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迷宮入り片想い
後日談 雨のち晴れ
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灰色が溶けだして、薄暗く染まった夕暮れ空の下を、私立探偵の花峰遊眞は足早に進んでいた。迷子になったというオウムを探すために隣街まで足を運んでいたせいで、すっかり帰りが遅くなってしまった。今日は夜から豪雨になるという予報が出ているから、その前にうちへ帰りたい。
そう思って急いで来た甲斐あってか、どうにか雨が降り始める前に自宅兼事務所の前まで戻ってこられた。花峰はそのまま事務所への階段を駆け上がろうとして……『OPEN』のプレートが掛けられた扉の前で、ふと歩みを止めた。
花峰が経営する探偵事務所の真下にある、レトロな雰囲気の喫茶店。店主であるあの人は、今日もそこにいるはずだ。
帰る前に、少しだけ挨拶していこうかな。
そう思い立った花峰は、オウムにつつかれてボサボサになった頭を手櫛で軽く整えて、喫茶店の扉に手をかけた。
「いらっしゃい……ああ、あんたか」
「こんにちは、藤堂さん」
入り口のすぐ近くで座席を拭いていた藤堂に声をかけ、客席を見回す。雨の予報のせいか、店内にいる客はひとりだけだった。カウンター席の端っこで頭を抱えている、スポーツ刈りにシンプルな青いTシャツを身につけた青年。なぜだろう、彼の横顔に見覚えがあるような気がするのだが、どこで会ったのだったか。
「……あ、もしかして原田さんですか?」
「おー……探偵のニィちゃんか。久しぶり」
覇気のない表情で振り返ったのは、思った通り、藤堂の元舎弟である原田だった。彼のトレードマークだった、パンチパーマと柄シャツの両方が無くなっているせいで、誰だか分からなかった。
「一体どうしたんですか? その格好……」
「あ? あー……これはな……」
「あんたのとこの助手さんを食事に誘って断られたんだと。『ダサい格好の男はムリ』って」
なにやら愉快げな顔の藤堂が、横から口を挟む。なるほど、いかにも美亜が言いそうなセリフだ。
「それであの格好やめちゃったんですね」
目つきの悪さは変わらないが、こうして普通の格好になると、原田は意外と若いようだった。もしかすると二十代前半くらい……美亜とあまり変わらない年頃なのではないか。
すっきりと刈り上げた頭をガリガリと掻きながら、原田はしかめっ面でこちらに体を向けた。
「よぉ、ニィちゃんからもあの女に言っといてくれよ。あいつ、オレの服がダセェだの、バカはムリだのめちゃくちゃ言いやがって……ぜってぇチョーシに乗ってやがる」
そういうわりに、原田の手元には小学生向けの漢字ドリルがきっちり広げられている。服装の事といい、もしかしなくても、彼なりに美亜に気に入られようと自分を変える努力をしている最中なのだろう。そう思うと、この人相の悪い青年が急に可愛く思えてきた。
「おいコラァ、てめえ何ニヤニヤしてんだ」
「えっ、あ、いや……すみません……」
微笑ましい気持ちで原田を見守っていたら、速攻でガンをつけられた。やっぱり全然可愛くない。
「それより原田、お前コーヒー一杯で何時間居座るつもりだ? いい加減帰れ」
座席を一通り拭き終え、カウンターに戻ってきた藤堂が言う。しかし原田の方に席を立つ気は無さそうだ。
「だってよぉ、事務所でベンキョーしてても誰も付き合ってくれねぇし。永倉さんもメガネのくせにバカだし。だからアニキに教えてもらおうと思って来たんスよ」
「馬鹿はお前もだろうが。仕事中にお前の面倒まで見れるわけねえだろ」
「んじゃ仕事じゃねえ時なら」
「来 る な」
強めに言い切って、藤堂が原田に鋭い視線を向ける。そして腕を組んだまま、窓の外を顎で示した。
「ほら見ろ。くだらねえ事言ってる間に降ってきたぞ」
「え? あ、やべ」
藤堂の視線の先を追って、原田が少し焦った声をあげる。見れば、いつの間にか降り出した雨が、窓の外をしとしとと濡らしていた。予報通りなら、これから夜に向けて、徐々に雨足は強まっていくことだろう。
窓を見つめる花峰の後ろで、原田はカウンターに広げていた漢字ドリルと筆記用具を慌ただしく片付けて、コーヒーの代金をカウンターに置くと、勢いよく席を立った。
「オレ傘持ってきてないんで帰ります! ごちそーさんでしたアニキ!」
「なんで確実に降るって分かってるのに持ってこないんだ、お前は」
藤堂に呆れた声で言われても、原田はまるで気にしていないようだ。「また来ます!」と元気よく言い残して、雨の中を小走りで帰っていく。そうして、カラカラと鳴るドアベルの余韻が消えると、店内は途端に静かになった。
「ええと……藤堂さんと原田さん、仲良いんですね」
「あ? ……まあ、あいつがガキの頃からの付き合いだからな。今もガキみたいなモンだが」
原田が使っていたカップを洗いながら、藤堂は事も無げに答える。
喫茶店を始める前の藤堂がどんな暮らしをしていたのか、花峰は何も知らない。花峰の知らない藤堂を、原田はずっと見てきたんだろう。
羨ましい、なんて。そんな考えても仕方の無いような気持ちが浮かんできて、花峰は慌ててその思考を追い出した。嫉妬なんて馬鹿げている。
そんな花峰の気持ちを見透かした訳ではないだろうが、洗い終えたカップを置いた藤堂が、不意にこう言った。
「少し早いが、今日はもう店じまいにするか。あんたの貸し切りだ」
「え……いいんですか、そんな」
「どのみちあと一時間もせずに閉店だ。この天気じゃ、開けてても誰も来ないだろうからな」
そう言うが早いか、藤堂はさっさと店の扉の方に向かって行ってしまう。ドアプレートを裏返し、扉に鍵をかけて戻ってきた藤堂と向かい合うと、さっきまでのモヤモヤした気持ちが、綺麗に消えていることに気がついた。藤堂と関わるたびに、こんな些細なことで一喜一憂して、自分はなんて単純なんだろう。
「えっと……雨、キツくなってきましたね」
「そうだな」
窓を軽く濡らす程度だった雨足は見る間に強くなり、滝のような雨が窓の外を流れ落ちて景色を歪ませている。花峰の自宅はここの真上だから構わないが、こんな雨の中を帰らなくてはいけない藤堂は大変だ。風も強くなってきたようだし、きっと傘も役に立たない。
その時自分の中に浮かんできた考えに、一瞬で頬が熱くなるのを自覚する。いいんだろうか、そんなこと。でも僕たちはちゃんとお付き合いしてる訳だし、そうじゃなくても、これだけお世話になってる人を豪雨の中帰らせる方がナシだろう。そう、これは別に下心とかじゃないんだ。だから何の問題もない。
必死で自分に言い訳をしながら、言うべき言葉を頭の中で整理していく。よし、言うぞ。
「あ、あの、藤堂さん!」
「ん?」
「その……雨、キツくなってきましたし、帰るの大変じゃないですか? だから、その、良かったらうちに……」
泊まりに来ませんか。と言おうとしたところで、花峰はとんでもない事に気がついて言葉を飲み込んだ。馬鹿か僕は。どうしてこんな重大な問題を忘れていたんだ。浮かれすぎだ。
「うちに……なんだって?」
「す、すみません、やっぱり聞かなかったことにしてください……」
口ごもる花峰を見て何かを察したのか、藤堂の目に少しイジワルそうな光が宿る。
「おいおい、そこまで言いかけといて、やっぱナシってのはあんまりじゃないか? ……泊めてくれるんだろ? あんたの家に」
詰め寄ってきた藤堂に腕を掴まれ、花峰はぎくりと体を強ばらせた。
「あぅ……あの、ひ、人を呼べるような状態じゃなかったのを思い出して……」
「多少散らかってるくらい気にしない」
「いえ、あの、そういう事じゃなくて……」
狼に睨まれたウサギのようにぷるぷると震える花峰をしばらく見つめていた藤堂は、捕まえていた腕を離すと、やや大袈裟にため息を吐いた。
「はあ……そうか、あんたがどうしても嫌だって言うなら仕方ない。豪雨の中、ひとり寂しく帰るしかないな。この風じゃ傘も途中でぶっ壊れるだろうが、それも仕方ない。無理強いする訳にもいかないからなあ」
「うぅ……」
眉をハの字にする花峰を、藤堂はどこか楽しそうな表情で見上げている。からかわれているのだと分かっているが、これ以上の抵抗なんて、できそうもなかった。
「何を見ても笑ったり引いたりしないって約束してくれますか……?」
「それは見た物によるな」
「ひ、ひどい」
情けない声をあげる花峰を見て、ついに藤堂は耐えきれないといった様子で、声をあげて笑い出した。
「ふっ……ははは……っ、ほんとに、あんたは虐め甲斐のある……っ」
ふるふると肩を震わせる藤堂に、対する花峰の顔はどんどん赤くなっていく。
「そ、そんなに笑うことないじゃないですか」
「くく……っ、悪い悪い」
花峰の肩をぽんぽんと叩きながら、まだ笑いの収まらない様子で藤堂が詫びる。あんまり悪いと思ってなさそうだ。
「で? 結局どうするんだ」
「……いいですよ、泊まりに来ても。それで好きなだけ笑ったらいいです」
「拗ねるなよ」
唇を尖らせる花峰の頬を、藤堂の指先がそっと撫でる。たったそれだけの事で機嫌を直してしまいそうになる自分は、やっぱり単純だと思う。
「店じまいするから、ちょっと待ってろ」
「何か手伝いましょうか」
「いい。今日は暇だったからな。すぐに終わる」
そう言って、手際よく作業をこなしていく藤堂の背中を見守る。そうか。今日は店を閉めた後も、ずっと一緒にいられるんだ。
叩きつけるような雨の音を聞きながらも、花峰の心の中は、ずっとずっと晴れやかだった。
︎ ︎☂︎
「どうぞ、藤堂さん」
藤堂にそう声をかけて、花峰は事務所の中へと足を踏み入れた。下の喫茶店からここに上がってくるまで、ほんの数秒だったというのに、既に二人ともびしょ濡れだ。
タオルと着替えを藤堂に渡そうと、事務所奥にある自室の扉に手をかけて……花峰はそっと藤堂の方を振り返った。
「なんだ?」
「……いえ、どうぞ入ってください」
そう言った花峰の背中越しに、藤堂は部屋の中を覗き込んでくる。笑われることを覚悟した花峰の横で、意外にも藤堂は真顔のままだった。
「……まあ、想定の範囲内だな」
「そう言いながら、部屋から出ようとしないでくださいよ!」
文字通り一歩引いた藤堂を見て、花峰が悲しい声をあげる。
「ずっと見てたら目が痛くなりそうだ……あんたよく平気だな」
「むしろ無いと落ち着かないんです……」
項垂れながら、見慣れた自室を振り返る。そこは壁という壁、そして天井に至るまで、アニメ絵のポスターやタペストリーの類がびっしりと貼られた、典型的なオタク部屋だった。おまけに室内に置かれた本棚の中には、漫画やキャラグッズがぎっしりと詰め込まれ、ベッドの上にはキャラクターモチーフのぬいぐるみがズラリと並んでいる。成人男性の部屋としてこれが“ナシ”なことくらい、花峰とて自覚していた。
「もういいです……藤堂さんはそこに居てください」
顔を赤くしながらひとりで部屋に入った花峰は、クローゼットからパジャマ代わりにしているTシャツとジャージを出そうとして、はたと手を止めた。
「まずい……」
部屋着だから別にいいやと気を抜いていた結果、引き出しを掘れども掘れども、アニメモチーフの服しか出てこない。さすがに藤堂に萌えキャラがプリントされたTシャツを着せるわけには……いや、正直めちゃくちゃ見てみたいが、いくらなんでも、初めてのお泊まりでそれはよろしくない。
ようやく掘り起こした白無地のTシャツとタオルを部屋の外にいる藤堂へ渡す。家に着いたばかりだというのに、花峰は既に疲れきっていた。
「これ、使ってください。お風呂はあっちです」
「ああ、ありがとう。……あんた、なんでそんなにくたびれてるんだ」
「はは……」
引きつった笑いを返した花峰は、藤堂が風呂場に消えていったのを確認すると、濡れた上着を脱いで自室のベッドに腰を下ろした。なんか思ってたのと全然違う。恋人同士の初めてのお泊まりって、もっと甘ったるい感じになるんじゃないのか。なんて、美亜に聞かれたら、漫画の読み過ぎだと笑われてしまいそうだけど。
「はあ……」
ため息を吐いて天井を見上げると、花峰の推しである、アイプリの『西城リュウ』のポスターと目が合った。元ヤンのアイドルで、目つきも口調もキツいが熱いハートの持ち主であり、メンバーカラーはまさかのパステルピンク。今思うと、彼と藤堂は少し似ているところがある。
憧れのアイドルを、少し眩しい気持ちで見上げる。藤堂の事も、ずっと思っていられるだけで満足だった。それがこうして、当たり前のように二人きりで過ごせるようになって。それなのに、もっともっと先の関係を望んでしまう自分がいる。
「先、か……」
恋も愛も、自分にとってはずっと他人事で、その先の事だって、想像するしかなくて。……だけど、男である自分にとって、それが簡単ではないことだって分かっている。
結婚していたくらいなのだから、藤堂に元々そっちの趣味がないことは明白だ。だったら、花峰がこれ以上の関係を望むことは、藤堂にとっては重荷になるのではないか。今のままの距離感で、満足するべきなんじゃないのか。
「そんなBL漫画みたいに簡単にいくわけないもんなあ……でもやっぱり、藤堂さんとなら、なんて……」
「俺がどうしたって?」
突然部屋の扉が開いて、そこから顔を出した藤堂に声をかけられ、花峰は文字通り飛び上がった。
「とっ、とととと藤堂さん……!? は、早かったですね!!」
「そうか?」
首を傾げる藤堂の後ろの時計は、いつの間にか二十分近く先へ進んでいた。そんなに長い間、ひとりでぼんやりしていたのか僕は。
「え、ええと……僕もシャワー浴びてきます!」
着替えを鷲掴みにして、慌てて藤堂の脇をすり抜ける。一体どこから聞かれていたんだろう、恥ずかしい。
真っ赤になって部屋から飛び出して行く横顔を、藤堂が意味ありげに見つめていることに、花峰はまるで気づいていなかった。
シャワーから出て、脱いだ服を洗濯機に放り込んだ花峰は、濡れた髪をタオルで押さえたまま、自室の前で立ち尽くしていた。藤堂と顔を合わせるのが気まずい。だからと言って、いつまでもここに突っ立っているわけにもいかない。
このあと、二人っきりでどんな会話をすればいいんだろう。頭を悩ませながらドアを開けた瞬間、そんな心配は一瞬で吹き飛んだ。
「とっ、藤堂さん!! それは……っ!」
「ん? やっと戻ってきたか」
ベッドに腰掛けた藤堂が、そう言って顔をあげる。彼が手にしている薄い本……それは、先日通販で購入したばかりの、アイプリのBL同人誌じゃないか。
「な、な、なんでそれを……」
「ああ……そこに置いてあったから暇つぶしに捲ってたんだが、意外と面白いなこれ」
「え、ほんとですか? その人僕がめちゃくちゃ好きな作家さんで……じゃなくて!!」
やらかした。昨日の夜寝る前に読んで、そのまま片付けるのを忘れていたんだった。推し作家を気に入って貰えたのなら嬉しいが、あれはよりによって成人向けの内容だ。非オタの人にいきなり読ませるのは、あまりにもやばい。
顔を青くする花峰を上目遣いに見上げて、藤堂が少し目を細める。
「あんたと付き合いだしてから、どうもその手の用語に詳しくなっちまってな。さっき言ってた『BL漫画』ってこういう本のことだろ」
「え」
「あんた……俺にこういうの期待してるのか?」
「え……ええっ?!」
青くなったり赤くなったり、ひとりでぐるぐると表情を変える花峰を見て、藤堂がおかしそうに笑う。その顔を見てハッと気がついた。またからかわれているんだ。
「も、もう……っ」
腹立ち混じりに藤堂に掴みかかろうとしたが、軽く体を引いただけで躱され、逆に両手を掴まれて拘束されてしまう。
「非力過ぎるだろ、あんた。女でももうちょっと腕力あるぞ」
意地悪く笑いながら、藤堂が腰に手を回してくる。そのまま体重をかけられて、花峰は抵抗する間もなくベッドの上に押し倒された。
「は、離して……っ」
「そう言われて離すと思うか?」
のしかかってくる体を押し返そうとしても、花峰程度の腕力ではびくともしない。そうやって必死になる花峰を、藤堂は余裕の表情で見下ろしている。悔しい。いつもいつも、僕ばっかり振り回されて。
「た、楽しいですか。そうやって、僕みたいな、陰キャオタクをからかって……」
「あ?」
自分で思っていた以上に情けない声が出てしまった。悔しさと恥ずかしさで真っ赤になって震える花峰を見て、藤堂は戸惑った様子で体を離した。
「お、おい、泣くなって」
「泣いてないですっ!」
こんな鼻声ではなんの説得力もないんだろうなと思いながらも、両手を抑え込まれているせいで、顔を隠すことすらできない。そんな花峰のありさまに、藤堂は困ったような息を吐いて体を起こした。そうして、そのまま花峰の手を引いて、向かい合うような形で抱き留めてくれる。
「悪かった。ちょっと調子に乗りすぎたな」
「……ほんとですよ。その気もないのに、こんなこと、しないでください」
藤堂の肩に顔を埋めながら零した言葉に、花峰の濡れた髪を撫でていた手が止まる。
「その気もないのに、だと?」
「……えっ」
少し怒ったようなその声に、花峰は驚いて顔を上げた。その途端、藤堂の鋭い目に睨まれる。
「あ、あの」
「勝手に決めつけて線引きしてんじゃねえぞ。……あんたに誘われた時から、俺はずっとその気だった」
「さ、誘ったって……僕はそんな」
「そんなつもりじゃなかった、か? 本当に?」
「それは……」
強い口調で問われ、思わず口ごもる。何も言えないまま目を逸らす花峰の頬を包むように、藤堂の手が触れた。
「と、藤堂さ」
言い終わる前に、唇を塞がれる。いつもと違う、深く絡まるような口づけに、呼吸ごと奪われそうで、ぐらぐらと目眩がした。
「ん、ぅ……」
縋るように藤堂の肩に伸ばした手をキツく掴まれる。触れていた唇が一瞬離れると、余裕をなくした表情の藤堂と目が合った。
「……何とも思ってない相手にこんなマネしてやるほど、俺は酔狂じゃねえぞ」
間近でそう囁かれ、心臓が爆発しそうなくらいに高鳴った。
「で、でも……だって、僕なんかとじゃ……」
「その『僕なんか』ってのはやめろ。こっちが近づいた途端に、そうやって離れようとしやがって。……あんた、あれだけ強引に俺の中に入って来ておいて、今更逃げられると思うなよ」
そう言って、藤堂は再び花峰の腰に手を回してきた。さっきまでとはまるで違う、急いたような荒っぽい手つきに、花峰はたまらず声をあげる。
「と、藤堂さん、待って」
「花峰……」
少し苛立った声に名前を呼ばれ、花峰の肩が小さく跳ねた。
「そうじゃなくて、あの」
緊張に震える手を、藤堂の背中に回す。そして、
「や、優しくしてください……」
耳元でそう囁くと、一瞬呆気に取られたように藤堂が手を止めた。
「……そう言われると、泣かせてやりたくなるよな?」
「藤堂さん……っ」
「冗談だ」
そう言って藤堂がいたずらっぽく笑う。結局ずっと、この人には良いように遊ばれてばっかりだ。
「もう……」
呟いて、藤堂の肩に抱きつく。するとすぐに、優しい手が花峰の体を抱き締めてくれた。
ああやっぱり、この人の事が大好きだ。自分でも、どうしようもないくらい。
優しく触れる指に顔を上げさせられて、また唇が重なる。
夜は、まだ長い。これから訪れるであろう甘い予感を胸に、花峰はそっと目を閉じた。
☀︎︎
翌朝。カーテンの隙間から差し込む光に顔を顰めながら、花峰は目を覚ました。寝不足ではっきりしない頭の中、真っ先に思い浮かんだのは、隣にいるはずの彼の顔だった。
「藤堂さん……?」
名前を呼んでみるが返事はなく、シーツの中にも、もうその体温は残っていない。きっと既に店の方へ行ってしまったのだろう。寝坊した自分が悪いのだが、花峰は少し寂しい気持ちになった。
気持ちの隙間を埋めるように、掛け布団を抱いて寝返りを打つと、ベッドの下に散らばっている衣服が目に付いた。昨晩脱いだ……というか脱がされた物だ。それらを目にした途端、昨晩の記憶が鮮明に蘇って、花峰は顔を赤くした。
「うぅ……」
照れ臭さに悶えながら、ベッドの上をゴロゴロと転がる。なんだか何もかもが夢だったかのようにふわふわしていて、それなのに、この体に触れていた指も、唇も、その全てをハッキリと思い出せてしまう。
大して広くもないベッドを端から端まで転がった花峰は、枕元に置いてある目覚まし時計にふと目を止めた。時刻は既に九時半を過ぎている。このままではマズい。出勤して来た美亜にこの状態を見られたら、何を言われることか。花峰は慌ててその場で体を起こそうとして……そのまま、ぺしゃりとベッドの上に崩れ落ちた。
「……あれ? これ、やばくない……?」
足に全然力が入らない。体の下半分が別人のものとすげ替わってしまったかのような違和感のせいで、普通に座るのも結構辛い。……この調子では、今日の仕事など無理なのではないか。いっそ臨時休業にしようか。でも美亜くんに何て言って説明しよう。
「……はあ」
やけくそ気味にため息を吐いて、花峰はベッド脇のカーテンへと手を伸ばした。寝転がったままで開いたカーテンの向こうには、冗談みたいに青い空が広がっていて。
「良い天気だな……」
ぽつりと零した言葉は、どこまでも続く青の中へ溶けていく。どこか浮ついたような空の色は、いつよりも少しだけ、眩しく輝いて見えたのだった。
そう思って急いで来た甲斐あってか、どうにか雨が降り始める前に自宅兼事務所の前まで戻ってこられた。花峰はそのまま事務所への階段を駆け上がろうとして……『OPEN』のプレートが掛けられた扉の前で、ふと歩みを止めた。
花峰が経営する探偵事務所の真下にある、レトロな雰囲気の喫茶店。店主であるあの人は、今日もそこにいるはずだ。
帰る前に、少しだけ挨拶していこうかな。
そう思い立った花峰は、オウムにつつかれてボサボサになった頭を手櫛で軽く整えて、喫茶店の扉に手をかけた。
「いらっしゃい……ああ、あんたか」
「こんにちは、藤堂さん」
入り口のすぐ近くで座席を拭いていた藤堂に声をかけ、客席を見回す。雨の予報のせいか、店内にいる客はひとりだけだった。カウンター席の端っこで頭を抱えている、スポーツ刈りにシンプルな青いTシャツを身につけた青年。なぜだろう、彼の横顔に見覚えがあるような気がするのだが、どこで会ったのだったか。
「……あ、もしかして原田さんですか?」
「おー……探偵のニィちゃんか。久しぶり」
覇気のない表情で振り返ったのは、思った通り、藤堂の元舎弟である原田だった。彼のトレードマークだった、パンチパーマと柄シャツの両方が無くなっているせいで、誰だか分からなかった。
「一体どうしたんですか? その格好……」
「あ? あー……これはな……」
「あんたのとこの助手さんを食事に誘って断られたんだと。『ダサい格好の男はムリ』って」
なにやら愉快げな顔の藤堂が、横から口を挟む。なるほど、いかにも美亜が言いそうなセリフだ。
「それであの格好やめちゃったんですね」
目つきの悪さは変わらないが、こうして普通の格好になると、原田は意外と若いようだった。もしかすると二十代前半くらい……美亜とあまり変わらない年頃なのではないか。
すっきりと刈り上げた頭をガリガリと掻きながら、原田はしかめっ面でこちらに体を向けた。
「よぉ、ニィちゃんからもあの女に言っといてくれよ。あいつ、オレの服がダセェだの、バカはムリだのめちゃくちゃ言いやがって……ぜってぇチョーシに乗ってやがる」
そういうわりに、原田の手元には小学生向けの漢字ドリルがきっちり広げられている。服装の事といい、もしかしなくても、彼なりに美亜に気に入られようと自分を変える努力をしている最中なのだろう。そう思うと、この人相の悪い青年が急に可愛く思えてきた。
「おいコラァ、てめえ何ニヤニヤしてんだ」
「えっ、あ、いや……すみません……」
微笑ましい気持ちで原田を見守っていたら、速攻でガンをつけられた。やっぱり全然可愛くない。
「それより原田、お前コーヒー一杯で何時間居座るつもりだ? いい加減帰れ」
座席を一通り拭き終え、カウンターに戻ってきた藤堂が言う。しかし原田の方に席を立つ気は無さそうだ。
「だってよぉ、事務所でベンキョーしてても誰も付き合ってくれねぇし。永倉さんもメガネのくせにバカだし。だからアニキに教えてもらおうと思って来たんスよ」
「馬鹿はお前もだろうが。仕事中にお前の面倒まで見れるわけねえだろ」
「んじゃ仕事じゃねえ時なら」
「来 る な」
強めに言い切って、藤堂が原田に鋭い視線を向ける。そして腕を組んだまま、窓の外を顎で示した。
「ほら見ろ。くだらねえ事言ってる間に降ってきたぞ」
「え? あ、やべ」
藤堂の視線の先を追って、原田が少し焦った声をあげる。見れば、いつの間にか降り出した雨が、窓の外をしとしとと濡らしていた。予報通りなら、これから夜に向けて、徐々に雨足は強まっていくことだろう。
窓を見つめる花峰の後ろで、原田はカウンターに広げていた漢字ドリルと筆記用具を慌ただしく片付けて、コーヒーの代金をカウンターに置くと、勢いよく席を立った。
「オレ傘持ってきてないんで帰ります! ごちそーさんでしたアニキ!」
「なんで確実に降るって分かってるのに持ってこないんだ、お前は」
藤堂に呆れた声で言われても、原田はまるで気にしていないようだ。「また来ます!」と元気よく言い残して、雨の中を小走りで帰っていく。そうして、カラカラと鳴るドアベルの余韻が消えると、店内は途端に静かになった。
「ええと……藤堂さんと原田さん、仲良いんですね」
「あ? ……まあ、あいつがガキの頃からの付き合いだからな。今もガキみたいなモンだが」
原田が使っていたカップを洗いながら、藤堂は事も無げに答える。
喫茶店を始める前の藤堂がどんな暮らしをしていたのか、花峰は何も知らない。花峰の知らない藤堂を、原田はずっと見てきたんだろう。
羨ましい、なんて。そんな考えても仕方の無いような気持ちが浮かんできて、花峰は慌ててその思考を追い出した。嫉妬なんて馬鹿げている。
そんな花峰の気持ちを見透かした訳ではないだろうが、洗い終えたカップを置いた藤堂が、不意にこう言った。
「少し早いが、今日はもう店じまいにするか。あんたの貸し切りだ」
「え……いいんですか、そんな」
「どのみちあと一時間もせずに閉店だ。この天気じゃ、開けてても誰も来ないだろうからな」
そう言うが早いか、藤堂はさっさと店の扉の方に向かって行ってしまう。ドアプレートを裏返し、扉に鍵をかけて戻ってきた藤堂と向かい合うと、さっきまでのモヤモヤした気持ちが、綺麗に消えていることに気がついた。藤堂と関わるたびに、こんな些細なことで一喜一憂して、自分はなんて単純なんだろう。
「えっと……雨、キツくなってきましたね」
「そうだな」
窓を軽く濡らす程度だった雨足は見る間に強くなり、滝のような雨が窓の外を流れ落ちて景色を歪ませている。花峰の自宅はここの真上だから構わないが、こんな雨の中を帰らなくてはいけない藤堂は大変だ。風も強くなってきたようだし、きっと傘も役に立たない。
その時自分の中に浮かんできた考えに、一瞬で頬が熱くなるのを自覚する。いいんだろうか、そんなこと。でも僕たちはちゃんとお付き合いしてる訳だし、そうじゃなくても、これだけお世話になってる人を豪雨の中帰らせる方がナシだろう。そう、これは別に下心とかじゃないんだ。だから何の問題もない。
必死で自分に言い訳をしながら、言うべき言葉を頭の中で整理していく。よし、言うぞ。
「あ、あの、藤堂さん!」
「ん?」
「その……雨、キツくなってきましたし、帰るの大変じゃないですか? だから、その、良かったらうちに……」
泊まりに来ませんか。と言おうとしたところで、花峰はとんでもない事に気がついて言葉を飲み込んだ。馬鹿か僕は。どうしてこんな重大な問題を忘れていたんだ。浮かれすぎだ。
「うちに……なんだって?」
「す、すみません、やっぱり聞かなかったことにしてください……」
口ごもる花峰を見て何かを察したのか、藤堂の目に少しイジワルそうな光が宿る。
「おいおい、そこまで言いかけといて、やっぱナシってのはあんまりじゃないか? ……泊めてくれるんだろ? あんたの家に」
詰め寄ってきた藤堂に腕を掴まれ、花峰はぎくりと体を強ばらせた。
「あぅ……あの、ひ、人を呼べるような状態じゃなかったのを思い出して……」
「多少散らかってるくらい気にしない」
「いえ、あの、そういう事じゃなくて……」
狼に睨まれたウサギのようにぷるぷると震える花峰をしばらく見つめていた藤堂は、捕まえていた腕を離すと、やや大袈裟にため息を吐いた。
「はあ……そうか、あんたがどうしても嫌だって言うなら仕方ない。豪雨の中、ひとり寂しく帰るしかないな。この風じゃ傘も途中でぶっ壊れるだろうが、それも仕方ない。無理強いする訳にもいかないからなあ」
「うぅ……」
眉をハの字にする花峰を、藤堂はどこか楽しそうな表情で見上げている。からかわれているのだと分かっているが、これ以上の抵抗なんて、できそうもなかった。
「何を見ても笑ったり引いたりしないって約束してくれますか……?」
「それは見た物によるな」
「ひ、ひどい」
情けない声をあげる花峰を見て、ついに藤堂は耐えきれないといった様子で、声をあげて笑い出した。
「ふっ……ははは……っ、ほんとに、あんたは虐め甲斐のある……っ」
ふるふると肩を震わせる藤堂に、対する花峰の顔はどんどん赤くなっていく。
「そ、そんなに笑うことないじゃないですか」
「くく……っ、悪い悪い」
花峰の肩をぽんぽんと叩きながら、まだ笑いの収まらない様子で藤堂が詫びる。あんまり悪いと思ってなさそうだ。
「で? 結局どうするんだ」
「……いいですよ、泊まりに来ても。それで好きなだけ笑ったらいいです」
「拗ねるなよ」
唇を尖らせる花峰の頬を、藤堂の指先がそっと撫でる。たったそれだけの事で機嫌を直してしまいそうになる自分は、やっぱり単純だと思う。
「店じまいするから、ちょっと待ってろ」
「何か手伝いましょうか」
「いい。今日は暇だったからな。すぐに終わる」
そう言って、手際よく作業をこなしていく藤堂の背中を見守る。そうか。今日は店を閉めた後も、ずっと一緒にいられるんだ。
叩きつけるような雨の音を聞きながらも、花峰の心の中は、ずっとずっと晴れやかだった。
︎ ︎☂︎
「どうぞ、藤堂さん」
藤堂にそう声をかけて、花峰は事務所の中へと足を踏み入れた。下の喫茶店からここに上がってくるまで、ほんの数秒だったというのに、既に二人ともびしょ濡れだ。
タオルと着替えを藤堂に渡そうと、事務所奥にある自室の扉に手をかけて……花峰はそっと藤堂の方を振り返った。
「なんだ?」
「……いえ、どうぞ入ってください」
そう言った花峰の背中越しに、藤堂は部屋の中を覗き込んでくる。笑われることを覚悟した花峰の横で、意外にも藤堂は真顔のままだった。
「……まあ、想定の範囲内だな」
「そう言いながら、部屋から出ようとしないでくださいよ!」
文字通り一歩引いた藤堂を見て、花峰が悲しい声をあげる。
「ずっと見てたら目が痛くなりそうだ……あんたよく平気だな」
「むしろ無いと落ち着かないんです……」
項垂れながら、見慣れた自室を振り返る。そこは壁という壁、そして天井に至るまで、アニメ絵のポスターやタペストリーの類がびっしりと貼られた、典型的なオタク部屋だった。おまけに室内に置かれた本棚の中には、漫画やキャラグッズがぎっしりと詰め込まれ、ベッドの上にはキャラクターモチーフのぬいぐるみがズラリと並んでいる。成人男性の部屋としてこれが“ナシ”なことくらい、花峰とて自覚していた。
「もういいです……藤堂さんはそこに居てください」
顔を赤くしながらひとりで部屋に入った花峰は、クローゼットからパジャマ代わりにしているTシャツとジャージを出そうとして、はたと手を止めた。
「まずい……」
部屋着だから別にいいやと気を抜いていた結果、引き出しを掘れども掘れども、アニメモチーフの服しか出てこない。さすがに藤堂に萌えキャラがプリントされたTシャツを着せるわけには……いや、正直めちゃくちゃ見てみたいが、いくらなんでも、初めてのお泊まりでそれはよろしくない。
ようやく掘り起こした白無地のTシャツとタオルを部屋の外にいる藤堂へ渡す。家に着いたばかりだというのに、花峰は既に疲れきっていた。
「これ、使ってください。お風呂はあっちです」
「ああ、ありがとう。……あんた、なんでそんなにくたびれてるんだ」
「はは……」
引きつった笑いを返した花峰は、藤堂が風呂場に消えていったのを確認すると、濡れた上着を脱いで自室のベッドに腰を下ろした。なんか思ってたのと全然違う。恋人同士の初めてのお泊まりって、もっと甘ったるい感じになるんじゃないのか。なんて、美亜に聞かれたら、漫画の読み過ぎだと笑われてしまいそうだけど。
「はあ……」
ため息を吐いて天井を見上げると、花峰の推しである、アイプリの『西城リュウ』のポスターと目が合った。元ヤンのアイドルで、目つきも口調もキツいが熱いハートの持ち主であり、メンバーカラーはまさかのパステルピンク。今思うと、彼と藤堂は少し似ているところがある。
憧れのアイドルを、少し眩しい気持ちで見上げる。藤堂の事も、ずっと思っていられるだけで満足だった。それがこうして、当たり前のように二人きりで過ごせるようになって。それなのに、もっともっと先の関係を望んでしまう自分がいる。
「先、か……」
恋も愛も、自分にとってはずっと他人事で、その先の事だって、想像するしかなくて。……だけど、男である自分にとって、それが簡単ではないことだって分かっている。
結婚していたくらいなのだから、藤堂に元々そっちの趣味がないことは明白だ。だったら、花峰がこれ以上の関係を望むことは、藤堂にとっては重荷になるのではないか。今のままの距離感で、満足するべきなんじゃないのか。
「そんなBL漫画みたいに簡単にいくわけないもんなあ……でもやっぱり、藤堂さんとなら、なんて……」
「俺がどうしたって?」
突然部屋の扉が開いて、そこから顔を出した藤堂に声をかけられ、花峰は文字通り飛び上がった。
「とっ、とととと藤堂さん……!? は、早かったですね!!」
「そうか?」
首を傾げる藤堂の後ろの時計は、いつの間にか二十分近く先へ進んでいた。そんなに長い間、ひとりでぼんやりしていたのか僕は。
「え、ええと……僕もシャワー浴びてきます!」
着替えを鷲掴みにして、慌てて藤堂の脇をすり抜ける。一体どこから聞かれていたんだろう、恥ずかしい。
真っ赤になって部屋から飛び出して行く横顔を、藤堂が意味ありげに見つめていることに、花峰はまるで気づいていなかった。
シャワーから出て、脱いだ服を洗濯機に放り込んだ花峰は、濡れた髪をタオルで押さえたまま、自室の前で立ち尽くしていた。藤堂と顔を合わせるのが気まずい。だからと言って、いつまでもここに突っ立っているわけにもいかない。
このあと、二人っきりでどんな会話をすればいいんだろう。頭を悩ませながらドアを開けた瞬間、そんな心配は一瞬で吹き飛んだ。
「とっ、藤堂さん!! それは……っ!」
「ん? やっと戻ってきたか」
ベッドに腰掛けた藤堂が、そう言って顔をあげる。彼が手にしている薄い本……それは、先日通販で購入したばかりの、アイプリのBL同人誌じゃないか。
「な、な、なんでそれを……」
「ああ……そこに置いてあったから暇つぶしに捲ってたんだが、意外と面白いなこれ」
「え、ほんとですか? その人僕がめちゃくちゃ好きな作家さんで……じゃなくて!!」
やらかした。昨日の夜寝る前に読んで、そのまま片付けるのを忘れていたんだった。推し作家を気に入って貰えたのなら嬉しいが、あれはよりによって成人向けの内容だ。非オタの人にいきなり読ませるのは、あまりにもやばい。
顔を青くする花峰を上目遣いに見上げて、藤堂が少し目を細める。
「あんたと付き合いだしてから、どうもその手の用語に詳しくなっちまってな。さっき言ってた『BL漫画』ってこういう本のことだろ」
「え」
「あんた……俺にこういうの期待してるのか?」
「え……ええっ?!」
青くなったり赤くなったり、ひとりでぐるぐると表情を変える花峰を見て、藤堂がおかしそうに笑う。その顔を見てハッと気がついた。またからかわれているんだ。
「も、もう……っ」
腹立ち混じりに藤堂に掴みかかろうとしたが、軽く体を引いただけで躱され、逆に両手を掴まれて拘束されてしまう。
「非力過ぎるだろ、あんた。女でももうちょっと腕力あるぞ」
意地悪く笑いながら、藤堂が腰に手を回してくる。そのまま体重をかけられて、花峰は抵抗する間もなくベッドの上に押し倒された。
「は、離して……っ」
「そう言われて離すと思うか?」
のしかかってくる体を押し返そうとしても、花峰程度の腕力ではびくともしない。そうやって必死になる花峰を、藤堂は余裕の表情で見下ろしている。悔しい。いつもいつも、僕ばっかり振り回されて。
「た、楽しいですか。そうやって、僕みたいな、陰キャオタクをからかって……」
「あ?」
自分で思っていた以上に情けない声が出てしまった。悔しさと恥ずかしさで真っ赤になって震える花峰を見て、藤堂は戸惑った様子で体を離した。
「お、おい、泣くなって」
「泣いてないですっ!」
こんな鼻声ではなんの説得力もないんだろうなと思いながらも、両手を抑え込まれているせいで、顔を隠すことすらできない。そんな花峰のありさまに、藤堂は困ったような息を吐いて体を起こした。そうして、そのまま花峰の手を引いて、向かい合うような形で抱き留めてくれる。
「悪かった。ちょっと調子に乗りすぎたな」
「……ほんとですよ。その気もないのに、こんなこと、しないでください」
藤堂の肩に顔を埋めながら零した言葉に、花峰の濡れた髪を撫でていた手が止まる。
「その気もないのに、だと?」
「……えっ」
少し怒ったようなその声に、花峰は驚いて顔を上げた。その途端、藤堂の鋭い目に睨まれる。
「あ、あの」
「勝手に決めつけて線引きしてんじゃねえぞ。……あんたに誘われた時から、俺はずっとその気だった」
「さ、誘ったって……僕はそんな」
「そんなつもりじゃなかった、か? 本当に?」
「それは……」
強い口調で問われ、思わず口ごもる。何も言えないまま目を逸らす花峰の頬を包むように、藤堂の手が触れた。
「と、藤堂さ」
言い終わる前に、唇を塞がれる。いつもと違う、深く絡まるような口づけに、呼吸ごと奪われそうで、ぐらぐらと目眩がした。
「ん、ぅ……」
縋るように藤堂の肩に伸ばした手をキツく掴まれる。触れていた唇が一瞬離れると、余裕をなくした表情の藤堂と目が合った。
「……何とも思ってない相手にこんなマネしてやるほど、俺は酔狂じゃねえぞ」
間近でそう囁かれ、心臓が爆発しそうなくらいに高鳴った。
「で、でも……だって、僕なんかとじゃ……」
「その『僕なんか』ってのはやめろ。こっちが近づいた途端に、そうやって離れようとしやがって。……あんた、あれだけ強引に俺の中に入って来ておいて、今更逃げられると思うなよ」
そう言って、藤堂は再び花峰の腰に手を回してきた。さっきまでとはまるで違う、急いたような荒っぽい手つきに、花峰はたまらず声をあげる。
「と、藤堂さん、待って」
「花峰……」
少し苛立った声に名前を呼ばれ、花峰の肩が小さく跳ねた。
「そうじゃなくて、あの」
緊張に震える手を、藤堂の背中に回す。そして、
「や、優しくしてください……」
耳元でそう囁くと、一瞬呆気に取られたように藤堂が手を止めた。
「……そう言われると、泣かせてやりたくなるよな?」
「藤堂さん……っ」
「冗談だ」
そう言って藤堂がいたずらっぽく笑う。結局ずっと、この人には良いように遊ばれてばっかりだ。
「もう……」
呟いて、藤堂の肩に抱きつく。するとすぐに、優しい手が花峰の体を抱き締めてくれた。
ああやっぱり、この人の事が大好きだ。自分でも、どうしようもないくらい。
優しく触れる指に顔を上げさせられて、また唇が重なる。
夜は、まだ長い。これから訪れるであろう甘い予感を胸に、花峰はそっと目を閉じた。
☀︎︎
翌朝。カーテンの隙間から差し込む光に顔を顰めながら、花峰は目を覚ました。寝不足ではっきりしない頭の中、真っ先に思い浮かんだのは、隣にいるはずの彼の顔だった。
「藤堂さん……?」
名前を呼んでみるが返事はなく、シーツの中にも、もうその体温は残っていない。きっと既に店の方へ行ってしまったのだろう。寝坊した自分が悪いのだが、花峰は少し寂しい気持ちになった。
気持ちの隙間を埋めるように、掛け布団を抱いて寝返りを打つと、ベッドの下に散らばっている衣服が目に付いた。昨晩脱いだ……というか脱がされた物だ。それらを目にした途端、昨晩の記憶が鮮明に蘇って、花峰は顔を赤くした。
「うぅ……」
照れ臭さに悶えながら、ベッドの上をゴロゴロと転がる。なんだか何もかもが夢だったかのようにふわふわしていて、それなのに、この体に触れていた指も、唇も、その全てをハッキリと思い出せてしまう。
大して広くもないベッドを端から端まで転がった花峰は、枕元に置いてある目覚まし時計にふと目を止めた。時刻は既に九時半を過ぎている。このままではマズい。出勤して来た美亜にこの状態を見られたら、何を言われることか。花峰は慌ててその場で体を起こそうとして……そのまま、ぺしゃりとベッドの上に崩れ落ちた。
「……あれ? これ、やばくない……?」
足に全然力が入らない。体の下半分が別人のものとすげ替わってしまったかのような違和感のせいで、普通に座るのも結構辛い。……この調子では、今日の仕事など無理なのではないか。いっそ臨時休業にしようか。でも美亜くんに何て言って説明しよう。
「……はあ」
やけくそ気味にため息を吐いて、花峰はベッド脇のカーテンへと手を伸ばした。寝転がったままで開いたカーテンの向こうには、冗談みたいに青い空が広がっていて。
「良い天気だな……」
ぽつりと零した言葉は、どこまでも続く青の中へ溶けていく。どこか浮ついたような空の色は、いつよりも少しだけ、眩しく輝いて見えたのだった。
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