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銃弾と凶刃

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 織田真理を名乗る「誰か」は、凍てつく表情を取り戻した。

「あんたは、誰なんだ……?」

 言わずにはいられなかったが、この言葉が彼女に向けたものかどうかすらが怪しい。

「さあ、誰なんでしょうね、わたしは」

 目の前の女は性別以外何もかもが不詳だ。「織田」も「真理」も誰かからの借り物。いると言っていた子供も実際にはいない。そして歌舞伎町で裏社会の勢力と結びついている。どうやら俺はとんでもないバケモノと交わってしまったようだ。

 どちらにしても、この女を倒さなければ未来はない。

 目玉は動かさずに、周囲を観察する。二人いる同僚の頭蓋に突き刺さったシースナイフ。あれなら武器にはなるだろう。問題はそれを回収する前に撃たれる可能性が高いことだが。

 銃口はこちらへ向けられている。彼女が引き金に力を入れれば、全てはゲームオーバーとなる。理不尽だが、それが現実だ。

 さて、どうする。このままだと本当にさっきの話が冥途の土産になるところだが。

 と、その時――

「うあああああ!」

 死んだと思っていた男性の同僚が起き上がり、スパナを片手に殴りかかる。工具箱から探し出してきたようだ。武器を取得後には隙を見せるまで死んだフリでもしていたか。

 だが――

 何度聞いても、顔を顰めずにはいられないほどの音が響き渡る。

 轟音とともに、同僚の体が吹っ飛ぶ。その瞬間に、彼はもう死んだと確信した。悲しむべきなのだろうが、生死が懸かっているせいか動揺している余裕などなく、悲鳴も上げずにそのさまを見ていた。動かなくなった肉塊が無機質なフロアにドサリと落ちる。いくつもの穴が穿たれた肉体からはかすかに白い煙が上がっていた。

 震える脚を叱りつけ、唇を噛んで自分に喝を入れる。

 亡くなった彼にとっては最悪の事態だろうが、皮肉にもわずかな隙が出来た。すかさず銃口とは反対方向へと駆ける。射線から逃れるとともに、引くほど大きな銃声が背後を追いかけてくる。銃弾が誰かに当たったのか、悲鳴とともに血飛沫が飛んできた。だが、いちいち振り向いている場合ではない。

 ありがとう。そして、すまない。君の仇は必ず討つ。不謹慎に聞こえるかもしれないが、俺に出来る精一杯の恩返しはあの狂った女を殺すことだけだ。

 もうもうと立ちこめる煙で黒くなった視界。すでに部屋にはいくつもの死体が転がっている。俺はある死体を目指して走った。

 同僚――ダーツみたいにシースナイフで頭蓋を貫かれた、哀れな犠牲者たち。

 ナイフの突き刺さった死体。駆け寄って、全力で頭部からシースナイフを引き抜く。肉がブチブチと切れる音と嫌な感覚が手に残る。それだけ吐きそうだ。だが泣き言も言っていられない。皮肉なことだが、こういった感覚でさえ生きているからこそ得ることが出来る。

 ナイフを抜くと、分厚いデスクの裏へ飛び込むように隠れた。すかさず匍匐ほふく前進で後方へと下がっていく。轟音。バリケード代わりの机があっという間に穴だらけになる。また悲鳴が上がった。また誰かが死んだ。誰かが死んだ。誰かが死んだ。

 しかし、これからどうする?

 武器を手に入れたはいいが、不用意に近付けば先ほど空中で撃ち落とされた同僚と同じ運命を辿ることになる。彼には申し訳ないが、もう少しマシな死に方をしたい。

 俺はさらに匍匐ほふく前進で固いフロアの上を移動していく。もう誰が生きているのかも分からない。大半の同僚は殺された。日本始まって以来最悪の無差別殺人だろう。

 気が狂いそうな状況ではあるものの、逃げ回っている内に分かったこともある。それは、ショットガンは一発撃つごとに弾をリロードしているらしいということだ。たしかにゲームで出てくるショットガンもそんな仕様だった気がする。情報としてはかなり心もとないが。

 ということは、だ。もし俺が反撃の刃を喰らわせることが出来るとすれば、チャンスはそのリロードの瞬間しかないのではないか。

 彼女がシースナイフ以外にも武器を隠し持っている可能性はある。だが、ショットガンの反動は素人目に見てもかなりありそうだった。ホイホイと簡単に使う武器を変えられるとは思えない。

 ――無駄撃ちさせて、その隙を突く。

 リアルに彼女を倒す方法は、それぐらいしか思いつかない。というか、それ以外で立ち向かえばハチの巣にされて終わりだろう。残念ながら現実にはリセットボタンもタイムリープも存在しない。

 いいだろう。最後の賭けだ。ワークデスクに隠れながら、周囲を見渡す。少し前までは生きていた人たち。まるで、戦場のような光景だった。教えてくれ。一体何が起きているんだ……。

 銃声が響き、また誰かが死ぬ。感傷に浸っている場合ではない。あのイカレた女を止めるには殺すしかない。

 バカになった耳をフルに使い、銃声の聞こえる方向からおおよその距離を見積もる。銃弾は十分に届くが、ナイフで突き刺すには遠すぎる。どうする。さて、どうする。

 ふとハチの巣になった同僚の死体を見やった。咄嗟にある考えを思いつく。死体のポケットからスマホを拝借する。亡くなった同僚の親指をホームボタンに押し付けると、ロックが解除された。

 ワークデスクに背を預けながら、ふうと一息つく。少ししたら、あの女に奇襲を仕掛ける。

 陳腐なやり方だが、これ以外にあの女を出し抜く方法は思いつかない。

 匍匐ほふくで机の下を移動していく。あと少し。あと少しの時間があれば。

「童夢さん。いるのは分かっています。潔く出てくるべきじゃないでしょうか」

 フロアに悪魔の声が響く。織田真理は俺を殺したくて仕方がないようだった。

 おそらく俺以外の同僚は全て殺された。少なくともこの部屋で動いている人間はいない。どこもかしこも死体だらけだ。さっき撃たれた奴が最後の生き残りだったか。もはや悲鳴も息遣いも聞こえてこない。

 織田真理はあちこちへデタラメに散弾銃を撃ち込んでいく。轟音とともに、ビリビリと空気が震える。鼓膜はすでにバカになっている。だが、それはきっと彼女も同じ。

 頼む、上手くいってくれ。

 その時、不用意にも隠れていたデスクの天板に頭をぶつけた。向こうで織田真理が邪悪な笑みを浮かべるのが見えるようだった。

 ――ははあ、そこにいたんですね?

 俺の脳内で彼女の声が響く。つまるところ、妄想だ。だが、きっとそう言ったに違いないという確信はあった。

「このクソ女が!」

 罵る俺の声。言ってみれば、ただの負け惜しみ。

 黙れとばかりに、すかさず声のした方へ散弾が吐き出される。轟音――激しい音とともに、ワークデスクが紙細工のように破壊される。

 転がる死体。穴がいくつも空いている。

 彼女が勝ち誇った笑みを浮かべたその刹那、俺は机の下から飛び出した。驚愕に目を見開く悪魔の首へ、シースナイフを一気に突き刺した。

「な……」

 切り裂かれた頸動脈から血が噴き出す。

 なんで、と彼女は言いたかったのだろう。

 先ほど彼女を罵った声は、確かに俺のものだった。だがそれは、銃声の響くわずかな間に俺の録音した悪罵だった。

 はじめに何も喋らず、銃声が聞こえた時に銃声に「このクソ女が!」と吹き込んだ。後は俺とは離れた場所にスマホを置いて、音量を最大にしてから再生するだけで良かった。

 無音の時間がしばらく続き、掻き消された悪罵は彼女の注意を引くことに成功した。スマホは銃弾に破壊されつくしたが、チャンスはたった一度で十分だった。

 加えてワークデスクの向こう側にはすでに射殺された死体があった。これだけ混乱している状況で、穴だらけの死体が俺ではないという判断を瞬時に下すのは無理がある。

 全て即興でこねくり回した作戦通りだった。一見陳腐な作戦でも、即座の確認が困難なことから彼女はものの見事に引っかかった。

 すっかり俺を仕留めたつもりだった彼女はショットガンのリロードを怠り、その間に俺の反撃を受けることとなった。いかにも彼女らしい傲慢さが招いた敗北だ。

 まともに闘えば俺に勝ち目はなかっただろう。だが、結局は敵の油断を突いた俺が勝利した。俺はこの好機を逃そうとは思わない。

「うわあああああああああああ!」

 俺は叫びながら、かつて愛した同僚を滅多刺しにした。強い憎しみがあったわけではない。たとえ梨乃ちゃんを殺したのが彼女だとしてもだ。

 強いて言うなら、俺はただ生きるのに必死なだけだった。死にたくない。やらなければやられる。それだけの思いが、ただ俺をここまで突き動かしていた。

 何度も刺された彼女の目から狂暴な光が消え失せ、小さな体は無機質な床へと崩れ落ちた。仰向けになり、茫洋とした目で天井を見つめる彼女。極端な三白眼であった双眸が可憐な目つきへと変わっていく。かつて愛した、聖母の眼差し。

 床には同心円状の血だまりが広がっていく。どう考えても彼女は助かりそうになかった。

 終わった。ようやく終わったのだ。だが、生き残った嬉しさや安堵はなかった。残ったのは、表現のしようのない悲しみと喪失感。そして、ただただ現実感のない、死に満ちた景色だけだった。このまま燃え続ける火が惨劇の起こった会社ごと俺たちを焼き尽くしてくれればいいのに。

 パキンと、俺だけに聞こえる音がした。

 この胸の中で、何かが死んだ。それが何かは知らないが、人として持っていないといけない何かが、自分から欠落していった感覚を覚えた。そして、それが二度と俺の手には戻らないであろうことも。

 燃え盛る部屋を眺める。これが、俺の見たかった光景なのか。

 目の前に広がる地獄絵図。その先にあるのは、炎と煙、銃弾で破壊しつくされたオフィスに、見る影もないほどに損壊した死体、死体、そして死体。そこにはひたすら現実感がなく、何か悪い夢でも見ているのではないかと思った。

 防御反応なのか、それとも俺の心が完全に壊れたのかは知らないが、目の前の地獄絵図がただただ他人事ひとごとのように映っていた。

 織田真理……と名乗っていた女が血を吐く。彼女はまだ生きていた。吐いた血が自分の顔にかかって、美しい顔は血染めになった。

 その目は虚ろで、天井というよりはどこか遠くを見ているようだった。物理的に俺の姿が見えているかも怪しい。

「終わったな。君も、俺も……」

 誰にともなく、呟くように言った。どちらかと言えば自分に対して呟いた趣きが強いのかもしれない。

 生き残ったとはいえ、この凄惨な事件は今までにないほどの議論と好奇の目、そして世界中からの誹謗中傷を集めるだろう。それはアホな俺でも分かる。自意識や自己顕示欲の肥大していた昔でさえ、そのような形で有名になりたいと思ったことはない。

 なあ、これから俺はどうやって生きていけばいいんだ。

 梨乃ちゃんも狩野も、ここで一緒に働いた同僚たちも漏れなく死んでしまった。正真正銘の一人ぼっちだ。特大のトラウマを抱えて、途轍もない罪悪感を十字架のように抱えて、これから何を支えに生きていけっていうんだ。分からねえ。分からねえよ……。

「……し、た……」

「うん?」

 途方に暮れる俺の傍で、虫の息となった織田真理が最後の力を振り絞って何かを伝えようとしていた。
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