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第二章 青色の魔法

4話 隣国から来た人

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  徐々に強くなってきた雨を振り払うように駆けて、アランは宿屋の扉に手をかけた。
  ここに辿り着いた当初は、子供を連れて商いをしているという行商人一家と、近隣の商店の主達、そして数人の旅人がここに足止めされていた。しかし、アラン達が手分けして彼らを送り届け、現在はそのほとんどが無事グレストの街に辿り着く事が出来ている。
  昨日の昼に土砂崩れが起きる直前、大型の乗合馬車が街道を抜けて行ったばかりで人が少なかったのは、不幸中の幸いと言えた。そうでなければ、彼らを避難させるだけで日を跨ぐ羽目になっていただろう。先程ヘクターも言っていた通り、ここだっていつ崩れるか分からないのだ。事は迅速に運んだ方がいい。
  そうして子供や女性から順に避難させていき、つい先程、宿の主人の妻を荷物ごと街へ送り届けて、残るは主人と一人の旅人のみとなった。外はそろそろ日が傾き始めている。夜の森は危険だ。少し急がなくてはいけない。
「主人、居るか」
  宿屋の玄関から入り、二階に続く階段と受付の間にある短い廊下を抜けると、三十席ほどの食堂がある。食堂の隅には小さなバーが併設されており、そのカウンターの前に、少々やつれた雰囲気の男が立っていた。
「ああ、領主様、ご無事で……その、私の妻は」
「私の部下が、奥方の実家まで送り届けた。今頃は家に着いた頃だろう」
  アランの言葉に、ヘクターはホッとしたように息を吐いた。
「良かった……本当にありがとうございます。私は隣国から婿養子に入ったもので、今頼れるのは妻の実家だけなんです」
「隣国……というと、アスタルか」
  山に囲まれたマルレスタにおいて隣国と呼べるのは、ここからオース街道を南下した先にある、帝国アスタルただひとつだけだ。街道の果てに大地を切り分けるような深い川が横たわっていて、それを渡った先がアスタルの領地となっているのだが、この雨では川が氾濫している恐れもあるため、現在は隣国に向かう事は出来ない。
「祖国に戻れないというのは何かと不安だろう。早く雨が止むといいのだが……」
「あ、ああ、いえ……私には、もともと帰る家などはありませんから、それは構わないんです……その、すみません」
  アランから目を逸らして、主がモゴモゴと詫びの言葉を口にする。彼はずっとこの調子で、警戒するように拳を握りしめたまま、アランとはろくに目も合わせようとしない。自分はそんなに恐ろしい見た目をしているのだろうか。
  ……いや、アランの容姿に関わりなく、アスタル出身の彼が騎士団を前に気まずい思いをするのは、無理のない話なのだろう。
  というのも、マルレスタの民が度々口にする『戦争』とは、他でもないアスタルを相手に行われていたものだからだ。
  もちろんそれはアランが産まれるよりも前の話で、現在は和平が結ばれているし、アラン自身もアスタルという国に特別悪い印象を抱いてはいない。
  とはいえ、ヘクターのように当時を知る者達にとっては、そう簡単に割り切れる話でもないはずだ。
「ああ、そうだ……そちらのお客さんも、アスタルからいらっしゃったんですよね」
  アランが黙っていると、ヘクターはなにやら焦った様子で話を逸らした。その視線の先には、誰も居ない小さなバーカウンターに座る、若い男の背中があった。
  完全に背を向けて我関せずを決め込んでいた男は、いきなり話を振られて驚いたように振り向いた。
「え、ええ……そうですけど」
  年の頃は二十歳前後くらいだろうか。切りっぱなしの短い髪と、そばかすの浮いた肌には、どこか幼さが残る。手の甲までをすっぽり覆うほど長いシャツの袖のせいで、余計にそう見えるのかもしれない。そんな彼の足元には、一人分の旅の荷物を詰め込んだ麻袋が無造作に置かれていた。
「そういえば、貴方は人を待っていると言っていたな。待ち人には会えそうか?」
  他の宿泊客が順番に街へと向かう中、アスタルから来るはずの連れ合いを待つと言って、彼はギリギリまでここに残ったのだった。しかしアランの問いに対して、彼は悲しげに首を振る。
「やっぱり無理そうです。……あの人も、向こうで足止めされているんだと思うので、出来れば迎えに行きたいんですけど……」
「気持ちは分かるが、今は辞めておいた方が良い」
「そうですよね……」
  カウンターに肘をついて、深々とため息を吐く。どうやら彼にも、いろいろと事情がありそうだ。
「なんか訳ありみたいですけどね、お客さん。そろそろここも閉めますから、お客さんも一度街へ向かわれた方がいいですよ」
  気遣わしげな様子で、ヘクターがそう口にする。言われた青年の方も、恐縮したように首をすくめた。
「そう、ですね……すみません、長居してしまって。……あの、もしも営業再開した時に、ぼくを探している人が来たら、引き留めておいてくださいね」
  まだ諦めきれないらしく、青年は足元の荷物を抱え上げながらも、そう言って店主に頭を下げた。彼の待ち人とは、彼にとってよほど大切な人なのだろう。
「では、日が暮れる前に出発しよう。主人、貴方も……」
  我々と一緒に行こう。と、かけようとした声は、突如響き渡った空を引き裂くような轟音に掻き消されて、跡形もなく砕け散った。
「な……」
  それが落雷の音だと理解するよりも早く、遠くの方で何かがなぎ倒されるような恐ろしい音が響いて、激しい揺れに足を取られそうになる。
「な、なんですか?!」
「地震……?」
  慌てた様子で、青年とヘクターがカウンターに縋り付く。だがこれは、おそらく地震などではない。
  案の定、揺れ自体はすぐに収まり、室内には叩きつけるように激しい雨音と、困惑する三人の息遣いだけが残った。けれどそれも束の間の事で、すぐに慌ただしい足音が割り込んで来る。
「団長……っ! アラン団長!」
  息を切らせながら飛び込んできた長身は、ダドリーだった。髪や外套から滴るしずくを拭う余裕も無い部下の様子に、否が応でも不穏な気配を感じてしまう。
「どうしたんだ、ダドリー。今の揺れは……」
「団長、不味いことになりました。先程の雷の後、さらに崖が崩れてきまして……迂回路の方まで、完全に塞がれてしまいました。倒木と土砂に埋め尽くされて、酷い有様です」
  苦々しく告げられた言葉に、ヘクターが絶望的な表情を浮かべる。
「で、では、我々は……」
「ここに閉じ込められた、という事になります」
  ダドリーがそう言ったきり、四人の間に重苦しい沈黙が流れる。最悪の状況に思わず頭を抱えてしまいたくなるが、そんな暇は無さそうだ。
「……もう少し、詳しく状況を伝えてくれ。怪我人は?」
「いません。崩れる直前で、どうにか自分だけ滑り込んで来たので、他に巻き込まれた者はいないはずです。向こう側にはネストがいますから、ウォルターさん辺りに報告を入れるとは思いますが……」
「そうか。まあ、不幸中の幸いだな」
  ひとまず、この状況で怪我人がいないのは僥倖ぎょうこうだ。よりによって、ネストとウォルターの二人を頼るしかない現状に少々不安はあるが、少なくとも、ここで本格的に遭難するという心配はないだろう。
「あの……ぼくたち、どうなるんでしょうか」
  おずおずと、頼りなげな声が上がる。アランが声の方を振り向くと、心配そうにこちらを見上げている青年と目が合った。そうだ、ここで自分達が不安がっていてどうする。
「心配いりませんよ。我々の仲間が救援の手立てを見つけてくれるはずですから。……とはいえ、しばらくこの場に留まらなくてはならないのも事実ですが」
「ああ、それでしたら……ここにいる四人くらいなら、数日やり過ごせるくらいの蓄えはありますよ」
「すまない。助かる」
  ヘクターに頷いて答えると、再び沈黙が落ち、それぞれになんとなく顔を見合わせ合う。
  アランとダドリー、年若い旅人に、気弱そうな宿の主人。ここに集まった四人は、どうにも奇妙な取り合わせだった。


  数分後。宿に閉じ込められた男達は、誰からともなくひとつのテーブルに集まり、四人で顔を突き合わせるようにして座っていた。若干気まずくはあるが、それでもこの状況下で、敢えてバラバラに行動する気にはなれない。口には出さないが、おそらく他の三人も同じなのだろう。
  アランとダドリーは家族同然の長い付き合いだが、他の二人の素性はほとんど分からない。本来なら関わりを持たないはずの人々が、偶然の嵐によって束の間の時間を共有する……なにやら不思議な状況だ。まるで小説の導入のように、ある種異様な雰囲気ではあるが、ユリナさんならこんな話も喜んで聞いてくれるかもしれない。そうだ、たしか少し前にも、彼女は今の状況と似た小説の話を、楽しそうに語って聞かせてくれたのだから……
「団長。アラン団長。聞いてますか?」
  隣に座るダドリーに肩を揺すられ、アランはハッと我に返った。
「あ、ああ……すまない、ちょっと考え事をしていた」
  自分の中に沈み込んでいた思考を呼び戻すために、軽く頭を振ってダドリーの方へ向き直る。真横で話をされていたのに、まるで聞こえていなかった。緊急事態だというのに気を抜き過ぎた。
  そんなアランの様子に、年上の部下であるダドリーは少し困ったような表情を向けた。
「団長、ちょっとお疲れなんじゃないですか? このところ働き詰めだったので無理もないですが……」
「いや、大丈夫だ。それより何の話だったんだ?」
  よもや、妻との会話を思い返すのに夢中で聞いていなかっただけとも言えず、アランはやや強引に話を戻した。
  ダドリーはまだ何か言いたげだったが、それ以上は何も言わない。空気が読めるところが彼の美点のひとつである。というより、分かっていて敢えて読まないネストやウォルターのタチが悪すぎるのだという気もするが。
  テーブルの上に置いた両手の指を組んで、ダドリーは自分以外の三人の顔を見回した。
「こうして黙って顔を突き合わせていても仕方がないので、自己紹介がてら何か話をしようと言っていたところですよ。我々騎士団は、ここに着いた時に名乗りましたが、自分はお二人の名前すら知りませんから。ねえ、ご主人」
  ダドリーに会話の矛先を向けられ、宿の主人は両手をきっちり膝の上に乗せたまま、亀のように首をすくめた。
「は、はあ……そういえば、そうですね。……すみません、名乗りもせずに。私はヘクターと申します。五年ほど前に妻の家へ婿入りして以来、マルレスタに住むようになりまして……前の領主様には、なにかと目をかけていただきました」
  前の領主様とは、言わずもがな、アランの父グランツの事である。
  ヘクターが言葉を切ったのを見て、その右横……アランの向かいに座る旅人の青年が、少し戸惑ったように視線を揺らした。
「あ、ええと……ぼくの事はトラヴィスと呼んでください。その、わざわざお話できるような事は、特に無いんですが……」
「あんたさえ良ければ、旅の目的を教えてくれないか。俺は殆ど故郷から出たことが無いんでな。旅暮らしに興味があるんだ」
  ダドリーが気さくに言って、トラヴィスとの会話を促す。人好きのする性格の部下が居てくれて助かった。アランひとりだけなら、未だに気まずい沈黙が続いていたはずだ。
「目的……というか、旅自体が目的な訳では無いんです。なんというか、その……駆け落ち、のようなもので。故郷では一緒に居られなかったので、誰もぼくたちの事を知らないところに二人で行こうって……それで、マルレスタで少しお金を貯めて、船で遠くに行くつもりだったんです。……まあ、こうしていきなり躓いてしまいましたけど」
  そう言ってシャツの袖を引っ張りながら、トラヴィスが少し言い淀む。なるほど、そういう事情なら、彼がここを離れたがらなかったのも分かる。彼の待ち人とは、彼の恋人の事だったのだ。
「そうか……それなら、なおのこと心配だな? こんな雨の中、女性一人じゃ何かと危険だ」
「え? ええ、そうですね……」
  ダドリーの言葉にぎこちなく頷いて、トラヴィス青年はなぜか目を逸らした。
  その後もポツポツと会話を交わす三人のやり取りを聞きながら、アランはまた、自分が深い思考の海へ沈んでいくのを感じていた。
  流れ落ちていく雨の音と共に思い出すのは、いつだってあの人の晴れ空のような瞳だ。
  彼女は今頃、何をしているのだろうか。
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