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第三章 変わる心
二話 昔ばなし
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「おや、ファリスはいないのかい?」
ドアを開いて、杖をつきながらゆっくりと店内に入って来たのは、俺の数少ない知り合いの一人である、パメラ婆さんだった。
一瞬、ほんの一瞬だけ、ファリスが帰ってきたのかと期待してしまった自分に気づかないふりをして、俺は少し腰を浮かせた。
「あいつは出張の修理依頼で出かけてます。……あ、ここどうぞ」
カウンターの向かい側に置いてある椅子を手で示すと、婆さんはよたよたと近づいてきて、焦れったいほどのんびりした動作で腰を下ろした。
「はあ、やれやれ。この店に来るだけでも時間がかかっちまって、困ったもんだよ」
杖をカウンターの端に引っ掛けて、婆さんは自分の膝を億劫そうにさする。小さい体に対して頭とクチバシがデカすぎるから、そのせいで腰が曲がってしまうのだろうなと思った。
「あー、ええと……ご用件は?」
「店の掛け時計を新調しようと思ってね。こればっかりはアタシが直接選ばなきゃしょうがないだろ? だから店も休みにしてここまで来たのさ」
「はあ、なるほど。なんかすみません、わざわざ来てもらったのに、あいつ留守にしてて」
あんたのとこのウエイトレスが無理やり連れて行っちまったんすよ、とチクってやろうかと思ったが、ますます虚しくなりそうなので辞めておいた。
「なに、店さえ開けてくれてりゃ十分さ。無駄足にならずに済んだからね」
そう言って、婆さんはいつものようにガパリとクチバシを開けた。俺が少し身を乗り出していたせいで、開いたクチバシの先がうっかりストールに引っ掛かりそうになり、俺は慌てて背筋を伸ばして距離を取った。結果的に礼儀正しい店員の姿勢になった俺は、そのまま婆さんに話しかける。
「えー……掛け時計でしたっけ? よかったらなんか持ってきましょうか」
「いや、もうちょっと休憩させて貰ったら、ちゃんと自分で見に行くよ。悪いね、椅子ひとつ占領しちまって」
「大丈夫っすよ。他のお客もいないんで」
もともとファリスの店は、ひっきりなしに客がやって来るような場所では無い。時計なんてそうそう買い換える物でもないから、無理のない話だ。
他に誰もいない店内で、鳥頭の婆さんと二人きり。そういえば、この人とゆっくり話すのは初めてだ。パメラ婆さんと関わる時は、なぜか毎回あのマリモ男に酷い目に遭わされている気がする。
「えーと……そういや、ファリスは昔、パメラさんに拾われたんだって聞いたんすけど、ホントですか」
ずっと気がかりだった事を聞く良い機会だと口を開いた俺を見上げ、婆さんはぱちぱちと目を瞬いた。
「そんなこと誰に聞いたんだい」
「リックです。ここの前で靴屋をやってる……」
「ああ、あの子かい。あの子はほんとにお喋りだねえ」
鋭い目をギュッとすがめて、婆さんは少し呆れたように呟いた。
「確かにアンタが聞いた通り、ファリスはアタシが拾ったんだ。今から十五年前、アンタが落ちてたのと同じ、ゴミ山でね」
「……捨てられたって事っすよね。上層の街から」
「捨てられたのか、それとも自分から飛び降りたのか……アタシも詳しい事情は未だに知らないんだ。あの子も上層での事は忘れたいようだったし、アタシの方だって無理に聞き出す気にはなれなかったからね。……アタシが見つけた時、あの子は花びらを毟られて、顔中血塗れだった。まだ十四かそこらの子がそんな目に遭わされた場所のことなんか、思い出すだけで苦痛に決まってる」
カウンターの上に視線を落として、婆さんは淡々と、ファリスの過去を語った。俺が知らない、まだ子供だったファリスの話を。
あいつの花びらや茎にもちゃんと血が通っている事を、俺は知っている。あれは花のようであって花ではない、れっきとした体の一部なのだ。
だからつまり、それを引きちぎられるという事は、ファリスにとって、耳や鼻を削ぎ落とされるのと同じ事なんじゃないのか。
「……っ」
俺は思わず、ストールの下で唇を噛み締めた。
あいつは一体、どんな気持ちで俺を拾ったのだろう。どう見たって人間でしかない、自分と同じ場所に落ちていた俺を。
「悪いね。嫌な話だったろ」
「いや……そもそも俺が聞いたんで」
視線を落としたままで答えると、婆さんは小さく息を吐いた。
「……元々はね、上層に住んでる奴らも、下層に住んでるアタシらも、同じ人間だった。それが今から千年ほど前、地上で流行りだした伝染病を避けるために、一部の人間が空中都市を造り上げて移り住んだ。それが始まりだったと言われてる」
「じゃあ、この街に住んでる人達は……」
「空中都市に移り住めたのは、一部の特権階級だけ。地上に残された人間達は、伝染病が蔓延する土地で生き延びるために、少しずつ姿を変えていったんだ。人間には生きられない環境だったから、人間以外のモノの姿を借りようとしたのかねえ」
俺がその話を噛み砕くのを待つように、少しの間を空けて、そしてまた婆さんは語り出した。
「……結果として、アタシら下層の住民は、病の猛威を耐え切った。いつの間にか伝染病は収束して、後には二層に分かたれた街と、人で無い姿に成り果てた住民だけが残ったんだよ」
「それが、今のこの街……」
「そういう事さ。……アンタ、本当に全部忘れちまってるんだね」
その言葉に、俺はハッとして口を噤んだ。そういえば、俺は記憶喪失という設定なのだった。
「すみません、いろいろ聞いちまって。俺、自分の名前以外なんも覚えてなくて」
「良いさ。覚えてないのは、アンタの体がアンタを守ろうとしてるのかも知れない。忘れたまんまだって、これから新しい記憶は作れるんだ。それで十分だろ」
俺を慰める婆さんの口調はいかにも優しくて、顔に傷を負って記憶を失くした青年を心から労わっているのが分かった。
そんなやつ、本当はどこにも存在しないのに。
「アンタさえ良ければ、記憶が戻っても戻らなくても、これからずっとファリスと一緒に居てやっておくれ。あの子がこんなに他人に興味を持つなんて初めての事なんだ。よっぽどアンタの事を気に入ったんだろうよ」
そう言って婆さんは笑ったが、俺は何も答える事が出来なかった。
俺は、この人が思うような、ファリスと同じ傷を持つ理解者なんかじゃない。子供だったあいつを搾取していた側の存在──人間だ。それを知ったら、この人はなんて言うだろう。
きっと、ファリスの傍に居てやってくれ、なんて、絶対に言ってはくれないんだろうな。
その後、婆さんはたっぷりと時間をかけて店内を見て回り、デカい文字盤の付いた振り子時計を買って、来た時と同じのんびりした足取りで帰って行った。
それからは婆さん以外の客がやって来る事もなく、店内の時計達は気づけば夕刻を指し示し、扉の横の出窓から見える景色は、少しずつ墨を混ぜ込んだような暗い色に染まり始めていた。だが、それだけの時間が経っても、ファリスはまだ帰って来ない。時計の修理というのは、そんなに時間が掛かるものなのか。それともやっぱり、あの女と……。
外が暗くなってくると、それに釣られて思考までどんどん悪い方に染まっていく。パメラ婆さんから聞いた話が、静けさを糧にして、少しずつ膨れ上がっていくのを止められない。それはまるで、一度聞いたら忘れられない、恐ろしいおとぎ話のように、俺の中に根を張って、頭の中を侵し始めた。
違う。この街に全ての穢れを押し付けて逃げ出したのも、幼いファリスを傷つけて捨てたのも、俺じゃない。俺じゃない、のに。
頭の中で、誰か、たくさんの人が囁いてる。全部お前のせいだ。お前が悪い。お前は嫌われ者の人間だ。お前は、世界で一人きりだ。
(うるせえ……)
時計の秒針の音が、脳を蝕んでいく。夜は怖い。一人は嫌だ。家の外は真っ暗で、見知らぬ怪物がうじゃうじゃいて、俺は部屋の中から出る事ができない。ここは同じだ。子供の頃に住んでいた、あのアパートと。
あの人が二度と帰って来ないんじゃないかって、不安に怯えながら待ち続けてる。俺自身も、子供のまま。
「……チヒロ?」
突然聞こえた声に驚いて、俺はカウンターに座ったまま、慌てて顔を上げた。
「ファリス……?」
「遅くなってすみません。何か変わった事はありませんでしたか?」
いつの間に帰っていたのか、俺の目の前には、工具箱を持ったファリスが立っていた。
「あ……」
その顔を見た瞬間、ギリギリで押し込めていた感情が一気に溢れ出した。
孤独、不安、寂しさ。それらを全部裏返した、心の底からの、安堵。
ストールの下の顔が、真っ赤になるのが分かる。ファリスの方を見ていられなくなって、俺は転げるように椅子から下りると、何も言わずに店の奥へと駆け出した。
「チヒロ!」
驚いた様子の声が聞こえたが、立ち止まる気にはなれなかった。裏口の扉を乱暴に開け放して、もつれそうな足を必死に動かして二階まで駆け上がる。飛び込んだ部屋の中は真っ暗で、開いたままのカーテンの隙間から差し込む街灯の明かりだけが、唯一淡い光を落としていた。
寒くて暗い部屋の中をふらふらと歩いて、何かに引き摺られるように、ダイニングテーブルへと近づく。その上には、置き去りにされたオルゴールが、切なげな影をまとって佇んでいた。
その光景を見た瞬間、言いようのない不安に襲われて、俺は震える手を小さなオルゴールに伸ばした。けれど指の先がそれに触れた途端、立っている事すら出来なくなって、オルゴールを抱いたままテーブルの脇に座り込む。顔を覆うストールも煩わしくて、引きむしって床に投げ捨てた。
結局俺は、大人になんてなれていなかった。夜が怖くて、独りが怖くて、怯えている子供のまま、こうして今も、暗い部屋で震える事しか出来ないでいる。
「……だっせえ」
いつからか、ここにならずっと居られるんじゃないかって、そんな呑気な事を考えるようになっていた。だけどファリスだって言っていたじゃないか。俺は“異物”なんだって。
姿を隠して、嘘を重ねなくては存在すら許されない、嫌われ者の人間。初めから無理があったんだ、こんな異世界で、余所者が平然と暮らしていこうなんて。
ファリスが今、俺をこの家に住ませているのだって、ただの気まぐれだ。俺を好きに扱うのに飽きて、あいつがあの女の所へ行ってしまったとしても、俺にそれを咎める権利は無い。そうしてこの家を追い出されたら、他に俺を受け入れてくれる人なんて、きっと一人もいないだろう。
そうだ。俺が居ていい場所なんて、初めからどこにもなかったんだ。
「チヒロ?」
足早に階段を駆け上がってくる音と、俺の名前を呼ぶ声が聞こえて、不意に視界が明るくなった。どうやら、俺を追ってきたファリスが部屋の明かりを付けたようだ。
「……まだ店閉める時間じゃないだろ。戻れよ」
こんな情けない姿を見られたくなくて、俺は座り込んだまま、顔を上げずにそう言った。しかしファリスは立ち止まる事なく、俺の元へ近づいてくる。
「今日はもう店じまいにしました。それより、僕が居ない間に何かあったんですか?」
「別に。なんもない」
「何も無かった人の言い方じゃないですよ、それ」
テーブルの下にうずくまる俺の横に膝をついて、ファリスは俺の髪をそっと撫でた。何度もやめろって言ったのに、それでもファリスは、変わらず俺の頭を撫でたがる。
こうやって、子供のように扱われる事を、心の底では嬉しいと感じている。そんな浅はかな自分に気付かされるのが、何よりも嫌だった。
「触んな」
ファリスの手から逃れようと体を捩る。けれど、それよりも早く、ファリスの手が俺の背中に回されて、そのままキツく抱き締められた。
「な、にすんだ」
「チヒロ。ちゃんと話してくれないと分かりませんよ」
「……話したって分かんねえよ」
あんたが帰って来なかったらどうしようって思って怖かったんだ、とか。ここに居られなくなるんじゃないかって不安になったんだ、とか。そんなこと、言えるはずがない。
(ああ、そうか……)
都合が良いだけじゃなくて。他に行き場所が無いから仕方なくでもなくて。
俺はいつの間にか、他でもないこの場所に、ファリスのそばに、居たいと思い始めていたらしい。
「…………っ」
バカみたいだ。きっとファリスは俺のことなんて、ちょっと珍しい玩具くらいにしか思ってない。俺だって、それを分かっていて利用した。
それなのに、今さら俺は、ファリスに俺自身を求めて欲しいと思っている。
だって、初めてだった。こんなに安心できる場所を見つけたのも、子供のように頭を撫でられたのも、それから、こうしてただ抱き締められたのだって。
「どうして、泣いているんですか」
「……え?」
ファリスに言われて初めて、俺は自分が泣いている事に気がついた。驚く俺の濡れた頬に、ファリスの指が触れて、親指でぐいぐいと、擦るように涙を拭われる。
「……痛い」
「ああ、すみません。こういう時に、どうすればいいのか分からなくて」
戸惑ったように言いながら、ファリスはもう一度俺を抱き締め直して、ぽんぽんと、あやすように背中を叩いた。
「ん……」
小さなオルゴールを抱いたまま、ファリスの体に体重を預けて、その肩に顔を埋める。その途端、優しい香りと体温に包まれて、体の奥がじわりと温かくなった。
この腕の中には、怖いことも、悲しいこともない。温かくて、落ち着く場所。
何も言わずに頬を擦り寄せる俺を、それ以上問い詰めたりせず、ファリスもただ黙って頭を撫でてくれた。
「ファリス……」
身を寄せて、名前を呼ぶだけで、乱れていた心が凪のように穏やかになっていく。
いつまでも、このままでいられたら良い。
いつかやってくるだろう綻びに、今は気づかないふりをして、俺は甘い香りに身を委ねた。
ドアを開いて、杖をつきながらゆっくりと店内に入って来たのは、俺の数少ない知り合いの一人である、パメラ婆さんだった。
一瞬、ほんの一瞬だけ、ファリスが帰ってきたのかと期待してしまった自分に気づかないふりをして、俺は少し腰を浮かせた。
「あいつは出張の修理依頼で出かけてます。……あ、ここどうぞ」
カウンターの向かい側に置いてある椅子を手で示すと、婆さんはよたよたと近づいてきて、焦れったいほどのんびりした動作で腰を下ろした。
「はあ、やれやれ。この店に来るだけでも時間がかかっちまって、困ったもんだよ」
杖をカウンターの端に引っ掛けて、婆さんは自分の膝を億劫そうにさする。小さい体に対して頭とクチバシがデカすぎるから、そのせいで腰が曲がってしまうのだろうなと思った。
「あー、ええと……ご用件は?」
「店の掛け時計を新調しようと思ってね。こればっかりはアタシが直接選ばなきゃしょうがないだろ? だから店も休みにしてここまで来たのさ」
「はあ、なるほど。なんかすみません、わざわざ来てもらったのに、あいつ留守にしてて」
あんたのとこのウエイトレスが無理やり連れて行っちまったんすよ、とチクってやろうかと思ったが、ますます虚しくなりそうなので辞めておいた。
「なに、店さえ開けてくれてりゃ十分さ。無駄足にならずに済んだからね」
そう言って、婆さんはいつものようにガパリとクチバシを開けた。俺が少し身を乗り出していたせいで、開いたクチバシの先がうっかりストールに引っ掛かりそうになり、俺は慌てて背筋を伸ばして距離を取った。結果的に礼儀正しい店員の姿勢になった俺は、そのまま婆さんに話しかける。
「えー……掛け時計でしたっけ? よかったらなんか持ってきましょうか」
「いや、もうちょっと休憩させて貰ったら、ちゃんと自分で見に行くよ。悪いね、椅子ひとつ占領しちまって」
「大丈夫っすよ。他のお客もいないんで」
もともとファリスの店は、ひっきりなしに客がやって来るような場所では無い。時計なんてそうそう買い換える物でもないから、無理のない話だ。
他に誰もいない店内で、鳥頭の婆さんと二人きり。そういえば、この人とゆっくり話すのは初めてだ。パメラ婆さんと関わる時は、なぜか毎回あのマリモ男に酷い目に遭わされている気がする。
「えーと……そういや、ファリスは昔、パメラさんに拾われたんだって聞いたんすけど、ホントですか」
ずっと気がかりだった事を聞く良い機会だと口を開いた俺を見上げ、婆さんはぱちぱちと目を瞬いた。
「そんなこと誰に聞いたんだい」
「リックです。ここの前で靴屋をやってる……」
「ああ、あの子かい。あの子はほんとにお喋りだねえ」
鋭い目をギュッとすがめて、婆さんは少し呆れたように呟いた。
「確かにアンタが聞いた通り、ファリスはアタシが拾ったんだ。今から十五年前、アンタが落ちてたのと同じ、ゴミ山でね」
「……捨てられたって事っすよね。上層の街から」
「捨てられたのか、それとも自分から飛び降りたのか……アタシも詳しい事情は未だに知らないんだ。あの子も上層での事は忘れたいようだったし、アタシの方だって無理に聞き出す気にはなれなかったからね。……アタシが見つけた時、あの子は花びらを毟られて、顔中血塗れだった。まだ十四かそこらの子がそんな目に遭わされた場所のことなんか、思い出すだけで苦痛に決まってる」
カウンターの上に視線を落として、婆さんは淡々と、ファリスの過去を語った。俺が知らない、まだ子供だったファリスの話を。
あいつの花びらや茎にもちゃんと血が通っている事を、俺は知っている。あれは花のようであって花ではない、れっきとした体の一部なのだ。
だからつまり、それを引きちぎられるという事は、ファリスにとって、耳や鼻を削ぎ落とされるのと同じ事なんじゃないのか。
「……っ」
俺は思わず、ストールの下で唇を噛み締めた。
あいつは一体、どんな気持ちで俺を拾ったのだろう。どう見たって人間でしかない、自分と同じ場所に落ちていた俺を。
「悪いね。嫌な話だったろ」
「いや……そもそも俺が聞いたんで」
視線を落としたままで答えると、婆さんは小さく息を吐いた。
「……元々はね、上層に住んでる奴らも、下層に住んでるアタシらも、同じ人間だった。それが今から千年ほど前、地上で流行りだした伝染病を避けるために、一部の人間が空中都市を造り上げて移り住んだ。それが始まりだったと言われてる」
「じゃあ、この街に住んでる人達は……」
「空中都市に移り住めたのは、一部の特権階級だけ。地上に残された人間達は、伝染病が蔓延する土地で生き延びるために、少しずつ姿を変えていったんだ。人間には生きられない環境だったから、人間以外のモノの姿を借りようとしたのかねえ」
俺がその話を噛み砕くのを待つように、少しの間を空けて、そしてまた婆さんは語り出した。
「……結果として、アタシら下層の住民は、病の猛威を耐え切った。いつの間にか伝染病は収束して、後には二層に分かたれた街と、人で無い姿に成り果てた住民だけが残ったんだよ」
「それが、今のこの街……」
「そういう事さ。……アンタ、本当に全部忘れちまってるんだね」
その言葉に、俺はハッとして口を噤んだ。そういえば、俺は記憶喪失という設定なのだった。
「すみません、いろいろ聞いちまって。俺、自分の名前以外なんも覚えてなくて」
「良いさ。覚えてないのは、アンタの体がアンタを守ろうとしてるのかも知れない。忘れたまんまだって、これから新しい記憶は作れるんだ。それで十分だろ」
俺を慰める婆さんの口調はいかにも優しくて、顔に傷を負って記憶を失くした青年を心から労わっているのが分かった。
そんなやつ、本当はどこにも存在しないのに。
「アンタさえ良ければ、記憶が戻っても戻らなくても、これからずっとファリスと一緒に居てやっておくれ。あの子がこんなに他人に興味を持つなんて初めての事なんだ。よっぽどアンタの事を気に入ったんだろうよ」
そう言って婆さんは笑ったが、俺は何も答える事が出来なかった。
俺は、この人が思うような、ファリスと同じ傷を持つ理解者なんかじゃない。子供だったあいつを搾取していた側の存在──人間だ。それを知ったら、この人はなんて言うだろう。
きっと、ファリスの傍に居てやってくれ、なんて、絶対に言ってはくれないんだろうな。
その後、婆さんはたっぷりと時間をかけて店内を見て回り、デカい文字盤の付いた振り子時計を買って、来た時と同じのんびりした足取りで帰って行った。
それからは婆さん以外の客がやって来る事もなく、店内の時計達は気づけば夕刻を指し示し、扉の横の出窓から見える景色は、少しずつ墨を混ぜ込んだような暗い色に染まり始めていた。だが、それだけの時間が経っても、ファリスはまだ帰って来ない。時計の修理というのは、そんなに時間が掛かるものなのか。それともやっぱり、あの女と……。
外が暗くなってくると、それに釣られて思考までどんどん悪い方に染まっていく。パメラ婆さんから聞いた話が、静けさを糧にして、少しずつ膨れ上がっていくのを止められない。それはまるで、一度聞いたら忘れられない、恐ろしいおとぎ話のように、俺の中に根を張って、頭の中を侵し始めた。
違う。この街に全ての穢れを押し付けて逃げ出したのも、幼いファリスを傷つけて捨てたのも、俺じゃない。俺じゃない、のに。
頭の中で、誰か、たくさんの人が囁いてる。全部お前のせいだ。お前が悪い。お前は嫌われ者の人間だ。お前は、世界で一人きりだ。
(うるせえ……)
時計の秒針の音が、脳を蝕んでいく。夜は怖い。一人は嫌だ。家の外は真っ暗で、見知らぬ怪物がうじゃうじゃいて、俺は部屋の中から出る事ができない。ここは同じだ。子供の頃に住んでいた、あのアパートと。
あの人が二度と帰って来ないんじゃないかって、不安に怯えながら待ち続けてる。俺自身も、子供のまま。
「……チヒロ?」
突然聞こえた声に驚いて、俺はカウンターに座ったまま、慌てて顔を上げた。
「ファリス……?」
「遅くなってすみません。何か変わった事はありませんでしたか?」
いつの間に帰っていたのか、俺の目の前には、工具箱を持ったファリスが立っていた。
「あ……」
その顔を見た瞬間、ギリギリで押し込めていた感情が一気に溢れ出した。
孤独、不安、寂しさ。それらを全部裏返した、心の底からの、安堵。
ストールの下の顔が、真っ赤になるのが分かる。ファリスの方を見ていられなくなって、俺は転げるように椅子から下りると、何も言わずに店の奥へと駆け出した。
「チヒロ!」
驚いた様子の声が聞こえたが、立ち止まる気にはなれなかった。裏口の扉を乱暴に開け放して、もつれそうな足を必死に動かして二階まで駆け上がる。飛び込んだ部屋の中は真っ暗で、開いたままのカーテンの隙間から差し込む街灯の明かりだけが、唯一淡い光を落としていた。
寒くて暗い部屋の中をふらふらと歩いて、何かに引き摺られるように、ダイニングテーブルへと近づく。その上には、置き去りにされたオルゴールが、切なげな影をまとって佇んでいた。
その光景を見た瞬間、言いようのない不安に襲われて、俺は震える手を小さなオルゴールに伸ばした。けれど指の先がそれに触れた途端、立っている事すら出来なくなって、オルゴールを抱いたままテーブルの脇に座り込む。顔を覆うストールも煩わしくて、引きむしって床に投げ捨てた。
結局俺は、大人になんてなれていなかった。夜が怖くて、独りが怖くて、怯えている子供のまま、こうして今も、暗い部屋で震える事しか出来ないでいる。
「……だっせえ」
いつからか、ここにならずっと居られるんじゃないかって、そんな呑気な事を考えるようになっていた。だけどファリスだって言っていたじゃないか。俺は“異物”なんだって。
姿を隠して、嘘を重ねなくては存在すら許されない、嫌われ者の人間。初めから無理があったんだ、こんな異世界で、余所者が平然と暮らしていこうなんて。
ファリスが今、俺をこの家に住ませているのだって、ただの気まぐれだ。俺を好きに扱うのに飽きて、あいつがあの女の所へ行ってしまったとしても、俺にそれを咎める権利は無い。そうしてこの家を追い出されたら、他に俺を受け入れてくれる人なんて、きっと一人もいないだろう。
そうだ。俺が居ていい場所なんて、初めからどこにもなかったんだ。
「チヒロ?」
足早に階段を駆け上がってくる音と、俺の名前を呼ぶ声が聞こえて、不意に視界が明るくなった。どうやら、俺を追ってきたファリスが部屋の明かりを付けたようだ。
「……まだ店閉める時間じゃないだろ。戻れよ」
こんな情けない姿を見られたくなくて、俺は座り込んだまま、顔を上げずにそう言った。しかしファリスは立ち止まる事なく、俺の元へ近づいてくる。
「今日はもう店じまいにしました。それより、僕が居ない間に何かあったんですか?」
「別に。なんもない」
「何も無かった人の言い方じゃないですよ、それ」
テーブルの下にうずくまる俺の横に膝をついて、ファリスは俺の髪をそっと撫でた。何度もやめろって言ったのに、それでもファリスは、変わらず俺の頭を撫でたがる。
こうやって、子供のように扱われる事を、心の底では嬉しいと感じている。そんな浅はかな自分に気付かされるのが、何よりも嫌だった。
「触んな」
ファリスの手から逃れようと体を捩る。けれど、それよりも早く、ファリスの手が俺の背中に回されて、そのままキツく抱き締められた。
「な、にすんだ」
「チヒロ。ちゃんと話してくれないと分かりませんよ」
「……話したって分かんねえよ」
あんたが帰って来なかったらどうしようって思って怖かったんだ、とか。ここに居られなくなるんじゃないかって不安になったんだ、とか。そんなこと、言えるはずがない。
(ああ、そうか……)
都合が良いだけじゃなくて。他に行き場所が無いから仕方なくでもなくて。
俺はいつの間にか、他でもないこの場所に、ファリスのそばに、居たいと思い始めていたらしい。
「…………っ」
バカみたいだ。きっとファリスは俺のことなんて、ちょっと珍しい玩具くらいにしか思ってない。俺だって、それを分かっていて利用した。
それなのに、今さら俺は、ファリスに俺自身を求めて欲しいと思っている。
だって、初めてだった。こんなに安心できる場所を見つけたのも、子供のように頭を撫でられたのも、それから、こうしてただ抱き締められたのだって。
「どうして、泣いているんですか」
「……え?」
ファリスに言われて初めて、俺は自分が泣いている事に気がついた。驚く俺の濡れた頬に、ファリスの指が触れて、親指でぐいぐいと、擦るように涙を拭われる。
「……痛い」
「ああ、すみません。こういう時に、どうすればいいのか分からなくて」
戸惑ったように言いながら、ファリスはもう一度俺を抱き締め直して、ぽんぽんと、あやすように背中を叩いた。
「ん……」
小さなオルゴールを抱いたまま、ファリスの体に体重を預けて、その肩に顔を埋める。その途端、優しい香りと体温に包まれて、体の奥がじわりと温かくなった。
この腕の中には、怖いことも、悲しいこともない。温かくて、落ち着く場所。
何も言わずに頬を擦り寄せる俺を、それ以上問い詰めたりせず、ファリスもただ黙って頭を撫でてくれた。
「ファリス……」
身を寄せて、名前を呼ぶだけで、乱れていた心が凪のように穏やかになっていく。
いつまでも、このままでいられたら良い。
いつかやってくるだろう綻びに、今は気づかないふりをして、俺は甘い香りに身を委ねた。
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