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第1章 見えるようになる(残り30~27日)
第14話 嵐の前の静けさ
しおりを挟む2024年10月8日 火曜日。宣告された死まで残り27日。
愚図ついた空の下始まった午前中は退屈を誤魔化しているうちに過ぎ去り、昼の休憩時間を迎えていた。
匂坂社長と伊熊部長は例によって外食に赴き、一翔は無人となった事務所の中で持参した弁当を開けていた。
社屋内では未使用の会議室を食事スペースとして開放しているが、基本的に座席はオサカベコーポレーションの従業員で埋まっており、気後れする一翔は毎度給湯室の電子レンジで弁当を温めるだけ温めて直ぐに事務所に引っ込んでいた。
独りで突く弁当は客観的には虚しく、味気なく思われるものだが、一翔にとっては自分で作った味付けを堪能する方が独りでもよっぽど精神的に気楽であった。
それでも今日に関しては、午前中に伊熊部長から聞かされた話題が一翔の脳内で澱みのようにこびり付いており、せっかくの欧風牛丼弁当を昨晩と同じように味わうことが出来ずにいた。
『豊橋の長澤君をね、ここに戻すかもしれないって話になってだな。彼にどういう仕事をさせるかは未だ解らんが、そういう動きがあるってことを頭の片隅に入れといてくれ』
それは、嘗て次長として刑部緑地開発に在籍していた長澤紳八についてのあまり良くない報せであった。
一昨年の春に豊橋市に保有するゴルフ場へ副支配人として転籍した長澤次長だったが、現場からの評判が芳しくなく離職者が相次ぎ、上長であるはずの支配人との連携も好ましくない傾向にあった。
そうした鬱積が決壊したのか、刑部代表宛に副支配人の人事異動を懇願する匿名の直訴が先週のうちに届いていたのだという。
直接の親会社である刑部観光開発を飛躍した要請は組織の在り方として看過出来なかったが、その内情自体を蔑ろにすることも適切ではなかった。
故に伊熊部長は昨日、本件の整理も含めて豊橋の現場へと出向いていたのだと一翔に明かしていた。
——現場でも散々な評価だったあの人がこの狭い事務所に戻って来るとか、想像しただけで嫌すぎる。…まぁ、それを気遣って部長は態々説明してくれたのかもしれないけどさ。
現在齢50手前である長澤次長は一翔のように、刑部代表が知人から紹介を受ける形でオサカベコーポレーションへ中途入社した人物であった。
不動産業を始め知識が豊富で計算高く代表からの評価は高かったが、がさつで融通が利かず一部の同僚と軋轢を抱えがちであった。
刑部緑地開発の創立メンバーとして次長職に就いて以降も、現場の幹部らの力量を独自の物差しで判断しぞんざいに遇う傾向があり、度々伊熊部長に咎められていた。
そこで刑部代表の発案により、現場の要職として転籍しサービス業の経験と指導を両立するよう辞令が下された。
長澤副支配人の貢献によって業績が改善された側面はあったものの、現場の不満が募るなどして代償もまた増えるという結果を齎していた。報告された不満を断片的に聞いただけでも、一翔は同情を寄せずにはいられなかった。
——業務の指示をやるだけやってフォローがない、意見を出しても門前払いにされる、顧客とのトラブルを解消してくれない、支配人に直接話を通そうとすると悪態を吐かれる…相変わらずあの人は、相手の立場に立つってことが出来ないままなのか。
一翔も長澤次長絡みでは、苦々しい経験があった。本来3年予定だった現場出向を前倒しで解除し、本社に戻された一翔には次長から幾つかの仕事が振られた。
そのうちの1つは、当時現場で導入に消極的だったSNSアカウントを全ゴルフ場に作らせ、活用させるものであった。
今となっては在《あ》って当然のコンテンツではあるが、アナログ気質な6つの現場に独りで理解と推進を求めることは精神的に堪えた。
そして最も難題であったのは、刑部緑地開発の傘下ゴルフ場全体で競技大会を企画することであった。
概要としては各地で予選を行ったのち、選抜者を1ゴルフ場に集めて決勝戦を実施するものであり、業界大手では度々開催されている。
だがそれは相応の人手を以て参加者や賞品の手配、広告宣伝や運営を成立させるものであり、企画段階とはいえ一平社員の一翔独りでは到底見通しを立てられたものではなかった。
一方的かつ冗長に指示を伝えた長澤次長からは、最後にこんな助言が添えられた。
『何かあったらサポートするからさ。現場の支配人に仕事回してやってよ』
譬え会社の親子関係に則ったとしても、言葉通りの権限を二十代半ばの平社員が漫然と翳せるはずがなく、一翔は誰に助けを求めることも出来ずに臆した。
だが間もなくして訪れた世界的な流行病によって、奇しくもその企画は何の骨組みも立たないうちに有耶無耶となった。
そして流行病が落ち着く頃には長澤次長が転籍となり、一翔は虚しいながらも比較的穏やかな勤務を続けて今に至っていた。
その平穏に、窓の外で正に広がっているような暗雲が立ち込めようとしていたのであった。
——長澤さんが戻ってきたら、また以前のような無謀な大会企画を掘り返されるんだろうか。経理業務とか、俺の数少ない仕事の大半はあの人から引き継いだものだし、それが取り上げられたりするんだろうか。
——でも俺がもし1ヶ月後に命を奪われてしまうとしたら…そんな心配はするだけ無用なんだろうか。
長澤次長との仕事と自《みずか》らの死を無意識に天秤に掛けていたことに気付くと、その仰々しさに思わず乾いた笑いが零れた。
あの人と仕事をするくらいなら死んだ方がマシだ——などという刹那的な思考に囚われていることが、相も変わらず情けなかった。
そんな感傷に浸っていると透かさず『天使』が横槍を入れて来そうなものであったが、昨日とは一転して昼時になっても彼女の姿は見えず、話し掛けてくることもなかった。
一翔は些か拍子抜けした気分であったが、彼女を徐々に認識出来なくなることは、それはそれで良い傾向だろうと自らに言い聞かせた。
午後の勤務時間となり伊熊部長が戻って来たが、その際に匂坂社長がまた私用で出払ったまま直帰になる旨を言い渡された。
匂坂社長は長澤次長の件に関しても、伊熊部長に現場対応を任せつつ刑部代表の裁量を待機しているだけのように見えた。
——代表にとって長澤さんは、知人から預って世話をしたようなものだった。だからどんなに悪目立ちしても、ぞんざいな処遇をすることはないのだろう。
——それなら祖父ちゃんから紹介された俺のことは…どういう風に映ってるんだろうな。
適当なパソコン作業で午後も時間を貪っていると、電話の着信音が静かな室内に鳴り響いた。但しそれは机上の電話機からではなく、ポケットに仕舞っていた一翔のスマホからであった。
発信元は都内で働いているはずの母からであり、一翔はこの時点で何か不穏な予感を察知していた。
「もしもし一翔? お仕事中にごめんね。今、話しても大丈夫?」
久方ぶりに聞いた母・和恵の声音は妙に低く押し殺したように聞こえたが、一翔は席を立つことなく応じた。
「あのね、さっき病院から連絡があって…お祖父ちゃんがもう、長くないかもしれない……今夜が山かもしれないんだって」
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