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第1章 見えるようになる(残り30~27日)
第10話 平日のルーティン
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一翔は大学4年生の夏、毎年お盆の時期に家族で訪ねていた浜松市にある母方の実家に同伴しなかった。
就職活動が難航しているからという理由だったが、それを母から聞いた祖父の慶三は一翔を憂慮したのか、オサカベコーポレーションで創設されたばかりだった企業への面談を提案した。
当時のオサカベコーポレーションは新卒採用に積極的ではなかったが、刑部代表は発足したばかりの組織の将来性を見込み、何より袴田慶三さんの紹介ならばと前向きに捉えた。
そして匂坂社長も二つ返事で刑部代表の要請を受け入れ、その後の展開はトントン拍子に進んだ。
独り浜松に赴いて簡単な面談を受けた一翔は、9月初旬にはあっさりと内定を受けた。
他に受験したい企業があれば就職活動を続けても構わないという配慮まで下されたものの、結局何に引っ掛かるわけでもなく消去法的に入社承諾の手続きを進めた。
祖父には一言電話で礼を伝えたのみで、実際に顔を合わせたのは浜松市で単身生活を始めてからであり、以降も市内の案内や自家用車購入の仲介など様々な援助をしてもらっていた。
だがそんな祖父も現在は齢85となり、末期癌を患って市内の病棟でホスピスケアを受けていた。
一翔は都内で暮らす家族よりもずっと祖父に近い場所に住んでいながら、暫く祖父には会っていなかった。
「社長、こちら営業報告になります」
一翔はメールボックスに届いていたゴルフ場6社の営業報告を取り纏めて伊熊部長に提出した後、同じものを匂坂社長の机に置きながら一言添えた。
パソコンの使えない匂坂社長にはメールで連絡のしようもないので、各社から届く営業日報も一式印刷し併《あわ》せて提出するのが決まりであり、週明けは金曜から日曜まで3日分を纏めるために少々手間が掛かっていた。
とはいえ売上予測や過去実績対比等の集計は殆ど計算式やグラフを整理しているため、資料作成には然程時間は要さず、寧ろ少しでも時計の針が進むことを心の片隅で歓迎していた。
未だ新聞を読み耽っていた匂坂社長は短く礼を返して提出物を流し見ると、徐に伊熊部長へ声を掛けた。
「伊熊君、俺はこれから代表のとこ顔出してから浜名レンジ行ってくるけど、代表には三島富士の件、追加で資料を貰うってことでいいだよな?」
浜名レンジとはオサカベコーポレーションが浜名湖の近隣に保有するショートコース付きのゴルフ練習場であり、匂坂社長はその施設のオーナーを兼任していた。
そして三島富士とは新規の買収案件として先月よりブローカーから提示されていた静岡県東部にあるゴルフ場の名称であったが、伊熊部長は諭すような口調で答えた。
「いや社長、その案件は先週のうちに断ったじゃないですか。設備投資と預託金償還の両立が困難だし、借地の権利問題も動向が不透明だし、あと富士山も大して見える立地じゃないからってこと代表と話し合ったじゃないですか」
「そうだったっけか? 先月視察行ったときちゃんと見えてただら」
「確かに見ましたけど、進行方向とは逆向きだったでしょう。それじゃあなってことで代表も難色示してたじゃないですか」
その後暫く匂坂社長と伊熊部長との間で水掛け論に似た応酬が続き、一翔は煩わしさが表情に出ないよう装いながらパソコンに向かっていた。
刑部緑地開発は東海圏を中心にゴルフ場を保有しながらも日本の一象徴である富士山が見えるコースはなく、刑部代表が次なる買収候補として拘っている節があった。
義兄である匂坂社長はその希望に応えようと振る舞っているように見えたが、どちらかといえば齢を重ねて暈けが深刻化してきたと表する方が妥当であった。
軈て老人同士の空虚とも言えるやり取りが落ち着くと、匂坂社長はあっという間に事務所から退出してしまい、伊熊部長は苦笑を浮かべながら一翔に向き直った。
「やっぱり匂坂社長はもう厳しそうだよなぁ、先週話したこと全然憶えてないんだからさ…代表に何を話すか解ったもんじゃないから、一々気を付けとかないと不安で仕方がねぇや」
これまでも幾度となく聞かされてきた愚痴混じりの小言に、一翔も愛想笑いで同情した。
ゴルフ場の買収案件に関しては伊熊部長が最も深く情報を把握しているが、代表への窓口は定期的に匂坂社長が赴くために、齟齬が生じて方針がぶれることが珍しくなかった。
それでも立場や体裁が優先されてしまい、伊熊部長の気苦労は度々愚痴となって一翔に還元されていた。
一翔はこれを甘受しつつも、やり場のない不快感が薄っすらと蓄積していくのが解っていた。
すると不意に事務所に内線が掛かり、一翔は受話器を取った。発信元は階下にあるオサカベコーポレーションの総務課であり、年配の女性事務員からやや口早な連絡が入った。
「ちょっと手違いでお昼のお弁当1食多く頼んじゃったもんでさ、そっちで誰か食べる人いない? お代はこっち持ちでいいから」
「お弁当ですか?……あ」
匂坂社長も伊熊部長も昼は基本的に外食であり、一翔も普段は前日の夕食の残りを弁当に詰めて持参していた。
だが昨夜は飲み会だったため作り置きがなく、『天使』の出現も相まってすっかり失念していた。
仕方なく余分な給食弁当の受け取りに応じて内線を切ると、その応対を珍しがった伊熊部長が透かさず話しかけてきた。
「どうした? 昼飯忘れたんか?」
「ああ、昨日の夜友達と飲み会があったんで…以前部長達と行った店なんですけど」
「あそこ行ったのか。美味いんだよなぁ揚げ茄子が。で、遅くまで遊んでたってわけか」
「いや、夜8時には解散ですよ。友達は静岡とか名古屋から来てたんで」
「なんだ、最近の若者は随分あっさりしてんな。まぁ浜松の繁華街も、大して遊べるようなとこないからなぁ」
伊熊部長の言う『遊び』の意味を適切に受け取りながら、一翔はまた愛想笑いを取り繕った。
「…それじゃ俺もそろそろ出るから。昼飯食いながら豊橋の現場行って業者と打ち合わせして…そのまま直帰になるから、後は頼んだで」
そうして伊熊部長もまた些か痛めがちな腰をゆっくりと上げて退出すると、一翔はあっさりと沈黙に満ちた空間に溺れた。
時計の針は未だ11時にも届いておらず、本業である『電話番』の始まりに力無い眼差しを天井に向けた。
昨夜の飲み会が脳裏に蘇ると、月曜から既にやることのない自分の姿がいつにも増して虚しく感ぜられた。
剰えホワイトボードのカレンダーを眺めても、今週は自分が関与する予定は何一つなかった。
——やることをやってればそれで評価されるし、給料も少ないわけじゃない。でも求められることが最低限過ぎて、タカやシュンと比べたらキャリアと呼べるものが殆ど身に付かないまま、等しく社会人としての時間を重ねてしまっている。
——それにも拘らず何も奮起しようとしない俺は…正しく『価値のある人間』とは言えないってことなんだろうか。
「退屈そうだね」
一翔が憂鬱に浸っていると、凛とした声音が右耳に届いた。
その方をちらりと見遣ると、『天使』が匂坂社長の机の淵に腰掛けながら一翔の顔色を窺っていた。
就職活動が難航しているからという理由だったが、それを母から聞いた祖父の慶三は一翔を憂慮したのか、オサカベコーポレーションで創設されたばかりだった企業への面談を提案した。
当時のオサカベコーポレーションは新卒採用に積極的ではなかったが、刑部代表は発足したばかりの組織の将来性を見込み、何より袴田慶三さんの紹介ならばと前向きに捉えた。
そして匂坂社長も二つ返事で刑部代表の要請を受け入れ、その後の展開はトントン拍子に進んだ。
独り浜松に赴いて簡単な面談を受けた一翔は、9月初旬にはあっさりと内定を受けた。
他に受験したい企業があれば就職活動を続けても構わないという配慮まで下されたものの、結局何に引っ掛かるわけでもなく消去法的に入社承諾の手続きを進めた。
祖父には一言電話で礼を伝えたのみで、実際に顔を合わせたのは浜松市で単身生活を始めてからであり、以降も市内の案内や自家用車購入の仲介など様々な援助をしてもらっていた。
だがそんな祖父も現在は齢85となり、末期癌を患って市内の病棟でホスピスケアを受けていた。
一翔は都内で暮らす家族よりもずっと祖父に近い場所に住んでいながら、暫く祖父には会っていなかった。
「社長、こちら営業報告になります」
一翔はメールボックスに届いていたゴルフ場6社の営業報告を取り纏めて伊熊部長に提出した後、同じものを匂坂社長の机に置きながら一言添えた。
パソコンの使えない匂坂社長にはメールで連絡のしようもないので、各社から届く営業日報も一式印刷し併《あわ》せて提出するのが決まりであり、週明けは金曜から日曜まで3日分を纏めるために少々手間が掛かっていた。
とはいえ売上予測や過去実績対比等の集計は殆ど計算式やグラフを整理しているため、資料作成には然程時間は要さず、寧ろ少しでも時計の針が進むことを心の片隅で歓迎していた。
未だ新聞を読み耽っていた匂坂社長は短く礼を返して提出物を流し見ると、徐に伊熊部長へ声を掛けた。
「伊熊君、俺はこれから代表のとこ顔出してから浜名レンジ行ってくるけど、代表には三島富士の件、追加で資料を貰うってことでいいだよな?」
浜名レンジとはオサカベコーポレーションが浜名湖の近隣に保有するショートコース付きのゴルフ練習場であり、匂坂社長はその施設のオーナーを兼任していた。
そして三島富士とは新規の買収案件として先月よりブローカーから提示されていた静岡県東部にあるゴルフ場の名称であったが、伊熊部長は諭すような口調で答えた。
「いや社長、その案件は先週のうちに断ったじゃないですか。設備投資と預託金償還の両立が困難だし、借地の権利問題も動向が不透明だし、あと富士山も大して見える立地じゃないからってこと代表と話し合ったじゃないですか」
「そうだったっけか? 先月視察行ったときちゃんと見えてただら」
「確かに見ましたけど、進行方向とは逆向きだったでしょう。それじゃあなってことで代表も難色示してたじゃないですか」
その後暫く匂坂社長と伊熊部長との間で水掛け論に似た応酬が続き、一翔は煩わしさが表情に出ないよう装いながらパソコンに向かっていた。
刑部緑地開発は東海圏を中心にゴルフ場を保有しながらも日本の一象徴である富士山が見えるコースはなく、刑部代表が次なる買収候補として拘っている節があった。
義兄である匂坂社長はその希望に応えようと振る舞っているように見えたが、どちらかといえば齢を重ねて暈けが深刻化してきたと表する方が妥当であった。
軈て老人同士の空虚とも言えるやり取りが落ち着くと、匂坂社長はあっという間に事務所から退出してしまい、伊熊部長は苦笑を浮かべながら一翔に向き直った。
「やっぱり匂坂社長はもう厳しそうだよなぁ、先週話したこと全然憶えてないんだからさ…代表に何を話すか解ったもんじゃないから、一々気を付けとかないと不安で仕方がねぇや」
これまでも幾度となく聞かされてきた愚痴混じりの小言に、一翔も愛想笑いで同情した。
ゴルフ場の買収案件に関しては伊熊部長が最も深く情報を把握しているが、代表への窓口は定期的に匂坂社長が赴くために、齟齬が生じて方針がぶれることが珍しくなかった。
それでも立場や体裁が優先されてしまい、伊熊部長の気苦労は度々愚痴となって一翔に還元されていた。
一翔はこれを甘受しつつも、やり場のない不快感が薄っすらと蓄積していくのが解っていた。
すると不意に事務所に内線が掛かり、一翔は受話器を取った。発信元は階下にあるオサカベコーポレーションの総務課であり、年配の女性事務員からやや口早な連絡が入った。
「ちょっと手違いでお昼のお弁当1食多く頼んじゃったもんでさ、そっちで誰か食べる人いない? お代はこっち持ちでいいから」
「お弁当ですか?……あ」
匂坂社長も伊熊部長も昼は基本的に外食であり、一翔も普段は前日の夕食の残りを弁当に詰めて持参していた。
だが昨夜は飲み会だったため作り置きがなく、『天使』の出現も相まってすっかり失念していた。
仕方なく余分な給食弁当の受け取りに応じて内線を切ると、その応対を珍しがった伊熊部長が透かさず話しかけてきた。
「どうした? 昼飯忘れたんか?」
「ああ、昨日の夜友達と飲み会があったんで…以前部長達と行った店なんですけど」
「あそこ行ったのか。美味いんだよなぁ揚げ茄子が。で、遅くまで遊んでたってわけか」
「いや、夜8時には解散ですよ。友達は静岡とか名古屋から来てたんで」
「なんだ、最近の若者は随分あっさりしてんな。まぁ浜松の繁華街も、大して遊べるようなとこないからなぁ」
伊熊部長の言う『遊び』の意味を適切に受け取りながら、一翔はまた愛想笑いを取り繕った。
「…それじゃ俺もそろそろ出るから。昼飯食いながら豊橋の現場行って業者と打ち合わせして…そのまま直帰になるから、後は頼んだで」
そうして伊熊部長もまた些か痛めがちな腰をゆっくりと上げて退出すると、一翔はあっさりと沈黙に満ちた空間に溺れた。
時計の針は未だ11時にも届いておらず、本業である『電話番』の始まりに力無い眼差しを天井に向けた。
昨夜の飲み会が脳裏に蘇ると、月曜から既にやることのない自分の姿がいつにも増して虚しく感ぜられた。
剰えホワイトボードのカレンダーを眺めても、今週は自分が関与する予定は何一つなかった。
——やることをやってればそれで評価されるし、給料も少ないわけじゃない。でも求められることが最低限過ぎて、タカやシュンと比べたらキャリアと呼べるものが殆ど身に付かないまま、等しく社会人としての時間を重ねてしまっている。
——それにも拘らず何も奮起しようとしない俺は…正しく『価値のある人間』とは言えないってことなんだろうか。
「退屈そうだね」
一翔が憂鬱に浸っていると、凛とした声音が右耳に届いた。
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