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最終章 輝く花にくちづけを
6話 ずっと前から
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悪い事は重なるものだ。『奥方以外の女性』『道ならぬ恋』……いつもなら質の悪い冗談として聞き流せるような言葉も、今は耐え難いほどの痛みを伴って、この胸を鋭く抉った。
あの人と、他の人との間に子供が……今は冗談だったとしても、いつかきっと本当になる。
その時が来たら、私は一体どうするんだろう。
「ユリナさん! 待ってください!」
背後から、必死な様子の声が追ってくる。
もう私のことなんて放っておいてくれたらいいのに。最初から優しくなんてされなければ、夢だって見ずに済んだ。
足を止めないままに廊下を進み、目についた階段を駆け下りる。だがその寸前で、追いついて来た手に腕を掴まれた。
大きくて、力強くて、だけどユリナに触れる時は、いつだって優しい。
他の誰かにも、こんなふうに触れるの。
「…………離して!」
悲鳴のような声が口をついて出た。ユリナの腕に触れた手が一瞬びくりと震えたが、それでも離れようとはしない。
「話を聞いてください。先程のあれは質の悪い冗談です。ウォルターがそういう男だという事は、貴女もご存知でしょう」
どこか困ったような響きの声が、背中越しに聞こえてくる。けれどユリナにはもう、誰を信じればいいのかさえ分からなくなっていた。
「……こちらを向いてくれませんか、ユリナさん」
背中を向けたまま答えないユリナの耳に、悲しそうなため息が聞こえた。
「私の言葉は信用出来ませんか。それとも、私に触れられるのは嫌ですか」
そのどちらも違う。信じたい。もっと触れて欲しいと思う。だけど、
「……お願いですから、私にはもう構わないでください」
震えてしまう声で、どうにかそれだけを告げた。これで嫌われてしまったっていい。優しさに惑わされて叶わない夢を見るより、いっそ嫌われて突き放された方がマシだと思った。
「……貴女が本当にそれを望むのなら、私は二度と貴女に関わらないと約束しましょう。この家を出て行く事も咎めません」
家を出る……? そんなことは、今まで考えもしなかった。だけどこの人に本当に嫌われてしまったら、そういう事も有り得るんだ。
そうなったら、ただの契約上の妻としてですら、この人の隣に居られなくなるかもしれない。暗い気持ちに塞がれそうになった耳に、怖いくらいに穏やかなアランの声が響いた。
「貴女が何を選んでも、それを受け入れます。……だからせめて、理由を教えてくれませんか。どうして、そんなにも私を避けるのか」
「……私の口から言わなくてはいけませんか」
「そうでなくては納得出来ませんから」
納得なんて、こちらだって出来ていないことばかりだ。心の奥はぐちゃぐちゃで、自分の本当の気持ちがどこにあるのかさえも見えなくなりそうなのに、こんな自分に一体何が言えるのだろう。
「……ただの、つまらない嫉妬です。あなたから、たくさんのものを与えてもらったはずなのに、それでもまだ足りなくて、駄々をこねているだけですわ」
「……なんですか、それは」
ほら、やっぱり呆れられてしまった。
掴まれたままの腕を軽く引かれ、アランの方を振り向かされる。それでも彼の顔を見られずに俯いた。
「それでどうして私を避けるんですか。貴女が求めるものなら何だって贈ります。それでは駄目なんですか」
「……そうやって、他の人にも同じことを言うんですか」
「え?」
知られたくない。こんなにも醜い感情を、卑怯な自分を。だけど、一度吐き出してしまった気持ちは、止められそうもなかった。
「…………だめなんです、私。あなたに、私のことだけ見ていて欲しいなんて、そんなわがままばかり考えてしまって」
そうだ、この感情はきっと。
「私……私は、あなたに恋をしてしまったんです」
いつからだったんだろう。一緒に過ごす時間が楽しくて、彼がくれる不器用な言葉のひとつひとつが愛しくて。いつの間にか、自分の中でこんなにも大きな存在になっていた。
その事にもっと早く気づいていれば、何かが変わっていたのだろうか。
また涙が零れそうになる。泣き顔なんて見られたくない。これ以上、醜い自分を見せたくない。だけど、
「それの、何が駄目だって言うんですか!」
突然の大声に驚いて顔を上げる。そうして目が合ったアランの瞳には、見たことも無いくらい激しい感情の色が浮かんでいた。
その想いの正体が掴めないまま戸惑うユリナの手を、アランの手が強く掴んだ。いつものように優しくこちらを気遣う手つきではなく、余裕の無い強引な手つきで。
「あ、アラン様……?」
「僕だって、本当は……貴女に、初めて会った時から、貴女の事が」
溢れそうな感情を抑え込んでいるかのように途切れ途切れの言葉と共に、掴まれた手に痛いほどの力が篭もる。この人の中に、こんな激しい感情があったなんて知らなかった。
ユリナは驚きのあまり、先程までの泣き出しそうな気持ちも忘れてアランに訊ねていた。
「ま、待ってください。初めて会った時って、私たちは結婚式の日に初めて顔を合わせたんじゃないですか。それまではお父様とアラン様のお二人で縁談を進めておられたはずでしょう」
「違うんです。本当はその前に……もっとずっと前に、公爵家で開かれた夜会で貴女を見かけて……その時から、貴女の事が忘れられなくなった。結婚を考えなくてはいけなくなった時にも、真っ先に貴女の顔が浮かんできて……貴女のお父上が縁談を受け入れてくださったのを良い事に、一番肝心な貴女の気持ちも確かめず、強引にここへ連れて来てしまった。貴女本人に拒絶されるのが、怖かったからです」
俯きながら紡がれる言葉ひとつひとつを、ユリナは信じられない思いで聞いていた。
公爵家? そういえば、結婚する前は父に言われるまま、あちこちの夜会に出席していた。そこにアランも居たというのか。
「そんなの……だったら、初めから“私”を選んでくださったということですか。私の血筋や、家のことじゃなくて」
「そうですよ。もしも貴女のお父上に反対されたとしても、きっと諦められなかった。……こんなにも、誰かを強く求めた事なんて一度も無かった。それは全部、貴女だったからです」
「そんな……」
そんな、都合のいい話があって良いのだろうか。生まれて初めて好きになった人が、ずっと前から私を選んでくれていたなんて。
「……たった一度すれ違った程度の、言葉すら交わした事のない相手にこんな感情を抱くなんて、どうかしていると思うでしょう。僕自身、ずっとそうでした。だから、貴女にもなかなか伝える事が出来なくて……だけど、もっと早くに言えば良かった」
ユリナの腕を掴んでいたアランの手が、静かに離れていった。唐突に消えてしまった温もりに不安になって、咄嗟に手を伸ばそうとした。その瞬間、
「え……」
一瞬息が止まるほどに、強く抱きしめられた。
「好きです。ずっと前から、貴女の事だけが」
不器用なくらいにまっすぐで飾らない、この人だけの言葉。ユリナの大好きな言葉だ。
背中に回された手に、さらに強い力が篭もる。伝わる鼓動の激しさと、耳元をくすぐる熱っぽい吐息に、くらくらと眩暈がした。
だけどこんな息苦しさにも、どこか愛おしさを感じてしまう。
誰を信じればいいのか分からなくなっていた。だけど今なら、他の誰に何を言われたって、この人の言葉だけを信じて生きられる。心の底から、そう思った。
震える手を、大きな背中に回す。それが答えの代わりだった。
ずっと、夢に見ていた。幼い頃に読んだ絵本のように、私の前にも素敵な騎士様が現れて、いつまでも二人で幸せに暮らすんだって。
だけど大人になるにつれ、そんなのは叶わない夢なのだと思い知った。
諦めて、自分を誤魔化して、物分かりのいい大人になったふりをして。それでも、心のどこかに、忘れられないまま抱えていた。
そんな、自分でも見えなくなっていた夢まで、この人は叶えてくれた。
おとぎ話のように、いつまでも幸せに……なんて、そんなに簡単にはいかないだろう。これから先も共に生きていくのなら、きっといろんなことがある。怒ったり、泣いたり、不安になることも、たくさん。
それでも、何があったとしても、今のこの気持ちだけは、いつまでも忘れないでいよう。
この手のひらに伝わってくるぬくもりに、そう誓った。
*
窓から差し込む夜明けの光に目を細めながら、アランは静かに体を起こした。隣では柔らかい寝息を零しながら、ユリナがまだ眠っている。
愛おしい寝顔を見つめながら、思い出すのは昨日彼女から貰った言葉だ。
『私は、あなたに恋をしてしまったんです』
震える声で、確かにユリナはそう言ってくれた。
今でもまだ、夢を見ているようだと思う。
彼女にも自分と同じ感情を返して欲しいだなんて、そんな贅沢な事は期待していなかった。ただ、せめて嫌われてしまわないように、彼女が自慢できるような立派な夫でいたいと、無理に背伸びをして格好をつけて、そして何度も失敗して。もう呆れられてしまったかと思っていた。
それなのに、彼女はそんな僕さえそのまま受け入れてくれた。
「敵わないな……」
ポツリと零れた言葉に反応するように、ユリナが僅かに身動ぎをした。こちらへ寝返りをうった彼女の長い髪が、寝具の上にふわりと広がる。そんな些細な事にさえ、愛しさがとめどなく溢れてくるようだ。
いつだって、ユリナの方がアランよりもずっと強かった。
ブローチを失くした時、彼女は諦めずに探し続けてくれた。そのおかげで繋がった縁がある。
そして、アランが進む道を見失った時にも、ユリナが行く先の光を見せてくれた。
ずっとずっと、自分が彼女を守っているつもりで、彼女に支えられてきたのだと思い知る。
今日と明日、やるべき事をこなして、その結果がどうなろうと、祭りの日はユリナさんと共に過ごそう。一日くらいはどうにでもなる。その日一日は、彼女のためだけの時間にするんだ。
それだけで今まで貰ったものが返せるとは思えないけれど、せめて彼女にとって大切な思い出のひとつになってくれる事を祈って。
ユリナを起こしてしまわないように、そっと手を伸ばして、彼女の滑らかな頬に触れた。
離れ難いけれど、これから先の時間のために、今は行かなくてはならない場所がある。
「いってきます」
小さく囁いて彼女から手を離し、音を立てないようにベッドから下りる。今から支度をして出発すれば、昼過ぎには王都へ辿り着けるだろう。
その場所で、あの人に話を聞かなければ。
あの人と、他の人との間に子供が……今は冗談だったとしても、いつかきっと本当になる。
その時が来たら、私は一体どうするんだろう。
「ユリナさん! 待ってください!」
背後から、必死な様子の声が追ってくる。
もう私のことなんて放っておいてくれたらいいのに。最初から優しくなんてされなければ、夢だって見ずに済んだ。
足を止めないままに廊下を進み、目についた階段を駆け下りる。だがその寸前で、追いついて来た手に腕を掴まれた。
大きくて、力強くて、だけどユリナに触れる時は、いつだって優しい。
他の誰かにも、こんなふうに触れるの。
「…………離して!」
悲鳴のような声が口をついて出た。ユリナの腕に触れた手が一瞬びくりと震えたが、それでも離れようとはしない。
「話を聞いてください。先程のあれは質の悪い冗談です。ウォルターがそういう男だという事は、貴女もご存知でしょう」
どこか困ったような響きの声が、背中越しに聞こえてくる。けれどユリナにはもう、誰を信じればいいのかさえ分からなくなっていた。
「……こちらを向いてくれませんか、ユリナさん」
背中を向けたまま答えないユリナの耳に、悲しそうなため息が聞こえた。
「私の言葉は信用出来ませんか。それとも、私に触れられるのは嫌ですか」
そのどちらも違う。信じたい。もっと触れて欲しいと思う。だけど、
「……お願いですから、私にはもう構わないでください」
震えてしまう声で、どうにかそれだけを告げた。これで嫌われてしまったっていい。優しさに惑わされて叶わない夢を見るより、いっそ嫌われて突き放された方がマシだと思った。
「……貴女が本当にそれを望むのなら、私は二度と貴女に関わらないと約束しましょう。この家を出て行く事も咎めません」
家を出る……? そんなことは、今まで考えもしなかった。だけどこの人に本当に嫌われてしまったら、そういう事も有り得るんだ。
そうなったら、ただの契約上の妻としてですら、この人の隣に居られなくなるかもしれない。暗い気持ちに塞がれそうになった耳に、怖いくらいに穏やかなアランの声が響いた。
「貴女が何を選んでも、それを受け入れます。……だからせめて、理由を教えてくれませんか。どうして、そんなにも私を避けるのか」
「……私の口から言わなくてはいけませんか」
「そうでなくては納得出来ませんから」
納得なんて、こちらだって出来ていないことばかりだ。心の奥はぐちゃぐちゃで、自分の本当の気持ちがどこにあるのかさえも見えなくなりそうなのに、こんな自分に一体何が言えるのだろう。
「……ただの、つまらない嫉妬です。あなたから、たくさんのものを与えてもらったはずなのに、それでもまだ足りなくて、駄々をこねているだけですわ」
「……なんですか、それは」
ほら、やっぱり呆れられてしまった。
掴まれたままの腕を軽く引かれ、アランの方を振り向かされる。それでも彼の顔を見られずに俯いた。
「それでどうして私を避けるんですか。貴女が求めるものなら何だって贈ります。それでは駄目なんですか」
「……そうやって、他の人にも同じことを言うんですか」
「え?」
知られたくない。こんなにも醜い感情を、卑怯な自分を。だけど、一度吐き出してしまった気持ちは、止められそうもなかった。
「…………だめなんです、私。あなたに、私のことだけ見ていて欲しいなんて、そんなわがままばかり考えてしまって」
そうだ、この感情はきっと。
「私……私は、あなたに恋をしてしまったんです」
いつからだったんだろう。一緒に過ごす時間が楽しくて、彼がくれる不器用な言葉のひとつひとつが愛しくて。いつの間にか、自分の中でこんなにも大きな存在になっていた。
その事にもっと早く気づいていれば、何かが変わっていたのだろうか。
また涙が零れそうになる。泣き顔なんて見られたくない。これ以上、醜い自分を見せたくない。だけど、
「それの、何が駄目だって言うんですか!」
突然の大声に驚いて顔を上げる。そうして目が合ったアランの瞳には、見たことも無いくらい激しい感情の色が浮かんでいた。
その想いの正体が掴めないまま戸惑うユリナの手を、アランの手が強く掴んだ。いつものように優しくこちらを気遣う手つきではなく、余裕の無い強引な手つきで。
「あ、アラン様……?」
「僕だって、本当は……貴女に、初めて会った時から、貴女の事が」
溢れそうな感情を抑え込んでいるかのように途切れ途切れの言葉と共に、掴まれた手に痛いほどの力が篭もる。この人の中に、こんな激しい感情があったなんて知らなかった。
ユリナは驚きのあまり、先程までの泣き出しそうな気持ちも忘れてアランに訊ねていた。
「ま、待ってください。初めて会った時って、私たちは結婚式の日に初めて顔を合わせたんじゃないですか。それまではお父様とアラン様のお二人で縁談を進めておられたはずでしょう」
「違うんです。本当はその前に……もっとずっと前に、公爵家で開かれた夜会で貴女を見かけて……その時から、貴女の事が忘れられなくなった。結婚を考えなくてはいけなくなった時にも、真っ先に貴女の顔が浮かんできて……貴女のお父上が縁談を受け入れてくださったのを良い事に、一番肝心な貴女の気持ちも確かめず、強引にここへ連れて来てしまった。貴女本人に拒絶されるのが、怖かったからです」
俯きながら紡がれる言葉ひとつひとつを、ユリナは信じられない思いで聞いていた。
公爵家? そういえば、結婚する前は父に言われるまま、あちこちの夜会に出席していた。そこにアランも居たというのか。
「そんなの……だったら、初めから“私”を選んでくださったということですか。私の血筋や、家のことじゃなくて」
「そうですよ。もしも貴女のお父上に反対されたとしても、きっと諦められなかった。……こんなにも、誰かを強く求めた事なんて一度も無かった。それは全部、貴女だったからです」
「そんな……」
そんな、都合のいい話があって良いのだろうか。生まれて初めて好きになった人が、ずっと前から私を選んでくれていたなんて。
「……たった一度すれ違った程度の、言葉すら交わした事のない相手にこんな感情を抱くなんて、どうかしていると思うでしょう。僕自身、ずっとそうでした。だから、貴女にもなかなか伝える事が出来なくて……だけど、もっと早くに言えば良かった」
ユリナの腕を掴んでいたアランの手が、静かに離れていった。唐突に消えてしまった温もりに不安になって、咄嗟に手を伸ばそうとした。その瞬間、
「え……」
一瞬息が止まるほどに、強く抱きしめられた。
「好きです。ずっと前から、貴女の事だけが」
不器用なくらいにまっすぐで飾らない、この人だけの言葉。ユリナの大好きな言葉だ。
背中に回された手に、さらに強い力が篭もる。伝わる鼓動の激しさと、耳元をくすぐる熱っぽい吐息に、くらくらと眩暈がした。
だけどこんな息苦しさにも、どこか愛おしさを感じてしまう。
誰を信じればいいのか分からなくなっていた。だけど今なら、他の誰に何を言われたって、この人の言葉だけを信じて生きられる。心の底から、そう思った。
震える手を、大きな背中に回す。それが答えの代わりだった。
ずっと、夢に見ていた。幼い頃に読んだ絵本のように、私の前にも素敵な騎士様が現れて、いつまでも二人で幸せに暮らすんだって。
だけど大人になるにつれ、そんなのは叶わない夢なのだと思い知った。
諦めて、自分を誤魔化して、物分かりのいい大人になったふりをして。それでも、心のどこかに、忘れられないまま抱えていた。
そんな、自分でも見えなくなっていた夢まで、この人は叶えてくれた。
おとぎ話のように、いつまでも幸せに……なんて、そんなに簡単にはいかないだろう。これから先も共に生きていくのなら、きっといろんなことがある。怒ったり、泣いたり、不安になることも、たくさん。
それでも、何があったとしても、今のこの気持ちだけは、いつまでも忘れないでいよう。
この手のひらに伝わってくるぬくもりに、そう誓った。
*
窓から差し込む夜明けの光に目を細めながら、アランは静かに体を起こした。隣では柔らかい寝息を零しながら、ユリナがまだ眠っている。
愛おしい寝顔を見つめながら、思い出すのは昨日彼女から貰った言葉だ。
『私は、あなたに恋をしてしまったんです』
震える声で、確かにユリナはそう言ってくれた。
今でもまだ、夢を見ているようだと思う。
彼女にも自分と同じ感情を返して欲しいだなんて、そんな贅沢な事は期待していなかった。ただ、せめて嫌われてしまわないように、彼女が自慢できるような立派な夫でいたいと、無理に背伸びをして格好をつけて、そして何度も失敗して。もう呆れられてしまったかと思っていた。
それなのに、彼女はそんな僕さえそのまま受け入れてくれた。
「敵わないな……」
ポツリと零れた言葉に反応するように、ユリナが僅かに身動ぎをした。こちらへ寝返りをうった彼女の長い髪が、寝具の上にふわりと広がる。そんな些細な事にさえ、愛しさがとめどなく溢れてくるようだ。
いつだって、ユリナの方がアランよりもずっと強かった。
ブローチを失くした時、彼女は諦めずに探し続けてくれた。そのおかげで繋がった縁がある。
そして、アランが進む道を見失った時にも、ユリナが行く先の光を見せてくれた。
ずっとずっと、自分が彼女を守っているつもりで、彼女に支えられてきたのだと思い知る。
今日と明日、やるべき事をこなして、その結果がどうなろうと、祭りの日はユリナさんと共に過ごそう。一日くらいはどうにでもなる。その日一日は、彼女のためだけの時間にするんだ。
それだけで今まで貰ったものが返せるとは思えないけれど、せめて彼女にとって大切な思い出のひとつになってくれる事を祈って。
ユリナを起こしてしまわないように、そっと手を伸ばして、彼女の滑らかな頬に触れた。
離れ難いけれど、これから先の時間のために、今は行かなくてはならない場所がある。
「いってきます」
小さく囁いて彼女から手を離し、音を立てないようにベッドから下りる。今から支度をして出発すれば、昼過ぎには王都へ辿り着けるだろう。
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