鳥かごと首輪

角井まる子

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廣瀬陽斗という男

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エハラ工業は、主にアルミ素材の開発や製造、加工販売を行っている企業である。
業界の中でも歴史ある老舗企業だが、長らくの経営不振に一時期買収の話も出ていた。
だが数年前に独自開発した素材が起死回生となり、以来ここ数年は安定した経常利益を出している。

その業績好調を受けて、エハラ工業の東京本社は最近出来た都内の高層ビルへと移転させていた。

新年度が始まって一ヶ月半。
経理部にとっては死闘となる決算時期が終わり、6月末の株主総会へ向けて忙しくなる前の束の間の休息期間だ。
だがこの日の朝は、普段とは違う空気が経理部に満ちていた。

半月ほど前に配属されたばかりの新入社員は、いつもとは違う職場の雰囲気を不思議に思い、隣に座る先輩社員に声を掛けた。

「あ、あの~先輩、何かあったんですか?」
「・・・何もなくはないが仕事に集中しろ」

何故かコソコソ声でよく分からない返事が返ってくる。
普段であれば偉そうに椅子にふんぞり返って、やれ新人はあの本を読めだとか大学で学ぶ簿記なんて経理じゃないだとか勝手に話し掛けてくるのに、今日はしきりに入口の方を確認してはソワソワしている。
隣の先輩だけでなく、2人の新人を除く全社員が無駄口も叩かず緊張した面持ちでパソコンの画面と睨み合っていた。
朝のこの時間、部長が出社するまでの1時間弱は、いつもであればコーヒーでも飲みながら昨晩のテレビや野球の試合についてなど他愛ない会話が飛び交っている。
勿論仕事しながらではあるが、こんなに張り詰めた空気は入社以来始めてだ。
訳の分からない新人二人は、とりあえず言われた通り黙って仕事をすることにした。

「・・・いいか、部長に余計な事言うなよ」
「余計な事って何ですか?」
「いいから黙って仕事をしろ」

念押しのように隣の先輩が囁く。
部長が何か関係あるのだろうか?・・・あのほんわりと穏やかな部長が一体どうしたというのだろうか。
何も理由が思い浮かばず、ますます疑問を感じながらも作業を始めようとした時、部署の入口のドアが開く音がした。
皆の視線が一斉に扉へと向けられる。

現れたのは廣瀬部長だった。
今日もビシっとスーツを着こなし、柔らかい微笑みを湛えている。

「皆さん、おはようございます」

優しい声が部屋に響く。
一瞬部屋の空気が固まったのは気のせいだろうか。
隣の先輩に脅されて若干身構えていたが、いつもより早い出社というのを除けば特に変わりはない。
みな廣瀬部長の顔色を窺うようにそっとデスクから顔を覗かせ、おはようございますと返事を返す。

「どうしたのですか、皆さん。今日はやけに静かですね。・・・あぁ、私が珍しく早いから、皆さん驚いてるのかな?昨日は巨人が惜しい試合をしましたね。朝のお茶タイムを邪魔してすみません」

にこにこと、自分のデスクに向かいながら軽い冗談を言う。いつも野球の話をしている40代の男性社員は「いえそんな」と緊張した声で返事をした。
それでもやはり変わらない部屋の空気に、廣瀬部長はちょっと困った顔で笑いながら言う。

「社長秘書から急遽書類を作って欲しいと連絡がありまして。書類はほぼ出来てますし、少し手直しして渡すだけなので。・・・ただ、妻の世話の途中で抜けてきましたので、すみませんがお昼は早めに帰らせて頂きますね」

廣瀬部長の奥様は噂では重い病気を患っていて、そのお世話を部長が付きっきりでされているらしい。
部長の愛妻家ぶりは社内でも有名だ。
社員はみな「もちろんです、どうぞどうぞ」と頷いている。
廣瀬部長はその様子に「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に、皆の緊張はすこし解れたようだった。
―――が、それも束の間、数分後経理部の扉がココンッと激しく叩かれる。

「失礼。秘書室の河辺ですが。広瀬部長は来てらっしゃるわよね?」

皆の視線が再び入り口へと集まる。
社長付秘書の中でも一番口煩く、また社内でも屈指の美人と言われる河辺美月が立っていた。
彼女の発するピリリとした威圧感だろうか。部署内の緊張が一気に高まるのが分かった。

「河辺さん、おはようございます」

対する廣瀬部長は、にっこりと穏やかに返す。
その笑顔が彼女の怒りに触れたらしく、目尻をキッと吊り上げて室内へ入ってくる。

「廣瀬部長、朝電話でお願いした件は準備して頂けたのかしら?こちらも急いでいるから電話したのに、出社しているなら何故直ぐに連絡下さらないの。社長の予定は経理部と違って分単位で回っているのよ」
「ああ、それは申し訳ありません。手直しが終わり次第ご連絡しようと考えておりました」
「あなた、さっき電話では直ぐに持っていくといってたわよね?だからわざわざ受け取りに来たのに、まさかまだ出来てないの?」
「ご足労頂いたのにすみません。ほぼ出来てますが、数カ所変更する場所がありますので。そこを直し次第すぐに社長室へお持ち致します」
「・・・10分以内に、必ずよ」

カツカツとヒールの音を響かせ、コロンの香りを振りまきながら彼女は出て行った。
室内はシーンと静まりかえっている。
廣瀬部長ただ一人が、いつものように平然と微笑んでいた。

「ぶ、部長、申し訳ありません。朝からしつこくて・・・何度もこちらから連絡すると申したのですが・・・まさかここまで来るなんて・・・」

廣瀬部長の前のデスクに座る山田さんが、恐る恐るといった感じで言い出す。
朝から良く鳴ってた電話は彼女からだったらしい。

「ええ、分かってます。随分急いでいるようなので、私は早急にこれを作って持って行く事にしますね。・・・少し社長ともお話しがあるので、山田さん、ミーティングはお願いしてもいいですか?」
「は、はい。かしこまりました」

数分後、書類を揃え終えた廣瀬部長はにこにこと社長室へと向かっていった。
部長が居なくなると、張り詰めていた空気が一気に解ける。息を押さえ込んでいたかのような疲労感がある。

「彼女、河辺さん。相変わらず強烈ですね~」

反対側に座るもう一人の新人が、場を和ませようとそんな事を言い出す。
だがその言葉に返すものは誰も居ない。

「いやぁ、美人がキレると威圧感バリバリで怖いっすね。自分も怒られないようにしないと」

誰も反応しないので、あははと笑いながら言葉を続ける。
その笑いを遮るように、隣の先輩が神妙な面持ちで言う。

「・・・この会社に残りたかったら、廣瀬部長のプライベートを絶対邪魔するんじゃないぞ。特に奥様については禁句だ。話題にも決して出すな。定時で上がれるこの素晴らしい環境を無くしたくなかったら、部長の指示通りしっかり働く事だ」

今は美人秘書の話をしていたのに、何故廣瀬部長? それに怖さで言ったら、廣瀬部長よりもあの秘書の方が・・・と考える二人であったが、周りの社員も皆うんうんと真剣に頷いてるのを見て、賢い二人はそれ以上疑問を口にせず素直に頷いた。




***




コンコン。
社長室の扉がノックされ、艶やかな黒髪を揺らしながら秘書の河辺が入ってくる。

「江原社長。経理部から書類が届きましたわ。お話しがあるそうなのでこちらにお通ししても宜しいですか?」

・・・経理部?

デスクで書類を眺めていた江原達彦は、訝しげに顔を上げた。

「経理部の誰だ?」
「廣瀬部長です。朝お話ししてた書類を、彼に電話して早急に準備して頂きました。これでこの後の会議にも間に合いますわ」

まさか、と江原は時計を確認した。
普段なら彼はまだ自宅にいる時間である。

「わざわざ彼に電話したのか?」
「そうですわ。会社からも近くに住んでいる事ですし。やはり大まかでも金額が見通せる方が宜しいと思いますので」

彼女の言う書類とは来週の会議に向けて経理部に、というか廣瀬に個人的に頼んでいたものの事だろう。
この後の定例会議で急遽会長が来る事になり、来週会長に見せる予定だったその書類のことをポロっとこぼしてしまったのだ。
彼女はそれをしっかりと聞き取り、会議に間に合うよう書類の手配をしてくれたのだろう。秘書としては非常に優秀な働きをしてくれている。だが今回に限っては問題はそこではない。

「・・・私はそんな指示出していないぞ」
「わたくしには社長が書類を欲しているように思えましたので」
「廣瀬には緊急時以外で勤務時間外に電話をするなと言っただろう」
「会社の方向性を会議する場で必要な書類がある、いち社員にとっては十分な理由ですわ。それに社長は廣瀬部長に少し遠慮しすぎでは? 彼が優秀なのはわたくしも認めますが、奥様の介護か何か知りませんけど普段は社内で一番遅い出社をされているそうではありませんか。たまには少しぐらい早く出社しても問題ないのでは?」
「・・・」
「彼が奥様を養えていられるのもこの会社からお給料を頂戴しているからでしょうに。ならば勤めを果たすのは当然の責務ですわ。部下を大事になさるのは良い事ですが、あまり特定個人ばかり優遇されるのも如何なものかと思いますわ」

彼女は至極真っ当な事を言っている。
しかし何も分かっていない―――何も知らなさすぎる。彼がどういう人物なのか。
江原は眉間の皺に指を添えた。
まだ何か言い出そうとする彼女になんと言おうか迷っていると、社長室の入り口がノックと同時に開かれた。

「おはようございます、江原社長。お話し中申し訳御座いません。お急ぎとの事で書類を持ってきたのですが、なかなか中に呼ばれなかったので・・・」

申し訳なさそうに言いながら、いつもの微笑みを湛えた廣瀬が入ってくる。
長年の付き合いである江原には、背筋にぞっと冷たいものが走るのを感じた。
廣瀬を呼び寄せた張本人の河辺は、取り繕うように「ああそうでしたわ」と言って彼から書類を受け取ると私のデスクに持って来る。

「お茶をお持ちしましょうか?」
「いいえ、結構です。すぐに終わりますので」

彼女は私に声をかけたつもりなのだろうが、それを遮るように廣瀬が言う。
河辺は『あなたには聞いてないのよ』とでも言いたげな表情で廣瀬に鋭い視線を送っている。

「・・・いいから、河辺、下がれ」

彼女は今度は私に物言いたげな視線を送ってくる。
それを無視して「外で待っていろ」と強い口調で振り払う。
―――廣瀬の無言の圧力から、早く逃れたい一心だった。
不満を顔にありありと出しながら――最後に入り口で笑顔で佇む廣瀬をひと睨みして――彼女はやっと社長室から出て行った。

「・・・・・」
「・・・・・」

廣瀬はいつものように微笑んでいるだけだ。
しかしその笑顔には様々な意味が込められているのを江原は知っている。

「・・・悪かった」

いたたまれない気持ちになり、江原が苦しげに言う。
廣瀬はにっこりと微笑み返すと、ゆっくりデスクに近付いてくる。

「彼女はとても優秀ですね」
「・・・ああ。機転が利くし細やかな配慮も出来る。少しキツい所もあるが、他の秘書達にも慕われている」
「そうでしょうね」

廣瀬は江原を素通りし、デスクの後ろに広がる大きなガラス窓から外を眺める。

「彼女が私に電話を掛けてきたのも、これで3回目でしたね」
「・・・二度としないよう、強く言い聞かせる」
「ええ、ですがもう結構です」

窓の外を眺めたまま、廣瀬は穏やかに、しかしきっぱりと言い放つ。
またか――江原は過去何度も聞いたこの言葉に、やっぱりという思いを感じながらも諦め切れなかった。
やっと信用できる優秀な秘書を見付けたのだ。このまま手放すには惜しい人材だ。
だが、しかし、と江原は懇願するように声を掛けるが、廣瀬は見向きもしない。

「・・・・・・分かった」
「分かって頂けたなら良かったです」

嫌々ながらも江原が呟くと、嬉しそうな笑顔で振り向き満足そうに頷く。
その廣瀬の笑顔に、江原の胸には薄黒い感情が広がるが、それが言葉となって出る前に心に蓋をする。

「それでは、私は仕事に戻りますね。・・・次の秘書には、同じ過ちを繰り返さぬようしっかり言い聞かせて下さいね。私との約束を、お忘れなく」
「ああ。分かっている」

廣瀬は私の顔を興味深そうに眺めながら、楽しげに目尻を下げて笑う。

「あなたのそんな顔、久々に見ました。では、失礼しますね」
「・・・」

隠し切れたと思った一瞬の感情を読み取られ、思わず悪寒が走る。
あまり感情を表に出さない江原だが、廣瀬にはどんなに取り繕っても必ず見破られてしまう。
あの笑顔の下で、一体なにを考えているのか全く読めない。
そしてなにより他者を動かすのが恐ろしく上手い。
本人も周りもそれと気付かぬうちに、廣瀬の思惑に絡め取られている。
そうだと気が付いた時には、既にどうにも出来ない状態になっているのだ。
そう、今の自分のように。

その廣瀬が唯一執着している、彼の妻。
廣瀬における、絶対のタブー。
自分のようにもしかしたら彼女も――そう考え、その思考の行き着く先が恐ろしくなった江原はそれ以上考えるのを止めた。

河辺が様子を見に来るまでしばらくの間、江原はぼんやりと放心状態だった。


数週間後、社長秘書として敏腕を振るっていた河辺美月は、経費の不正使用と機密情報漏洩で解雇されたとの噂が社内を駆け巡る。
多くの社員はその噂に驚いたが、唯一経理部の者達だけは驚かなかった。

こうして社内随一の美女として男性社員の憧れでもあった河辺美月の存在は、数ヶ月後には皆の記憶から忘れ去られたのであった。






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