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第1章 見えるようになる(残り30~27日)

第15話 危篤の報

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 今年は10月に入っても異様な残暑が続いていたが、日が暮れる時刻は毎年変わることなく、曇天どんてんも相まって午後4時の時点でも外はかなり薄暗くなっているように感じられた。
 一翔は伊熊部長に祖父が危篤きとくであるむねを伝えて早退し、蒸した空気をき分けながら駐車場へと足を進めていた。


「私もお父さんも今日中にそっちへ行くのは難しいから、せめて一翔だけでも仕事終わりにお祖父じいちゃんに顔を見せに行ってほしくて…お祖母ばあちゃんには私が伝えておくから」


 母から連絡を受けたのは午後2時頃であり、特段こなすべき仕事もなかった一翔はただちに病院へ向かうべきだと思い立った。
 だが伊熊部長には、夕方まで残るよう指示されていた。恐らく自分の顔を見て、気持ちを落ち着かせる時間を与えようと配慮をかせたのだろうと察した。

 それでも病院までの目的地設定をカーナビで操作する一翔の指先は氷のように冷たく、震えていた。
 ナビが示したルートは途中までいつもの帰路と同じ景色のはずなのに、何処どこか知らない世界にアクセルを踏み出しているかのような錯覚に襲われていた。


 祖父が療養を受けている病院は三日原みっかばらという町にあり、アパートから西へ所要40分、職場からだと1時間は掛かる見込みであった。
 普段なら好きな音楽を流して単調な長距離移動を紛らわせるところであるが、今は何を聴く気分にもなれず、一翔はただガソリンエンジンがうなる音に浸っていた。

 しかし信号の連なりは繰り返し赤をともし、その都度アイドリングストップが働いて車内は静まり返った。そのときには心臓の鼓動がはっきりと聞こえ、反比例するように一翔に焦燥しょうそうつのった。


——また赤かよ…くそ、早く行かなきゃならないのに……!


 だがもどかしさで息が詰まりそうになるに連れて、一翔の心の中ではその焦燥しょうそうへ疑問がていされるようになった。


——でも、行ったところで俺に何が出来できるわけでもない…会話が出来できるかもわからない。言われるがままに行くべきだと本能が訴えていて、それが身内として当然だと従っているけど……俺は死の間際まぎわ祖父じいちゃんに会って、何をすべきなんだ?


 断続的な静寂の中で何を考えるべきなのかもわからず、混乱が眩暈めまいへと変異しつつあった。ハンドルを握るてのひらは汗が冷えてかじかみ、ブレーキを踏む右足は少しずつ硬直していくような気がした。


——今夜が山かもしれないとはいえ、俺が間に合うか間に合わないか…そこに何か違いがあるのか?

——俺はどうしてこんなに急いでいるんだ? 俺は、一体何のために……!?



「信号、青になってるよ」


 不意に左耳へ届いた指摘は全身に電流がはしったかのような衝撃となり、一翔は我に返った。弾みでアクセルを強く踏み込んでしまい、思いがけず車を急発進させていた。

 眩暈めまいが晴れた一翔はそのスピードを安定させながら、なおも聞こえる動悸どうきを静めようと努めた。外はヘッドライトの点灯が推奨される程の暗がりとなっていることもあり、改めて運転に集中しようと意識を切り替えた。

 他方でその視界の片隅では、『天使』が何やらカーナビ画面を操作しているのがわかった。


「この時間は、ニュース番組くらいしか目ぼしいのがないね」


 アナウンサーの落ち着いた声音が車内に流れると、一翔はまた少し気が紛れた。

 再び赤信号で停止した際に左を見遣みやると、『天使』がいつの間にか助手席に座っており、律義にシートベルトを締めていた。

 一翔の視線に気付いた彼女は、無言の問いかけを尋ね返すような表情で目を合わせてきた。
 薄暗い車内でも猫のようにあおく大きく浮かぶ瞳に意識を奪われそうになり、一翔はぐに正面へ向き直った。


 運転中に注意が散漫だった自分を『天使』が気無げなとがめたことは明らかであり、常にかたわらにひそんでいたであろう彼女は当然にその原因を把握しているはずであった。
 
 本来なら謝意を示すべきなのだが、一翔は彼女に借りを作ってしまった事実を有耶無耶うやむやにしようと、どうしようもない話題を振りかけていた。


「…なぁ、祖父じいちゃんは今日、本当に死んじまうのか」


 信号が青になり、今度は自動車が順調に加速した。

 『使、他人の寿命など知り得ないことはわかり切っていた。他愛のない返事を待ち構えていると、彼女はエンジンのうなりが落ち着くのを待ってから淡々と答えた。


「君は、お祖父じいさんに死んでほしくないの?」


 予想に反して心外な問いかけが返ってきたが、運転に集中し直した一翔はその冷たさをかろうじて受け流していた。


「そんなの……当たり前だろ」


「でも、人間はいつか必ず死ぬ。生命には必ず終わりが来る。どんなに先延ばしにしても限界は来る。君のお祖父じいさんは、そのために準備をしていたんでしょう?」



 依然として何のぬくもりもない、機械的な台詞せりふが車内に浮かんだ。身内が聞けば、その無礼な発言に対して確実に憤慨ふんがいするように思えた。

 だが『天使』がみずから明かした通りの存在であるならば、彼女が人間という種を端的に捉え語っても何ら可笑おかしくはないと、一翔は不思議とに落ちていた。
 一翔自身に下された余命宣告には抗おうとするにもかかわらず、他人に対して無機質な視線を送っていることは、利己的に思える一方で共感の余地があった。

 それらを踏まえて、一翔はぼやくように『天使』に言い返した。


「あんたには、感情ってもんが無さそうだからな。人はいつか死ぬってわかってても、人の感情がその理解を受け入れないものなんだよ」


勿論もちろん知ってるよ。だから人間は泣いたり、怒ったりする。


「…なんで態々わざわざ含みのある言い回しをするんだよ」


「ねぇ、君はお祖父じいさんが死んだら、泣くの?」


「は? 何言ってんだよ、そんなの…」


——そのときになってみないとわからないだろ。



 続きかけた返事を一翔は咄嗟とっさに呑み込み、口籠くちごもるようにして素朴そぼくな問いを肯定した。
 
 感情は自然と湧き上がるものであって、事前に予見するものではない。それが当たり前だと思っていたのに、と『天使』が示唆しさしているような気がした。

 だが彼女の意地の悪い質問には怒って当然であるはずなのに、何も言い返さないことでかえって一翔の本心が露呈ろていしていた。元より自分のいた種であることを差し引いても、そこに弁解の余地はなかった。


——俺は祖父じいちゃんがと思っているのであって、死んでほしくないとは思っていないのかもしれない。だから、どういう顔で会いに行けばいいのかわからないってことなのか…?


 せめて薄情な結論をさかのぼって修正したかったが、信号の連なりは一転して青を示し続けており、それ以上に頭を動かす余裕を生み出せなかった。


 間もなく午後5時になろうかという頃、一翔は三日原みっかばら総合病院に到着していた。
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