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第1章 見えるようになる(残り30~27日)

第4話 空の浴槽

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 見慣れたひとりの風景が戻ってきたにもかかわらず、一翔はしば固唾かたずを呑んでそのむなしい空間を見つめていた。
 
 まるで部屋の隙間や家具の影に隠れた虫を無意識に探そうとするように、心の中は騒めき立っていた。過剰かじょうなほどの幻覚から解放されたいという願望は、結局のところ果たされていなかった。


——まったく…何だったんだよ。


 だがその気疲れを小突くかのように空腹感が込み上げ、だ起きてから何も食べていないことを思い出した一翔は、重い腰を上げて昼食の用意をすることにした。



 その後も度々たびたび視線を室内の彼方此方あちこちいていた一翔だったが、『天使』の姿を再び捉えることはなく時間が経過した。

 昼食にでた蕎麦そばにとろろと刻みねぎせてすすり、アニメやプロ野球中継の配信をながめ、夕食に麻婆豆腐を作って食べ…いつも通りの何でもない休日が終わりかけても、彼女は現れることはなかった。

 自分が気付かないだけで今も死角にひそんでいる可能性もぬぐえなかったが、その領域は案じたところで切りがないと自《みずか》らに言い聞かせた。


 だが一翔はその一方で、こうして意識し続けている時点でいまだに彼女を幻覚だと割り切れていないことに気付いた。

 あまりにも異質でまばゆく、たまれないほど美しい姿をしていたにもかかわらず、身内のような『馴染なじみ』を不思議と覚えていた。


『本来は君を見守り続けることが、私の存在意義なの』


 就寝前にシャワーを浴びようと浴室のバスチェアに腰を下ろす際、不図ふと一翔の脳裏のうりに『天使』の一言がよぎった。不可解な『馴染なじみ』は、その台詞せりふに根拠があるのではないかと考えた。

 だが見守るなどと言いながら当人に認識されることなく、人生を助けるでも導くでもない、そこに一体何の意義があると言えるのだろうかと結局は鼻で笑った。

 無価値の烙印らくいんと共に余命宣告をするという直接的な干渉こそが余程よほど意義深く、さながら建物に設置された非常ベルだとたとえる方が相応ふさわしく思えた。


『君が死んだら、私もこの世から消えてしまうから』


 それゆえに、彼女が言い残した一言が不本意にも引っ掛かっていた。

 30日後に訪れるらしい自分の死に対し中立的な姿勢をるように見せかけて、彼女自身の消滅を引き合いにその命運を回避するようやんわりと促していることが気にわなかった。
 一翔は髪をむしるように洗いながら、返し損ねた文句を内心でわめいていた。


——脅すようなこと言いやがって。突然いて出た幻覚みた存在に、情で流されるわけないだろ。


 一翔は熱いシャワーを勢いよくかぶり、今日起きた奇怪な出来事できごとすべてが水に流れてほしいとこいねがった。そうして明日からまた普通の日常に戻ってくれることを望んだ。

 だが自分にとっての『普通の日常』が如何いかに空虚なものであるか、使い勝手の良いはずの表現がまたしても心の奥に引っ掛かった。
 その顛末てんまつ自虐じぎゃく的になりながら、身体を洗おうとボディーソープを馴染なじませたタオルを左腕に掛けた。


 そのとき視界の左側で、から浴槽よくそうに何かがひそんでいるのを察してしまった。


「あのさぁ…マジで何がしたいんだよ…」


 『天使』がから浴槽よくそうに、ひっそりとうずくまっていた。

 飛沫しぶきや泡のねを鬱陶うっとうしがる様子もなく、かといって何に関心を持つわけでもない眼差まなざしで、一翔のき出しの背中をじっとながめていた。
 大きく広げていたはずの翼はどこにも見当たらず、女性が知らず知らずのうちに潜んでいるという不気味な錯覚をより深刻化させた。

 当然ながら浴室に入る際には誰もおらず、髪を洗う最中さなかに侵入出来できるほど背後は広くなかった。
 一翔は嫌悪けんおをはっきり示すために熱いシャワーでも掛けてやろうかと一瞬画策したが、あきれ果てて気を起こすことすら億劫おっくうだった。


「いつも思うんだけど、浴槽よくそうにお湯は張らないの?」


 他方の『天使』は何ら意に介することなく、やぶから棒に尋ねてきた。


「張らねぇよ」


「どうして? 真冬の季節でも張らないよね。ちゃんと湯舟に浸かった方が温まるし、リラックス出来できると思うのだけれど」


 彼女の提示する一般論が浴室内で反響し、一翔は殊更ことさら辟易へきえきした。
 心の休まらない原因を鏡に映し出して皮肉を訴えたかったが、目の前で長方形に曇る鏡を洗い流したところで、彼女の姿がほんのわずかしか映り得ないことは明白だった。

 そもそも彼女の肩から胸元にかけて露出した瑞々みずみずしい肌がこの窮屈きゅうくつな空間ではかえって生々しく、直視することもはばかられた。
 この状況で湯を張るなどという問答が下心をあおられているように思えた一翔は、吐き捨てるように答えた。


「水もガスも割に合わないからだよ。男のひとり暮らしなんてこれで充分。わかったら早く出て行ってくれ」


「そう。別に気にすることなんてないのに。君がこれまで認識し得なかっただけで、私は大抵たいていこうして君を見ていたわけだし」


 『天使』は淡々と言い返しながらも、一翔の態度を察してかから浴槽よくそうから立ち上がり、そのふちまたぎながら浴室の扉に手を掛けた。

 一翔はその挙動に驚いて慌てて鏡の方に身体を詰めたが、絹のような彼女のワンピースが泡にまみれた背中にシャワーカーテンのように張り付いた。
 だが『天使』は気にすることなく扉を開け、一翔に向かってひんやりとした空気を浴びせた。


「それじゃあ、ごゆっくり」


 そう言って颯爽さっそうと扉を閉めた『天使』の姿は半透明な樹脂パネルの向こうでひるがえって立ち去り、一翔はその一連の所作を呆然《ぼうぜん》とながめたまま硬直していた。

 それまで幽霊のように神出鬼没だったはずの『天使』が、実際に物質に干渉する瞬間を確かにその目で見てしまっていた。
 幻覚の定義が揺るがす現象を見せつけられたようで、真っ先に冷たいシャワーを被《かぶ》りたい衝動にられた。

 だ涼しいとは言えない季節のなか、冷水を浴びることに抵抗はないはずだった。だがうに一翔の身体には鳥肌が弥立よだっており、一向に安らぐことのない休日に頭を抱えずにはいられなかった。


——ああもう…本当に何がどうなってんだよ、今日は。
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