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第1章 見えるようになる(残り30~27日)
第17話 神様の試練
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既に外は昏い夜が訪れており、微かな雨粒が舞っていた。今晩は雨が降るという予報に間違いはないようであった。
自家用車に乗り込んだ一翔の脳内は未だ光が弾けているようで耳鳴りがしていたが、構うことなくエンジンをかけ、直ぐさまシフトレバーを鷲掴みにした。
だが勢いよく引こうとするその手首を、柔らかな温もりが負けじと強く抑えた。
「看護師さんも言ってたでしょう、少し休んでから帰った方がいいって。それなら車の中で休むからって君は答えていたじゃない」
助手席に座っていた『天使』が、冷静な口調で窘めながら車の発進を制止していた。
彼女がここまで直接的に一翔に触れたことはなく、その温度と圧迫感は正に人間そのものであると一翔に印象付けた。
だが一翔には、影もなく随伴して病棟での一連の言動を把握し、音もなく助手席に忍び込んできた彼女のことを人間と見做せる余地がなかった。
故に彼女の肉感も、気遣いすらも、全てが軽薄で紛い物であるように思えた。
一翔は左手を身体の内側へ引いて『天使』が被せた右手を鬱陶しそうに払い除けると、ここ数日のストレスを晴らすかのように声を荒げた。
「…全部おまえのせいだろ!! おまえが俺に余命宣告なんてものをしやがったせいで、俺はこんなに惨めな思いを…!」
自分でも些か驚くほどの怒声が車内に充満したが、一翔が睨み付ける『天使』は微動だにすることなく、真っ直ぐに見つめ返していた。
彼女の身体も髪も薄着もブラックライトのように淡い光を湛えていたが、蒼い瞳だけは宝石のように輝いていた。
まるでオブジェのような冷たい美しさを、しかし一翔は粉々に砕いてしまいたいと望んだ。腸が煮え繰り返るのが解り、八つ当たりをぶつけるかのように声音を震わせた。
「そうだよ…やっぱりこんな展開都合が良すぎるんだ。俺が自分の人生にちっとも向き合わないから、意図的に身近な人の死を体験させようとしてるんだろ? おまえが本当に神託される存在なら、神様を通じてきっかけを作り出すことだって充分に考えられるはずだ! そんな下賤な手口に乗せられてたまるか! 俺は…俺の人生は……!!」
「ねぇ、本当にそう思ってるの?」
鼻息を荒くしながら捲し立てる一翔を、『天使』は低い声音で牽制した。
「本当にそう思ってるのなら、流石に君のことを軽蔑するよ」
彼女から初めて言い放たれたであろう強い非難に、一翔は思わず畏怖を抱いて口を噤んだ。
決して大きくはない自家用車の中で張り詰めた沈黙は——意味の無いアイドリングを続ける時間は——これまで彼女と向き合ったどの状況よりも気不味いものであった。
フロントガラスの表面に付着する水滴が徐々に大きくなり、数を増やしていた。
一翔は逃れようのない空間の中で視線を落とし、ただ『天使』から向けられた鋭利な言葉を噛み締める他なかった。その冷たさは精神の昂りを少しずつ鎮めるとともに、自分がどれだけ愚かしい暴言を吐いたかを苦々しく知らしめていた。
「……ごめん。俺が悪かった」
一翔は俯いたまま、ぽつりと呟いた。怒鳴りつけた『天使』に詫びつつ、祖父に対しても謝っていた。
自分の人生のために他人の死のタイミングが左右されるなどという発想は、擁護のしようもない高慢であった。そして『天使』の存在と真面に向き合わず邪険に扱いながらも、都合の良い言い掛かりをこじ付ける自分の姿は何とも下劣であった。
内省とともに疲労感が湧き上がり、一翔は右手で目頭を覆いながら座席に埋もれた。すると『天使』が、いつもの淡泊な口調に戻して語り掛けてきた。
「でも、気持ちは解るよ。大抵の人間は神様なんて信じていない癖に、都合の悪い時だけ神様を憎んだり恨んだりするものだからね。人間の世界は、人間1人1人の歩みが紡がれて成り立つものなんだから、幸も不幸も、利益も不利益も神様が裁量を握っているわけじゃない。その発想自体が、人間にとって都合の良い解釈でしかないんだよ」
神託を受けた存在とは到底思えない『天使』の言葉に、一翔は疑問を呈さざるを得なかった。そうするように差し向けられているとさえ思えた。
「それは…本当にこの世の摂理なのか。それとも、あんたの持論なのか」
「私の独り言だよ。私が君も含めた人間を今まで見てきたことを踏まえた、ただの感想。君のお祖父さんやお祖母さんが信仰している神様や宗教的な考え方を、否定するつもりはないからね」
「じゃあ、なんで神様は恣意的に人間を選んで余命宣告を下してるんだよ。今の言い方だと、神様には人間の生き死に関する裁量がないってことになるだろ」
「そうだね。でも神様は、人間に須らく幸福な生涯を送ることを求めている。大前提として、真っ当に寿命を迎えることを望んでいる。実際はその通りに人生を終えられる人間の方が少ないのかもしれないけれど、1人でも多くその可能性を繋いでほしいと考えている」
「だから君は、可能性を蔑ろにしないで欲しいと期待されているようなものなんだよ。この前も言ったでしょう、これは神様が与えた試練みたいなものだって」
『天使』と言葉を交わしているうちに、一翔は段々と気持ちが落ち着いていくのを感じていた。
そして嘗て祖父が言い聞かせた励ましの言葉を——理不尽だと拒絶反応を起こしたメッセージを、今なら受け止められるような気がした。
『神様がおまえにとって一番良い未来に導いてくれるだよ』
とはいえ何が変わるわけでもない現状に、一翔は力無い表情を浮かべながら溜息を吐いた。
「だからといって…命を賭けさせるのは裁量を逸してるんじゃないのか」
「さぁね。神様は誰にも裁かれないから神様なわけだからね」
「無茶苦茶じゃねぇかよ」
一翔は小さく嘆きながら、シフトレバーを引いて今度こそ雨中の夜道へと車を発進させた。
日付が変わろうかという頃、祖父の逝去を報せる連絡が一翔のスマホに届いた。
自家用車に乗り込んだ一翔の脳内は未だ光が弾けているようで耳鳴りがしていたが、構うことなくエンジンをかけ、直ぐさまシフトレバーを鷲掴みにした。
だが勢いよく引こうとするその手首を、柔らかな温もりが負けじと強く抑えた。
「看護師さんも言ってたでしょう、少し休んでから帰った方がいいって。それなら車の中で休むからって君は答えていたじゃない」
助手席に座っていた『天使』が、冷静な口調で窘めながら車の発進を制止していた。
彼女がここまで直接的に一翔に触れたことはなく、その温度と圧迫感は正に人間そのものであると一翔に印象付けた。
だが一翔には、影もなく随伴して病棟での一連の言動を把握し、音もなく助手席に忍び込んできた彼女のことを人間と見做せる余地がなかった。
故に彼女の肉感も、気遣いすらも、全てが軽薄で紛い物であるように思えた。
一翔は左手を身体の内側へ引いて『天使』が被せた右手を鬱陶しそうに払い除けると、ここ数日のストレスを晴らすかのように声を荒げた。
「…全部おまえのせいだろ!! おまえが俺に余命宣告なんてものをしやがったせいで、俺はこんなに惨めな思いを…!」
自分でも些か驚くほどの怒声が車内に充満したが、一翔が睨み付ける『天使』は微動だにすることなく、真っ直ぐに見つめ返していた。
彼女の身体も髪も薄着もブラックライトのように淡い光を湛えていたが、蒼い瞳だけは宝石のように輝いていた。
まるでオブジェのような冷たい美しさを、しかし一翔は粉々に砕いてしまいたいと望んだ。腸が煮え繰り返るのが解り、八つ当たりをぶつけるかのように声音を震わせた。
「そうだよ…やっぱりこんな展開都合が良すぎるんだ。俺が自分の人生にちっとも向き合わないから、意図的に身近な人の死を体験させようとしてるんだろ? おまえが本当に神託される存在なら、神様を通じてきっかけを作り出すことだって充分に考えられるはずだ! そんな下賤な手口に乗せられてたまるか! 俺は…俺の人生は……!!」
「ねぇ、本当にそう思ってるの?」
鼻息を荒くしながら捲し立てる一翔を、『天使』は低い声音で牽制した。
「本当にそう思ってるのなら、流石に君のことを軽蔑するよ」
彼女から初めて言い放たれたであろう強い非難に、一翔は思わず畏怖を抱いて口を噤んだ。
決して大きくはない自家用車の中で張り詰めた沈黙は——意味の無いアイドリングを続ける時間は——これまで彼女と向き合ったどの状況よりも気不味いものであった。
フロントガラスの表面に付着する水滴が徐々に大きくなり、数を増やしていた。
一翔は逃れようのない空間の中で視線を落とし、ただ『天使』から向けられた鋭利な言葉を噛み締める他なかった。その冷たさは精神の昂りを少しずつ鎮めるとともに、自分がどれだけ愚かしい暴言を吐いたかを苦々しく知らしめていた。
「……ごめん。俺が悪かった」
一翔は俯いたまま、ぽつりと呟いた。怒鳴りつけた『天使』に詫びつつ、祖父に対しても謝っていた。
自分の人生のために他人の死のタイミングが左右されるなどという発想は、擁護のしようもない高慢であった。そして『天使』の存在と真面に向き合わず邪険に扱いながらも、都合の良い言い掛かりをこじ付ける自分の姿は何とも下劣であった。
内省とともに疲労感が湧き上がり、一翔は右手で目頭を覆いながら座席に埋もれた。すると『天使』が、いつもの淡泊な口調に戻して語り掛けてきた。
「でも、気持ちは解るよ。大抵の人間は神様なんて信じていない癖に、都合の悪い時だけ神様を憎んだり恨んだりするものだからね。人間の世界は、人間1人1人の歩みが紡がれて成り立つものなんだから、幸も不幸も、利益も不利益も神様が裁量を握っているわけじゃない。その発想自体が、人間にとって都合の良い解釈でしかないんだよ」
神託を受けた存在とは到底思えない『天使』の言葉に、一翔は疑問を呈さざるを得なかった。そうするように差し向けられているとさえ思えた。
「それは…本当にこの世の摂理なのか。それとも、あんたの持論なのか」
「私の独り言だよ。私が君も含めた人間を今まで見てきたことを踏まえた、ただの感想。君のお祖父さんやお祖母さんが信仰している神様や宗教的な考え方を、否定するつもりはないからね」
「じゃあ、なんで神様は恣意的に人間を選んで余命宣告を下してるんだよ。今の言い方だと、神様には人間の生き死に関する裁量がないってことになるだろ」
「そうだね。でも神様は、人間に須らく幸福な生涯を送ることを求めている。大前提として、真っ当に寿命を迎えることを望んでいる。実際はその通りに人生を終えられる人間の方が少ないのかもしれないけれど、1人でも多くその可能性を繋いでほしいと考えている」
「だから君は、可能性を蔑ろにしないで欲しいと期待されているようなものなんだよ。この前も言ったでしょう、これは神様が与えた試練みたいなものだって」
『天使』と言葉を交わしているうちに、一翔は段々と気持ちが落ち着いていくのを感じていた。
そして嘗て祖父が言い聞かせた励ましの言葉を——理不尽だと拒絶反応を起こしたメッセージを、今なら受け止められるような気がした。
『神様がおまえにとって一番良い未来に導いてくれるだよ』
とはいえ何が変わるわけでもない現状に、一翔は力無い表情を浮かべながら溜息を吐いた。
「だからといって…命を賭けさせるのは裁量を逸してるんじゃないのか」
「さぁね。神様は誰にも裁かれないから神様なわけだからね」
「無茶苦茶じゃねぇかよ」
一翔は小さく嘆きながら、シフトレバーを引いて今度こそ雨中の夜道へと車を発進させた。
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