お時間ありますか

村井 彰

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お時間ありますか

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「今、お時間ありますか」
 ふいに聞こえた声に、辺りを見回す。隣にはいつの間に現れたのか女が一人。彼女と自分以外、周囲に人影はない。どうやら女は俺に話しかけているようだった。
「今、お時間ありますか」
 返事をしないでいると、女がまた先ほどと同じ言葉を繰り返した。グレーというより鼠色といった方がしっくりくるような、くすんだ色のブラウス。くるぶしまで隠れる長さの、野暮ったい黒色のスカート。背中にかかるほど伸ばした髪は、今まで一度も櫛を通したことがないのではないかというほど酷く絡まって、血色の悪いその顔のほとんどを覆い隠してしまっている。やかましい音楽の流れるCDショップの店内で、その女の周囲だけが、まるで何処か別の場所から切り取ってきたかのように浮いていた。
「あー……すみません、このあと友達と待ち合わせしてるんで」
 嘘だ、別に待ち合わせなんてしていない。しかし、だからといって、こんな小汚い女に構ってやるほど暇を持て余しているわけでもなかった。
 素っ気ない対応に女は特に気を悪くした様子もなく、「そうですか」と抑揚のない声で言って、ふらふらとその場を去っていった。まったく何だっていうんだ。どうせ怪しげな宗教の勧誘やマルチ商法の類だろうが、あんな露骨に胡散臭い女に声をかけられて着いて行くやつなんているんだろうか。
 とはいえ、こんな出来事は街中ではたいして珍しくもない。当然のごとく、数日も経つ頃には女のことなど、すっかり忘れてしまっていた。

「今、お時間ありますか」
 再びその言葉を聞いたのは、それから二週間ほど過ぎた後のことだ。以前声をかけられた店からは少し離れた大通りのまんなかで、どこかで聞いたような声に驚いて思わず足を止めてしまった。
 振り向いた先にいたのは、前と同じ色彩のない服を着た、あの女だった。この辺りで手当り次第に声をかけているのだろう。だとしたら一度断られた相手の顔などいちいち覚えていなくても無理はないが、こう何度も呼び止められては、こちらとしてはたまったものではない。
「いや、ちょっと今急いでるんで」
 ちなみに今回は本当だ。これからアルバイトに向かうところなのだが、あまり時間に余裕がなく、次のバスに乗り遅れたら遅刻確定という状況である。こんな女、無視してさっさと行ってしまうべきだった。
「そうですか」
 苛立ちから、自分でもはっきりそうと分かるほど刺々しい口調になってしまったが、やはり女は気に留める様子もなく、あっという間に人混みの中へと消えていった。
「なんなんだよ……」
 何度も声をかけてくるわりには、断られればあっさり去っていく。何がしたいのかさっぱりわからない。
「あ、やべ。こんなことしてる場合じゃないんだった」
 その後、慌ててバス停まで走ったものの、案の定目の前で乗る予定だったバスに行かれてしまいバイトには見事に遅刻した。シフトの間中ネチネチと店長に嫌味を言われ続け、気分は最悪だった。くそ、ふざけやがって。全部あの女のせいだ。二度と関わり合いになるものか。
 そう決意したものの、さすがにもう会うことはないだろうと思っていた。俺だって毎日同じような場所をうろついているわけではない。あの女がどれだけ熱心に声をかけて回っていようが、こんな都会のまんなかで、そうそう同じ人物と顔を合わせることなんて有り得ないはずだ。

 ……そう、有り得ない、はずだったのに。
「なんで、こんなところにいるんだよ……」
 あの女とは二度と関わるまいと決意してから、たった一週間後の夕暮れ時。通い慣れた大学の敷地が夕陽に赤く染められて、辺り一面がまるで燃えているかのようだ。
 そんな焼けつくような景色のなかでただ一人、くすんだ色をまとったあの女が、そこにいた。
「今、お時間ありますか」
 大学の施設は、一般にも一部解放されているため、明らかに部外者である女がここにいること自体は別段おかしなことではない。だが何故、どうしてこの女は、俺の行く先々に現れる。
「……あのさ、アンタなんなの?何がしたいんだ?俺に付きまとわないでくれよ」
 薄ら寒い感情を押し隠すように、女を睨みつける。正直なところ、怖かった。この女が、まともな人間ではないことは明らかだったからだ。
「今、お時間ありますか」
 だが、俺の虚勢など意にも介さず、女は平坦な口調で同じ言葉を繰り返すばかりだった。恐怖を裏返すように、一瞬カッと視界が赤くなる。
「アンタと話す時間なんてねぇよ!さっさと消えろ!」
 衝動のまま女を怒鳴りつけて、すぐに我に返って青ざめた。まずい、下手に刺激して刃物でも振り回されたらどうする。
 しかし、そんな心配は必要なかったらしい。女は冷めた口調で「そうですか」と言い、突然俺に興味をなくしたかのように、ふい、とどこかに行ってしまった。
「気色悪ぃ……」
 女の姿が見えなくなったのを確認して、小声で吐き捨てる。いつもいつも、こちらが拒絶すれば、それ以上食い下がることはしてこない。それが却って不気味だった。
「なあ」
 いきなり、背後から肩に触れるものがあった。口から飛び出しそうになる悲鳴を飲み込んで、振り向きざまにそれを振り払う。あの女が戻ってきたのかと思ったのだ。
 だが、俺の視線の先にあったのはあの女などではなく、驚きに目を丸くしながら手を引っ込める、友人の姿だった。
「あ、悪い……」
 咄嗟に詫びの言葉を口にする。友人は怒るどころか、むしろ心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「いや、こっちこそ脅かしてスマン。つーかお前、大丈夫?なんか顔色やばいけど」
「え?あ……なんつーか、その、変な女に付きまとわれてて」
 一目見てわかるほどには、酷い顔をしていたらしい。友人が困ったように眉をさげた。
「女ぁ?なんだそれ、ストーカーか?警察呼んだ?」
「あ、ああ……いや、たぶん大丈夫……」
 もちろん大丈夫などではないが、なんとなくあの女は警察なんかではどうにもならないのではないか、という予感があった。実際、話しかけてくるばかりで、なにかしらの危害を加えられたわけでもない。警察に相談したとして、せいぜい家の近所を見回ってくれるくらいが関の山だろう。
「大丈夫そうには見えないけど……まあお前がいいって言うならいいけどさ。本気でヤバくなったらちゃんと言えよ」
 そういって、また肩を軽く叩かれる。だが、親切な友人の言葉も、ほとんど俺の耳には届いていなかった。きっと、これで終わりではない。あの女はまた俺の前に現れる。そんな気がしていた。

 やはり、悪い予感ほど当たるものだ。大学で女に遭遇してから三日後の夜。時刻は午後十時を回っていた。あれから極力一人にはならないようにしてきたが、どうしてもバイトの都合がつかず、こんな時間に一人で帰る羽目になってしまった。急ぎ足で自宅であるアパートに向かう帰り道。細い路地の半ばで頼りなく明滅する街灯の下に、あの女がいた。
「今、お時間ありますか」
 冷たい汗が背筋をつたう。迂闊だった。たいした距離ではないから、などと考えずにタクシーを拾うべきだったのだ。わずかな金を惜しんだばかりに、最悪のタイミングで遭遇してしまった。
「今、お時間ありますか」
 女が言い終わる前に、背を向けて駆け出していた。このまま大通りに出て、ネットカフェかファミレスで夜を明かそう。人目のあるところなら、あの女だって何もできないはずだ。それで……夜を明かして、その後はどうする?あの女はきっと何度だって現れる。いや、なんだっていい。とにかく今は、少しでも明るい場所に行きたかった。大丈夫、もうすぐこの薄暗い路地から抜けられる。
「…………え?」
 嫌な気配を感じて、咄嗟に足を止めた。目の前ほんの数メートル先に、あの女がいる。そんな馬鹿な、有り得ない。だって俺は全力で走って逃げてきたのに、あの女は息ひとつ切らしていなかった。ましてこの路地は一本道。先回りすることなんて不可能だ。少なくとも、人間には。
「今、お時間ありますか」
「ひっ……ぁ……」
 女が一歩、こちらに近づいてくる。俺は声にならない悲鳴をあげて逃げ出そうとしたが、足をもつれさせてその場に倒れ込んでしまった。
「今、お時間ありますか」
 その間にも女が一歩、また一歩とこちらに向かって歩みを進めている。絡まりあった長い髪に隠されて、女の顔は見えない。だがこれ以上近づかれたら……女と、目が合ってしまったら。俺は、気が狂ってしまうかもしれない。
「今、お時間ありますか」
 女は壊れたレコーダーのように感情のない声で、何度も何度も同じ言葉を繰り返している。もう、限界だった。
「お、お前に……っ」
 裏返った声で叫ぶ自分を、どこか遠くで見ているような気がした。もしかしたら、俺はとっくに狂っているのかもしれない。
「お前に……っ、お前なんかに関わる時間なんてねぇよ!どっか行ってくれよ!なあ、おい!頼むから……」
 もう、女は目と鼻の先にまで迫っていた。生ぬるい吐息が顔にかかる。ガサガサにひび割れた唇が、まるでなにか別の生き物のようだった。
「頼むから……消えてくれよ……」
 掠れた声で懇願する。女は動かない。どれだけの時間そうしていたのか。数秒か、数時間か。時間の感覚すら失われた異様な空気の中で、俺に覆い被さるようにしていた女が、ふいにぎこちない動きで立ち上がった。
「そうですか」
 それだけを言い残すと、下手くそなあやつり人形のような動きでふらふらと俺の横を通り過ぎ、溶けるように闇の中へと消えていった。
 後に残された俺は、無様に座り込んだまま、その場から一歩も動けずにいた。ストーカー?変質者?そんなんじゃない、あの女は……"アレ"は人間ですらなかった。だって、あの女の眼窩には、何もなかったのだ。……いや、そうじゃない。二つの眼球が収まっているべきその場所には、眼球の代わりに、どこまでも底の見えない闇が凝っていた。
「なんで……なんで俺なんだよ……なんで俺が、こんな目に」
 アレが人間でないのなら、きっとあの時だ。一番初めにアレが声をかけてきた時に、俺が答えてしまったから。だからきっと、目をつけられた。
 アレはまたやってくる。次に出会った時は、殺されるかもしれない。
「ふざけんなよ……」
 このまま黙って殺されてやるのか?ふざけんな。それぐらいなら、俺がー

 這いずるようにして、どうにか自宅まで帰った。築何十年だかのボロアパートの一室。見慣れた自分の部屋の片隅に、あの女が佇んでいる。だが、もう驚きはしなかった。
「今、お時間ありますか」
 これだ。この問いに答えてしまったことが、全ての元凶だった。
「今、お時間ありますか」
 女を無視して台所に向かう。一人暮らしを始めてから自炊をするようになったので、基本的な調理器具は一通りそろっている。
「今、お時間ありますか」
 無言で女に対峙する。手には一本の包丁を握っていた。そう、このまま黙って殺されるくらいなら、俺がこいつを殺してやる。そうすれば、これ以上この女に煩わされることもない。
「今、お時間ありますか」
「……ねぇよ」
 短く答えて包丁を振りかぶる。女はただ、虚ろな眼窩で俺を見つめていた。

 *

「はあ……」
 席について、一人溜息をついた。大学に来るのはずいぶん久しぶりな気がする。実際は数日休んだだけなのだが。
「よお大輝、久しぶり……大丈夫か?」
「ああ、おはよう寛人。うん、まあ。全然大丈夫じゃないよ」
 家に一人でいても落ち込むばかりなので、大学まで来てみたものの、授業に集中できるような気分ではなかった。
「まあそうだよな……この年でダチの葬式なんて、落ち込むよなそりゃ」
 そう、大学を休んでいたのは、友人の葬儀に出席するためだった。ストーカーに悩まされていると言っていたが、まさかこんな事になるなんて。
「本気でヤバくなったら言えって言ったのにな……」
 言われたところで何ができたとも思えないが、それでも、死を選ぶ前に一言くらい相談して欲しかったと、そう思わずにはいられない。
「でもさ、一体何があったんだろうな。包丁で自分の目玉抉り出して死んでたって……普通じゃないだろ、そんなの」
「そう、だよな」
 あいつが死んだと聞かされた時、てっきり例のストーカー女に殺されたのだと思った。だけど実際は、鍵のかかった部屋の中で、自分の手に持った包丁を使って、自ら命を絶ったのだという。その時何が起きたのか、それはもう、あいつにしかわからない。
「つーかさ、大輝聞いた?あいつと同じサークルのやつで、あいつのこと見たやつがいるって」
「……は?なんだよ、それ。幽霊ってこと?さすがに不謹慎だろ」
 あいつが死んで、まだひと月も経っていないのに。
「怒るなよ、俺だって噂で聞いただけだし。たださ、街中で突然、あいつによく似たやつに声をかけられたんだって」
 そこで寛人が言葉を切って、俺の方をちらっと見た。徐々に人が増え始めた講義室の隅に、ほんの一瞬、見慣れた人影がいたような気がした。
「今、お時間ありますか……ってさ」
 再び視線を向けた時には、その人影は、もうどこにもいなかった。
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