15 / 35
第1章 見えるようになる(残り30~27日)
第15話 危篤の報
しおりを挟む今年は10月に入っても異様な残暑が続いていたが、日が暮れる時刻は毎年変わることなく、曇天も相まって午後4時の時点でも外はかなり薄暗くなっているように感じられた。
一翔は伊熊部長に祖父が危篤である旨を伝えて早退し、蒸した空気を掻き分けながら駐車場へと足を進めていた。
「私もお父さんも今日中にそっちへ行くのは難しいから、せめて一翔だけでも仕事終わりにお祖父ちゃんに顔を見せに行ってほしくて…お祖母ちゃんには私が伝えておくから」
母から連絡を受けたのは午後2時頃であり、特段熟すべき仕事もなかった一翔は直ちに病院へ向かうべきだと思い立った。
だが伊熊部長には、夕方まで残るよう指示されていた。恐らく自分の顔を見て、気持ちを落ち着かせる時間を与えようと配慮を利かせたのだろうと察した。
それでも病院までの目的地設定をカーナビで操作する一翔の指先は氷のように冷たく、震えていた。
ナビが示したルートは途中までいつもの帰路と同じ景色のはずなのに、何処か知らない世界にアクセルを踏み出しているかのような錯覚に襲われていた。
祖父が療養を受けている病院は三日原という町にあり、アパートから西へ所要40分、職場からだと1時間は掛かる見込みであった。
普段なら好きな音楽を流して単調な長距離移動を紛らわせるところであるが、今は何を聴く気分にもなれず、一翔はただガソリンエンジンが唸る音に浸っていた。
しかし信号の連なりは繰り返し赤を灯し、その都度アイドリングストップが働いて車内は静まり返った。そのときには心臓の鼓動がはっきりと聞こえ、反比例するように一翔に焦燥が募った。
——また赤かよ…くそ、早く行かなきゃならないのに……!
だがもどかしさで息が詰まりそうになるに連れて、一翔の心の中ではその焦燥へ疑問が呈されるようになった。
——でも、行ったところで俺に何が出来るわけでもない…会話が出来るかも解らない。言われるが儘に行くべきだと本能が訴えていて、それが身内として当然だと従っているけど……俺は死の間際の祖父ちゃんに会って、何をすべきなんだ?
断続的な静寂の中で何を考えるべきなのかも解らず、混乱が眩暈へと変異しつつあった。ハンドルを握る掌は汗が冷えて悴み、ブレーキを踏む右足は少しずつ硬直していくような気がした。
——今夜が山かもしれないとはいえ、俺が間に合うか間に合わないか…そこに何か違いがあるのか?
——俺はどうしてこんなに急いでいるんだ? 俺は、一体何のために……!?
「信号、青になってるよ」
不意に左耳へ届いた指摘は全身に電流が奔ったかのような衝撃となり、一翔は我に返った。弾みでアクセルを強く踏み込んでしまい、思いがけず車を急発進させていた。
眩暈が晴れた一翔はそのスピードを安定させながら、尚も聞こえる動悸を静めようと努めた。外はヘッドライトの点灯が推奨される程の暗がりとなっていることもあり、改めて運転に集中しようと意識を切り替えた。
他方でその視界の片隅では、『天使』が何やらカーナビ画面を操作しているのが解った。
「この時間は、ニュース番組くらいしか目ぼしいのがないね」
アナウンサーの落ち着いた声音が車内に流れると、一翔はまた少し気が紛れた。
再び赤信号で停止した際に左を見遣ると、『天使』がいつの間にか助手席に座っており、律義にシートベルトを締めていた。
一翔の視線に気付いた彼女は、無言の問いかけを尋ね返すような表情で目を合わせてきた。
薄暗い車内でも猫のように蒼く大きく浮かぶ瞳に意識を奪われそうになり、一翔は直ぐに正面へ向き直った。
運転中に注意が散漫だった自分を『天使』が然り気無く咎めたことは明らかであり、常に傍らに潜んでいたであろう彼女は当然にその原因を把握しているはずであった。
本来なら謝意を示すべきなのだが、一翔は彼女に借りを作ってしまった事実を有耶無耶にしようと、どうしようもない話題を振りかけていた。
「…なぁ、祖父ちゃんは今日、本当に死んじまうのか」
信号が青になり、今度は自動車が順調に加速した。
『天使』であるとはいえ、他人の寿命など知り得ないことは解り切っていた。他愛のない返事を待ち構えていると、彼女はエンジンの唸りが落ち着くのを待ってから淡々と答えた。
「君は、お祖父さんに死んでほしくないの?」
予想に反して心外な問いかけが返ってきたが、運転に集中し直した一翔はその冷たさを辛うじて受け流していた。
「そんなの……当たり前だろ」
「でも、人間はいつか必ず死ぬ。生命には必ず終わりが来る。どんなに先延ばしにしても限界は来る。君のお祖父さんは、そのために準備をしていたんでしょう?」
依然として何の温もりもない、機械的な台詞が車内に浮かんだ。身内が聞けば、その無礼な発言に対して確実に憤慨するように思えた。
だが『天使』が自ら明かした通りの存在であるならば、彼女が人間という種を端的に捉え語っても何ら可笑しくはないと、一翔は不思議と腑に落ちていた。
一翔自身に下された余命宣告には抗おうとするにも拘らず、他人に対して無機質な視線を送っていることは、利己的に思える一方で共感の余地があった。
それらを踏まえて、一翔はぼやくように『天使』に言い返した。
「あんたには、感情ってもんが無さそうだからな。人はいつか死ぬって解ってても、人の感情がその理解を受け入れないものなんだよ」
「勿論知ってるよ。だから人間は泣いたり、怒ったりする。普通はそういうものだと思う」
「…なんで態々含みのある言い回しをするんだよ」
「ねぇ、君はお祖父さんが死んだら、泣くの?」
「は? 何言ってんだよ、そんなの…」
——そのときになってみないと解らないだろ。
続きかけた返事を一翔は咄嗟に呑み込み、口籠るようにして素朴な問いを肯定した。
感情は自然と湧き上がるものであって、事前に予見するものではない。それが当たり前だと思っていたのに、その思考自体が普通でないと『天使』が示唆しているような気がした。
だが彼女の意地の悪い質問には怒って当然であるはずなのに、何も言い返さないことでかえって一翔の本心が露呈していた。元より自分の蒔いた種であることを差し引いても、そこに弁解の余地はなかった。
——俺は祖父ちゃんが死ぬべきではないと思っているのであって、死んでほしくないとは思っていないのかもしれない。だから、どういう顔で会いに行けばいいのか解らないってことなのか…?
せめて薄情な結論を遡って修正したかったが、信号の連なりは一転して青を示し続けており、それ以上に頭を動かす余裕を生み出せなかった。
間もなく午後5時になろうかという頃、一翔は三日原総合病院に到着していた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
【新作】読切超短編集 1分で読める!!!
Grisly
現代文学
⭐︎登録お願いします。
1分で読める!読切超短編小説
新作短編小説は全てこちらに投稿。
⭐︎登録忘れずに!コメントお待ちしております。
季節の織り糸
春秋花壇
現代文学
季節の織り糸
季節の織り糸
さわさわ、風が草原を撫で
ぽつぽつ、雨が地を染める
ひらひら、木の葉が舞い落ちて
ざわざわ、森が秋を囁く
ぱちぱち、焚火が燃える音
とくとく、湯が温かさを誘う
さらさら、川が冬の息吹を運び
きらきら、星が夜空に瞬く
ふわふわ、春の息吹が包み込み
ぴちぴち、草の芽が顔を出す
ぽかぽか、陽が心を溶かし
ゆらゆら、花が夢を揺らす
はらはら、夏の夜の蝉の声
ちりちり、砂浜が光を浴び
さらさら、波が優しく寄せて
とんとん、足音が新たな一歩を刻む
季節の織り糸は、ささやかに、
そして確かに、わたしを包み込む
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる