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第1章 見えるようになる(残り30~27日)
第2話 平日のルーティン
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『天使』が非情な宣告を言い放つ間際には、一翔は狼狽える背中を冷たく撫でられるような不安に駆られていた。
突如眼前に現れた存在がどんなに奇怪でも、どんなに語る舌が空想的で文字通りにしか捉えられずとも、少なからず汲み取れてしまう意図が自分にとって都合の良いものではないことを早々に決定付けていた。
だが一翔は実際に告げられた言葉を、その字面すらも受け止めることは出来なかった。まるで他人事であるかのように聞き流した、と表する方が正しかった。
——ああ、そうか。これは質の悪い夢なんだな。
『天使』から繰り出される奇妙な台詞と眩しい美貌にすっかり疲弊していた一翔の脳内は、そのように結論付けた。
スマホで赤子の写真を見てから瞼を閉じた際、再び浅い眠りに沈んでしまったのだろうと自らを納得させた。
それならば大きすぎる翼を背負った美しい女性が独身男性の住処に座り込んでいる理由も腑に落ちた。
だが、それはそれで愚かしい妄想の顕現であるように思えて、一翔は内心自嘲した。
——夢を見ているなら、いい加減覚まさないとな。
一翔は首を振りながら1つ溜息を付くと、立ち上がって布団を畳み部屋の隅に寄せた。
そして『天使』の姿をなるべく見ないように——大きな翼を避けるようにして洗面台へと向かった。
洗顔で表皮がさっぱりしても脳内まで冷めたわけではなく、洗面台の鏡から視線を逸らしながら歯を磨いた。
目を瞑っても良かったが、開いたときにまた『天使』が映っていたらと思うと、直視したくなくても警戒を続ける方が未だ気楽であった。
その後は洗濯機を回しながら部屋の掃除をするのが、休日である土曜の一翔のルーティンであった。
玄関脇の棚に収納しているハンディモップを取り出す際、玄関扉を見遣ったが、記憶通り施錠はなされていて壊された様子もなかった。
モップをはためかせながら意を決して居間に戻ると、『天使』の姿はなく、床には画面が暗転したスマホが静かに横たわっていた。
——ほらな、やっぱり夢だったじゃないか。
安堵と共に、鼻で笑うような声音が零《こぼ》れた。
未だ閉じたままだったベランダ口のカーテンを開けると、やはり同様に施錠はなされていた。
アパートの1階であるとはいえ、何の痕跡もなく出入りが出来るはずがない。『天使』自身が語ったように本物の人間ではないのならば、それこそ空想の産物、夢の中の住人以外の何者でもないはずであった。
一翔は改めて自らを納得させると、換気のためにベランダの窓を開いた。空は厚い雲に覆われており、予報通り今にも雨が降り出しそうな様相であった。
洗濯物を外干しすべきか考えていると、視界の先の一軒家から幼い男の子と若い夫婦が出て来て、自動車に乗り込んでどこかへと出掛けて行った。
天候などまるで関係ない、和やかなその光景自体は何も珍しいことではなかった。何なら掃除洗濯のルーティンに背景として必ず映るようなもので、一翔自身それに対して妬みや僻みを抱くことはなかった。
だがその光景を見聞きする度に、自分が当然に持っていないものを誇張されるような錯覚に陥ることも、またルーティンと言っても過言ではなかった。
——ああいうのが、人間として正しい在り方なんだよな。
——勿論生き方は人間それぞれだけど、結婚して子を授かり、家族のために生きる…それこそが営まれて当然の、普遍的な人間の在り方。
いつにも増して鬱屈した気分に襲われるのは、今朝方友人から届いたおめでたい報告が原因だろうと一翔は推察した。
身近な存在から正しい在り方を突き付けられれば、僻みはせずとも心のどこかでは確かな劣等感が滲む。
その汚い染みを上塗りするほど人生で夢中になれるものがあれば良いのだが、一翔はそれすら持ち合わせていなかった。
平日は何となく仕事を片付けて、休日は殆ど外出することなく適当に時間を潰す1週間を繰り返しており、そこに何ら生産性もなければ人生の転機となり得る種もなかった。
『30日以内に君が『価値のある人間』になれなければ…君は神様に命を奪われることになる』
すると、否が応でも『天使』の宣告が一翔の脳裏に蘇ってきた。
自分は無価値な人間だというレッテルは、特段真新しいものではなかった。
——自分自身に対する警鐘ってやつか。そういうのが夢に出て来ることは、寧ろ在り来りだよな。…流石にあれは美化にも程があったけど。
一翔は再び自嘲しながら居間を横切り、収納棚から掃除機を取り出してルーティンを進めた。水回りとトイレの掃除も済ませ、洗濯物は優先して乾かすもののみ浴室乾燥にかけて残りを外干しした。
時刻は11時近くなり、こうなると朝食はとらずブランチにしてしまうのが毎度のことであった。
それでもマグカップに放ったインスタントコーヒーに氷と水を混ぜ、ブラックのまま一息つくところまでがルーティンであった。
一翔はテレビの前にローテーブルと座椅子を移動させて座り、アイスコーヒーを啜りながら適当なチャンネルを回そうとリモコンを掲げた。
「何観るの?」
だがリモコンを向けた先には先程の『天使』が、一翔に対面する格好でローテーブルに肘を付いていた。
一翔は音もなく唐突に出現した『天使』を前に激しく噎せ返り、辛うじてリモコンとマグカップをテーブルに置きながらも暫し咳き込んでいた。
鼻の奥から肺にかけて不快な冷たさに満たされながら、禍々しいものを見るように『天使』を睨み返した。
「おまえ……なんで、そこに……」
「ああ、ごめん。ここじゃテレビ見えないよね」
「そうじゃねぇよ! おまえ一体どこに隠れて…いや、さっきから一体何のつもりなんだよ!?」
呼吸を整えながら取り留めのない問いを荒々しく投げつける一翔に対し、『天使』は澄ました顔で答えた。
「別にどこにも隠れてないよ。君が掃除に夢中で私が見えていなかっただけ。でも一度私が見えてしまった以上、私が伝えたことは何も変わらない。それでも未だ、君は夢を見ていると言うつもりなの?」
突如眼前に現れた存在がどんなに奇怪でも、どんなに語る舌が空想的で文字通りにしか捉えられずとも、少なからず汲み取れてしまう意図が自分にとって都合の良いものではないことを早々に決定付けていた。
だが一翔は実際に告げられた言葉を、その字面すらも受け止めることは出来なかった。まるで他人事であるかのように聞き流した、と表する方が正しかった。
——ああ、そうか。これは質の悪い夢なんだな。
『天使』から繰り出される奇妙な台詞と眩しい美貌にすっかり疲弊していた一翔の脳内は、そのように結論付けた。
スマホで赤子の写真を見てから瞼を閉じた際、再び浅い眠りに沈んでしまったのだろうと自らを納得させた。
それならば大きすぎる翼を背負った美しい女性が独身男性の住処に座り込んでいる理由も腑に落ちた。
だが、それはそれで愚かしい妄想の顕現であるように思えて、一翔は内心自嘲した。
——夢を見ているなら、いい加減覚まさないとな。
一翔は首を振りながら1つ溜息を付くと、立ち上がって布団を畳み部屋の隅に寄せた。
そして『天使』の姿をなるべく見ないように——大きな翼を避けるようにして洗面台へと向かった。
洗顔で表皮がさっぱりしても脳内まで冷めたわけではなく、洗面台の鏡から視線を逸らしながら歯を磨いた。
目を瞑っても良かったが、開いたときにまた『天使』が映っていたらと思うと、直視したくなくても警戒を続ける方が未だ気楽であった。
その後は洗濯機を回しながら部屋の掃除をするのが、休日である土曜の一翔のルーティンであった。
玄関脇の棚に収納しているハンディモップを取り出す際、玄関扉を見遣ったが、記憶通り施錠はなされていて壊された様子もなかった。
モップをはためかせながら意を決して居間に戻ると、『天使』の姿はなく、床には画面が暗転したスマホが静かに横たわっていた。
——ほらな、やっぱり夢だったじゃないか。
安堵と共に、鼻で笑うような声音が零《こぼ》れた。
未だ閉じたままだったベランダ口のカーテンを開けると、やはり同様に施錠はなされていた。
アパートの1階であるとはいえ、何の痕跡もなく出入りが出来るはずがない。『天使』自身が語ったように本物の人間ではないのならば、それこそ空想の産物、夢の中の住人以外の何者でもないはずであった。
一翔は改めて自らを納得させると、換気のためにベランダの窓を開いた。空は厚い雲に覆われており、予報通り今にも雨が降り出しそうな様相であった。
洗濯物を外干しすべきか考えていると、視界の先の一軒家から幼い男の子と若い夫婦が出て来て、自動車に乗り込んでどこかへと出掛けて行った。
天候などまるで関係ない、和やかなその光景自体は何も珍しいことではなかった。何なら掃除洗濯のルーティンに背景として必ず映るようなもので、一翔自身それに対して妬みや僻みを抱くことはなかった。
だがその光景を見聞きする度に、自分が当然に持っていないものを誇張されるような錯覚に陥ることも、またルーティンと言っても過言ではなかった。
——ああいうのが、人間として正しい在り方なんだよな。
——勿論生き方は人間それぞれだけど、結婚して子を授かり、家族のために生きる…それこそが営まれて当然の、普遍的な人間の在り方。
いつにも増して鬱屈した気分に襲われるのは、今朝方友人から届いたおめでたい報告が原因だろうと一翔は推察した。
身近な存在から正しい在り方を突き付けられれば、僻みはせずとも心のどこかでは確かな劣等感が滲む。
その汚い染みを上塗りするほど人生で夢中になれるものがあれば良いのだが、一翔はそれすら持ち合わせていなかった。
平日は何となく仕事を片付けて、休日は殆ど外出することなく適当に時間を潰す1週間を繰り返しており、そこに何ら生産性もなければ人生の転機となり得る種もなかった。
『30日以内に君が『価値のある人間』になれなければ…君は神様に命を奪われることになる』
すると、否が応でも『天使』の宣告が一翔の脳裏に蘇ってきた。
自分は無価値な人間だというレッテルは、特段真新しいものではなかった。
——自分自身に対する警鐘ってやつか。そういうのが夢に出て来ることは、寧ろ在り来りだよな。…流石にあれは美化にも程があったけど。
一翔は再び自嘲しながら居間を横切り、収納棚から掃除機を取り出してルーティンを進めた。水回りとトイレの掃除も済ませ、洗濯物は優先して乾かすもののみ浴室乾燥にかけて残りを外干しした。
時刻は11時近くなり、こうなると朝食はとらずブランチにしてしまうのが毎度のことであった。
それでもマグカップに放ったインスタントコーヒーに氷と水を混ぜ、ブラックのまま一息つくところまでがルーティンであった。
一翔はテレビの前にローテーブルと座椅子を移動させて座り、アイスコーヒーを啜りながら適当なチャンネルを回そうとリモコンを掲げた。
「何観るの?」
だがリモコンを向けた先には先程の『天使』が、一翔に対面する格好でローテーブルに肘を付いていた。
一翔は音もなく唐突に出現した『天使』を前に激しく噎せ返り、辛うじてリモコンとマグカップをテーブルに置きながらも暫し咳き込んでいた。
鼻の奥から肺にかけて不快な冷たさに満たされながら、禍々しいものを見るように『天使』を睨み返した。
「おまえ……なんで、そこに……」
「ああ、ごめん。ここじゃテレビ見えないよね」
「そうじゃねぇよ! おまえ一体どこに隠れて…いや、さっきから一体何のつもりなんだよ!?」
呼吸を整えながら取り留めのない問いを荒々しく投げつける一翔に対し、『天使』は澄ました顔で答えた。
「別にどこにも隠れてないよ。君が掃除に夢中で私が見えていなかっただけ。でも一度私が見えてしまった以上、私が伝えたことは何も変わらない。それでも未だ、君は夢を見ていると言うつもりなの?」
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