高慢悪女とヘタレ騎士

星名こころ

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16.フィオナの家庭教師

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 翌週になって、フィオナの家庭教師であるマール夫人がやってきた。
 辺境伯と同年代とおぼしきその女性は、上がったまなじりと眉間に刻まれたしわが見る者に神経質そうという印象を与える。
 部屋で出迎えたフィオナを見て、彼女は眉をひそめ、あからさまにため息をついた。
 その理由は二つ。
 一つは、フィオナが先日渡した靴を履いていないこと。もう一つは、後ろに侍女のサリーが控えていること。

「そこの侍女。授業の間は下がっていなさいと伝えてあったはずですが、今日はなぜそこに?」

「はい、あの……。フィオナお嬢様はまだ幼くていらっしゃるので、やはり私がついていたほうがいいかと……」

「不要です。授業の邪魔ですから下がりなさい」

「……」

 サリーが動けずにいると、マール夫人の眉間のしわが深くなった。

「さっさと下がりなさい!」

 サリーとフィオナが、同時にびくりと体を震わせる。

「サリー、私はだいじょうぶだから」

「はい……承知いたしました……」

 サリーが何度か振り返りながら部屋から出ていくと、夫人は再度ため息をついた。

「侍女の教育がなっていないようですね、フィオナ嬢」

「はい……もうしわけありません……」

 フィオナが委縮した様子になる。

「それに、私がお渡しした靴はどうしたのです」

「あれは健康に悪いからはいてはいけないと……」

「誰がそんなことを」

「その……アレクシアさまが……」

「アレクシア……? ああ、あの第一王子殿下に婚約破棄された高慢女! そうそう、今はここに逃げ込んでいるんでしたね」

 フィオナが唇をかむ。
 小さな手にぎゅっと力を入れ、マール夫人を見上げた。

「アレクシアさまは、高慢なんかじゃありません。とてもやさしい人です」

 それを聞いて、フィオナを見下ろす夫人の視線がさらに鋭くなる。 

「あらあら、すっかり性悪女に感化されて私に口答えをするなんて。教育をし直す必要がありますね」

「性悪なんかじゃ……っ」

「もういいから座りなさい」

 ぴしゃりと言われ、フィオナはそれ以上は何も言えずに椅子に座る。
 彼女の前の机に、夫人が本を置いた。そして鞭を手に取る。

「歴史書の二十二ページから三十五ページ。ちゃんと憶えてきましたね?」

「はい……」

「では。初代国王ヘンドリックが戦った蛮族の王の名前は」

「ゼぐイドぅスです」

「発音が悪いですね。はっきりと言いなさい」

 何度もゼグイドゥス、ゼグイドゥスと復唱させられる。

「はあ……いまいちですが仕方ないので先に進みましょう。ゼグイドゥスを倒した場所は?」

「スワルカン平原です」

「それは何年の出来事ですか」

「星暦二七二年です」

「はっ……」

 マール夫人が口元をゆがめて笑いを漏らすと同時に、持っていた鞭で机を思い切り叩いた。
 パァン! という乾いた音に、フィオナが体を震わせる。

「星歴二七四年です! たったこれだけのことも憶えられないなんて!!」

「も……もうしわけありません……っ」

「本当に出来の悪い。お父様である辺境伯は本当に立派な方でいらっしゃるのに! やはり辺境伯夫人の……」

「お黙りなさい」

 フィオナとマール夫人、二人以外には誰もいないはずの部屋に第三者の声が響いて、夫人は驚いて黙った。
 ベッドの横の衝立の陰から立ち上がって出てきたのは、アレクシア。
 コツリ、コツリとヒールの音を立てながら優雅な歩みで二人に近づいてくる。
 その口元には笑み。だが長い銀色の睫毛に縁どられた目は、少しも笑っていない。
 見る者を凍りつかせるような美しくも冷たい微笑に、マール夫人は言葉を失った。

「初めまして、マール夫人。高慢で性悪なアレクシアと申します。お目にかかれて光栄ですわ。わたくしの未来の義妹が、ずいぶんとお世話になっているようですわね?」

 その言葉に、すでに涙目になっていたフィオナが一粒の涙をこぼした。
 すべてを聞かれていたマール夫人は、顔色が悪い。

「……部屋に隠れて盗み聞きですか。それが淑女のなさることですか?」

 マール夫人が負けじと笑みを浮かべて強気に言う。だがその口元は引きつっていた。

「あら、盗み聞きとは心外ですわね。わたくしのかわいいフィオナ嬢がどんな授業を受けているのか、見学させていただいていただけですわ。侍女を追い出してまでどんなに立派な授業をなさっているのかと思えば」

 さらにマール夫人に近づき、まっすぐに夫人を見据える。

「これがあなたの授業ですか? マール夫人。子供相手に怒鳴り散らし、鞭で机を叩いて脅し、挙句おとしめるようなことを言う。?」

「わ、私は辺境伯からフィオナ嬢の教育を任されているのです! 辺境伯子息の婚約者などが口を出せることではありません!」

「そうですね。ですから辺境伯閣下にわたくしが見聞きしたことをそのままお伝えしましょう。閣下がご判断くださいますわ」

 余裕たっぷりな笑みを浮かべると、マール夫人が歯噛みした。

「フィオナ嬢を見下し脅しけなす。その教育が本当にフィオナ嬢のためになっているというのなら、閣下もあなたではなく出過ぎたわたくしを叱ることでしょう」

「……っ、少々厳しくしただけでで、貶しているなどと……!」

「そうですか。ではマール夫人。スワルカン平原の戦いは何年でしたかしら?」

「はい? それは星歴二七四年……」

 ふ、とアレクシアが鼻で笑う。

「星歴二七二年です」

「そ、そんなはずは……!」

「それは古い知識です。十一年前、歴史学者マーカス・タイラントが星歴二七四年は解釈の誤りで正しくは二七二年と発表しました。歴史庁はその説を認め、スワルカン平原の戦いは星歴二七二年と改められました。つまりフィオナ嬢が正解なのです。その机の上の歴史書が編纂されたのは八年前ですから、二七二年と記されているはずです」

「……!」

 アレクシアはさらに一歩近づいた。マール夫人がたまらず下がる。

「たったこれだけの知識も頭に入れていないなんて、本当に出来の悪い。……どうです、そう言われる気分は」

「……! ふ、不愉快です! 私はこれで失礼させていただきます!」

「その前に、一つ教えて差し上げます。子供とは褒められてこそ伸びるもの。貶されながら育てば将来も自信のない人間になってしまいますわ。一方、愛情を受け褒められながら伸び伸びと育った子供は、わたくしのように自信に満ちた誇り高く美しい人物になるのです」

 ね? と笑みを向けると、マール夫人は「悪女の間違いでしょう!」と捨て台詞を吐いて出て行った。
 嵐が去り、部屋が静まり返る。

「もうしわけありません、わたしのせいで、アレクシアさまが悪女なんて……」

「何を仰るのです。この程度のことは言われ慣れていますし、無責任な他人の評価など少しも気になりません。わたくしこそ、授業を荒らしてしまいましたわね」

「いいえ。かばってもらえて、とてもうれしかったです」

 アレクシアは、フィオナの向かいに座った。

「フィオナ嬢はなぜ今まで閣下に申し出なかったのですか? あのような家庭教師ではなくても、もっと適切に指導してくださる方がいらっしゃると思うのですが」

「……たしかにマール夫人はきびしかったです。でも、きびしいのをがまんすれば、りっぱなレディになれると思って……」

「フィオナ嬢。あなたはすでに賢く優しい立派なレディです。ですから、あのような理不尽に耐える必要などないのですよ」

 その言葉にフィオナの両目からポロポロと涙がこぼれる。

「あなたがこうまで立派なレディにこだわるのは、もしかして……後継者問題を考えてのことですか?」

「……お兄さまは、とてもやさしい人なんです。戦いなんか好きじゃないのに、立派な騎士で、いなければならなくて。でも、わたしがはやく一人前になって、強くて戦いがへいきな人と、婚約すれば……お兄さまはもう戦って苦しまなくてすむと思って……っ」

 しゃくりあげながらそんなことを言うフィオナに、アレクシアの胸が痛んだ。
 まだたった六歳だというのに、その小さな背にどれほどのものを背負い込もうとしているのかと。

「フィオナ嬢が辺境伯家のことを考えるその姿勢は頭が下がる思いです。ですが、フィオナ嬢はまだ六歳。わたくしが口を出していい問題ではありませんが、そんなに一人で背負い込む必要はないのだと思います」

「でも、わたしが……っ、お父さまとお兄さまから、お母さまをうばったんです……! 二人とも、お母さまのことが大好きだったのに、わたしが……っ」

 辺境伯夫人は、フィオナを出産した直後に亡くなった。
 たとえ難産が死につながったのだとしても、それがフィオナのせいであるはずがない。 

「誰がそんなことを」

「……」

「それもマール夫人、ですか」

 ため息交じりに言う。
 一体なんの恨みがあってこんな小さな子供にそんなことを言うのか。許せないと思った。
 だが、今大事なのは、マール夫人ではなくフィオナのこと。
 アレクシアは立ち上がってフィオナの傍に行き、ハンカチで涙を拭った。

「フィオナ嬢。お母様のことは、あなたのせいではありません。閣下もレニー様も、そんなことを思っているはずがありません。他人である私にも、それははっきりとわかります」

「で、も……」

「あなたのせいではないのです。命はままならぬもの……それはとても悲しいことですが、あなたが自分を責める必要などないのですよ」

「……っ」

 フィオナが無言で涙をこぼした。その様があまりに痛ましく、アレクシアも瞳を潤ませる。
 おいでというように少し手を広げると、フィオナは飛び込むように抱き着いてきた。
 子供らしく声を上げて泣くフィオナの背中を、泣き止むまでずっと優しくさすっていた。
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