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第二部【2章】冷めきらない熱

07.回避

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まだ空も明るくない早朝。ベッドの上で目を覚ます。
寝る時に履いたままだった、よれよれのスラックス。洗濯し損ねた制服の上が脱ぎ散らかされたまま椅子に引っ掛けてあり、小さい丸テーブルの上には昨日食べたまま放置したジャンクフードのゴミが袋に詰められて置いてある。
今日は帰ったらさすがに洗濯しないとダメだな。
「だりー」
思ったことがそのまま首から出る。好き勝手に身体が本音を喋るのがウザくてたまらない。
欠伸をしながら制服に着替え、洗面台で口という口の歯を磨いて、整髪剤で簡単に髪を整える。あんまりダラしないと人間から躾という名の体罰があるかもしれないし、牢の怪物に舐められるかもしれない。最低限のことはやるしかない。
部屋のタワー型スピーカーが埃を被っている。特別房で暇を持て余していた時はよく音楽を聴いていたが、最近は同じ毎日の繰り返しに飽きて、部屋で音楽を聴くこともあまりなくなった。
仕事して、飯食って、寝る。この三つがこなせれば、つつがなく毎日が過ぎる。怪物の寿命がいつくるかなど知らないが、さっさと時間を早送りするには寝るのが一番だと理解した。
いつも通りに出勤し、待機所へ足を運ぶとエドヴィンがアクリルケースの前でパイプ椅子に座っていた。
「おはよう、ハル!新しい子が入ってきたから、紹介するよ」
「あっそ。別に紹介とかいらねーから、さっさと帰れ」
ロッカーから武器を取り出し、ベルトに付ける。上から赤いケープを着ていると、頼んでもいないのにエドヴィンが手のひらに小さい生き物を乗せて持ってきた。
「ほら、この子だよ。凄く小さいから、ミルクは注射器の一番小さいやつであげてね。ハルは爪が長いから、あまり力強く持ったら危ないから気を付けて」
「うるせーなあ!さっさと帰れって言ってんだろ!」
黙る気のはないエドヴィンにイライラしながら振り返ると、手のひらに乗せられた小さくてひ弱そうなピンク色のネズミと目が合う。
「ほら、初めましてだね?彼はハルだよ。ちゃんと俺とハルの言うことを聞いて、良い子に育つんだよ」
エドヴィンが手の平のネズミに優しそうに微笑みながら、一方的に俺を紹介する。
体毛のないハゲ散らかしたシワシワの肌に、ゴマみたいな小さな目。せわしなく呼吸をするその姿に酷い既視感を覚える。
「ブッサ…」
すげーブサイクだ。そう思ったが、何故か言葉が途中で止まる。それ以上は言うべきではないような気がした。
「そういうこと言わないの。女の子なんだよ?この子、体毛ないから凄く寒そうだよね。何か着せてあげた方がいいかな?」
エドヴィンの言葉が右から左へと耳を通過する。形容しがたい違和感がそこにあった。
「…配膳の準備すっから、話しかけんな」
「わかった。俺はもうちょっとこの子に着せて上げられるものを考えてから帰るよ」
あれだけ帰れと言っているのに、エドヴィンは悪びれもせずに待機所内に残って、ネズミをアクリルケースに戻してから戸棚に手頃なものがないかと見に行く。その間に俺は調理スペースで牢にいるクソどもの飯を作ることにした。
適当に切り分けた具材をボコボコと煮立つ桶のようなデカイ鍋に入れ、その上から適当に液体調味料をぶち込んだ。
味見なんて必要ない、だって俺の飯じゃねえからな。
「じゃあね、ハル。また明日!みんなのこと、よろしくね?」
飯を作っていると、エドヴィンが俺に一声掛けて部屋を出て行った。話しかけんなっつってんのに、やっぱりアイツ本当に空気が読めねえな。
鍋の具材が煮えるまでの間に幼体に与えるミルクを作る。アクリルケースに入れられた動物たちは俺が手を入れると怯えたように隅へと逃げようと散った。
これだけ小さくても、エドヴィンと俺のどちらが危ないか分かっているんだろう。イライラする。逃げ惑うそいつらを無理やり鷲掴みで捕まえると、強引に注射器を口にねじ込んでミルクを与えた。
一番最後はあのブスネズミだ。ケースに手を入れると、まだ何も知らないからなのか逃げたりはしなかった。
首にはブサイクな姿に似合わない濃いピンクのリボンが丁寧に結ばれている。たぶんエドヴィンの仕業だろうが、それにしても可哀想なほど似合っていない。
柔らかい腹に爪を突き立ててやろうかと思ったが、なんだかそんな気持ちになれなかった。コイツを見ていると、胸がざわざわする。凄く大事なことを忘れている気がした。
手の平の上で仰向けにすると、ゴマみたいな小さな目が笑っているように見えた。握りつぶされたら簡単に死ぬだろうに、呑気なものだ。危機感が死んでいるのかもしれない。
伸びかけの前歯の横から注射器の先を突っ込むと、そいつは必死になってミルクを貪るように飲み始める。その姿も拭いきれない既視感があった。
他人の手がないと生きることもできないコイツが、こんな場所を生きていけるはずがない。そう思うのに、哀れみとか苛立ちとかではない、別の感情がまざる。
ミルクを飲み終えたブスネズミをケースに戻すと、それは名残惜しそうにケースの壁に引っ付いて俺を見ていた。
「もうミルクはねえよ」
ブスネズミに頬の口が呟く。
「いや、コイツの目当てってミルクじゃなくねえか」
首の口がそれに呼応するように口を開く。
「俺に構って欲しいんじゃねえの?」
「んなわけねーだろ!馬鹿か!」
「んなわけねーかもしれないけど、んなわけあるような気がすんだから仕方ねーだろ!」
「うるせーな!喧嘩してんじゃねーぞ!」
勝手に喧嘩を始める身体の口どもに怒鳴る。なんで自分一人の空間で、自分と喧嘩しなくちゃなんねーんだ。本当に不便な身体だ。
煮詰まった鍋の中身を適当によそって、それらを乗せたワゴンを引いて牢獄エリアに繋がる扉を開けるスイッチを拳で叩くように押す。
重い鉄の扉を開くとジリジリとけたたましいベルの音が鳴り響く。背後でブスネズミはずっと俺に向かって、アクリルケースの透明な壁を掘っていた。
「起きろ!起き…」
いつものように檻の中のクソ野郎共を起こそうと、ベルに負けない怒鳴り声を上げたが後に続く言葉が出てこない。
ド忘れのようなすっきりとしない感覚がそこにあった。
床も壁も一面のコンクリートで出来た長い通路の両脇に、太い鉄格子の檻。その中に居る歪で哀れな生き物達が怯えたように檻の奥へと引っ込んでいくのが愉快だった…ような気がした。しかし、違和感がまた顔を出す。
鉄格子の向こうで怯えた目をする怪物に飯の入った器を投げつけ、憎たらしく睨んでくる奴には鞭を振うのが俺の日課だった。恐らく、昨日もやっただろう。
怪物は恐怖で支配するのが一番簡単で手っ取り早い。俺に盾突かないように、盾突こうなどと考えないほどに恐れさせてやろうと、暴力を徹底してきた。今までそこそこ愉快にやっていた記憶があるのに、なんだかそれが酷く無意義に感じる。
パッと浮かぶ理由は、時間と体力の無駄だということ。なんか他にも理由があった気がするが、頭にモヤがかかったように明確に浮かばない。
檻の中の怪物に話しかけるでもなく、鞭を振るうでも、皿を投げつけるでもなく適当に配膳すると、俺の様子に怪物たちが困惑したように視線を向ける。
「何こっち見てんだ」
低い声を出すと、怪物たちは一斉に俺から目をそらす。触らぬ神に祟りなしとは良く理解しているようだ。
立ち並ぶ牢の中、一番奥にいる一際大きな怪物が丸くなって寝ているのが目に入る。犬がそのまま巨大化して、ギリギリ二足歩行が出来る程度に進化したその怪物はヨルツという名前だ。
俺はコイツがあまり好きではなかった。いつも涼しい顔して、何も怖くないと見せて、心底俺に怯えているのが見え透くのが嫌だった。
今日も寝たフリで俺がいなくなるのを待っているんだろう。俺は皿を檻の中に差し込む。せいぜい、エドヴィンの比護に甘えて腐ればいい。
ヨルツは俺が暴力も罵声も浴びせなかったのが意外だったのか、皿を置く音に片目だけ開いてこちらを見た。
目が合う。ただ黙ったままヨルツはしばらく俺を見ていたが、何も言わずに再び目を閉じた。
ヨルツが目を閉じるのを見届けて、俺は鼻で溜息を吐く。そのままヨルツの向かいの檻にも配膳しようと背後に振り返ると、そこはもぬけの空だった。
なんかおかしいな。昨日の夜も誰もいない部屋に行ってみたり、今日も記憶違いがあったりしたが、こんなに連続する違和感なんてあるだろうか。さすがにまだ30年しか生きていないのに、自分が耄碌しているとは思いたくはない。
いないものは仕方ない。いなくて困るものでもない。俺は余分に飯をよそってしまった皿の行方を考える。
「食っとけ」
このまま待機所で処分するのも面倒だ。俺はその皿をヨルツの檻に入れる。
嫌がらせでヨルツにはわざといつも他の怪物と変わらない量の食事を出していた。ヨルツほどの巨体なら、もっと量を出してやるべきではあるのだが、俺が出さない分をエドヴィンが出しているので今まで問題になったことはない。
ちゃんと調理されたエドヴィンの飯と俺の仕上がりが想定できないロシアン鍋、どう考えてもエドヴィンの飯のが美味いだろうが、腹に入るなら食ってもらった方が皿洗いが楽だ。
俺の言葉にヨルツが丸まったまま、再び片目だけ開ける。
「…誰かの飯でも取り上げたのか?」
「ちげーよ、余ったんだよ。口答えすんな」
俺はヨルツの鉄格子を足で軽くつつく。
彼は怪訝そうに少し首を持ち上げ俺を見上げる。
「何を企んでる」
「テメェの分際で疑ってんじゃねえよ、叩かれてえのか」
今までずっと鞭やらスタンガンやらでヨルツに虐待を与えてきたのだ。そう思われて当たり前だし、今までならそうしていただろう。
「…いらねーなら、そんままにしとけ」
ヨルツを鞭打ったとこで、今更得られるものはない。俺は鼻で笑うと、その場を後にした。
いつもなら怪物に鞭打って時間を潰すのだが、その時間を省くと一気に仕事がなくなった。俺は欠伸をしながら待機所に戻る。次の巡回までゲームでもしながら時間を潰せばいいだろう。
待機所に戻り、パイプ椅子に座ると俺はすぐに指輪の媒体からゲームを起動する。少し前に新しく買ったホラーゲームだ。
新しいゲームはどんなにクソゲーでも、多少は新鮮で暇つぶしにはなるはずものだ。しかし、やってみると驚くほど興が乗らない。
別に内容がつまらないとか、好みじゃないわけでもなかった。それなりに楽しめるシステムだと思う。だけど、遊び尽くしたゲームもまたやっている感覚に近い。
どのシーンも新鮮ではないのだ。二番煎じ、三番煎じと煮出しに煮出した薄い紅茶を飲まされているような感覚。暇つぶしにしても退屈だった。
「前にも増して毎日がつまんねーな」
手の甲の口が呟いた。元から代わり映えのある毎日など過ごしていなかったが、ますます退屈なのは頷ける。
暴力も、喧嘩も、ゲームも楽しくない。こんなことあるか?今まで俺は何やって過ごしてたんだ。
「はる~」
不意に、舌足らずな少女の声が聞こえて顔を上げる。初めて聞いたはずなのに、酷く懐かしい気がした。
視線を上げると、あのブスネズミが俺に向かってアクリルケースの壁を掘っていた。
「はる~」
声と同時にネズミの口が動いた。
「お前が喋ったのか」
俺の首についている口が勝手に答える。
不思議と、話しかけられたことは不愉快ではなかった。一瞬、相手をしてやってもいいとすら思った。だけど同時に、よく分からない焦燥感が湧き上がる。
「やっぱり俺に構われたいんじゃ…」
言葉を続けようとした首の口を手で塞ぐ。何故だか、関わってはいけないような気がした。こんな小さな生き物相手に、どうしてそんな気持ちになるのか分からない。ただ、相手にしてはならないと頭の中で警鐘が鳴る。
「は~る~」
「うるせえ、黙ってろ」
俺の名前を呼び続けるそれに、俺は背を向けて再びゲームを起動した。
噛み続けて味を失ったガムをしつこく噛むように、少しでも味が出るように、俺は無理やりゲームに意識を集中させる。
ひたすらに無視を続けて、耳に入ってくるネズミの声が聞こえないフリをした。
「はる…?」
その声が困惑しているような、寂しそうな声に変わったことに気付かなかったことにした。
やがて、ネズミは俺の名前を呼ぶのをやめると、俺に少しでも近い場所を選ぶようにアクリルケースの角で丸くなって眠りについた。
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