ブルーメモリーズ

村井 彰

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日常

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 この世界で目覚めた日から、約二ヶ月。初めのうちは夜になる度、これは何もかも夢で、目が覚めたら元の世界に戻っているのではないかと恐ろしくて、なかなか寝つけずにいた。けれど日々は当たり前のように過ぎ、私は一花としての生活に、すっかり慣れつつあった。
 だって、ここでは朝起きてすぐに機嫌の悪いお母さんに物を投げつけられることもない。学校に行くたび、捨てられた教科書をごみ箱から拾い集めたり、クラスメイトからの陰口を聞きながら一日をやり過ごすこともしなくていいんだから。
 それどころか、この世界の人達は、皆私に優しくしてくれた。話しかければ笑顔で答えてくれて、休み時間には遊びに誘ってくれる。人によっては、こんなのは普通のことなのかもしれないけれど、私にとっては喉から手が出るほど欲しかった"普通"だった。
 私は、こんな毎日が楽しくて仕方ない。夢だとしても、どうか覚めないで。あんな世界には、二度と戻りたくない。ここで永遠に幸せな夢を見させて欲しい。

 そう、私は本当に幸せだ。普通で平穏な、得がたい日々に加え、さらに私には過ぎた幸せまで手に入れようとしているのだから。
 今日は、七木くんとデートの約束をしている日だ。
 ここで目覚めた直後に決意した通り、私はあれから、どうにかこちらの世界でも七木くんのルートにいけるように、地道に行動してきた。
 毎日放課後には七木くんに会いに行って、休日にはアルバイトをこなしながら、お給料で彼の好きな物を買ってプレゼントする。こんな積極的な行動、本当の私なら絶対にできないし、やってみたところできっと鬱陶しがられて終わりなのだろうけど、この世界では驚くほど全てが上手くいった。
 ゲームの時のように、メニュー画面を開いて好感度を確認することはできないけれど、何度も繰り返し見てきたのだから、七木くんとどれぐらい仲良くなれたのかは、彼のわずかな反応の違いですぐに分かる。
 そして昨日、金曜日の放課後。ありったけの勇気をふりしぼって、私は七木くんに声をかけた。明日どこかに遊びに行こうって。
 答えが返ってくるまでの一瞬が、まるで永遠みたいに感じられた。ゲームなら、断られたってまた好感度をあげ直して何度でも誘えばいい。だけど、同じ世界で七木くんを目の前にして、そんなふうに割り切ることはできなかった。これで断られてしまったら、きっと私は恥ずかしくて死んでしまう。
 けれど、そんな私の緊張を余所に、七木くんはいつもの調子であっさりとオーケーしてくれた。そのあと、まるで夢を見ているような気分のままで迎えた今日は土曜日。居ても立ってもいられなくて、早々に寮を出た私は、待ち合わせ場所の広場で七木くんが来るのを待っていた。と言っても、約束の時間まではまだ三十分以上あるけれど。
 私が今いるさざなみ公園の広場は、ゲーム内でデートの約束をした時に、待ち合わせ場所として必ず指定されるところで、さざなみ高校からはそう遠くない。そして私達が生活しているこの街さざなみ市は、日本のどこかの海に造られた、人工の海上都市だ。
 市の中央には、私達が通うさざなみ高校と、それに隣接する大学があり、その周囲は美術館や博物館などの文化施設が多く並んでいて、さらに中心部から離れたところには、ショッピングモールや遊園地、映画館などの娯楽施設も充実している。一応、市の南の方にある港からフェリーに乗れば本土とも行き来できるみたいだけど、生活のほとんどは、このさざなみ市内だけで完結できるようになっていた。
 吹き抜ける潮風が私の髪を揺らす。この都市は周囲すべてを海に囲まれ、街の随所にも水が引かれている。海から遠い場所で育った私にとっては、そんな世界観も憧れの一つだった。
「夏海ー!」
 遠くから聞こえてきた声に、座っていたベンチから反射的に立ち上がる。振り向くと、七木くんがこちらに手を振りながら駆けてくるところだった。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「う、ううん。私が早く来すぎただけだから」
 実際、今はまだ待ち合わせ時間の五分前だし。
「そう?なら良かった」
 息を弾ませながら、七木くんが笑う。
 向かい合うと、七木くんの目線と私の身長はちょうど同じくらい。太陽の下で見ると、彼の金色の髪は光を反射して、眩しいくらいに輝いて見えた。そのどれもが、ゲームでは気づけなかったことばかりだ。
「さあ行こ。今日の行き先は、さざなみ水族館だよね?」
 そういって歩き出した七木くんに続いて、駅の方に向かう。さざなみ市の中心部には、環状線の電車が通っていて、主だった場所には、だいたいそれ一本で行ける。と言っても、それを知ったのは、こちらの世界に来てからのことだ。ゲームの中では移動手段なんて気にする必要がないから。

 休日の駅にはたくさんの人が集まって、それなりの賑わいを見せている。だけど、相変わらず彼らの顔は認識できない。する必要がない、ということなのだろうけど、一人で街に出た時なんかは世界から取り残されたようで、どうしたって不安になる。
「結構混んでるねー。夏海、はぐれないように気をつけてね」
 七木くんが、少し歩幅をゆるめて私の隣に並ぶ。そうだ、今日は七木くんと一緒なんだ。なら、不安に思うことなんて何もない。
「大丈夫だよ。ちゃんと七木くんに着いて行くから」
 夢と現実の堺のような、不安定なこの世界でも、七木くんは確かに私の目の前に存在している。電車に揺られながら目的地に向かう時間も、水族館の入口に並んでチケットを買う手間も、ゲームでは省かれてしまう"無駄"でさえ、二人でなら楽しめた。いや、七木くんが楽しませようとしてくれていたんだ。私が退屈しないように、ずっと笑顔でいろんな話をしてくれた。水族館の中に入ってからも、イルカのショーにはしゃいだり、回遊魚たちの群れに圧倒されたり。そこにいる誰よりも、七木くんは全力で楽しんでいるように見えた。
 ……だけど、私は知っている。七木くんのその笑顔の下に、どうしようもない寂しさが横たわっていること。
 少しあとの、夏休みに入ってからのイベントで一花は知ることになる。七木くんには家族がいないことを。
 彼は中学生の時に事故で両親を亡くして、親戚の家に引き取られた。だけど、その親戚とは折り合いが悪く、逃げ出すようにして全寮制のさざなみ高校にやってきたんだ。
 けれど、今の一花はそんなことは知らない。だから、寂しげな表情で熱帯魚の水槽を見つめる七木くんに対して、今は何も言わない。
「あ……ごめんね、黙っちゃって。ちょっと、ぼーっとしてた」
 無言で隣に立った私に、七木くんが慌てて笑いかける。そんな七木くんに、私はなんでもない様子で返した。
「いいよ別に、そのままで。笑顔のほかにも、私はいろんな七木くんを見てみたいな」
「夏海……」
 七木くんは驚いたように目を丸くすると、目を細めて笑った。いつもの弾けるような笑顔とはまるで違う、大人びた表情だった。
「……ありがとう」
 囁くようなその言葉に、私はわざと気づかない振りをする。少しだけ、七木くんに近づけた気がした。
 そうして、穏やかで優しい時間は流れ、外に出る頃には、日はずいぶんと傾きだしていた。
「やば、もうこんな時間。急がないと門限過ぎちゃうよ!行こう夏海!」
「う、うん!」
 七木くんに手を掴まれて、夕暮れの街を走り出す。
 この街で暮らし始めてからも季節は過ぎて、気づけば周囲はもう、すっかり夏の色になっている。これから夏も秋も冬も、この街で生きていくんだ。
 七木くんと、一緒に。
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