MORATORIUM CRISES

吉高 樽

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3.社畜からの逃走 ≪後編≫

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 丸の内線改札に行き着くまでの通路に何も気配はなかった。だがそれはそれで、けいぬぐい切れない不安を植え付けられていた。


『おいはる、9分に来る電車ってのは池袋か荻窪おぎくぼかどっち方面なんだ? てかどっちに乗った方がいいんだ?』

「どっちも来るよ。多分荻窪おぎくぼ方面に乗った方がいいんじゃないかな」

『えっ!? のか…!?』


 改札を抜けて階段を駆け下りたが、ホームもまた無人同然であった。ゲーム開始以降、まるで人払いがされたかのように一般人の姿がなかった。
 そんなむなしい地下空間で遠くから何かが迫る音が聞こえ、次いで電車の到着をしらせる2つのアナウンスがややずれて重なって、不協和音のように響いた。


【間もなく1番線に、荻窪おぎくぼ行きが参ります…】【間もなく2番線に、池袋行きが参ります…】


 その不穏な雰囲気は恵の脳裏のうりに1つの危難を予見させ、たまらず千亜紀と春に言い聞かせた。


『なぁ、≪社畜≫ってもしかしてんじゃねぇのか? もしそれが左右同時に到着したら…俺達一瞬で挟み撃ちになるんじゃねぇか!?』


 前後方それぞれから愈々いよいよ迫り来る咆哮ほうこうに似た音と風圧も相まって、2人もその最悪の展開を察し瞬く間に表情がけわしくなった。そして春は真っ先に駆け出し、車両の緊急停止ボタンを押した。

 けたたましい音と共に2台の電車のブレーキ音が地下につんざき、恵は思わず耳をふさいでうつむいた。

 顔を上げると車両はどちらもホームに差し掛かるところで停止していたが、わずかに見える車内では予想通り黒いもやが暴れてがなり立てていた。目をみはってわなないていると、春が近寄って来て催促した。


「恵、千亜紀ちあき、今のうちに逃げてくれ!」

『なんだよ春、どういうことだよ!?』

「これだけの騒ぎを起こしたんだ…きっとぐに≪社畜≫が集まって来る。僕がおびき寄せて少しでも時間を稼ぐから、2人で出来できる限り逃げてくれ!」

『集まってくるのは普通の駅係員の方なんじゃないか!? でも電車を使わず逃げるってどうやって…?』

「恵! こうなったらもう線路の上を走って逃げるぞ!!」


 声を張り上げた千亜紀は、すでにホームドアの上にじ登っていた。最早もはや威力業務妨害だの何だのと気にするどころはなかった。


『ああもう! どうにでもなれ!!』


 やむなく恵もホームドアを乗り越え、千亜紀と共に線路の上を一目散いちもくさんに駆け出した。


「春ぅ! おまえの社会的な死は無駄にはしないぞぉ!!」

『やめろ!! 冗談に聞こえないだろ!!』




 それからどれくらいの時間が経ったのかわからず——確認する余裕もなく、恵と千亜紀は冷たいトンネルの中を走り続けていた。そうしてようやく、次の駅とおぼしきホームの明かりが見えてきた。


「…よし来た、次の駅だ! もう新宿は…抜けたのか!?」

『てか俺ら…どっち方面に走ってたっけ? …ホーム降りて右側の線路だったから…池袋方面か?』

——そうなると次の駅は…新宿三丁目じゃねぇか! その次も新宿御苑ぎょえん前だし…まだまだ抜け出せてないってことかよ!?


 恵は体感以上に時間も距離もかかっていなかったことを内心なげく一方で、そもそもこの道程みちのり自体が当たり前でないことを思い出した。


『駄目だ千亜紀! そのうち電車も運行再開する…線路はいつまでも走ってられねぇよ!』

「確かにそうだな…仕方ねぇ、一旦いったん地上に戻るぞ!」


 千亜紀の提案に乗った恵は、息も絶ええながら脚力を振り絞り、警戒を重ねながらなんとか地上に戻った。
 ≪社畜≫とは遭遇しなかったが、遠くにチラつく数が1匹2匹どころではなくなりつつあった。

 結果として脱出までの直線距離は多少南寄りに縮まっていたとはいえ、春の推測を踏まえればそれだけ付近に危険がひそんでいるとも言えた。時間はだ半分以上残されていたが、すでに在って無いと錯覚するほど疲弊ひへいしていた。


『くそ…これからどうすりゃいいんだ…?』


 大型商業施設が立ち並ぶ通りに≪社畜≫は見当たらなかったが、どこからでも飛び出して来そうにも思えた。隣では恵よりも体力と根性があるはずの千亜紀が、恵以上に疲弊ひへいしてぐったりしていた。


「恵…俺ももう駄目そうだ…夜勤明けで力が残ってねぇ…」

『しまったこいつのコンディションも最悪なんだった』

「だがこのままでは終わらねぇ…駅の出口を見越してここにタクシーを呼んでおいたぜ!」

『そんな手が…!? いや、簡単に呼べるならそれこそ罠なんじゃねぇのか!?』


 危惧きぐしている間にも、新宿駅の方角からゆっくりとタクシーがこちらに向かっていた。だが案のじょう、車内には黒いもやが詰まっているのが遠くからでも視認出来できた。そのうえ運転席には、あろうことか人の姿はなかった。


『おいおい、俺らタクシーからも逃げなきゃならねぇのかよ!?』

「そうじゃねぇ、裏をくんだ。タクシーは到着すれば自然とドアが開くだろ? 俺がおとりになって飛び出してきた≪社畜≫をき付けるから、おまえはその隙に車両を奪って逃げろ…おまえだけでも逃げろ。流石さすが奴等やつらも、車両をぶち破っては来ないはずだぜ」

『千亜紀おまえ…なんで夜勤明けなのにそんなにえてんだよ』

「へへっ…ナチュラルハイってやつだよ。それじゃあ後は任せたぜ!!」


 会話をしているうちにタクシーが到着し、後部座席の扉が開いて黒いもやあふれ出した。千亜紀は最後の気力を振り絞って駆け出したが、ぐに足がもつれて転倒した。

 恵は何を言い返す余地もなく、焦燥しょうそうに駆られるままに車両の前方に回り込んで運転席へと乗り込んだ。
 そのまま身体を伸ばして後部座席を閉めたが、その寸前にあふれ出ていた≪社畜≫が跳ね返るように襲い掛かった。

 間一髪かんいっぱつで扉を締め切り安全を確保したが、それでもなお体当たりを続ける≪社畜≫を恐れた恵は、たまらずタクシーを発進させた。
 無人で動いていた車両を乗っ取ることが違法になるのかわからなかったが、この非現実的な状況で犯罪性を問うこと自体が迷走していた。


——取りえず、このまま走らせるか…運転は一昨年合宿で免許取って以来なんだけど。




「いやぁー捕まっちまったよ、春も祐希ゆうきもすまねぇな」

「お疲れ様。僕もあれから結局確保されたよ」

「なんだよおまえら、俺が身をていして初見殺しの犠牲を買って出たのによ」

「んだよ祐希、負け惜しみか?」


 タクシーの助手席でハンズフリー設定にして置いたスマホから、脱落した3人の緩いグループ通話が流れてきた。


「≪社畜≫に捕まったときは目の前が真っ暗になったけど、気付いたら周りが元の世界に戻ってたというか、普通に人が行き交ってるというか…」

「ああ、俺もそんな感じだ。まるで夢でも見ていたようだったな」

「でも恵はだタクシーを動かして逃げてるはずだろ? おい恵、もう新宿から出られたのか?」

『…ああ、出たと思う。何ならこのまま大学に向かってる』

成程なるほど、大学なら確かに≪社畜≫は入ってこれないはずだ。考えたね」

「いやいや、それ以前に新宿出てるなら逃走は成功したってことじゃねぇの?」

『そのはずなんだが…なんでかだこいつら沢山たくさんいるんだよ。ていうか現在進行形で増えてる』


 国道をひとり走る恵の視界には、歩道に次々と湧き出る黒いもやが切れ目なく映っていた。

 うに新宿の範囲は抜けているにもかかわらず何も通知はなく、間もなくタイムリミットとなる7時に向けて≪社畜≫が依然として数を増やしていた。
 通話で語られるような一般人の姿は、いまだに1人も視認出来できておらず、不気味な世界に取り残されているような感覚であった。


「まじかよ、じゃあ大学が真のゴール地点ってことか?」

「もしかしてキャンさん寝落ちしてるんじゃないの? 連絡してみる?」

「恵、ここまで来たら頑張って逃げ切れよ! インターンに強制連行される俺らの分まで、モラトリアムを謳歌おうかしてくれよ!!」


『確かにそうしたいけど…なんかもう緊張感が限界っていうか…俺だけのんびりなんてしていられねぇよ』


 大学の正門付近まで到着した恵は、路上駐車も気に留めることなくスマホを片手に下車した。周囲には無数の≪社畜≫がたかり、スクランブル交差点で信号待ちをしているかのように恵の様子をうかがい膨れ上がっていた。


『それに…腐れ縁のおまえらとは就活も切磋琢磨せっさたくましていきたい。こんなことで差が生まれるくらいなら…おまえらとインターンに参加した方がいいに決まってるだろ!』

「恵…おまえってやつは…!!」


 逃げる気配を見せない恵に対し、≪社畜≫が車道に愈々いよいよあふれ出してにじり寄って来た。


——本当は行先もわからないインターンとか参加したくないけど…今後あいつらと温度差が生まれるかもしれないのなら、大人しく確保されてしまった方がいい。ていうか本当に早くこのゲームから解放されたい。


「まぁ俺は卒業したら鳥井とりい家代々の会社に勤める予定だから、別に大した就活する予定ないけどな」

「僕も法科大学院進学希望だから、右に同じ」

「俺も公務員志望だから民間のインターンは参考程度になるなぁ」


『…えっ。何それ初耳なんだけど』


 千亜紀、春、祐希それぞれの進路を聞いた恵は、途端とたんに頭が真っ白になった。


——じゃあ俺、降参する意味ないじゃん。


 次の瞬間、その内心の一言を聞き逃さんとばかりに≪社畜≫が一斉に押し寄せてきた。恵は恐怖と後悔とがせめぎ合った表情を浮かべ、激情のままに大学の敷地内へと駆け出した。


畜生ちくしょおおおおおおお!!!』


 だがものの数秒と経たないうちに黒いもやに呑み込まれ、恵は目の前が真っ暗になった。GAME OVER.


*****

 こうしてキャンのインターンに連行されることになった恵達だったが、実際は参加がすでに締め切られていたため、結局キャンは誰とも連れることなくインターンに出向くこととなった。
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