事ジャンキーのこいつが眠っているところなんて見たことねえけど。
やり直しが前提だからこそ、人間はエドヴィンすら殺すのか。ハーロルトの言葉の意味が、今更のように頭に浸透する。
俺が選ばなかったから、こんなことになったのか?切り捨てる物をちゃんと選べば、こうはならなかったのか?
徐々に晴れていく視界の中、隣のケットを見上げると、彼女は相変わらずどこを見ているのか分からないまま床に根を張っていた。
ガタン、ガタンと、ドアが閉まろうと動き続ける音だけが響く。ケットの足元には大きな穴が開いており、抜けた床を隠すように根が覆い隠していた。
「キティ!」
根の奥に広がる暗闇に向かって叫ぶ。よく見れば、奥に小さな人影がある。恐らく、キティだ。咳き込みながら何度も名前を呼ぶが、それはピクリとも動かない。
「ケット!開けろ!もういい!」
木の根を引き剥がそうとするが、檻のように張り巡らされたそれは一向に開かない。
エドヴィンの撒き散らしたこのガスは、恐らく鎮静剤として使われている神経毒だ。俺はエドヴィンと揉めた時にかなりの量を打ち込まれたせいで抗体が身体にあるのだろう。咳き込むだけで済んでいるが、実際に怪我をしたままの左腕が肘の先から治らない。解毒剤をエドヴィンが渡してくるのだ、無事で済む量ではないのだろう。
もしかしたら、ケットも…死んでいるかまでは分からないが、気絶していてもおかしくはない。
「くそ!恨むんじゃねえぞ!」
悪態をつきながら、俺はケットの根を力任せに剥ぎ取る。右腕だけでなんとか入口を開くと、中にいるキティの肩に手が届いた。
「キティ!しっかりしろ!」
ぐったりとしたまま動かないキティを引っ張り上げると、浅くではあったが呼吸がある。恐らく、ガスの影響を懸念してエドヴィンが地中に隠したのが功を奏したのだろう。
託された解毒剤を打てば、まだ希望はある。
…本当にそうなのか?
ヨルツもエドヴィンも死んだ。認めたくはねーがヌッラも俺の為に死んだようなもんだ。
キティだけが助かって人間の干渉のない穏やかな日々に戻ったら俺の気は晴れるのか?
最初からそのつもりだった。俺の計画はまだ頓挫していない。なのにどうして、こうも腑に落ちないんだ。
早くキティに解毒剤を撃たねえと…エドヴィンが死んだ今、ガスの濃度は下がっていくはずだ。今はここが安全だろうが、濃度が薄くなりすぎたら人間たちが攻め込んでくるに違いない。
アイツに託された注射器がやけに重たく感じた。使わないなんて馬鹿な真似はできない。これはエドヴィンが命がけで守った物だ。
キティの腕に解毒剤を打つ。プシュッと音と共に彼女の身体が小さく跳ねたが、まだ意識は戻らない。効くまでに少し時間を要するかもしれない。
不意にエドヴィンの死体からメッセージの着信音がした。キティを抱えたまま、エドヴィンの傍まで行き、彼の小指にハマっている端末からホログラムを開いた。
メッセージの差出人は無名のアカウントだった。
「やり直したいか?」
簡潔に書かれたメッセージ。連投されるようにすぐに新たなメッセージを受信する。
「お前はタイミングを間違えている」
そのメッセージに添えられているのは12桁の数字と英字の羅列。きちんと覚えてはいなかったが、最初の4桁を見る限りハーロルトのIDと同じだ。
まるで全てを見透かされたようなメッセージだ。エドヴィンの小指から端末を抜き取り、自分に装着する。エドヴィンの端末とは言え、あきらかに内容は俺に向けられたものだ。
「それを使えば、装置を起動できる。お前にもこの街の記憶を巻き戻せるようになる。満足がいかないなら、使え」
送られてきたメッセージに目を通してみると、目の端でその送信時刻がおかしいことに気が付く。日付は今日だが、ヨルツがいなくなったとケットから知らされた時刻の少し前だ。この時刻に送信されるように設定されていたのか、電波障害で止まっていたのかは分からない。少なくとも、このアカウントに返信したところで返答は望めないだろう。
「うう…」
腕に抱えていたキティが声を漏らす。彼女はぼんやりとした顔で俺を見上げると、優しく俺の頬を撫でた。
「は…ルくん…?」
「無事か!キティ!」
解毒剤がどこまで効くかと心配していたが、地中に非難していただけあって想像より元気で安心した。思わずキティを抱きしめると、彼女はまだ力が入りきらない両腕で俺の背中に手を回した。
「ハルくん…ハルくん…無事で良かった…」
キティは俺の首元に顔を埋めると、そのまま静かに泣き始めた。こんな惨事の後じゃ、仕方がない。抱きしめたまま、彼女の背中をさする。
「人間が、エドが嘘ついてるんじゃないかって、みんな怒ってて…そこから口論になって、銃撃戦になっちゃって…私、隠れているだけで何もできなくて…」
震える彼女の声が泣き声になっていく。彼女はハッと顔をあげると、涙をぽろぽろと零しながら、俺を見上げた。
「ケットちゃんも動かないの…ヨルツくんは?みんな死んじゃったの?」
キティの問いかけに、俺は答える言葉を持っていなかった。思わず目を逸らす。こんな気持ちで人と目が合わせられなくなることがあるなんて、考えてもみなかった。
俺の様子で全てを察したのか、キティはまた瞳に目いっぱいの涙を溜め込むと、口を固く結んだ。
「…ごめんね、ひどいこと聞いちゃった。ハルくんが生きててくれただけで…こんな酷い怪我までして、生きて帰って来てくれたのに」
そう言って、彼女はゆっくりと立ち上がる。涙を震える手で拭いながら、俺の手を引く。
「逃げなきゃ、いけないんだよね?行かないと、エドもヨルツもケットちゃんも報われないから…」
彼女の手を握ったまま、俺は沈黙する。
キティが前向きで、頑張り屋なのはよく知っている。今だって大声あげて泣きたいだろうが、泣いている場合じゃないことを分かっているんだろう。非力な彼女なりに、前へ進もうと頑張っている。
こんなにキティの心に傷を沢山残して、今まで生きていたはずの生き物まで余分に殺して、それで頑張らせると言うのか?今頃、瓦礫の上で彼女は能天気に卒業式だと笑っていたはずなのに。
「…頑張らなくていい」
声を絞り出す。悔しさで、自分の不甲斐なさに腹が立って、喉が痛くなった。
こんな結末、気に入らない。腑に落ちない。キティが生きてても、こんなのは認めない。
人間が好き放題に結末をいじるなら、俺にだってその権利はある。鈍くなった思考を回すように首を振り、俺は立ち上がる。
端末から先程のメッセージを確認する。送られてきた数字と英字を脳に焼きつけ、ログイン情報を操作する。
恐らく、これはハーロルトが使っている権限が利用できるアカウント情報だ。これなら人間の目を気にせずに上層部のデータにアクセスできる。
データベース内から操作できる機器の一覧を探し出し、その中でも最新の機器にアクセスする。大量の文字の中を視線だけで追うと、ほどなくしてその中に俺が探していた単語が見つかった。
保存地点からの再生。これが世界をやり直すためのリセットボタンだ。
「ハルくん…?早く逃げないと…」
「急用ができた」
不安そうに俺の手を握るキティの頭をぽんぽんと軽く叩く。
次の俺がまた記憶を引き継いでくれるのか保証はない。博打でしかない。それでも、それに掛ける価値を今の俺は感じていた。
「またすぐ会いに行く」
普段の自分なら口が割けても言えないような臭いセリフに自分でも笑ってしまう。画面上に求められたパスワードに、メッセージから得た英字の羅列を打ち込み、エンターキーを押した。
窓から差し込む夕闇が一瞬で白く染まる。実験棟の方面から衝撃波のように広がったそれは、銃痕と血にまみれた牢獄を消し去り、俺の姿も包み込んでいく。
驚いたようにキティが口を開いたが、何を話しているのか聞き取る間もなく全てが光の中へ消えていった。
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「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
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