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魔王の勇者育成日記 19.言葉遣いには気を付けましょう
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リヒトは魔界が好きである。魔界が好き、というよりは、自分の面倒を見てくれている皆のことが好きである。キキョウの野菜や魔王の作ったご飯は美味しいし、カリフラワーの読み聞かせはわくわくする。イナホやコムギと遊ぶのも楽しい。コスモスやアネモネに勉強を教わるのも、サクラに剣の腕を鍛えて貰うのも好きだった。
だからリヒトは、これからもずっと、皆と一緒に居られるものだと信じていた。
「よろしいですか、リヒト様。今日は人間界のことをお勉強致します」
内務庁の仕事が忙しいことを承知の上で、コスモスはリヒトに人間界のことを教える役割を引き受けた。魔王やカリフラワーよりは最近の人間界に詳しいので、自分がやるべきだと思ったのである。そして何より、これでもうリヒトとお別れかもしれないと思うと、流石に情が湧いていた。
コスモスにとって、リヒトは微妙な存在である。勇者の存在が自分の命に係わるかもしれないと予言を受けているコスモスは、魔王のように手放しで可愛がる気にはなれなかった。勇者とは、コスモスにとって死の予兆そのものだからである。
それでもコスモスは、精一杯リヒトを可愛がった。その小さな命に敬意を払い、世話役を全うして来たつもりである。だから、いくら内務庁が激務に追われているとは言っても、その役目を投げ出すことは出来なかった。
「にんげん・・・」
リヒトはリヒトで、何故コスモスが人間の話をするのか、不思議に思った。コムギの話を聞いた直後だったので、リヒトの心はざわざわしていた。
「人間界には国があって、王様がいます。魔王様がいらっしゃる魔界と同じですね」
コスモスが図を描くのを、リヒトはぼんやりと見ている。
『だってリヒトちゃん、人間だもの。サクラもコスモスも魔族だわ。魔族から人間が生まれるわけないじゃない』
コムギの言葉が蘇り、リヒトはコスモスを見つめた。
(コスモスは、おかあさんじゃ、ない)
父親と母親がいて、子供がいるものだとコムギが言っていた。だとすれば、自分にも父親と母親がいるはずである。しかし、一番大好きなコスモスは母親ではないし、コスモスと一番仲良しなサクラは父親ではないという。
(リヒトは、にんげん)
皆と違う。
『魔族は耳が尖ってて、人間は丸いの』
リヒトはコムギの言葉を思い出し、ぐいぐいと自分の耳を引っ張った。耳が尖っていれば、魔族になれると思った。
「リヒト様?どうしたんですか、耳が痛いんですか?」
コスモスは話を中断し、リヒトの傍に膝を着いた。
「リヒト、にんげん、やだ。まぞく、なる」
「リヒト様・・・」
コスモスは動揺した。リヒトにはまだ自分が人間であると言うことは教えていなかったはずだ。気付かない内に何かが切っ掛けになって知ってしまったらしい。
力を入れて引っ張っているので、耳の付け根が痛い。それでもリヒトは、自分の耳をぐいぐいと引っ張るのを止めない。じわりとリヒトの目に涙が浮かんでいるのが見えて、コスモスは焦った。
「リヒト様、痛くなりますから駄目です」
「やだ。リヒト、まぞくになる」
リヒトがますます力を籠めて耳を引っ張るので、コスモスはリヒトの手を掴んで止めさせた。
「まぞくになる!みみがとがってたら、まぞく!」
いやいやと首を振りながら、リヒトはコスモスの手から逃れようともがいた。
「リヒト様、耳を引っ張っても魔族にはなれません。リヒト様は人間のままでいいんです」
「いやだ!!」
コスモスが宥めようと肩に手を置くと、リヒトは頭を振った。
「どうしてリヒトはにんげんなの?みんなとおなじがいい!おなじがいいよ!!」
リヒトは叫んだ。叫んだ拍子に瞳から涙が零れ落ちて、コスモスの心を悲しくさせた。
「リヒト様・・・」
リヒトはぎゅっと目を瞑った。ぼろぼろと涙が頬を伝うのを見て、コスモスはどうすればいいのか解らなくなった。
「おなじがいい・・・」
リヒトはコスモスの胸の辺りに頭を押し付け、いやいやと首を振った。コスモスは、リヒトの自我を痛感した。赤ん坊の頃には、自分の意思で何かするということはなかった。出会いがそうだったから、コスモスは心の何処かで、リヒトの自我を侮っていたのだ。自分によく懐き、慕ってくれていたから、言うことをちゃんと聞いてくれていたから、リヒトが何を考えているのか、どう生きていきたいのか、リヒトにも一つの人格があるという当然なことを、失念していたのである。
(どうすればいい・・・?)
コスモスはリヒトの背中を擦ってやりながら、途方に暮れた。例えこの子が勇者であったとしても、もう人間界に帰す方向で話が動き始めている。一種の魔族に遭遇させたくないのはコスモスとて同じだ。
けれどリヒトは、魔族になりたいと言う。自分達と同じがいいと言う。
コスモスは想像してみた。例えば自分が、ある日突然、自分は父親や母親とは違う種族であると言われたとする。リヒトが何処までその意味を理解しているかは解らないが、ショックだろう。今までずっと、そんなことを考えたことがなかったのだから。
父親と母親と違うということは、自分は一体何者なのだろう。自分の本当の親はどうしたのだろう。目の間に居る父親と母親は、何故自分を育ててくれているのだろう。本当の親は、どうして自分を育ててくれていないのだろう。
コスモスは大人であるから、色んな事を考える。その裏には、不安や悲しみのようなものがたくさんある。リヒトは恐らく、この不安や悲しみのようなものを漠然と感じているのだろう。
今まで当然と信じていたものが崩れる恐怖。自分が何者なのか解らない不安。リヒトの歳には、あまりにも大き過ぎるもののように思えて、コスモスは震えているリヒトをぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫です、リヒト様。貴方が人間であっても、私は貴方が大好きですよ」
それはコスモスの、心からの言葉だった。笑っているリヒトも、泣いているリヒトも、拗ねたり、怒ったり、反抗心丸出しの生意気な顔をしている時のリヒトであっても、コスモスは腕の中の存在が、堪らなく愛おしいと思った。こんな小さな子供が、自分の出自を知って不安に駆られて泣いているのを、辛いと思う。どうにかして、悲しみを取り除いてやりたいと思う。
コスモスはいつも慈愛に満ちた気持ちでリヒトに接していたが、こんな風に、まるで我が子を抱き締めるような気持ちになったのは初めてだった。リヒトの悲しみが伝わってくるような気がして、コスモスは胸が締め付けられた。
「コスモス・・・」
リヒトは顔を上げて、コスモスをじっと見上げた。小さな手を伸ばして、たどたどしくコスモスの頬に触れる。
「どこか、いたいの?くるしいの?」
リヒトが心配そうな顔をしているのを見て、コスモスは自分が泣いていることに気が付いた。
「・・・リヒト様が悲しいと、私も悲しいんです」
コスモスは、リヒトの濡れた頬を拭い、微笑んだ。
「同じじゃなくても、いいんです。リヒト様。貴方は人間で、私は魔族。でもこうして、一緒に悲しんだり、嬉しい時には笑ったりできます。種族の違いなんて、関係ないんです」
リヒトの頬に一筋、涙が零れた。ひっく、と喉を引き攣らせて、リヒトは顔をくしゃくしゃにした。「リヒトも、コスモス、だいすき」
コスモスにしがみ付き、リヒトは嗚咽を漏らした。コスモスはその背を撫で、ぽんぽんと叩いた。
もしもあの予言がなければ、コスモスはリヒトのところへ来ることは無かっただろう。
予言を受けたのが自分でよかった。コスモスは心からそう思った。
(出来ることなら、ずっとお傍に居てあげたいけど・・・)
それはきっと、叶わないのだろう。リヒトはいずれ、人間界に帰さなければならないのだから。
コスモスの頬を、一滴が流れた。
一方、書庫では、魔王が魔界開拓史を読んでいた。粗方の書物を眺めたが、どうやらこれが一番探していたものに近いようだと判断し、読んでみることにしたのである。
「本当にまおうのだいぼうけんみたいだなあ・・・大人版まおうのだいぼうけんって感じ・・・」
難しい言葉が多いので、魔王はカタツムリの歩みでページを進めていく。
「でもさあ、カリフラワー」
魔王はカリフラワーに声を掛けた。カリフラワーは隠し部屋の中に他に目ぼしい本が無いか探しているところである。
「はい?」
書棚からひょこりと顔(覆面)を出し、カリフラワーは魔王を見た。
「まおうのだいぼうけんにも出て来るけどさあ、オサとかミコとかって、何か聞いたことある気がするんだよねえ・・・」
魔王は首を傾げた。聞いたことがある気はするが、何処で聞いたのか思い出せない。
「まおうのだいぼうけんに出て来るから、それでじゃないですか?」
「そうかなー・・・?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべながら、魔王は反対側に首を傾げた。
「うーん・・・ あっ、読めない字がある」
「魔王様、ここに辞書置いときますね」
「あっ、ありがとう」
そそくさと魔王の傍に辞書を置き、カリフラワーは別の書棚へと移動した。埃まみれの書棚を掃除し、カリフラワーは手を止めた。少し俯いているその覆面の裏の表情は見えない。
「あっ、リヒトちゃん!またペンの持ち方間違ってる!」
コスモスが内務庁に出向いている昼間、コムギがリヒトに人間界のマナーを教えていた。コムギは人間界に行ったことはないが、事前にツバキやコスモスからレクチャーを受けていたので、主に所作を教える役目を与えられた。
「こうやって、こうよ。指はこう」
「うー」
リヒトはペンを握ってしまう癖があり、これを直すのを嫌がった。きちんと持とうとすると、指先がぷるぷるするのである。
「やだーできない!」
リヒトはぽーいとペンを投げ出した。コムギは教える役目を与えられてテンションが上がっているので、厳しく細かく指摘している。リヒトはそれが嫌だった。いつも楽しく遊んでいた相手が急にくどくど言い出したら誰だって嫌である。
「駄目よ!リヒトちゃん!ちゃんと出来ないと、そういう悪い子はね、えっと・・・」
コムギは言葉を探した。城での公用語が人間の言葉になったので、コムギはスムーズに話せないのである。コムギの家のお仕置きは、ご飯抜きな上に家から閉め出されることなので、それを人間界の言葉で言おうとし、コムギは閃いた。
「そういう悪い子は、捨てられちゃうんだからね!」
リヒトはその言葉を、人間の言葉が意味する額面通りに受け取った。
「すてられる・・・」
「そうよ!お家に入れてもらえなくなっちゃうんだから!」
コムギは、リヒトが青い顔をしているのを見て、脅し文句としてきちんと意味が伝わったと思った。それが、コムギが思っている以上に重大な意味を持つ言葉だとは思わなかった。
「・・・リヒト、ちゃんとやる・・・」
リヒトは放り投げたペンを拾いに行き、指先をぷるぷるさせながら正しいペンの持ち方をしようと頑張った。
「そうよ!偉いわリヒトちゃん!」
コムギは、リヒトが自分の言うことをきちんと聞いたので、あの脅し文句が功を奏したと喜んだ。
リヒトは、自分が別の種族であると知ったばかりなので、余計に緊張していた。
悪いことをしたら、捨てられる。
それは強迫観念のように、リヒトの心に残った。
「最近、リヒトがすごくいい子なんだよね」
午後のまったりした雰囲気の中、魔王が言った。
「いや!元々とってもいい子ではあったけど!!」
魔王は力強く不必要なフォローをした。
「コムギちゃんがマナーを教えてくれてるから、そのお蔭ですかね」
カリフラワーもまったりとお茶を飲みながら言った。書庫作業を終え、一息ついたところである。
「今度コムギちゃんに好きなお菓子でも作ってあげようかなあ」
「それいいですね!リヒト様の好きなお菓子も一緒に作ってあげたらどうですか?」
「そうしよう!何がいいかな~」
魔界が一大事だというのに、のほほんとした王達である。
「あ、コスモスが帰って来たみたい」
そろそろコムギが帰りの時間なので、コスモスが帰って来たのだろう。入口の方で物音がしたので、魔王はそう判断し、コスモスの分もお茶を淹れようかと立ち上がった。
「魔王様、待って下さい」
「え?」
カリフラワーが制止したので、魔王はその場で立ち止まった。
「足音が多いです」
「!」
魔王が驚いて入口を見るのと、入口が開け放たれたのは、ほぼ同時だった。
「貴様が魔王か」
入口から姿を現したのは、知らない顔だった。
「!」
魔王は気が付いた。カリフラワーも気が付いた。耳が尖っていない。つまり、人間である。
黒髪黒目のその人間の後ろには、他にも何人か人間が居た。皆剣士のような恰好をして、帯刀している。
身構える魔王達に、黒髪黒目の人間は言った。
「私は王国近衛隊隊長、カマンベール。国王陛下の命により、魔王を討伐しに来た」
銀色に輝く刀身の切っ先が、ピタリと魔王に向けられた。
だからリヒトは、これからもずっと、皆と一緒に居られるものだと信じていた。
「よろしいですか、リヒト様。今日は人間界のことをお勉強致します」
内務庁の仕事が忙しいことを承知の上で、コスモスはリヒトに人間界のことを教える役割を引き受けた。魔王やカリフラワーよりは最近の人間界に詳しいので、自分がやるべきだと思ったのである。そして何より、これでもうリヒトとお別れかもしれないと思うと、流石に情が湧いていた。
コスモスにとって、リヒトは微妙な存在である。勇者の存在が自分の命に係わるかもしれないと予言を受けているコスモスは、魔王のように手放しで可愛がる気にはなれなかった。勇者とは、コスモスにとって死の予兆そのものだからである。
それでもコスモスは、精一杯リヒトを可愛がった。その小さな命に敬意を払い、世話役を全うして来たつもりである。だから、いくら内務庁が激務に追われているとは言っても、その役目を投げ出すことは出来なかった。
「にんげん・・・」
リヒトはリヒトで、何故コスモスが人間の話をするのか、不思議に思った。コムギの話を聞いた直後だったので、リヒトの心はざわざわしていた。
「人間界には国があって、王様がいます。魔王様がいらっしゃる魔界と同じですね」
コスモスが図を描くのを、リヒトはぼんやりと見ている。
『だってリヒトちゃん、人間だもの。サクラもコスモスも魔族だわ。魔族から人間が生まれるわけないじゃない』
コムギの言葉が蘇り、リヒトはコスモスを見つめた。
(コスモスは、おかあさんじゃ、ない)
父親と母親がいて、子供がいるものだとコムギが言っていた。だとすれば、自分にも父親と母親がいるはずである。しかし、一番大好きなコスモスは母親ではないし、コスモスと一番仲良しなサクラは父親ではないという。
(リヒトは、にんげん)
皆と違う。
『魔族は耳が尖ってて、人間は丸いの』
リヒトはコムギの言葉を思い出し、ぐいぐいと自分の耳を引っ張った。耳が尖っていれば、魔族になれると思った。
「リヒト様?どうしたんですか、耳が痛いんですか?」
コスモスは話を中断し、リヒトの傍に膝を着いた。
「リヒト、にんげん、やだ。まぞく、なる」
「リヒト様・・・」
コスモスは動揺した。リヒトにはまだ自分が人間であると言うことは教えていなかったはずだ。気付かない内に何かが切っ掛けになって知ってしまったらしい。
力を入れて引っ張っているので、耳の付け根が痛い。それでもリヒトは、自分の耳をぐいぐいと引っ張るのを止めない。じわりとリヒトの目に涙が浮かんでいるのが見えて、コスモスは焦った。
「リヒト様、痛くなりますから駄目です」
「やだ。リヒト、まぞくになる」
リヒトがますます力を籠めて耳を引っ張るので、コスモスはリヒトの手を掴んで止めさせた。
「まぞくになる!みみがとがってたら、まぞく!」
いやいやと首を振りながら、リヒトはコスモスの手から逃れようともがいた。
「リヒト様、耳を引っ張っても魔族にはなれません。リヒト様は人間のままでいいんです」
「いやだ!!」
コスモスが宥めようと肩に手を置くと、リヒトは頭を振った。
「どうしてリヒトはにんげんなの?みんなとおなじがいい!おなじがいいよ!!」
リヒトは叫んだ。叫んだ拍子に瞳から涙が零れ落ちて、コスモスの心を悲しくさせた。
「リヒト様・・・」
リヒトはぎゅっと目を瞑った。ぼろぼろと涙が頬を伝うのを見て、コスモスはどうすればいいのか解らなくなった。
「おなじがいい・・・」
リヒトはコスモスの胸の辺りに頭を押し付け、いやいやと首を振った。コスモスは、リヒトの自我を痛感した。赤ん坊の頃には、自分の意思で何かするということはなかった。出会いがそうだったから、コスモスは心の何処かで、リヒトの自我を侮っていたのだ。自分によく懐き、慕ってくれていたから、言うことをちゃんと聞いてくれていたから、リヒトが何を考えているのか、どう生きていきたいのか、リヒトにも一つの人格があるという当然なことを、失念していたのである。
(どうすればいい・・・?)
コスモスはリヒトの背中を擦ってやりながら、途方に暮れた。例えこの子が勇者であったとしても、もう人間界に帰す方向で話が動き始めている。一種の魔族に遭遇させたくないのはコスモスとて同じだ。
けれどリヒトは、魔族になりたいと言う。自分達と同じがいいと言う。
コスモスは想像してみた。例えば自分が、ある日突然、自分は父親や母親とは違う種族であると言われたとする。リヒトが何処までその意味を理解しているかは解らないが、ショックだろう。今までずっと、そんなことを考えたことがなかったのだから。
父親と母親と違うということは、自分は一体何者なのだろう。自分の本当の親はどうしたのだろう。目の間に居る父親と母親は、何故自分を育ててくれているのだろう。本当の親は、どうして自分を育ててくれていないのだろう。
コスモスは大人であるから、色んな事を考える。その裏には、不安や悲しみのようなものがたくさんある。リヒトは恐らく、この不安や悲しみのようなものを漠然と感じているのだろう。
今まで当然と信じていたものが崩れる恐怖。自分が何者なのか解らない不安。リヒトの歳には、あまりにも大き過ぎるもののように思えて、コスモスは震えているリヒトをぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫です、リヒト様。貴方が人間であっても、私は貴方が大好きですよ」
それはコスモスの、心からの言葉だった。笑っているリヒトも、泣いているリヒトも、拗ねたり、怒ったり、反抗心丸出しの生意気な顔をしている時のリヒトであっても、コスモスは腕の中の存在が、堪らなく愛おしいと思った。こんな小さな子供が、自分の出自を知って不安に駆られて泣いているのを、辛いと思う。どうにかして、悲しみを取り除いてやりたいと思う。
コスモスはいつも慈愛に満ちた気持ちでリヒトに接していたが、こんな風に、まるで我が子を抱き締めるような気持ちになったのは初めてだった。リヒトの悲しみが伝わってくるような気がして、コスモスは胸が締め付けられた。
「コスモス・・・」
リヒトは顔を上げて、コスモスをじっと見上げた。小さな手を伸ばして、たどたどしくコスモスの頬に触れる。
「どこか、いたいの?くるしいの?」
リヒトが心配そうな顔をしているのを見て、コスモスは自分が泣いていることに気が付いた。
「・・・リヒト様が悲しいと、私も悲しいんです」
コスモスは、リヒトの濡れた頬を拭い、微笑んだ。
「同じじゃなくても、いいんです。リヒト様。貴方は人間で、私は魔族。でもこうして、一緒に悲しんだり、嬉しい時には笑ったりできます。種族の違いなんて、関係ないんです」
リヒトの頬に一筋、涙が零れた。ひっく、と喉を引き攣らせて、リヒトは顔をくしゃくしゃにした。「リヒトも、コスモス、だいすき」
コスモスにしがみ付き、リヒトは嗚咽を漏らした。コスモスはその背を撫で、ぽんぽんと叩いた。
もしもあの予言がなければ、コスモスはリヒトのところへ来ることは無かっただろう。
予言を受けたのが自分でよかった。コスモスは心からそう思った。
(出来ることなら、ずっとお傍に居てあげたいけど・・・)
それはきっと、叶わないのだろう。リヒトはいずれ、人間界に帰さなければならないのだから。
コスモスの頬を、一滴が流れた。
一方、書庫では、魔王が魔界開拓史を読んでいた。粗方の書物を眺めたが、どうやらこれが一番探していたものに近いようだと判断し、読んでみることにしたのである。
「本当にまおうのだいぼうけんみたいだなあ・・・大人版まおうのだいぼうけんって感じ・・・」
難しい言葉が多いので、魔王はカタツムリの歩みでページを進めていく。
「でもさあ、カリフラワー」
魔王はカリフラワーに声を掛けた。カリフラワーは隠し部屋の中に他に目ぼしい本が無いか探しているところである。
「はい?」
書棚からひょこりと顔(覆面)を出し、カリフラワーは魔王を見た。
「まおうのだいぼうけんにも出て来るけどさあ、オサとかミコとかって、何か聞いたことある気がするんだよねえ・・・」
魔王は首を傾げた。聞いたことがある気はするが、何処で聞いたのか思い出せない。
「まおうのだいぼうけんに出て来るから、それでじゃないですか?」
「そうかなー・・・?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべながら、魔王は反対側に首を傾げた。
「うーん・・・ あっ、読めない字がある」
「魔王様、ここに辞書置いときますね」
「あっ、ありがとう」
そそくさと魔王の傍に辞書を置き、カリフラワーは別の書棚へと移動した。埃まみれの書棚を掃除し、カリフラワーは手を止めた。少し俯いているその覆面の裏の表情は見えない。
「あっ、リヒトちゃん!またペンの持ち方間違ってる!」
コスモスが内務庁に出向いている昼間、コムギがリヒトに人間界のマナーを教えていた。コムギは人間界に行ったことはないが、事前にツバキやコスモスからレクチャーを受けていたので、主に所作を教える役目を与えられた。
「こうやって、こうよ。指はこう」
「うー」
リヒトはペンを握ってしまう癖があり、これを直すのを嫌がった。きちんと持とうとすると、指先がぷるぷるするのである。
「やだーできない!」
リヒトはぽーいとペンを投げ出した。コムギは教える役目を与えられてテンションが上がっているので、厳しく細かく指摘している。リヒトはそれが嫌だった。いつも楽しく遊んでいた相手が急にくどくど言い出したら誰だって嫌である。
「駄目よ!リヒトちゃん!ちゃんと出来ないと、そういう悪い子はね、えっと・・・」
コムギは言葉を探した。城での公用語が人間の言葉になったので、コムギはスムーズに話せないのである。コムギの家のお仕置きは、ご飯抜きな上に家から閉め出されることなので、それを人間界の言葉で言おうとし、コムギは閃いた。
「そういう悪い子は、捨てられちゃうんだからね!」
リヒトはその言葉を、人間の言葉が意味する額面通りに受け取った。
「すてられる・・・」
「そうよ!お家に入れてもらえなくなっちゃうんだから!」
コムギは、リヒトが青い顔をしているのを見て、脅し文句としてきちんと意味が伝わったと思った。それが、コムギが思っている以上に重大な意味を持つ言葉だとは思わなかった。
「・・・リヒト、ちゃんとやる・・・」
リヒトは放り投げたペンを拾いに行き、指先をぷるぷるさせながら正しいペンの持ち方をしようと頑張った。
「そうよ!偉いわリヒトちゃん!」
コムギは、リヒトが自分の言うことをきちんと聞いたので、あの脅し文句が功を奏したと喜んだ。
リヒトは、自分が別の種族であると知ったばかりなので、余計に緊張していた。
悪いことをしたら、捨てられる。
それは強迫観念のように、リヒトの心に残った。
「最近、リヒトがすごくいい子なんだよね」
午後のまったりした雰囲気の中、魔王が言った。
「いや!元々とってもいい子ではあったけど!!」
魔王は力強く不必要なフォローをした。
「コムギちゃんがマナーを教えてくれてるから、そのお蔭ですかね」
カリフラワーもまったりとお茶を飲みながら言った。書庫作業を終え、一息ついたところである。
「今度コムギちゃんに好きなお菓子でも作ってあげようかなあ」
「それいいですね!リヒト様の好きなお菓子も一緒に作ってあげたらどうですか?」
「そうしよう!何がいいかな~」
魔界が一大事だというのに、のほほんとした王達である。
「あ、コスモスが帰って来たみたい」
そろそろコムギが帰りの時間なので、コスモスが帰って来たのだろう。入口の方で物音がしたので、魔王はそう判断し、コスモスの分もお茶を淹れようかと立ち上がった。
「魔王様、待って下さい」
「え?」
カリフラワーが制止したので、魔王はその場で立ち止まった。
「足音が多いです」
「!」
魔王が驚いて入口を見るのと、入口が開け放たれたのは、ほぼ同時だった。
「貴様が魔王か」
入口から姿を現したのは、知らない顔だった。
「!」
魔王は気が付いた。カリフラワーも気が付いた。耳が尖っていない。つまり、人間である。
黒髪黒目のその人間の後ろには、他にも何人か人間が居た。皆剣士のような恰好をして、帯刀している。
身構える魔王達に、黒髪黒目の人間は言った。
「私は王国近衛隊隊長、カマンベール。国王陛下の命により、魔王を討伐しに来た」
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