罪荷を捨てた夫婦の話

六十月菖菊

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罪荷を捨てた夫婦の話

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 暗闇の中に何か居る。
 だから私は声を掛けた。

「こんばんは」

 真夜中だから、小声で。
 すると、影を纏ったその人は、真っ直ぐに私に飛び付いて押し倒して、首に冷たい何かを押し付けた。

「動くな」

 囁く声もひんやりしていて心地が良い。
 だから、言われるままに大人しくしていた。

「とある御方より、お前を殺害するよう承った」
「まあ、そうなんですね」

 それはご苦労なことだ。

「お仕事なのですね」
「そうだ。恨むなよ」
「大丈夫です。どうぞ遂行されてください」

 そう言って、今か今かと死の瞬間を待ち侘びたのだけれど、一向に痛みはやって来ない。
 おや、どうしたことだろうと目を凝らす。

「……本当に、殺されていいのか」
「ええ?」

 可笑しなことを言う人だ。

「私を殺さないと、依頼主様に怒られてしまうのでしょう? それはいけません。私のせいで、怒られてしまうだなんて」

 だから。だから、ほら。

「早く殺してくださいな、あなた」

 聞き間違えることの無い声の主である、夫に向けてそう促した。








 物心ついた時から、私の世界は小さかった。
 四角い箱の中、物を書くための机と椅子、寝るためのベッド。
 でも、それだけあれば、私は生きていられた。

「…………」

 不機嫌そうに、私を睨み付けている人が居る。
 だから私は、声を掛けた。

「ごきげんよう」
「ふん」

 鼻を鳴らしてそっぽを向かれてしまった。
 嫌われたのなら仕方がない。
 私は直ぐに気持ちを切り替えて、手にしていた本に目を落とした。
 しかし。

「あ」

 睨む人が、私から本を奪ってグチャグチャにしてしまった。
 読めなくなってしまった。可哀想だが、仕方がない。
 次に勉強をしてみることにした。

「あ」

 まただ。
 今度は書いていたペンを遠くに投げ捨てられてしまった。
 教本とノートは、先程の本と同じ末路を辿った。

「…………」

 こうなると、他にすることが何一つ無い。
 ああ、そうでもないか。
 思い至って私は彼を見上げた。
 不遜な目付きは相変わらずだ。

「……何を見ている」

 じっと見つめていれば、更に目を鋭くして睨んで来る。
 うーむ、これも不正解か。
 答えに辿り着けそうにないと判断を下し、私は仕方なく目を閉じた。忽ち世界は闇に落ちる。

「おい」
「はい」

 肩を揺すぶられ、私は目を閉じたまま返事をした。
 しかし、やはり何か気に食わなかったようだ。

 ────パシン。

 乾いた音がして、目を開けた。
 少し遅れて頬がチリチリと痛み出す。

「なんと不敬な。会話の途中で目を閉じるとは」
「申し訳ございません」

 あれ。会話していたっけ、私たち。

「ふん、まあいい。今日からお前は俺の妻になる。さっさと支度をしろ」
「まあ」

 瞼が幾度も瞬く。

「私を妻に?」
「そうだ、何度も言わせるな」

 始終ずっと不機嫌なその人に急かされて、私はずっと暮らしてきた箱の中から、外の世界へと出た。




「おい」

 あの人の声がする。
 振り向いてみると、いつも通りの不機嫌なお顔で私を見ていた。

「どこへ行く」
「お庭に」
「馬鹿者、傘もささずに出るな」

 渡されたのは、鮮やかなオレンジ色をした傘。

「ありがとうございます。後でお返しします」
「要らん」

 即座に言い捨てて、どこかへ行ってしまった。
 いつものことだ。引き止めずに、ありがたく傘を開いた。



 オルテンシアの花が咲いている。
 土の性質で色が変わるそれは、赤色から青色まで多種多様に庭を染め上げている。私は、この花が大好きだった。
 ぽたぽたと、傘に当たって跳ねる雨の音を聞きながら、ゆっくりと庭を見て回る。

「?」

 不意に視線を感じて、背後にある建物の2階の方へと目を向けた。
 とは言っても、あまり目は良くないので何も分からなかったのだけれど。





 ここに来てからも、外へ出ようとは思わなかった。
 興味というものがまるで無い。庭の植物だけが、お気に入りだった。

「おい」

 あの人が呼んでいる。

「相手をしろ」

 珍しく部屋に呼ばれて、ボードゲームをした。

「下手くそだな」

 いつもひん曲がっている口の端が、緩くなっていた。


 あ、だめだ。
 その瞬間、私は落ちた。
 呆気もなく、簡単に、コロッと。

 ────この人に恋をしてしまった。





 あの人のために何ができるだろう。
 足りない頭を使って、散々考え倒した。

 財産は、既に有り余るほどある。
 地位は、昔ながら続く由緒正しき高貴な家系なので無意味。
 名誉……そうか、名誉だ。
 あの人はとても素晴らしい人だから、もっともっと讃えられなくてはならない。
 あの人の手柄になりたい。
 どうしたらなれるかな。
 どうしたら、あの人の役に立てるのだろう。




 やれるところから始めてみることにした。
 まずは伝記だ。遠い将来、あの人が多くの人に讃えられるよう、書き残さなくては。
 そう気合を入れて書いていたら、気付けば3冊分も書き上げていた。我ながら恐ろしい。

 次に証拠だ。嘘偽りでないことを証明するための物的証拠が、この伝記には必要である。

「旦那様についての情報収集? いいよいいよ、面白そうだし!」

 私が懇意にしている、赤いカチューシャを着けた情報屋のヴェリタは、目を輝かせて快く了解してくれた。
 おかげでたくさんの書類が用意できた。出版会社に出す日も近いかもしれない。



 ああ、でも。
 ペンを握っていた手がふと止まる。

「あの人は、喜ぶの?」

 気が付いてしまうと、あとはどうしようもなかった。



 折角書いたので捨てるのは勿体なく、掻き集めた書類と共に厳重に封印した。
 とんでもない失落感に苛まれてしまったが、書いている間はとても充実していたので、まあ良しとする。

「……おい」

 だらんと横たわっていたら、不思議な様子のあの人に声を掛けられた。

「……どうした」

 まるで気遣うように頭を撫でられて、思わず泣いてしまった。


 ────好きだなぁって、何ともなしに思った。





 泣いたのは、あれきりで。
 それからはいつも通り、変わらない日々を送っていた。
 あの人はいつも通り不機嫌だったし。
 私もいつも通り、幸せだった。




 転機は書いた字が如く、転がり込んでくるもの。
 転がる、と言うのはさすがに比喩でしかないけれど。
 久々に、あの人のためにできそうなことを思い付いたのだ。
 思い立った私は、直ぐに習い事を始めた。

「初めまして。講師のヴィルトゥです」
「よろしくお願いいたします」

 金茶色の髪を三つ編みにした、黒縁眼鏡の女性講師。
 無表情に近いけれど、口調は柔らかで親しみやすかった。

「奥様はコツを掴むのがお上手ですね。これなら、直ぐに次の曲に取り掛かれます」
「ありがとうございます」

 褒められるたびに、あの人が喜んでくれそうな気がして嬉しかった。

 上流階級の人たちは音楽を娯楽として嗜むと聞いていたから、習得すればきっと喜んでもらえると思った。
 歌うのは恥ずかしいから、ピアノを選んだ。
 気が付けばとても上達していて、講師が一番難しいと言っていた曲もマスターした。

「ありがとうございます、先生」
「お力になれて何よりです」

 最終日の受講に見た彼女の笑みは、慈愛に満ち溢れていた。



 さて、肝心のあの人をどうやって誘おうか。
 弾く曲も既に選んでいて、あとは呼びに行くだけなのだが、情けないことに私の足は竦んでしまっていた。

「そうだ、手紙を書こう」

 便箋を取り出して、日付と時間、場所を書いていく。
 最後に「ピアノの演奏会をいたします。お時間の都合がよろしければ、おいでください」と書き記し、あの人が居ないのを見計らって、執務室のドアノブに紐で括りつけた。



 しかし、結局あの人は来なかった。
 仕方がないので、予定通りにピアノを弾いた。
 初めは悲しかったけれど、演奏しているうちにどうでも良くなってきて、最後には楽しく鍵盤を弾いていた。

「……ふふっ、あはははははっ」

 演奏し終えると、とても自然な笑い声が漏れた。そのまま感情に任せて上機嫌に笑っていたら、ゴン! という音が扉から聞こえてきた。
 ビックリして、恐る恐る扉に近付いて開いてみたけれど、何も無かった。
 ただ、慌てて走り去っていく足音だけは拾うことができた。
 たぶん、使用人の誰かが私の笑い声を聞いてビックリして、扉に頭をぶつけてしまったんだ。それで恥ずかしくなって逃げたに違いない。何だか申し訳ないことをした。










 ……と、まあ。
 死を目前にして、私は走馬灯を観ていたのだけれど。

「あなた?」

 最愛の人が、私の首に当てていたナイフを放り投げてしまった。
 どうしたのだろう。殺害方法を変えるのだろうか?

「……ルーチェ」
「!」

 いきなり聞こえてきた名前に仰天する。
 私の名前、まだ覚えていてくれたのか。

「チヴェッタさま……?」

 反射的に名前を呼び返すと、何かがポタリと落ちてきた。



 知っていた。知っていたとも。
 初めに用意されていた箱が、牢獄であることも。
 我が一族が、国に謀反を起して皆殺しになっていたことも。
 監視するためだけに、私の夫としてあの人が宛てがわれていたことも。

 その上で恋をした。その上で愛を抱いた。
 愛したその人の手で死ねるのなら、私の最期はそれで構わなかったのに。



「あなたは卑怯です」

 気付けば詰っていた。

「あなたのために、取っておいた命なのに」

 こうも容易く、拾われてしまうとは。
 私を殺すように王命を賜ったのに殺せなかった、愚かで憐れな人。
 名誉欲しさに恥を偲んで、罪人の私を娶ったくせに、結局殺せないなんて。

 ────本当に、莫迦な人。








「おい」
「はい」

 呼ばれて振り返ると、泣きそうな顔をしたあの人が居る。

「急いで歩くな。転んだらどうする。いつも言っているのに、何故言うことを聞かない?」
「だってあなた、こんなに綺麗なところなんですよ」

 光を受けてキラキラと光る水面をうっとりと眺めた。

「ヴィツィオが釣りのできる場所を教えてくれたんです。お昼ご飯を食べた後に行きましょう?」

 掴んでくれない手をこちらから掴みに行くと、チヴェッタさまのお顔が茹でダコになってしまった。
 夫婦としてやるべきことを何一つしてこなかった、不真面目で誠実なこの人を虐めるのは中々に楽しい。










 私を殺せなかった彼は、国に背いたことになる。
 そうなれば我が一族と同様に殺されてしまうだろう。
 だからあの夜、私が自殺して彼が殺したことにしようと提案したのだが、頑なに首肯しなかった。

「────旦那様も奥様もアッタマ悪いですねぇ! 逃げちゃえば良いんですよ、逃げちゃえば!」

 そんな最中に部屋に押し入ったのは我が家の使用人、青い髪のヴィツィオだった。

「無理よ、捕まるわ」
「お金を弾んでくれれば、確実に国外に逃してあげられますけど?」

 親指と人差し指で丸を作り、ニヤニヤと軽薄に嗤う。
 そんな彼女の言葉は到底信用できなかった。

 しかし、何故か後からやって来たヴェリタとヴィルトゥが保証するとか言い出したので、半信半疑ながらとりあえず従ったのである。

 結果として、私たちは無事に逃げることができた。
 ヴィツィオが荷馬車に私たちを詰め込み、国の外へ通じる門を、有名な商家の養女という理由だけで、なんと検問も無しに顔パスで通り抜けたのである。何とも呆気なかった。

「アッハハハハハハ! なあ、簡単だっただろう?」

 ゲラゲラと嗤いながら荷馬車を飛ばすヴィツィオはとても機嫌が良さそうだった。






「チヴェッタさま」
「なんだ」
「私のこと好きですか?」
「…………そうでなければ、ここに居ない」
「そうですか」
「……お前はどうなんだ」
「あらやだ、ご存知ない?」

 ふふふっと、子どものように悪戯っぽく笑って誤魔化してやった。
 こっそり見たり聞いたりするだけで、想いを伝えてくれなかった薄情者への、せめてもの意趣返しである。

「…………」

 するりと、手を取られた。
 かつて頭を撫でてくれたあの日のように、恐る恐るといった様子で、手の甲に口付ける。
 そして、私の目を覗き込むのだ。許しを乞う罪人のように。

「………………ルーチェ、好きだ」

 ああやだ、本当に卑怯だこの人!
 私が喜ぶことを無意識にやってしまう!
 なんてタチの悪い!

 私は興奮のあまりワナワナと身体を震わせて、陳腐な愛の言葉を叫んだ。




「────私も好きです!」
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