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甘い狂気
しおりを挟むコンコン。コンコン。
英樹がパチンコに出掛けた午後。
いつものようにぼうっと一人でベランダを眺めていたひなたは、聞き慣れないノック音に玄関を見やる。
「・・・ひなたちゃん、ひなたちゃん。そこにいるんでしょう?」
誰かが私の名前を呼んでいる。
「僕だよ、陽斗だよ。君を助けにきたよ。ここを開けて?」
・・・はると?誰だっけ――
思い出そうと、靄のかかった思考を探る。
――ズキンッ――!
鋭い頭痛に襲われ、それ以上考える事を身体が拒む。
思い出したらダメ。
やっとここの生活にも慣れてきたのに。
何も考えたくない。
何も聞きたくない!
怖い。イヤだ、思い出したくない――っ!!
ひなたは逃げるように、自ら押し入れの中に潜り込んで外の人が居なくなるのをジッと待った。
コンコン。コンコン。
外ではまだ誰かがノックをしている。
「ひなたちゃん。僕が、必ず助けてあげるから」
助ける?
誰が?誰を?
なんで?
何から助けるの?
私は誰も見向きしないような汚い人間なのに。
そう、私の居場所はここ。
英くんがいる場所が、私の居場所。
ここ以外に、醜い私が生きてても良い場所なんて無いのに。
「大丈夫だよ。僕が君を守るから。怖い事も、痛い事も、全部僕が取り払ってあげるから」
何を言っているの?
私は平気。英くんさえいれば大丈夫。
英くんがいないと、私は何も出来ないんだから。
ひなたは押し入れの中で、膝を抱えて震えていた。
しばらくすると扉を叩いていた音が止んだ。
やっと居なくなった――ほっとした瞬間、ガチャリと扉の鍵が開けられる音がした。
そのままドアを開けて、室内に入ってくる音がする。
何で、来ないで、やめて――!!
ひなたは恐怖に小さくなりながら、ギュッと目を瞑って息を殺していた。
押し入れの扉がスッと開かれる。
「・・・ひなたちゃん――」
声が、近くで聞こえた。
「会いたかった」
泣きそうなほど優しい声に、ひなたは閉じていた目をゆっくりと開いた。
***
「――ひなたちゃん?大丈夫?」
目の前の彼は、今もあの時のように心配顔で優しく声を掛けてくれている。
そうだ。考えてみれば、何かがおかしい。
何であの時陽斗君は、私が英くんの家に監禁されているって知っていたのだろう?
そして何故英くんの家の鍵を持っていたの?
英くんが丁度パチンコに出掛けている時に、タイミング良く現れ、私を助け出した。
「彼女に、何言われたの?」
ぐるぐると思考が巡って、何も答えない私に陽斗君が心配そうに覗き込んで来る。
陽斗君は私を助け出してから、ボロボロになっていた私の心と身体のリハビリにも付き合ってくれた。
いつ迎えにくるかもと英くんの影に怯える私に、陽斗君はいつも一緒にいてくれた。
そうして自然とお付き合いする事になり、こうして結婚もして。
あれから英くんとは一度も顔を合わせていない。
陽斗君は約束通り、様々な事から私を守ってくれている。
何も不自然な事はないはずなのに、それがかえって違和感を覚える。
「・・・陽斗くん、何で、あの時英くんの家に助けに来てくれたの?」
何を、と詳しく言わなくても、聡い彼は私が何を言いたいのか分かってくれた。
少しだけ驚いたように目を開いてから、彼はニッコリと微笑む。
「黙って何を考えているのかと思ったら・・・ひなたちゃんの口から、他の男の名前なんて聞きたくないね」
「陽斗くん――」
言葉ごと飲み込まれるように、彼の唇が私の唇に被さる。
決して強引では無いが有無を言わせない彼の巧みなキスに、あっという間に意識を持ってかれる。
柔らかくねっとりとした彼の舌が、歯茎をなぞり上あごを舐め回す。
喉に流し込まれる大量の唾液に、息が苦しくなった。
「――っ、はぁ、」
「・・・あちこち探し回って、最後に辿り付いたのが彼の家だったんだ。そんな事を今更言い出すなんて、彼女と何を話してたのか何となく分かったよ。・・・たとえ過去の記憶だろうと、ひなたちゃんの頭の中に他の男がいると思うと妬いちゃうね」
私を抱きしめ、耳元で囁く彼の声が熱い。
そんな彼とは対照的に、わたしの頭の中は冴え冴えとしていた。
そう、彼は私を探し出してくれた。それからずっと一緒に居てくれた。
『ええ、分かるわ・・・女性としてはそんな時傍にいた男性に優しくされたら、思わず気持ちも傾くわよね』
河辺さんに言われた言葉が、何か心に引っかかる。
陽斗君は、幼馴染みで、いつも一緒にいて、優しくて――
でも私は、彼を本当に愛しているのだろうか――?
「ひなたちゃん」
私の思考を遮るように彼が呟く。
「何も考えなくていいよ・・・美味しいご飯食べて、いっぱい寝て、たくさん気持ち良い事、しようね?」
私の瞼にそっとキスを落とす。
彼の瞳は真っ直ぐに私をみつめてくる。
深い愛情、慈しみ、情欲――様々な感情が映る瞳は、深い色を宿している。
考えなきゃいけないのに、大事な事を今考えていたはずなのに。
彼に見詰められると、その瞳の美しさに心が奪われてしまう。
「大丈夫だよ・・・僕はずっと、君の傍にいるから」
ああ・・・何だろう。
こんなにも愛されている幸せ。
何を不安に感じる事があるだろうか。この優しい彼の腕に全てを委ねてしまいたい。
何も心配いらない。何も怖くない。彼が居れば大丈夫。
「愛しているよ――僕の可愛い、ひなたちゃん」
***
繁華街とは違った騒がしさと、薄汚れた路地。
浮浪者達があちこちで飲み食いしては、カップ酒を片手にこの場に不釣り合いな男をジロジロと眺めている。
ある市内のドヤ街に、いつも通りの微笑みを湛えた廣瀬陽斗はいた。
普通では考えられない安値で売られている料理を、泥だらけの格好で貪っている一人の男。
長く伸びた髭と風呂に入っていないだろう長髪はボサボサだが、よくよく見ればまだ若い青年だった。
「・・・てめぇ、こんなところまで何しに来やがった」
廣瀬の姿を視界に捉えると、忌々しげに男は言う。
「君に、やり直すチャンスをあげようと思ってね――英樹君」
シワのない上品なスーツを着こなす廣瀬の姿はかなり悪目立ちしていた。
廣瀬は周りから向けられる好奇の視線も気にせず、英樹の前の椅子に優雅に腰掛ける。
「・・・何のつもりだ」
「そんなに警戒しないでくれ。『友だち』がこんな所でその日暮らしをしているなんて、心配するに決まっているだろう」
「誰のせいだと――ッ!!」
「さぁ? 僕は君が自ら招いた結果だとしか思わないけど」
「――ッ!てめぇっ!」
机を蹴飛ばす勢いで英樹が立ち上がる。
鼻息荒く怒りを露わにする英樹に、廣瀬は微笑みで返すとポケットから1枚のチケットを取り出した。
「フィリピン行きの片道航空券だ。知り合いの会社が、優秀・・な日本人エンジニアを探しててね。君を推薦してあげたよ」
「誰がてめぇの紹介なんかッ!」
「盗用疑惑、情報流出の噂。あげくギャンブル中毒、婚約者相手に監禁、DV。こんな現状でリスクしかない君を、他に誰が雇ってくれると?」
「ッ!」
「断るなら――別の方法で君を遠くに送り出す事になるけど、そっちの方がお望みかい?」
「廣瀬ッ―――!!」
怒りのまま、英樹は廣瀬の胸ぐらに掴みかかる。
首を絞められても、廣瀬の表情から笑顔が消える事は無い。
落ち着き払ったその態度に、英樹はさらに頭に血が上った。
「てめぇっ!ひなたを――ッ!?」
ひなたの名前を出した瞬間、それまで穏やかだった廣瀬の表情が鋭くなる。
「君に、その名前を呼ぶ資格はない」
胸元を掴んでいた英樹の手首を、骨の軋む音が聞こえそうなほど強く握られる。
あまりの痛みに思わず英樹は手を離した。
乱れた服装を整えながら、再び微笑を顔に浮かべた廣瀬が言う。
「君が生かされているのは、彼女のお陰なんだよ? 僕は本当なら、直ぐにでも君の存在を消してしまいたいほどなんだ」
何事でもないように、恐ろしい事を笑顔で言う。
そして廣瀬なら本当にやるという事を、英樹は知っていた。いや、思い知らされた。
こうして廣瀬が自ら自分に会いに来たと言う事は、英樹にはもう選択肢は無い。
どちらにしろ、自分の存在が邪魔になってきたから、日本から追い出したいのだろう。
ここで廣瀬の提案を選んでも選ばなくても、きっと遠からずどこかに追いやられる。
英樹は奥歯を噛みしめながら、廣瀬からチケットを奪い取った。
「・・・賢い選択だね。さぁ、特に準備も必要ないだろう。車を用意してあるから、今すぐ空港に行くと良いよ」
初めから、英樹が断らないと読んだ上で全ての準備を整えてくる。
こうやって、いつもこいつの手のひらの上で踊らされ、気が付けば自分の人生をさえ操られている。
・・・ぜってぇ、戻って来てやる。
英樹は心の中でそう強く決めると、廣瀬に何も言わずに用意されていた車に乗り込んだ。
走り去る車を見送りながら、廣瀬は嬉しそうに独りごちる。
「さよなら、英樹君。君の役目は、もう終わりだ」
廣瀬は最愛の妻を思い浮かべながら、喧噪の中ひっそりと笑った。
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