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心霊現象はレンズの向こうに
5話 監視
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「着きました。ここです」
沙苗の運転する車に揺られること、二十分程度。辿り着いた場所は、ごく普通の単身者向けマンションのようだった。
駐車場を出て見上げたその建物は、見た限りでは各階五部屋ずつの六階建て。おもちゃのブロックで作ったような長方形の見た目をしている。
早坂がぼんやりマンションを見上げていると、車のキーとこっぺいを右手に抱いた沙苗が、パタパタ足音をさせて駆け寄ってきた。
「えっと、私の部屋はここの」
「「三階の右端」」
「……え?」
突然、声を揃えてそう言った早坂と井ノ原を振り向いて、沙苗が怪訝な顔をする。
「なんで、分かるんですか」
「えっ?!ほんとにあそこなんですか、舞浜さんの部屋……」
認めたくない思いから素っ頓狂な声をあげてしまった早坂に、沙苗と、その後ろに控えている花耶の不審な視線が突き刺さる。余計な事を言ってしまったと、そう気づいた時には完全に後の祭りだった。
「え、ええと……すみません、騒いじゃって」
言い訳にもならない台詞をごにょごにょと呟いて、早坂は気まずい思いで二人から目を逸らした。その視線の端に映るのは、沙苗の部屋の窓だ。
そうだ、あれが沙苗と花耶に見える類のモノであるはずがない。だって、あんなのどう考えたっておかしいじゃないか。
あんな……窓全体が、スモークガラスのように灰色に塗り潰された部屋なんて。
若干不審の色を滲ませながらも、沙苗はきちんと自室へ案内してくれた。
早坂達が言い当てた通り三階の右端にあった彼女の部屋は、ありふれた1Kの間取りだった。
室内は、玄関をあがった左右に風呂とトイレ、その奥にキッチン付きの部屋があり、さらにその突き当たりにはベランダに出るための掃き出し窓があるという構造だ。
そこは玄関の靴置きの上や、室内のチェストやベッド、その他至るところに可愛らしいぬいぐるみやミニチュアの小物が置かれていて、まるでおもちゃ箱のような部屋だった。けれど今の早坂には、そんな部屋の様子を楽しむ余裕などまるで無い。
「…………ぅ、ぐ」
飲み込み切れなかった悲鳴が、喉の奥から呻き声になって洩れる。それでも花耶と沙苗の手前、絶叫しなかっただけ褒めて欲しいと思った。
八畳ほどの居室。クリーム色のカーペットを軸にして、全体をパステルカラーでまとめた優しい雰囲気にまるでそぐわない、壁一面の“それ”。
「ふふっ」
早坂の隣で、井ノ原がわずかに笑い声を洩らすのが聞こえた。なぜ、この光景を見て笑えるのだろう。
沙苗の部屋は、壁一面に生え出した無数の“目”によって、一部の隙もなく監視されていた。
元の壁紙の色すら分からなくなるほどに、それはびっしりと隙間なく。おそらくは家具に隠れた部分も全てそうなっているのだろう。集合体恐怖症の人間なら、叫ぶ前に気を失っているような有様だ。
この光景を見た早坂は、先ほど見た灰色の窓ガラスの意味を理解した。
あれも、“目”だったのだ。遠目に見ていたから気づけなかっただけで、きっと今もカーテンの向こうには……。
(やばい、吐きそう……)
今度は悲鳴以外の物を飲み込むために、早坂は手で口を覆った。
不眠症?誰かに見られている気がする?当たり前だ。いくら見えないと言っても、こんな部屋に暮らしていて、平気でいられるはずが無い。
「あの……助手さん、大丈夫ですか?」
蒼褪める早坂を、沙苗が心配そうに覗き込む。
その腕に抱かれるこっぺいの様子が、この部屋に入る前とは明らかに違っていた。
以前見せられた写真に映っていた時のように、その小さな体に瘴気のような黒い靄を纏って……いや、そうではない。
こっぺいの体が、靄を吸収しているのか。
「ちょっと早坂!返事できないくらいヤバいの?しっかりしてよ」
花耶の鋭い声に叱咤され、早坂は我に返った。
「あっ……ご、ごめん。大丈夫……」
大丈夫。ではないが、何が大丈夫ではないのか説明できない以上、そう答える他ない。
「大丈夫……だけど、あの、井ノ原さん……俺やっぱり外で待ってて良いですか?……ほら、女の人の部屋にズカズカ上がり込むのもなんですし」
「舞浜さん。お部屋の中を、もっと良く見せてもらっても?」
早坂の必死な言い訳を完全に無視して、井ノ原が沙苗に確認を取る。
そうして沙苗が許可するのを待って、井ノ原は部屋の中へと足を踏み入れる……前に、手を伸ばして早坂の首根っこを掴んだ。
「行きますよ、早坂くん」
「えええっ、ちょっと待ってください俺ほんとに」
「五月蝿い」
早坂の抵抗を一蹴し、井ノ原はその体勢のままで部屋の中央へと突き進んで行く。必然的に早坂も引き摺られ、若干俯き加減になったまま、無数の目が監視する中心へとその身を晒すことになってしまった。
正方形のカーペットの、ちょうど真ん中に当たる部分に足を置いた瞬間、無防備に曝け出された早坂のうなじ辺りに、無数の強烈な視線が突き刺さる。
「ひっ」
「騒ぐな阿呆。よく観察してみろ。……どれが根っこだと思う?」
耳元で井ノ原が囁く。根っこ?一体何の話だ。
観察しろと言われたって、恐ろしい視線は部屋いっぱいに広がっていて、とてもじゃないが直視することなんて出来ない。
……いや、けれど、言われてみれば確かに。
数え切れないほどの目の中で、一際強い視線を向けてくる奴が居る。その場所を直接見なくても分かるくらいに、それは矢のように尖っていて。
「あ、あそこ!ベッドの横、チェストの下!」
早坂がその場所を指さしながら声をあげると、それを聞いた井ノ原が、さも愉快そうに笑う気配があった。
「正解」
その言葉と共に、首に置かれたままの井ノ原の手から、何かがどろりと流れ出す。
自分の顔の横を通って床に降りたそれが何なのか察したと同時に、早坂は今度こそ腰を抜かして崩れ落ちた。
あの巨大で醜悪なムカデが床を這いずって、先ほど早坂が指さした場所へと向かって行く。宗明が穢れと呼んだそれが壁に触れた途端、無数の目玉達が一斉に騒ぎ始めた。
「な、なに?!地震……?」
後ろで花耶が焦った声をあげる。見えない彼女らにも、この状況に何かしら感じるモノがあるのだろう。
必死に抵抗するように、ギョロギョロと黒目を動かす怪異達。だが、ムカデはそんなこと気にも止めていない様子だ。
何かを求めるように、ムカデはぺたぺたと壁を探って……そして、お目当てのモノを見つけたらしい。
早坂が指さした辺りにはコンセントの差し込み口があって、ムカデは今まさに、それに手を伸ばそうとしていた。一体何をするつもりなのかと早坂が息を呑んだ瞬間、ひび割れた爪の先が目玉のひとつを抉り出す。
ぶちゅ、とか、ぐじゅ、とかいう不快極まりない音と共に引き摺り出されたそれを、ムカデは複数ある口のひとつで丸呑みにする。そんな一部始終を見てしまった早坂が、いっそ気絶したいと思い始めた頃、「パキン」という硬い音だけ残して、ムカデは跡形もなく消えてしまった。
いや、ムカデだけではない。あれほど存在感を放っていた“目”も、気づけばひとつ残らず消えている。そして、さっきまでムカデが居た場所には、何故か壊れたコンセントプラグがひとつだけ転がっていた。
「え……あ?!なんか壊れてる!まずいですよ井ノ原さん!」
先ほどまでの光景を全て忘れる事にした早坂は、現実逃避をするために、壊れたそれを覗き込んだ。そして妙な違和感に首を傾げる。
「あれ、これ中に何か……プラグの中身とか見た事ないけど、こんなもんですか?」
訊ねると、井ノ原もそれを覗き込んできた。そしてそれを少し観察した後、早坂には何も言わず、後ろの沙苗を振り返った。
「舞浜さん。今すぐ警察を呼んだ方がいいかも知れません」
井ノ原のムカデが破壊したそれが、コンセントプラグの形をした盗聴器だったと早坂が知るのは、警察が到着した後の事だった。
*
その後、警察の調べに拠り、盗聴器を仕掛けた犯人は、沙苗と同じ会社に勤める同僚の女性だったという事が分かった。
彼女はやはり同じ会社で働く別の男性に金を掴まされ、沙苗の友人という立場を利用して、部屋の中に盗聴器を仕掛けたらしい。友情とは一体なんなのだろうか。
「……で、結局マイマイさん、今の家引っ越すって。会社も辞めて、一回実家に帰るって言ってた」
早坂の向かいで、クマの顔の形をしたパンケーキをざくざくと切り分けながら、花耶はそう言った。もちろんナイフを入れる前に、きっちりムー太と一緒に写真を撮った後だ。
「そっか。良かった……とは言い難いけど、でもこれで、よく眠れるようになったら良いな」
ブラックのコーヒーをひと口飲んで、早坂は頷いた。
ここは光都大学近くのカフェ。早坂は花耶と二人でティータイムを過ごしながら、事件後の顛末、主に沙苗の近況を聞いているところだった。
「マイマイさんの実家って九州の方なんだけど、次の仕事もそっちの方で探すかもって。そしたら気軽にオフ会とかできなくなるけど、まあネットではいつでも繋がってるし」
言いながら、花耶は片手でスマホを操作して一枚の写真を見せてくれた。
そこには、こっぺいに頬を寄せて微笑む、舞浜沙苗の姿が写っていた。こっぺいはもう、黒い靄を纏ってもいなければ、目玉が飛び出しているわけでもない。ただの可愛らしいぬいぐるみとして、そこに存在していた。
あのあと、こっぺいがあんな姿になっていた理由を、早坂なりに考えてみた。
きっと、彼はあの恐ろしい視線から沙苗を守っていたのだと思う。沙苗の代わりに、宗明が言うところの“穢れ”を体の中に取り込んで、そうしてその穢れを外で吐き出すことで、どうにか沙苗を悪夢から救おうとしていた。……なんて、そんな夢みたいな話、井ノ原に言えば鼻で笑われてしまうだけなのだろうけど。
「そういえば、ずっと聞こうと思ってたんだけど」
パンケーキの切れ端を口に運びながら、なんでもないふうに花耶が言う。
「ん、なに?」
だから早坂も、コーヒーをひと口味わいながら、なんでもないふうに返した。
「あんたってさ、幽霊とか見える人なの?」
その言葉に、コーヒーカップを置こうとしていた手が止まる。
そうだった。沙苗の部屋に着いてからというもの、あれだけ奇行としか思えない言動ばかり繰り返したのだ。不審に思われていない方がおかしい。
「えっ、と……」
「あー……ごめん、やっぱりいいわ。答えないで。何言われても返事に困りそうだし」
どうにか言葉を返そうとする早坂を制して、花耶は手元のお冷をぐいっと呷った。
「……いいのか?」
「うん。私は自分で見た物しか信じないし。……って言いたいところだけど、それでいくとあの時誰も触ってないプラグが勝手に外れて割れるところとか見ちゃったし。なんかそういうの受け入れだしたら、私の中でいろいろ崩壊しそうだから、もう考えない」
そう言って花耶がまたパンケーキにナイフを入れる。溶けた生クリームがとろりと流れて、乗っていたラズベリーが皿の上に転がった。
「いや、それもだけど、そうじゃなくてさ……あの時の俺、いろいろおかしかっただろ?その、気持ち悪いとかないのかよ」
落ちたラズベリーを器用にフォークで拾いつつ、花耶が上目遣いに早坂を見る。
「別に。あんたがきもいのなんて、いつものことじゃん。基本根暗だし、コミュ障っぽいし」
「なぁっ……?!お前なんてことを」
「だから」
早坂の抗議を無理矢理断ち切って、花耶がまっすぐに早坂を見上げる。
「だから……何も変わらない。いつもと同じだよ」
そう言ったきり、花耶は黙々とパンケーキに向き合って、それ以上は何も言わなくなった。というより、敢えてそうしてくれているのだろう。本当は問い質したい事だって、たくさんあるはずなのに。
「……ありがとな、坂上」
「なに急に。ほんとそういうところだよ、きもいの」
「お前はそういうところ、ほんっっと可愛くないよな!」
花耶と話していると、最後はどうしても言い合いになってしまう。けれど、不思議とそれは不愉快ではなく、むしろこうして余計な遠慮をせずにいられる花耶との関係が、早坂は案外好きだった。
そうして友人との穏やかな時間を過ごしていると、胸の奥にふと不安が過ぎる。
考えてしまうのは、先日宗明と話した事。井ノ原が連れている、あまりに巨大で醜悪な穢れの事だ。
井ノ原が怪異を食わせる度に、あのムカデは少しずつ大きくなっていく。ようするにそれは、こっぺいがやっていた事と同じだ。
つまり、他人の穢れを身のうちに取り込んで、自分のモノにしてしまうという事。
けれどそれを続けた結果、こっぺいは抱えきれないほど大きな穢れに呑まれ、その身に明らかな異変を見せた。
だとすれば、井ノ原が行き着く先も、きっと……
沙苗の運転する車に揺られること、二十分程度。辿り着いた場所は、ごく普通の単身者向けマンションのようだった。
駐車場を出て見上げたその建物は、見た限りでは各階五部屋ずつの六階建て。おもちゃのブロックで作ったような長方形の見た目をしている。
早坂がぼんやりマンションを見上げていると、車のキーとこっぺいを右手に抱いた沙苗が、パタパタ足音をさせて駆け寄ってきた。
「えっと、私の部屋はここの」
「「三階の右端」」
「……え?」
突然、声を揃えてそう言った早坂と井ノ原を振り向いて、沙苗が怪訝な顔をする。
「なんで、分かるんですか」
「えっ?!ほんとにあそこなんですか、舞浜さんの部屋……」
認めたくない思いから素っ頓狂な声をあげてしまった早坂に、沙苗と、その後ろに控えている花耶の不審な視線が突き刺さる。余計な事を言ってしまったと、そう気づいた時には完全に後の祭りだった。
「え、ええと……すみません、騒いじゃって」
言い訳にもならない台詞をごにょごにょと呟いて、早坂は気まずい思いで二人から目を逸らした。その視線の端に映るのは、沙苗の部屋の窓だ。
そうだ、あれが沙苗と花耶に見える類のモノであるはずがない。だって、あんなのどう考えたっておかしいじゃないか。
あんな……窓全体が、スモークガラスのように灰色に塗り潰された部屋なんて。
若干不審の色を滲ませながらも、沙苗はきちんと自室へ案内してくれた。
早坂達が言い当てた通り三階の右端にあった彼女の部屋は、ありふれた1Kの間取りだった。
室内は、玄関をあがった左右に風呂とトイレ、その奥にキッチン付きの部屋があり、さらにその突き当たりにはベランダに出るための掃き出し窓があるという構造だ。
そこは玄関の靴置きの上や、室内のチェストやベッド、その他至るところに可愛らしいぬいぐるみやミニチュアの小物が置かれていて、まるでおもちゃ箱のような部屋だった。けれど今の早坂には、そんな部屋の様子を楽しむ余裕などまるで無い。
「…………ぅ、ぐ」
飲み込み切れなかった悲鳴が、喉の奥から呻き声になって洩れる。それでも花耶と沙苗の手前、絶叫しなかっただけ褒めて欲しいと思った。
八畳ほどの居室。クリーム色のカーペットを軸にして、全体をパステルカラーでまとめた優しい雰囲気にまるでそぐわない、壁一面の“それ”。
「ふふっ」
早坂の隣で、井ノ原がわずかに笑い声を洩らすのが聞こえた。なぜ、この光景を見て笑えるのだろう。
沙苗の部屋は、壁一面に生え出した無数の“目”によって、一部の隙もなく監視されていた。
元の壁紙の色すら分からなくなるほどに、それはびっしりと隙間なく。おそらくは家具に隠れた部分も全てそうなっているのだろう。集合体恐怖症の人間なら、叫ぶ前に気を失っているような有様だ。
この光景を見た早坂は、先ほど見た灰色の窓ガラスの意味を理解した。
あれも、“目”だったのだ。遠目に見ていたから気づけなかっただけで、きっと今もカーテンの向こうには……。
(やばい、吐きそう……)
今度は悲鳴以外の物を飲み込むために、早坂は手で口を覆った。
不眠症?誰かに見られている気がする?当たり前だ。いくら見えないと言っても、こんな部屋に暮らしていて、平気でいられるはずが無い。
「あの……助手さん、大丈夫ですか?」
蒼褪める早坂を、沙苗が心配そうに覗き込む。
その腕に抱かれるこっぺいの様子が、この部屋に入る前とは明らかに違っていた。
以前見せられた写真に映っていた時のように、その小さな体に瘴気のような黒い靄を纏って……いや、そうではない。
こっぺいの体が、靄を吸収しているのか。
「ちょっと早坂!返事できないくらいヤバいの?しっかりしてよ」
花耶の鋭い声に叱咤され、早坂は我に返った。
「あっ……ご、ごめん。大丈夫……」
大丈夫。ではないが、何が大丈夫ではないのか説明できない以上、そう答える他ない。
「大丈夫……だけど、あの、井ノ原さん……俺やっぱり外で待ってて良いですか?……ほら、女の人の部屋にズカズカ上がり込むのもなんですし」
「舞浜さん。お部屋の中を、もっと良く見せてもらっても?」
早坂の必死な言い訳を完全に無視して、井ノ原が沙苗に確認を取る。
そうして沙苗が許可するのを待って、井ノ原は部屋の中へと足を踏み入れる……前に、手を伸ばして早坂の首根っこを掴んだ。
「行きますよ、早坂くん」
「えええっ、ちょっと待ってください俺ほんとに」
「五月蝿い」
早坂の抵抗を一蹴し、井ノ原はその体勢のままで部屋の中央へと突き進んで行く。必然的に早坂も引き摺られ、若干俯き加減になったまま、無数の目が監視する中心へとその身を晒すことになってしまった。
正方形のカーペットの、ちょうど真ん中に当たる部分に足を置いた瞬間、無防備に曝け出された早坂のうなじ辺りに、無数の強烈な視線が突き刺さる。
「ひっ」
「騒ぐな阿呆。よく観察してみろ。……どれが根っこだと思う?」
耳元で井ノ原が囁く。根っこ?一体何の話だ。
観察しろと言われたって、恐ろしい視線は部屋いっぱいに広がっていて、とてもじゃないが直視することなんて出来ない。
……いや、けれど、言われてみれば確かに。
数え切れないほどの目の中で、一際強い視線を向けてくる奴が居る。その場所を直接見なくても分かるくらいに、それは矢のように尖っていて。
「あ、あそこ!ベッドの横、チェストの下!」
早坂がその場所を指さしながら声をあげると、それを聞いた井ノ原が、さも愉快そうに笑う気配があった。
「正解」
その言葉と共に、首に置かれたままの井ノ原の手から、何かがどろりと流れ出す。
自分の顔の横を通って床に降りたそれが何なのか察したと同時に、早坂は今度こそ腰を抜かして崩れ落ちた。
あの巨大で醜悪なムカデが床を這いずって、先ほど早坂が指さした場所へと向かって行く。宗明が穢れと呼んだそれが壁に触れた途端、無数の目玉達が一斉に騒ぎ始めた。
「な、なに?!地震……?」
後ろで花耶が焦った声をあげる。見えない彼女らにも、この状況に何かしら感じるモノがあるのだろう。
必死に抵抗するように、ギョロギョロと黒目を動かす怪異達。だが、ムカデはそんなこと気にも止めていない様子だ。
何かを求めるように、ムカデはぺたぺたと壁を探って……そして、お目当てのモノを見つけたらしい。
早坂が指さした辺りにはコンセントの差し込み口があって、ムカデは今まさに、それに手を伸ばそうとしていた。一体何をするつもりなのかと早坂が息を呑んだ瞬間、ひび割れた爪の先が目玉のひとつを抉り出す。
ぶちゅ、とか、ぐじゅ、とかいう不快極まりない音と共に引き摺り出されたそれを、ムカデは複数ある口のひとつで丸呑みにする。そんな一部始終を見てしまった早坂が、いっそ気絶したいと思い始めた頃、「パキン」という硬い音だけ残して、ムカデは跡形もなく消えてしまった。
いや、ムカデだけではない。あれほど存在感を放っていた“目”も、気づけばひとつ残らず消えている。そして、さっきまでムカデが居た場所には、何故か壊れたコンセントプラグがひとつだけ転がっていた。
「え……あ?!なんか壊れてる!まずいですよ井ノ原さん!」
先ほどまでの光景を全て忘れる事にした早坂は、現実逃避をするために、壊れたそれを覗き込んだ。そして妙な違和感に首を傾げる。
「あれ、これ中に何か……プラグの中身とか見た事ないけど、こんなもんですか?」
訊ねると、井ノ原もそれを覗き込んできた。そしてそれを少し観察した後、早坂には何も言わず、後ろの沙苗を振り返った。
「舞浜さん。今すぐ警察を呼んだ方がいいかも知れません」
井ノ原のムカデが破壊したそれが、コンセントプラグの形をした盗聴器だったと早坂が知るのは、警察が到着した後の事だった。
*
その後、警察の調べに拠り、盗聴器を仕掛けた犯人は、沙苗と同じ会社に勤める同僚の女性だったという事が分かった。
彼女はやはり同じ会社で働く別の男性に金を掴まされ、沙苗の友人という立場を利用して、部屋の中に盗聴器を仕掛けたらしい。友情とは一体なんなのだろうか。
「……で、結局マイマイさん、今の家引っ越すって。会社も辞めて、一回実家に帰るって言ってた」
早坂の向かいで、クマの顔の形をしたパンケーキをざくざくと切り分けながら、花耶はそう言った。もちろんナイフを入れる前に、きっちりムー太と一緒に写真を撮った後だ。
「そっか。良かった……とは言い難いけど、でもこれで、よく眠れるようになったら良いな」
ブラックのコーヒーをひと口飲んで、早坂は頷いた。
ここは光都大学近くのカフェ。早坂は花耶と二人でティータイムを過ごしながら、事件後の顛末、主に沙苗の近況を聞いているところだった。
「マイマイさんの実家って九州の方なんだけど、次の仕事もそっちの方で探すかもって。そしたら気軽にオフ会とかできなくなるけど、まあネットではいつでも繋がってるし」
言いながら、花耶は片手でスマホを操作して一枚の写真を見せてくれた。
そこには、こっぺいに頬を寄せて微笑む、舞浜沙苗の姿が写っていた。こっぺいはもう、黒い靄を纏ってもいなければ、目玉が飛び出しているわけでもない。ただの可愛らしいぬいぐるみとして、そこに存在していた。
あのあと、こっぺいがあんな姿になっていた理由を、早坂なりに考えてみた。
きっと、彼はあの恐ろしい視線から沙苗を守っていたのだと思う。沙苗の代わりに、宗明が言うところの“穢れ”を体の中に取り込んで、そうしてその穢れを外で吐き出すことで、どうにか沙苗を悪夢から救おうとしていた。……なんて、そんな夢みたいな話、井ノ原に言えば鼻で笑われてしまうだけなのだろうけど。
「そういえば、ずっと聞こうと思ってたんだけど」
パンケーキの切れ端を口に運びながら、なんでもないふうに花耶が言う。
「ん、なに?」
だから早坂も、コーヒーをひと口味わいながら、なんでもないふうに返した。
「あんたってさ、幽霊とか見える人なの?」
その言葉に、コーヒーカップを置こうとしていた手が止まる。
そうだった。沙苗の部屋に着いてからというもの、あれだけ奇行としか思えない言動ばかり繰り返したのだ。不審に思われていない方がおかしい。
「えっ、と……」
「あー……ごめん、やっぱりいいわ。答えないで。何言われても返事に困りそうだし」
どうにか言葉を返そうとする早坂を制して、花耶は手元のお冷をぐいっと呷った。
「……いいのか?」
「うん。私は自分で見た物しか信じないし。……って言いたいところだけど、それでいくとあの時誰も触ってないプラグが勝手に外れて割れるところとか見ちゃったし。なんかそういうの受け入れだしたら、私の中でいろいろ崩壊しそうだから、もう考えない」
そう言って花耶がまたパンケーキにナイフを入れる。溶けた生クリームがとろりと流れて、乗っていたラズベリーが皿の上に転がった。
「いや、それもだけど、そうじゃなくてさ……あの時の俺、いろいろおかしかっただろ?その、気持ち悪いとかないのかよ」
落ちたラズベリーを器用にフォークで拾いつつ、花耶が上目遣いに早坂を見る。
「別に。あんたがきもいのなんて、いつものことじゃん。基本根暗だし、コミュ障っぽいし」
「なぁっ……?!お前なんてことを」
「だから」
早坂の抗議を無理矢理断ち切って、花耶がまっすぐに早坂を見上げる。
「だから……何も変わらない。いつもと同じだよ」
そう言ったきり、花耶は黙々とパンケーキに向き合って、それ以上は何も言わなくなった。というより、敢えてそうしてくれているのだろう。本当は問い質したい事だって、たくさんあるはずなのに。
「……ありがとな、坂上」
「なに急に。ほんとそういうところだよ、きもいの」
「お前はそういうところ、ほんっっと可愛くないよな!」
花耶と話していると、最後はどうしても言い合いになってしまう。けれど、不思議とそれは不愉快ではなく、むしろこうして余計な遠慮をせずにいられる花耶との関係が、早坂は案外好きだった。
そうして友人との穏やかな時間を過ごしていると、胸の奥にふと不安が過ぎる。
考えてしまうのは、先日宗明と話した事。井ノ原が連れている、あまりに巨大で醜悪な穢れの事だ。
井ノ原が怪異を食わせる度に、あのムカデは少しずつ大きくなっていく。ようするにそれは、こっぺいがやっていた事と同じだ。
つまり、他人の穢れを身のうちに取り込んで、自分のモノにしてしまうという事。
けれどそれを続けた結果、こっぺいは抱えきれないほど大きな穢れに呑まれ、その身に明らかな異変を見せた。
だとすれば、井ノ原が行き着く先も、きっと……
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