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10月2日(水)
(4)――「ワタシの帰るべき場所は、この神社なのだ」
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「次、反対の腕だ」
「ああ、うん」
少女は態度を変えることなく、手当てを続ける。
ひらすら手際良く、ただただ丁寧に。
それを眺めていると、何故だか毒気の抜かれる思いがした。
気を張っているのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、心が凪ぐ。
そういえば、他人からこれほど他意なく接してもらえたのは久しぶりな気がする。少し前までは、当たり前に受け取っていたものだったはずなのに。
亡くして初めてその大切さに気が付く。
そんなありふれた言葉が今の僕には痛いほど刺さって、苦笑する。
「むむ」
不意に、少女がそんな声を上げた。
いつの間にか、左腕の手当てはほぼ終わっていた。それどころか、胴体も手当て済である。打撲傷と擦り傷以外におかしな点はないように見えるが、少女は僕の首元をまじまじと見つめ、なんということだ、と呟いた。
「君は――いや、アキと呼んでも構わないか?」
「ご自由に」
「ありがとう」
ではアキ、と少女は続ける。
「アキは猫派だったのだな……。狛犬として出てきた自分が不甲斐ない……」
しゅんと項垂れる少女の様は、まさに犬そのものだった。おそらくは無意識でやっているであろう少女の所作に、僕はこみ上げる笑いをどうにか飲み込む。
「確かに、うちで猫は飼ってるけど。でも、どうしてわかったんだ?」
「え? だって、髪に猫の毛が付いてたから――じゃなくって! ええと、そう、狛犬っ! ワタシが狛犬だから! そういうのもわかっちゃうのだっ!」
「ああ、そういうことか」
ふと、今朝は僕の頭部めがけて猫が突進してきて起こされたことを思い出す。しかし、まさかこんなことで少女が落ち込むとは思わなかった。
「猫も好きだけど。同じくらい犬も好きだよ」
妙な罪悪感に苛まれ、僕はそんなことを言った。
犬も猫も好きなのは、嘘ではない。我が家に猫を家族として迎え入れたのは、タイミングの問題でしかなかったのだ。
「本当に?」
「本当に」
少女の問いに頷くと、少女は嬉しそうに、えへへ、なんて声を漏らした。お面に隠れて顔なんて見えないのに、それをかわいいと思った僕は、きっとあいつらに殴られ過ぎておかしくなっていたからに違いない。
「……ありがとう」
ワイシャツと学ランを着直し、絆創膏を貼ってもらった手の平を眺めながら、僕は言う。
きっと、久しぶりに他人と普通に話ができたから舞い上がっているのだろう。いつもであれば言えないような言葉がすらすらと口から飛び出したのは、その所為だ。
「自分じゃここまで手当てできなかったから、助かった」
「ふふっ、どういたしまして」
そう返した少女の声音は、とても優しげだった。
視線を自分の両手から少女の顔へと上げても、そこにあるのはアニメ絵のお面だというのに。それを見ていると、なんだか眼球の奥が熱くなるような錯覚に陥った。溢れそうになるそれを堪らえようと上を向くと、夕暮れの空が視界いっぱいに広がる。もうすっかり日も短くなってきた。透き通るような青色をしていた空は、昼と夜を混ぜ合わせ、濃い藍色に変わっていく。その中で、夕日を受ける雲だけが橙色だ。
僕は、青空が嫌いだ。
――どうして僕だけを置いていったの?
それは、あの日のことを思い出させるには充分過ぎて。
空を見上げる度、僕はひどく惨めな思いをする。
ああ、くそ。
僕もあのとき一緒に死んでしまえていたら、どんなに良かったか。
「ひとつ、訊いても良いか?」
何度か瞬きをしつつ思考を切り替え、少女のほうへ向き直り、僕は言う。
せっかく、久しぶりに良い気分になっているのに、嫌なことを考えたくなかった。
「どうして僕に声をかけてきたんだ?」
「め、迷惑だったか……?」
わなわなと震える少女に、違う違う、と僕は首を横に振って否定する。
「そうじゃなくって。僕さ、よく目つきが悪くて怖いって言われるから。お前、僕のこと怖くないの?」
「それは、どちらかというとワタシの台詞だと思うのだが……」
呆れているのか、苦笑いしているのか。
しかし不快感は抱いていないらしい声で、少女は言う。
「別に、怖くはないさ。確かに目つきは多少悪いかもしれないが、ワタシはそれを怖いとは思わない」
「……」
「さっきも言ったが、ワタシは一部始終を見ていたんだ。バス停小屋の裏で、上級生が寄ってたかって一年生に暴力を振るっているところを目撃しておきながら、ワタシは助太刀に入ることができなかった」
「……そりゃあ、あの人数を相手するのは無理だろ」
体格のしっかりしている三年生相手に、一年坊主など歯が立たなくて当然である。少女は人並み以上に腕力に自信があるようだが、多勢に無勢であることに変わりはない。仮に少女があの場に助けに入ってくれたとして、卑怯なあいつらのことだ、不意を討ってねじ伏せたに違いない。
「だけど、助けたかった」
僅かに声を荒げ、少女は言う。
「三人がかりで囲まれて、あんなに酷い目に遭っていたのに、アキの目は全く諦めていなかった。それがすごく格好良くって――だから力になりたいと、そう思ったんだ」
そうして少女がやきもきしているうちに、僕が逃走を図り、神社へ向かったというわけか。
「ワタシの居る神社に来てくれて、本当に良かった。こうして手当てくらいはすることができたからな」
「……そっか」
「アキは素敵な目をしているんだ、もっと自信を持って良いと思うぞ」
まさか目つきのことで、褒められる日が来ようとは。
なんだか気恥ずかしくなってきて、僕は少女から視線を逸らした。顔が、眼球が、熱い。内側からぐつぐつとこみ上げる正体不明の熱に、僕は全身をぶるりと震わせた。
睨んでいないのに睨んでいると言われ。
怒っていないのに怒っていると言われ続けた、僕の目が。
この少女には、そんな風に映っていた。
その言葉のひとつひとつが、どうしようもなく感情を揺さぶってくる。
「……あ、ありがっ……」
眼球の熱は収まることを知らず、遂に溢れてしまった。今まで必死にせき止めていたぶん、決壊してしまえばあまりに脆く崩れ落ちる。目からぼろぼろと熱が零れ落ちていく。
歪む視界の端に、かろうじて少女の姿が見える。
表情の読めない少女は、淡い水色のハンカチを取り出し、僕に差し出した。
「使ってくれ。泣きたいときは、我慢なんてするな」
それだけ言うと、少女は押し黙った。こういうときにどんな言葉が必要か、熟知しているようである。何故だろう。この少女も、似たような経験があるのだろうか。わからない。今の僕には、それを尋ねられるほどの容量は残されていない。
僕はハンカチを受け取ると、そこに涙を押し付けた。
涙が傷口に沁みて、ずきずきと痛む。心臓がばくばくと脈打つ音が、何倍もの音量をもって僕の中で反響する。
日は沈み、神社は闇に包まれていく。
自然の作り出す静寂の中に、僕の小さな嗚咽が吸い込まれていく。
少女はなにも言わず、僕の隣に座っていた。
隣に誰かが居てくれる。
それがどれほどのことか、僕には痛いくらいによくわかった。
「……もう、大丈夫」
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
お互いの顔も見えにくいほどとっぷりと暮れた境内に、力ない僕の声がした。
「ごめん。ありがと」
謝罪すれば良いのか感謝すれば良いのかわからなくて、どちらも伝えた僕に、少女は、
「構わないさ」
と、気にも留めていない様子で返す。
「もう落ち着いたか? 一人で帰れそうか?」
「本当に大丈夫だって。……ていうか、もう真っ暗で危ないし、家まで送ってやるから。一緒に帰るぞ」
「なにを言っているんだ、アキ」
「は?」
鞄を持って立ち上がった僕に、少女は座ったまま、困ったように首を傾げる。
「ワタシはこの神社の狛犬だと言っただろう? ワタシの居場所はここだ。ワタシの帰るべき場所は、この神社なのだ」
あくまでもその設定にはこだわるつもりらしい。神社の狛犬として出会った以上、狛犬として別れたいのだろう。或いは、恥も外聞もなく大泣きした僕に気を使ってくれているのか。
「あっそ」
ともあれ、少女に僕と一緒に帰る気がないのなら、無理強いはできない。
「じゃあな、狛犬サン」
その設定に付き合い、僕はそう言って神社をあとにした。
「ばいばい、アキ」
背中にかけられた声が、あまりに温かかった所為だろう。
この日の帰り道は、いつもより足取りが軽かった。
「ああ、うん」
少女は態度を変えることなく、手当てを続ける。
ひらすら手際良く、ただただ丁寧に。
それを眺めていると、何故だか毒気の抜かれる思いがした。
気を張っているのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、心が凪ぐ。
そういえば、他人からこれほど他意なく接してもらえたのは久しぶりな気がする。少し前までは、当たり前に受け取っていたものだったはずなのに。
亡くして初めてその大切さに気が付く。
そんなありふれた言葉が今の僕には痛いほど刺さって、苦笑する。
「むむ」
不意に、少女がそんな声を上げた。
いつの間にか、左腕の手当てはほぼ終わっていた。それどころか、胴体も手当て済である。打撲傷と擦り傷以外におかしな点はないように見えるが、少女は僕の首元をまじまじと見つめ、なんということだ、と呟いた。
「君は――いや、アキと呼んでも構わないか?」
「ご自由に」
「ありがとう」
ではアキ、と少女は続ける。
「アキは猫派だったのだな……。狛犬として出てきた自分が不甲斐ない……」
しゅんと項垂れる少女の様は、まさに犬そのものだった。おそらくは無意識でやっているであろう少女の所作に、僕はこみ上げる笑いをどうにか飲み込む。
「確かに、うちで猫は飼ってるけど。でも、どうしてわかったんだ?」
「え? だって、髪に猫の毛が付いてたから――じゃなくって! ええと、そう、狛犬っ! ワタシが狛犬だから! そういうのもわかっちゃうのだっ!」
「ああ、そういうことか」
ふと、今朝は僕の頭部めがけて猫が突進してきて起こされたことを思い出す。しかし、まさかこんなことで少女が落ち込むとは思わなかった。
「猫も好きだけど。同じくらい犬も好きだよ」
妙な罪悪感に苛まれ、僕はそんなことを言った。
犬も猫も好きなのは、嘘ではない。我が家に猫を家族として迎え入れたのは、タイミングの問題でしかなかったのだ。
「本当に?」
「本当に」
少女の問いに頷くと、少女は嬉しそうに、えへへ、なんて声を漏らした。お面に隠れて顔なんて見えないのに、それをかわいいと思った僕は、きっとあいつらに殴られ過ぎておかしくなっていたからに違いない。
「……ありがとう」
ワイシャツと学ランを着直し、絆創膏を貼ってもらった手の平を眺めながら、僕は言う。
きっと、久しぶりに他人と普通に話ができたから舞い上がっているのだろう。いつもであれば言えないような言葉がすらすらと口から飛び出したのは、その所為だ。
「自分じゃここまで手当てできなかったから、助かった」
「ふふっ、どういたしまして」
そう返した少女の声音は、とても優しげだった。
視線を自分の両手から少女の顔へと上げても、そこにあるのはアニメ絵のお面だというのに。それを見ていると、なんだか眼球の奥が熱くなるような錯覚に陥った。溢れそうになるそれを堪らえようと上を向くと、夕暮れの空が視界いっぱいに広がる。もうすっかり日も短くなってきた。透き通るような青色をしていた空は、昼と夜を混ぜ合わせ、濃い藍色に変わっていく。その中で、夕日を受ける雲だけが橙色だ。
僕は、青空が嫌いだ。
――どうして僕だけを置いていったの?
それは、あの日のことを思い出させるには充分過ぎて。
空を見上げる度、僕はひどく惨めな思いをする。
ああ、くそ。
僕もあのとき一緒に死んでしまえていたら、どんなに良かったか。
「ひとつ、訊いても良いか?」
何度か瞬きをしつつ思考を切り替え、少女のほうへ向き直り、僕は言う。
せっかく、久しぶりに良い気分になっているのに、嫌なことを考えたくなかった。
「どうして僕に声をかけてきたんだ?」
「め、迷惑だったか……?」
わなわなと震える少女に、違う違う、と僕は首を横に振って否定する。
「そうじゃなくって。僕さ、よく目つきが悪くて怖いって言われるから。お前、僕のこと怖くないの?」
「それは、どちらかというとワタシの台詞だと思うのだが……」
呆れているのか、苦笑いしているのか。
しかし不快感は抱いていないらしい声で、少女は言う。
「別に、怖くはないさ。確かに目つきは多少悪いかもしれないが、ワタシはそれを怖いとは思わない」
「……」
「さっきも言ったが、ワタシは一部始終を見ていたんだ。バス停小屋の裏で、上級生が寄ってたかって一年生に暴力を振るっているところを目撃しておきながら、ワタシは助太刀に入ることができなかった」
「……そりゃあ、あの人数を相手するのは無理だろ」
体格のしっかりしている三年生相手に、一年坊主など歯が立たなくて当然である。少女は人並み以上に腕力に自信があるようだが、多勢に無勢であることに変わりはない。仮に少女があの場に助けに入ってくれたとして、卑怯なあいつらのことだ、不意を討ってねじ伏せたに違いない。
「だけど、助けたかった」
僅かに声を荒げ、少女は言う。
「三人がかりで囲まれて、あんなに酷い目に遭っていたのに、アキの目は全く諦めていなかった。それがすごく格好良くって――だから力になりたいと、そう思ったんだ」
そうして少女がやきもきしているうちに、僕が逃走を図り、神社へ向かったというわけか。
「ワタシの居る神社に来てくれて、本当に良かった。こうして手当てくらいはすることができたからな」
「……そっか」
「アキは素敵な目をしているんだ、もっと自信を持って良いと思うぞ」
まさか目つきのことで、褒められる日が来ようとは。
なんだか気恥ずかしくなってきて、僕は少女から視線を逸らした。顔が、眼球が、熱い。内側からぐつぐつとこみ上げる正体不明の熱に、僕は全身をぶるりと震わせた。
睨んでいないのに睨んでいると言われ。
怒っていないのに怒っていると言われ続けた、僕の目が。
この少女には、そんな風に映っていた。
その言葉のひとつひとつが、どうしようもなく感情を揺さぶってくる。
「……あ、ありがっ……」
眼球の熱は収まることを知らず、遂に溢れてしまった。今まで必死にせき止めていたぶん、決壊してしまえばあまりに脆く崩れ落ちる。目からぼろぼろと熱が零れ落ちていく。
歪む視界の端に、かろうじて少女の姿が見える。
表情の読めない少女は、淡い水色のハンカチを取り出し、僕に差し出した。
「使ってくれ。泣きたいときは、我慢なんてするな」
それだけ言うと、少女は押し黙った。こういうときにどんな言葉が必要か、熟知しているようである。何故だろう。この少女も、似たような経験があるのだろうか。わからない。今の僕には、それを尋ねられるほどの容量は残されていない。
僕はハンカチを受け取ると、そこに涙を押し付けた。
涙が傷口に沁みて、ずきずきと痛む。心臓がばくばくと脈打つ音が、何倍もの音量をもって僕の中で反響する。
日は沈み、神社は闇に包まれていく。
自然の作り出す静寂の中に、僕の小さな嗚咽が吸い込まれていく。
少女はなにも言わず、僕の隣に座っていた。
隣に誰かが居てくれる。
それがどれほどのことか、僕には痛いくらいによくわかった。
「……もう、大丈夫」
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
お互いの顔も見えにくいほどとっぷりと暮れた境内に、力ない僕の声がした。
「ごめん。ありがと」
謝罪すれば良いのか感謝すれば良いのかわからなくて、どちらも伝えた僕に、少女は、
「構わないさ」
と、気にも留めていない様子で返す。
「もう落ち着いたか? 一人で帰れそうか?」
「本当に大丈夫だって。……ていうか、もう真っ暗で危ないし、家まで送ってやるから。一緒に帰るぞ」
「なにを言っているんだ、アキ」
「は?」
鞄を持って立ち上がった僕に、少女は座ったまま、困ったように首を傾げる。
「ワタシはこの神社の狛犬だと言っただろう? ワタシの居場所はここだ。ワタシの帰るべき場所は、この神社なのだ」
あくまでもその設定にはこだわるつもりらしい。神社の狛犬として出会った以上、狛犬として別れたいのだろう。或いは、恥も外聞もなく大泣きした僕に気を使ってくれているのか。
「あっそ」
ともあれ、少女に僕と一緒に帰る気がないのなら、無理強いはできない。
「じゃあな、狛犬サン」
その設定に付き合い、僕はそう言って神社をあとにした。
「ばいばい、アキ」
背中にかけられた声が、あまりに温かかった所為だろう。
この日の帰り道は、いつもより足取りが軽かった。
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