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10月4日(金)
(4)――「狛犬豆知識なのだ」
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「それじゃあアキ、まずは腹式呼吸の練習だ」
「え? 歌の練習じゃないのか?」
少女と向い合せに立ったところで、僕は首を傾げた。
「良い歌声のためには、声の出しかたから練習すべきなのだ」
「へえ」
「というわけで、腹式呼吸の練習から始めるぞ。それができたら、喉の開けかたを教えよう」
「よろしくお願いします、コマせんせー」
「うむ、良い返事だ!」
張り切った様子で、ではアキ、と少女は姿勢を正す。
「足は肩幅に開いてくれ。次に、肩をぐっと上げて、すっと下ろす。これが基本の姿勢だ」
少女に言われた通りにやってみる。
身体から不要な力が抜けたようで、気持ちがしゃんとする。
「良いぞ。そうしたら、腹式呼吸を意識するために、今日はお腹に手を当てようか」
言いながら右手を腹部に当てた少女に倣い、僕も同じようにする。
「腹式呼吸は、息を吸うときにお腹が膨らんで、吐くときにへこむ」
「うん……?」
いまいち理解できず、僕は小さく唸った。
「風船をイメージしてみてくれ」
それに気づいた少女は、そんなたとえを持ち出す。
「風船は、空気が入ると膨らんで、空気が抜けるとしぼむだろ?」
「なるほど……?」
わかったような、わからないような。
今まで、呼吸の仕方なんて意識したことがないから、いまいちピンとこない。
「案ずるより産むが易し、だな。実際にやってみよう」
「うん」
「鼻から息を吸って、吐くときは口をすぼめる。急ぐ必要はない。ゆっくりとした呼吸を意識してくれ」
「わかった」
「――吸って」
がらりと真剣な声音に変わり、少女は言う。
イメージするのは風船。
それを念頭に置いて、僕は息を吸う。しかし、手を当てた腹部は上手に膨らまない。
「――吐いて」
息を吐き出しても、それは同じだった。
「――吸って」
少女も、僕に指示を出しながら、一緒に腹式呼吸を行っている。
見れば、手が当てられている腹部がぐんぐんと膨らんでいくのがわかった。その細い身体のどこに、それほどの空気が入っていくのだろう。
「――吐いて」
器用にそう言って、少女も息を吐く。
すると、みるみるうちにしぼんでいく。
「アキ、呼吸を急ぐ必要はないぞ。お腹いっぱいに空気を吸って、ゆっくりと息を吐くんだ」
「う、うん」
「そうしたら、もう一度。吸って――」
それから。
なかなか腹式呼吸を習得できない僕に、少女は根気良く付き合ってくれた。
吸って、吐いて。
繰り返していく度、ゆっくりと身体から余計なものが抜けていくような感覚に陥った。毒というか、腹の底に溜まっていた暗いものというか。呼吸ひとつでこれほどの変化が起こるだなんて、甚だ信じがたい。
「うむ、良い感じだぞ。今日はここまでにしようか」
日が暮れる頃には、少女からそう評してもらえるまでには上達した。
歌のために呼吸方法から学ぶことになるのは予想だにしなかったけれど、練習して上手くなっていくというのは嬉しいものがある。
「腹式呼吸だけで、こんなに疲れるとは思わなかった……」
僕の率直な感想に、少女は軽く笑う。
「疲れているということは、それだけ真剣に取り組んだ証拠だ」
お疲れさま、と少女は言う。
「腹式呼吸は一朝一夕で身につくことじゃない。日常的に取り入れていくと良いぞ。体幹を鍛えられるとも言うしな」
「そうなんだ」
「狛犬豆知識なのだ」
「……」
そこに狛犬が関係するのかはともかくとして。
確かに、腹式呼吸ができたら良いこと尽くしかもしれない。普段よりも、すんなりと空気が身体を巡っていくような気分になる。あれだけ息苦しいと思っていたのが嘘のように、つかえがなくなった気がした。
「続きはまた明日だな」
「そうだな。今日はありがとう、コマ」
「ビッテ――いや、ど、どういたしまして、なのだ!」
「? うん」
まただ。
少女はまた、なにか別の言葉が出かけて、飲み込んだ。
そのアニメ絵のお面の下に、少女はなにを隠しているのだろうか。気にならないと言ったら、それは嘘になる。なにかしらのコンプレックスかとも思うが、それを指摘しないと決めた以上、僕のほうから追求するような真似はしない。それで良い。
「じゃあ、僕は帰るよ」
「うむ。それじゃあ、また明日だ」
ひらひらと、少女は僕に小さく手を振る。
「明日も待っているぞ」
そうして、そう言葉を続けたのだった。
――ワタシの居場所はここだ。ワタシの帰るべき場所は、この神社なのだ。
ふと、初めて会った日に言っていたことを思い出す。
僕がこの神社から居なくなったあと、少女も家に帰っているのだと思っていた。だが、改めて考えると、少女はこの神社に居着いている可能性のほうが高いのではないだろうか。
一日目。社殿の中から持ち出してきた、大量の救急用品。
二日目。少女が近づいてきたときに香った森のにおい。
そして今日。急激に肌寒くなったにも関わらず、少女は夏服のままだった。
少女の中での狛犬設定に忠実と言えばそれまでだけれど。そんなやせ我慢をする必要性は感じられない。
仮に少女がこの神社に住んでいるとして。
こんな山奥の寂れた神社で、女子中学生が一人で夜を越すことなんて、できるのだろうか。
食べ物や飲水は、どこで確保しているのだろうか。
疑問と不安、それから大量の心配が脳を一気に埋め尽くしていく。
けれど、果たして僕は少女の身を案じられるような立場なのだろうか。
他人から余計な気遣いや心配をされて辟易しているのは、他でもない僕じゃないか。
「え? 歌の練習じゃないのか?」
少女と向い合せに立ったところで、僕は首を傾げた。
「良い歌声のためには、声の出しかたから練習すべきなのだ」
「へえ」
「というわけで、腹式呼吸の練習から始めるぞ。それができたら、喉の開けかたを教えよう」
「よろしくお願いします、コマせんせー」
「うむ、良い返事だ!」
張り切った様子で、ではアキ、と少女は姿勢を正す。
「足は肩幅に開いてくれ。次に、肩をぐっと上げて、すっと下ろす。これが基本の姿勢だ」
少女に言われた通りにやってみる。
身体から不要な力が抜けたようで、気持ちがしゃんとする。
「良いぞ。そうしたら、腹式呼吸を意識するために、今日はお腹に手を当てようか」
言いながら右手を腹部に当てた少女に倣い、僕も同じようにする。
「腹式呼吸は、息を吸うときにお腹が膨らんで、吐くときにへこむ」
「うん……?」
いまいち理解できず、僕は小さく唸った。
「風船をイメージしてみてくれ」
それに気づいた少女は、そんなたとえを持ち出す。
「風船は、空気が入ると膨らんで、空気が抜けるとしぼむだろ?」
「なるほど……?」
わかったような、わからないような。
今まで、呼吸の仕方なんて意識したことがないから、いまいちピンとこない。
「案ずるより産むが易し、だな。実際にやってみよう」
「うん」
「鼻から息を吸って、吐くときは口をすぼめる。急ぐ必要はない。ゆっくりとした呼吸を意識してくれ」
「わかった」
「――吸って」
がらりと真剣な声音に変わり、少女は言う。
イメージするのは風船。
それを念頭に置いて、僕は息を吸う。しかし、手を当てた腹部は上手に膨らまない。
「――吐いて」
息を吐き出しても、それは同じだった。
「――吸って」
少女も、僕に指示を出しながら、一緒に腹式呼吸を行っている。
見れば、手が当てられている腹部がぐんぐんと膨らんでいくのがわかった。その細い身体のどこに、それほどの空気が入っていくのだろう。
「――吐いて」
器用にそう言って、少女も息を吐く。
すると、みるみるうちにしぼんでいく。
「アキ、呼吸を急ぐ必要はないぞ。お腹いっぱいに空気を吸って、ゆっくりと息を吐くんだ」
「う、うん」
「そうしたら、もう一度。吸って――」
それから。
なかなか腹式呼吸を習得できない僕に、少女は根気良く付き合ってくれた。
吸って、吐いて。
繰り返していく度、ゆっくりと身体から余計なものが抜けていくような感覚に陥った。毒というか、腹の底に溜まっていた暗いものというか。呼吸ひとつでこれほどの変化が起こるだなんて、甚だ信じがたい。
「うむ、良い感じだぞ。今日はここまでにしようか」
日が暮れる頃には、少女からそう評してもらえるまでには上達した。
歌のために呼吸方法から学ぶことになるのは予想だにしなかったけれど、練習して上手くなっていくというのは嬉しいものがある。
「腹式呼吸だけで、こんなに疲れるとは思わなかった……」
僕の率直な感想に、少女は軽く笑う。
「疲れているということは、それだけ真剣に取り組んだ証拠だ」
お疲れさま、と少女は言う。
「腹式呼吸は一朝一夕で身につくことじゃない。日常的に取り入れていくと良いぞ。体幹を鍛えられるとも言うしな」
「そうなんだ」
「狛犬豆知識なのだ」
「……」
そこに狛犬が関係するのかはともかくとして。
確かに、腹式呼吸ができたら良いこと尽くしかもしれない。普段よりも、すんなりと空気が身体を巡っていくような気分になる。あれだけ息苦しいと思っていたのが嘘のように、つかえがなくなった気がした。
「続きはまた明日だな」
「そうだな。今日はありがとう、コマ」
「ビッテ――いや、ど、どういたしまして、なのだ!」
「? うん」
まただ。
少女はまた、なにか別の言葉が出かけて、飲み込んだ。
そのアニメ絵のお面の下に、少女はなにを隠しているのだろうか。気にならないと言ったら、それは嘘になる。なにかしらのコンプレックスかとも思うが、それを指摘しないと決めた以上、僕のほうから追求するような真似はしない。それで良い。
「じゃあ、僕は帰るよ」
「うむ。それじゃあ、また明日だ」
ひらひらと、少女は僕に小さく手を振る。
「明日も待っているぞ」
そうして、そう言葉を続けたのだった。
――ワタシの居場所はここだ。ワタシの帰るべき場所は、この神社なのだ。
ふと、初めて会った日に言っていたことを思い出す。
僕がこの神社から居なくなったあと、少女も家に帰っているのだと思っていた。だが、改めて考えると、少女はこの神社に居着いている可能性のほうが高いのではないだろうか。
一日目。社殿の中から持ち出してきた、大量の救急用品。
二日目。少女が近づいてきたときに香った森のにおい。
そして今日。急激に肌寒くなったにも関わらず、少女は夏服のままだった。
少女の中での狛犬設定に忠実と言えばそれまでだけれど。そんなやせ我慢をする必要性は感じられない。
仮に少女がこの神社に住んでいるとして。
こんな山奥の寂れた神社で、女子中学生が一人で夜を越すことなんて、できるのだろうか。
食べ物や飲水は、どこで確保しているのだろうか。
疑問と不安、それから大量の心配が脳を一気に埋め尽くしていく。
けれど、果たして僕は少女の身を案じられるような立場なのだろうか。
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