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落ちる
2話 夕暮れの学校
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伊緒の友人から依頼を受けた日から三日が経った。早坂は今日も今日とて学校帰りに井ノ原の事務所へ向かい、そのデスクの前で雇い主と顔を突き合わせている。
しかし、そんな二人の浮かべる表情は、あまりにも対照的だった。
「なるほどな、素晴らしい働きじゃないか早坂。お前のおかげでかつて無いほど迅速に仕事が片付いたぞ。持つべきものは優秀な助手だな?俺としても鼻が高いよ」
薄ら笑いを浮かべながら、井ノ原が明らかに馬鹿にした口調で言う。
「ふざけないでくださいよ!なんで……なんで雛美さんに取り憑いてたやつが、俺のとこに来てるんですか!意味が分からない!」
頭でデスクを叩き壊しかねない勢いで、その場にくずおれる早坂。そんな助手の姿を見て、井ノ原はさも愉快そうに肩を震わせた。
「大方、見たら伝染るタイプの怪異だったんだろうな。もしくはお前の方が取り憑きやすいとでも思ったのか。なんにせよ、あれから依頼人の方には一度も現れてないっていうんだから良かったじゃないか。なあ?」
「それは……まあ、それだけは良かったと思いますけど」
ついさっき伊緒から送られてきたメッセージによると、あの後結衣の元には一度も幽霊は現れていないらしい。それまでは毎日のように現れていたのに、と結衣はずいぶん安心した様子でいることも教えてくれた。
そして、早坂の方はと言うと。
「雛美さん達が来た日の晩からずっと、家でも大学でも、とにかく一人になった途端に現れるんですよ」
それこそ朝だろうと夜だろうとお構いなしに、目を逸らしてもヒトが地面に叩きつけられるおぞましい音が耳の中に入り込んで、精神を削ってくる。こんなものから彼女が解放されたのなら喜ばしいことだが、これでは早坂の身が持たない。
憔悴して蹲る早坂には目もくれず、井ノ原はデスクに頬杖をついてレトロな電卓を叩く。
「依頼人には一応経過観察と伝えるとして……まあ十中八九、これ以上あっちに問題は起きないだろうから、基本料金だけ請求して終わりだな。実際ほぼ何もしていないわけだから、それでも十分な利益と言える」
「……あっちにってことは、俺の方には問題が起き続けるんですか」
「そりゃそうだろ。放っておいて勝手に解決するもんなら、そもそもウチに依頼されてない」
デスクの前に座り込む早坂を見下ろして、井ノ原が意地悪く笑う。
「どうにかしたいか?」
「……それは、まあ」
「なら、ここから先は残業タイムだ。死ぬ気で働けよ。ついでに、これ以降かかった経費は全部お前の給料から差っ引くからな」
「…………いいですよ、それで」
井ノ原の態度には腹が立つが、背に腹はかえられない。金を払って済む話なら、ここは受け入れるべきだろう。
「ふん。それじゃあ捜査はこのまま継続だな。ちょうど小椋伊緒から連絡もあったところだ。これから例の写真部の連中に話を聞きに行くぞ」
「今から行くんですか?」
「そうだよ。今行けばちょうど部活が終わる時間には向こうに着く。そこで飯でも奢ってやれば、大体なんでも話すだろ」
「はあ……あの、井ノ原さん。一応お願いなんですけど、道中絶対に俺を一人にしないでくださいね」
椅子に掛けていたコートを羽織った井ノ原の背中に弱々しく呼びかける。案の定、返ってきたのは容赦のない罵りだった。
「気色悪い」
短く言い捨てた井ノ原の後を、早坂は情けない表情で追いかけることしか出来なかった。
*
それから事務所を出て、電車に揺られること一時間。鄙びた駅の近くのファミレスで、伊緒達が待っていた。
今この場にいる写真部の面々は三人。今日は同席していないが、この面子に結衣を加えた四人で心霊写真を撮りに行ったそうだ。
横に並んだ四人がけの座席を二つキープして、通路側に伊緒、奥側に写真部の三人が並んで座っている。
「その人が小椋の兄さん?あんま似てないのな。なんかデカいし」
パサついた茶髪頭の男子生徒が、ストローを口に咥えたまま早坂を見上げて言う。
「言ったでしょ?遠い親戚だって。なんなら血も繋がってないし、実質ほぼ他人だよ」
「まじ?じゃあ付き合えんじゃん。伊緒年上好きだしさ」
「ばーか、んなわけないでしょ」
茶髪の男子の横に座る女子が、伊緒と軽口を交わす。見た目は大人しそうな黒髪のミディアムボブだが、人を……特に女子を見た目で判断すると痛い目に合うことを、早坂は身を持って知っている。
そして、残るもう一人。
一人だけ隣のテーブルで居心地悪そうにしている少年と目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。小柄でぽっちゃりした体型は招き猫のようで可愛げがあるが、他の二人に比べると少々地味な印象を受ける。
「えっと、初めまして。伊緒の親戚の早坂奏太です。今日は突然集まってもらってごめんね。お礼と言ってはなんだけど、ここの支払いは俺が持つから、みんな好きな物食べて」
「やりぃ。オレ、リブステーキとサラミのピザと」
「ちょっと、話聞いてからにしなって。……今日は大学の課題のための取材ってことでいいんですよね?」
遠慮なくカロリーの高い商品を挙げ出した茶髪頭を制して、黒髪の少女が早坂を見上げる。
早坂は伊緒の隣に腰を下ろして、彼女に頷き返した。
「うん。高校生の部活動について聞きたくて。普段の活動について聞かせてもらえると助かるよ……あ、こっちは研究室の先輩。いろいろ手伝ってもらってるんだ」
「こんにちは」
早坂のさらに隣、地味な少年が座っている方のテーブルに腰掛けた井ノ原を紹介する。むろんこれら全て『そういう設定』である。
「普段の活動つってもねー。そんな変わったこととかしてないスよ」
「それでいいよ。普通の話が聞きたいんだ」
こうやって取材の体で話をしつつ、それとなく心霊写真の件について聞き出すのが、今回早坂に課せられたミッションだ。
ちなみに井ノ原の方は端から手伝う気はないらしく、早速ビッグサイズのチョコレートパフェなど注文している。どいつもこいつも、人の金だと思ってまるで遠慮がない。というか井ノ原にまで奢る必要があるのだろうか。
「ええと……それじゃ、料理を待ちつつ早速聞かせてもらっていいかな。まず君達の名前から教えてくれる?」
形ばかりのメモを取り出し、少年達にそう訊ねる。早坂の視点で左から順に、茶髪の少年が本庄渚斗、黒髪の少女が綾里涼花、残る一人が山本大紀というらしい。
活動内容については主に、というか全て渚人と涼花が聞かせてくれた。基本的にそれぞれ好きな写真を撮って部内の定例会で発表したり、時折どこかのコンクールに送ったりするらしい。
「好きな写真か……具体的にどんなの?」
「オレは鉄道とかっスねー。そんな詳しいわけじやないけど、カッケーし。綾里はあれだろ、心霊写真な」
「おいバカにすんな。……あの、別にそういうのばっか撮ってるわけじゃないですから。普通に風景写真とか撮りますし」
涼花はあまり触れてほしくなさそうだが、これはいい流れだ。
「綾里さん、そういうの興味あるの?実は俺も好きなんだよね。実際に撮ったこととかあるのかな」
むろん早坂は心霊写真など大っ嫌いだが、嘘も方便だ。しかし同志を見つけたと思ったのか、涼花がパッと目を輝かせたので若干胸が痛む。
「早坂さんも好きなんですか!あの、実はこの前うちの二年メンバー……あ、この三人と他にもう一人いたんですけど、その四人で撮りに行ったんです。心霊写真」
「……へえ。それで、撮れたの?写真」
「ううん、全然ダメ。まあそう簡単に撮れるとは思ってなかったけど……あ、でも、ちょうど今ここにいない子がなんか見たとか言ってて、もしかして幽霊なんじゃないのって」
突然口数の多くなった涼花の横で、残ったピザの切れ端を口に放り込みながら渚人が鼻で笑う。
「幽霊とかバッカじゃねーの。どうせ何かの見間違いだろ?雛美とかわりとそういうとこあんじゃん。すぐテンパるし」
まあ見えない人間の反応なんてこんなものだろう。早坂とて以前は似たようなものだった。
「じゃあ結局、君達の目線では何もなかったってことなのかな」
ここまで来て特に情報はなしか……。そう思って早坂がこっそりため息を吐いた時。
「君も、何か見たのではないですか」
不意に、それまで黙って聞いていた井ノ原の声が響いた。その向かいに座っている山本大紀が驚いた様子で顔をあげる。
「あ?まじ?山本も幽霊見たのかよ」
渚人に訊ねられ、大紀は丸っこい肩をビクッと震わせた。好きな物を頼んでいいと言ったのに、彼の前にはドリンクバーの麦茶一杯しか置かれていない。
「み、見てない……」
「なに?聞こえねーって。もっとハッキリ喋れよ」
渚人に強い口調で聞き返され、大紀はますます萎縮してしまう。
「あ、いいよいいよ無理に話さなくて。ちょっと気になっただけだから」
可哀想になった早坂が割って入ると、大紀は明らかにほっとした表情で息をついた。
これは井ノ原でなくても分かる。どうやら彼は、何かを隠しているようだ。
「えっと、今日はいろいろ聞かせてくれてありがとう。すごく参考になったよ」
いろいろと気になることはあるが、おそらくこの場では大紀は何も教えてくれないだろう。これ以上の情報は引き出せないとみて、早坂は早々に切り上げにかかった。
そうして、食事を終えて銘々に挨拶して去っていく写真部の面々を見送って、早坂は深くため息をついた。
「おつかれ奏太くん」
そんな早坂を見て、黙って事の成り行きを見守っていた伊緒が労いの言葉をかけてくれる。
「うん。伊緒も付き合ってくれてありがとう」
「まあ友達のためだからねー」
そう言って、伊緒は冗談ぽく笑う。
例の落下する幽霊が早坂の方に取り憑いたらしいことを、彼女には伝えていない。今日の集まりについても、確実を期すために原因を調べたいとだけ説明してある。話したらきっと、余計な気を遣わせてしまうからだ。
「それで、井ノ原サン的には山本くんが何か知ってるかもって感じ?」
早坂達の向かいに席を移動しつつ、伊緒が井ノ原に問いかける。井ノ原の前に置かれていた巨大なパフェグラスは、いつの間にか空になっていた。
「さあ。何とも言えませんが、心霊写真の話になった途端、彼だけ明らかに動揺していたように見えたので。食事もあまり喉を通らないようでしたしね」
「それは井ノ原さんの差し向かいじゃ食欲なんて痛あ!!」
井ノ原がすかさず早坂の足を踏みつけて黙らせる。そんな二人のやり取りを見て、伊緒が少し首を傾げた。
「山本くんともう一回話せればいいのかな?でも私、あの子とはそんなに仲良いわけじゃないから、あんま話してくれない気がするけど」
「同級生の伊緒さんに話せないことを、我々が聞き出せるとも思えませんねえ……それならせめて、最初に幽霊が出たという現場を見られればいいんですけど」
「あ、じゃあ今から行ってみる?まだ学校開いてる時間だし」
あっけらかんとして伊緒が言うので、一瞬何の話をしているのかわからなくなった。
「……行くって学校に?部外者がそんな簡単に入れないだろ」
「今の奏太くんは私の親戚だからどうにかなるって。忘れ物したけど帰りが遅くなっちゃうから、たまたま来てた親戚のお兄ちゃんに着いて来てもらったとか言って」
「なんでそんな悪知恵ばっか働くんだ」
呆れる早坂の隣で、井ノ原が愉快そうに笑う。
「いいじゃないですか。では早坂くんはこれを着けて向かってください。私はここから通話で聞いてます」
言いながら井ノ原が渡してきたのは、ワイヤレスタイプのイヤホンだった。
「井ノ原さんは行かないんですか?」
「その設定でぞろぞろ連れ立っていたらおかしいでしょう。心配しなくても、見るだけなら貴方一人で事足ります。それでも何かあればビデオ通話でも繋いでください。私なら多分画面越しでも見えるので」
そう言って、井ノ原は犬でも追い払うようにしっしっと手を振った。もっともらしいことを言っているが、単に寒い中移動するのが面倒臭いだけなんじゃないのか。
「はあ……分かりましたよ行けばいいんでしょ。……悪いな伊緒、案内してくれるか」
「オッケー任せて」
伊緒が明るく言ってくれることだけが、救いだった。
*
「ここだよ。私の通ってる学校」
そう言って伊緒が連れて来てくれたのは、田舎町にある、ごく普通の高校だった。学校の前の通りは田畑を縫うようなあぜ道が続いており、遠くには何かの工場の影も見える。併設しているグラウンドもかなり広そうだし、環境としては悪くなさそうだ。
「高校なんて俺もほんの二年くらい前まで通ってたのに、なんか懐かしい感じだな」
開け放たれた校門と、目の前に聳える校舎を見上げながら、早坂は感慨に浸る。右耳にだけ付けたイヤホンは井ノ原と繋がっているので、お互いの声は聞こえる状態だ。
「ヒナが最初に見たって言ってたのは、確か美術室の前の廊下だったかな。向こうの校舎の三階だよ。こっち」
伊緒に案内されるまま、夕陽に染まる校内に足を踏み入れる。帰宅する生徒達に時折物珍し気な目を向けられたが、幸い呼び止められることは無いまま問題の場所に辿り着いた。
「ほらここ。ここの廊下を通りかかった時に、窓から落ちて行くのが見えたんだって」
そう言って伊緒が窓を指さす。
部活の生徒達も、もうほとんど帰ってしまったのだろう。誰もいない、何の物音も聞こえない廊下は物寂しくて、それ故になんの異常も感じられない。
「特に何かがいるわけでもないな……井ノ原さんは何か見えます?」
カメラをオンにして、周りの景色をぐるりと映して見せる。
『俺にも変わった物は見えないな。もともとその手のヤツが多い場所なら、アレとは別のモノがいてもおかしくないと思ったが、見当たらないということはそういう訳でもないらしい』
すっかり素の口調に戻った井ノ原の反応も、早坂と似たり寄ったりなものだった。
「うーん……ちょっと嫌な話するけどさ、伊緒はこの学校で亡くなった人の話とか聞いた事ある?ちょうどこの上から飛び降りて……みたいな」
「さあ……そんなの噂レベルでも聞いた事ないよ。涼花なんてそういうの詳しいから、知ってたら教えてくれそうなもんだけど。そもそもどこもそうだと思うけど、屋上入れないようになってるし」
「だよなあ……」
やはり、そんな分かりやすい話ではないようだ。大体結衣や早坂に取り憑いてあちこち移動しているのだから、最初がこの学校だったとも限らない。
「あら小椋さん、まだ残ってたの?そろそろ帰りなさい……そちらの方はどなた?」
「あっ、やば」
早坂がスマホを持ったまま考え込んでいると、通りかかった教員らしき女性に声をかけられた。その声に振り向いた伊緒が、小さく声をあげる。
「ごめん奏太くん、テキトーにごまかしてくるね……ちょっとセンセーこっち来てー」
小声で早坂に言い残し、伊緒は女性教員の手を引っ張って階段の陰に消えて行った。彼女なら上手く切り抜けてくれるだろうが、どのみち早めに調査を終えた方が良さそうだ。
「…………あれ?ていうか、この状況やばくないか」
伊緒が姿を消した今、この場にいるのは早坂一人。そして傍らには大きな窓。
ひとりになるのは、まずい。ひとりになったら、またアレが……
そう思った時には、もう遅かった。
「うっ……」
長い髪を蜘蛛の巣のように広げながら落ちて行く若い女。その生気のない瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。
時間にすればほんの一秒にも満たなかったはずなのに、それは夕暮れの空にはっきりと焼き付いて見えた。
咄嗟に口元を覆って目を逸らす。心臓が、嫌なリズムで脈打っていた。
『なんだ?また出たのか』
「……はい。若い、女の人でした」
必死に呼吸を整えながら早坂が答えると、『女?』と井ノ原が怪訝な声をあげた。
『なあ、依頼が持ち込まれた日に事務所で見たのは、三十代くらいの男だったよな?』
「そう、ですね」
『それ以降、お前が見たのは毎回若い女だったのか?』
「……あれ?言われてみれば、いつも違う人だったような」
そうだ、優也が泊まりに来た日は目しか見えなかったが、それ以降、よくよく思い返せば子供や老人の姿だった時もあった。
「なんで……?亡くなった人は、一人じゃないんでしょうか」
早坂の問いに、井ノ原はすぐには答えなかった。静寂の満ちる廊下に、微かな息遣いだけが聞こえてくる。
『……誰も、死んでないのかもな』
ぽつりと、独り言のように井ノ原はそう言った。
「どういう、ことですか」
『そのままの意味だよ。そこでは誰も死んでない。死んでるのは、ただの呪いだ』
「呪い?」
早坂の足下、埃っぽい廊下を染める空の色は燃えるように真っ赤で、まるで校舎全体が燃えているみたいだ。それなのに不意に寒さを覚えた早坂は、片手で自分の体をそっと抱いた。
『そう、呪いだ。それも特定の誰かに向けたモノじゃない。もっと曖昧な……お前だってあるだろ?たいした理由もないのにムカついて、誰でもいいからぶっ殺してやりたいと思ったりしたこと』
「はあ……」
明らかにピンと来ていない様子の早坂に、井ノ原は聞こえよがしなため息を吐いた。
『訊く相手を間違えたな……まあいい。とにかくそういう行く宛も無く吹き溜まった悪意が、誰かを何度も何度も繰り返し殺すことで、負の感情を発散しようとしてる。だが、その誰かは特定の人間じゃない。そいつらはみんな、殺されるために生まれた、“誰でもない誰か”なんだよ』
誰でもない誰か。
具体的に呪いたい相手がいるわけではないから、その“誰か"を自ら生み出して呪っているということなのだろうか。なぜそこまでして人を呪うのだろう。
早坂には、どうしても分からない。
「……そもそも、呪いなんてそう簡単にかけられるものですか?」
『思春期のガキなんて、良い意味でも悪い意味でもパワーの塊だ。そんな奴らを何百人もひとつ所に集めて生活させてるんだから、鬱屈した心の澱がどんな形で爆発したっておかしくない。お前と雛美結衣は、たまたまその矛先に当たってしまったんだろう。交通事故みたいなもんだ』
心の澱。その単語に、早坂は僧侶である宗明に以前言われたことを思い出していた。
心の底に大きな澱みを抱えた人間は、自身や他者を傷つけてしまうことがあるのだと。だから、そうなる前に“澱み”を吐き出させてやるのが自分の仕事だと彼は言っていた。
この呪いの主も、そうなのだろうか。吐き出すことの出来なかった澱みが、こんな形になってしまったのだとしたら。
「……井ノ原さん。俺は、どうしたらいいんでしょう」
早坂の問いに、少し考えるような間を置いて、井ノ原は静かな口調で言った。
『明日、やっぱりもう一度山本大紀に話を聞く。今度は建前無しで、だ。……そうしたら、後は本人次第だよ』
それ以上、井ノ原は何も言わなかった。
ちょうどいいタイミングで、階段の影から伊緒が顔を出す。どうやらタイムリミットのようだ。
校舎の外には、夜の気配が漂い始めている。
しかし、そんな二人の浮かべる表情は、あまりにも対照的だった。
「なるほどな、素晴らしい働きじゃないか早坂。お前のおかげでかつて無いほど迅速に仕事が片付いたぞ。持つべきものは優秀な助手だな?俺としても鼻が高いよ」
薄ら笑いを浮かべながら、井ノ原が明らかに馬鹿にした口調で言う。
「ふざけないでくださいよ!なんで……なんで雛美さんに取り憑いてたやつが、俺のとこに来てるんですか!意味が分からない!」
頭でデスクを叩き壊しかねない勢いで、その場にくずおれる早坂。そんな助手の姿を見て、井ノ原はさも愉快そうに肩を震わせた。
「大方、見たら伝染るタイプの怪異だったんだろうな。もしくはお前の方が取り憑きやすいとでも思ったのか。なんにせよ、あれから依頼人の方には一度も現れてないっていうんだから良かったじゃないか。なあ?」
「それは……まあ、それだけは良かったと思いますけど」
ついさっき伊緒から送られてきたメッセージによると、あの後結衣の元には一度も幽霊は現れていないらしい。それまでは毎日のように現れていたのに、と結衣はずいぶん安心した様子でいることも教えてくれた。
そして、早坂の方はと言うと。
「雛美さん達が来た日の晩からずっと、家でも大学でも、とにかく一人になった途端に現れるんですよ」
それこそ朝だろうと夜だろうとお構いなしに、目を逸らしてもヒトが地面に叩きつけられるおぞましい音が耳の中に入り込んで、精神を削ってくる。こんなものから彼女が解放されたのなら喜ばしいことだが、これでは早坂の身が持たない。
憔悴して蹲る早坂には目もくれず、井ノ原はデスクに頬杖をついてレトロな電卓を叩く。
「依頼人には一応経過観察と伝えるとして……まあ十中八九、これ以上あっちに問題は起きないだろうから、基本料金だけ請求して終わりだな。実際ほぼ何もしていないわけだから、それでも十分な利益と言える」
「……あっちにってことは、俺の方には問題が起き続けるんですか」
「そりゃそうだろ。放っておいて勝手に解決するもんなら、そもそもウチに依頼されてない」
デスクの前に座り込む早坂を見下ろして、井ノ原が意地悪く笑う。
「どうにかしたいか?」
「……それは、まあ」
「なら、ここから先は残業タイムだ。死ぬ気で働けよ。ついでに、これ以降かかった経費は全部お前の給料から差っ引くからな」
「…………いいですよ、それで」
井ノ原の態度には腹が立つが、背に腹はかえられない。金を払って済む話なら、ここは受け入れるべきだろう。
「ふん。それじゃあ捜査はこのまま継続だな。ちょうど小椋伊緒から連絡もあったところだ。これから例の写真部の連中に話を聞きに行くぞ」
「今から行くんですか?」
「そうだよ。今行けばちょうど部活が終わる時間には向こうに着く。そこで飯でも奢ってやれば、大体なんでも話すだろ」
「はあ……あの、井ノ原さん。一応お願いなんですけど、道中絶対に俺を一人にしないでくださいね」
椅子に掛けていたコートを羽織った井ノ原の背中に弱々しく呼びかける。案の定、返ってきたのは容赦のない罵りだった。
「気色悪い」
短く言い捨てた井ノ原の後を、早坂は情けない表情で追いかけることしか出来なかった。
*
それから事務所を出て、電車に揺られること一時間。鄙びた駅の近くのファミレスで、伊緒達が待っていた。
今この場にいる写真部の面々は三人。今日は同席していないが、この面子に結衣を加えた四人で心霊写真を撮りに行ったそうだ。
横に並んだ四人がけの座席を二つキープして、通路側に伊緒、奥側に写真部の三人が並んで座っている。
「その人が小椋の兄さん?あんま似てないのな。なんかデカいし」
パサついた茶髪頭の男子生徒が、ストローを口に咥えたまま早坂を見上げて言う。
「言ったでしょ?遠い親戚だって。なんなら血も繋がってないし、実質ほぼ他人だよ」
「まじ?じゃあ付き合えんじゃん。伊緒年上好きだしさ」
「ばーか、んなわけないでしょ」
茶髪の男子の横に座る女子が、伊緒と軽口を交わす。見た目は大人しそうな黒髪のミディアムボブだが、人を……特に女子を見た目で判断すると痛い目に合うことを、早坂は身を持って知っている。
そして、残るもう一人。
一人だけ隣のテーブルで居心地悪そうにしている少年と目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。小柄でぽっちゃりした体型は招き猫のようで可愛げがあるが、他の二人に比べると少々地味な印象を受ける。
「えっと、初めまして。伊緒の親戚の早坂奏太です。今日は突然集まってもらってごめんね。お礼と言ってはなんだけど、ここの支払いは俺が持つから、みんな好きな物食べて」
「やりぃ。オレ、リブステーキとサラミのピザと」
「ちょっと、話聞いてからにしなって。……今日は大学の課題のための取材ってことでいいんですよね?」
遠慮なくカロリーの高い商品を挙げ出した茶髪頭を制して、黒髪の少女が早坂を見上げる。
早坂は伊緒の隣に腰を下ろして、彼女に頷き返した。
「うん。高校生の部活動について聞きたくて。普段の活動について聞かせてもらえると助かるよ……あ、こっちは研究室の先輩。いろいろ手伝ってもらってるんだ」
「こんにちは」
早坂のさらに隣、地味な少年が座っている方のテーブルに腰掛けた井ノ原を紹介する。むろんこれら全て『そういう設定』である。
「普段の活動つってもねー。そんな変わったこととかしてないスよ」
「それでいいよ。普通の話が聞きたいんだ」
こうやって取材の体で話をしつつ、それとなく心霊写真の件について聞き出すのが、今回早坂に課せられたミッションだ。
ちなみに井ノ原の方は端から手伝う気はないらしく、早速ビッグサイズのチョコレートパフェなど注文している。どいつもこいつも、人の金だと思ってまるで遠慮がない。というか井ノ原にまで奢る必要があるのだろうか。
「ええと……それじゃ、料理を待ちつつ早速聞かせてもらっていいかな。まず君達の名前から教えてくれる?」
形ばかりのメモを取り出し、少年達にそう訊ねる。早坂の視点で左から順に、茶髪の少年が本庄渚斗、黒髪の少女が綾里涼花、残る一人が山本大紀というらしい。
活動内容については主に、というか全て渚人と涼花が聞かせてくれた。基本的にそれぞれ好きな写真を撮って部内の定例会で発表したり、時折どこかのコンクールに送ったりするらしい。
「好きな写真か……具体的にどんなの?」
「オレは鉄道とかっスねー。そんな詳しいわけじやないけど、カッケーし。綾里はあれだろ、心霊写真な」
「おいバカにすんな。……あの、別にそういうのばっか撮ってるわけじゃないですから。普通に風景写真とか撮りますし」
涼花はあまり触れてほしくなさそうだが、これはいい流れだ。
「綾里さん、そういうの興味あるの?実は俺も好きなんだよね。実際に撮ったこととかあるのかな」
むろん早坂は心霊写真など大っ嫌いだが、嘘も方便だ。しかし同志を見つけたと思ったのか、涼花がパッと目を輝かせたので若干胸が痛む。
「早坂さんも好きなんですか!あの、実はこの前うちの二年メンバー……あ、この三人と他にもう一人いたんですけど、その四人で撮りに行ったんです。心霊写真」
「……へえ。それで、撮れたの?写真」
「ううん、全然ダメ。まあそう簡単に撮れるとは思ってなかったけど……あ、でも、ちょうど今ここにいない子がなんか見たとか言ってて、もしかして幽霊なんじゃないのって」
突然口数の多くなった涼花の横で、残ったピザの切れ端を口に放り込みながら渚人が鼻で笑う。
「幽霊とかバッカじゃねーの。どうせ何かの見間違いだろ?雛美とかわりとそういうとこあんじゃん。すぐテンパるし」
まあ見えない人間の反応なんてこんなものだろう。早坂とて以前は似たようなものだった。
「じゃあ結局、君達の目線では何もなかったってことなのかな」
ここまで来て特に情報はなしか……。そう思って早坂がこっそりため息を吐いた時。
「君も、何か見たのではないですか」
不意に、それまで黙って聞いていた井ノ原の声が響いた。その向かいに座っている山本大紀が驚いた様子で顔をあげる。
「あ?まじ?山本も幽霊見たのかよ」
渚人に訊ねられ、大紀は丸っこい肩をビクッと震わせた。好きな物を頼んでいいと言ったのに、彼の前にはドリンクバーの麦茶一杯しか置かれていない。
「み、見てない……」
「なに?聞こえねーって。もっとハッキリ喋れよ」
渚人に強い口調で聞き返され、大紀はますます萎縮してしまう。
「あ、いいよいいよ無理に話さなくて。ちょっと気になっただけだから」
可哀想になった早坂が割って入ると、大紀は明らかにほっとした表情で息をついた。
これは井ノ原でなくても分かる。どうやら彼は、何かを隠しているようだ。
「えっと、今日はいろいろ聞かせてくれてありがとう。すごく参考になったよ」
いろいろと気になることはあるが、おそらくこの場では大紀は何も教えてくれないだろう。これ以上の情報は引き出せないとみて、早坂は早々に切り上げにかかった。
そうして、食事を終えて銘々に挨拶して去っていく写真部の面々を見送って、早坂は深くため息をついた。
「おつかれ奏太くん」
そんな早坂を見て、黙って事の成り行きを見守っていた伊緒が労いの言葉をかけてくれる。
「うん。伊緒も付き合ってくれてありがとう」
「まあ友達のためだからねー」
そう言って、伊緒は冗談ぽく笑う。
例の落下する幽霊が早坂の方に取り憑いたらしいことを、彼女には伝えていない。今日の集まりについても、確実を期すために原因を調べたいとだけ説明してある。話したらきっと、余計な気を遣わせてしまうからだ。
「それで、井ノ原サン的には山本くんが何か知ってるかもって感じ?」
早坂達の向かいに席を移動しつつ、伊緒が井ノ原に問いかける。井ノ原の前に置かれていた巨大なパフェグラスは、いつの間にか空になっていた。
「さあ。何とも言えませんが、心霊写真の話になった途端、彼だけ明らかに動揺していたように見えたので。食事もあまり喉を通らないようでしたしね」
「それは井ノ原さんの差し向かいじゃ食欲なんて痛あ!!」
井ノ原がすかさず早坂の足を踏みつけて黙らせる。そんな二人のやり取りを見て、伊緒が少し首を傾げた。
「山本くんともう一回話せればいいのかな?でも私、あの子とはそんなに仲良いわけじゃないから、あんま話してくれない気がするけど」
「同級生の伊緒さんに話せないことを、我々が聞き出せるとも思えませんねえ……それならせめて、最初に幽霊が出たという現場を見られればいいんですけど」
「あ、じゃあ今から行ってみる?まだ学校開いてる時間だし」
あっけらかんとして伊緒が言うので、一瞬何の話をしているのかわからなくなった。
「……行くって学校に?部外者がそんな簡単に入れないだろ」
「今の奏太くんは私の親戚だからどうにかなるって。忘れ物したけど帰りが遅くなっちゃうから、たまたま来てた親戚のお兄ちゃんに着いて来てもらったとか言って」
「なんでそんな悪知恵ばっか働くんだ」
呆れる早坂の隣で、井ノ原が愉快そうに笑う。
「いいじゃないですか。では早坂くんはこれを着けて向かってください。私はここから通話で聞いてます」
言いながら井ノ原が渡してきたのは、ワイヤレスタイプのイヤホンだった。
「井ノ原さんは行かないんですか?」
「その設定でぞろぞろ連れ立っていたらおかしいでしょう。心配しなくても、見るだけなら貴方一人で事足ります。それでも何かあればビデオ通話でも繋いでください。私なら多分画面越しでも見えるので」
そう言って、井ノ原は犬でも追い払うようにしっしっと手を振った。もっともらしいことを言っているが、単に寒い中移動するのが面倒臭いだけなんじゃないのか。
「はあ……分かりましたよ行けばいいんでしょ。……悪いな伊緒、案内してくれるか」
「オッケー任せて」
伊緒が明るく言ってくれることだけが、救いだった。
*
「ここだよ。私の通ってる学校」
そう言って伊緒が連れて来てくれたのは、田舎町にある、ごく普通の高校だった。学校の前の通りは田畑を縫うようなあぜ道が続いており、遠くには何かの工場の影も見える。併設しているグラウンドもかなり広そうだし、環境としては悪くなさそうだ。
「高校なんて俺もほんの二年くらい前まで通ってたのに、なんか懐かしい感じだな」
開け放たれた校門と、目の前に聳える校舎を見上げながら、早坂は感慨に浸る。右耳にだけ付けたイヤホンは井ノ原と繋がっているので、お互いの声は聞こえる状態だ。
「ヒナが最初に見たって言ってたのは、確か美術室の前の廊下だったかな。向こうの校舎の三階だよ。こっち」
伊緒に案内されるまま、夕陽に染まる校内に足を踏み入れる。帰宅する生徒達に時折物珍し気な目を向けられたが、幸い呼び止められることは無いまま問題の場所に辿り着いた。
「ほらここ。ここの廊下を通りかかった時に、窓から落ちて行くのが見えたんだって」
そう言って伊緒が窓を指さす。
部活の生徒達も、もうほとんど帰ってしまったのだろう。誰もいない、何の物音も聞こえない廊下は物寂しくて、それ故になんの異常も感じられない。
「特に何かがいるわけでもないな……井ノ原さんは何か見えます?」
カメラをオンにして、周りの景色をぐるりと映して見せる。
『俺にも変わった物は見えないな。もともとその手のヤツが多い場所なら、アレとは別のモノがいてもおかしくないと思ったが、見当たらないということはそういう訳でもないらしい』
すっかり素の口調に戻った井ノ原の反応も、早坂と似たり寄ったりなものだった。
「うーん……ちょっと嫌な話するけどさ、伊緒はこの学校で亡くなった人の話とか聞いた事ある?ちょうどこの上から飛び降りて……みたいな」
「さあ……そんなの噂レベルでも聞いた事ないよ。涼花なんてそういうの詳しいから、知ってたら教えてくれそうなもんだけど。そもそもどこもそうだと思うけど、屋上入れないようになってるし」
「だよなあ……」
やはり、そんな分かりやすい話ではないようだ。大体結衣や早坂に取り憑いてあちこち移動しているのだから、最初がこの学校だったとも限らない。
「あら小椋さん、まだ残ってたの?そろそろ帰りなさい……そちらの方はどなた?」
「あっ、やば」
早坂がスマホを持ったまま考え込んでいると、通りかかった教員らしき女性に声をかけられた。その声に振り向いた伊緒が、小さく声をあげる。
「ごめん奏太くん、テキトーにごまかしてくるね……ちょっとセンセーこっち来てー」
小声で早坂に言い残し、伊緒は女性教員の手を引っ張って階段の陰に消えて行った。彼女なら上手く切り抜けてくれるだろうが、どのみち早めに調査を終えた方が良さそうだ。
「…………あれ?ていうか、この状況やばくないか」
伊緒が姿を消した今、この場にいるのは早坂一人。そして傍らには大きな窓。
ひとりになるのは、まずい。ひとりになったら、またアレが……
そう思った時には、もう遅かった。
「うっ……」
長い髪を蜘蛛の巣のように広げながら落ちて行く若い女。その生気のない瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。
時間にすればほんの一秒にも満たなかったはずなのに、それは夕暮れの空にはっきりと焼き付いて見えた。
咄嗟に口元を覆って目を逸らす。心臓が、嫌なリズムで脈打っていた。
『なんだ?また出たのか』
「……はい。若い、女の人でした」
必死に呼吸を整えながら早坂が答えると、『女?』と井ノ原が怪訝な声をあげた。
『なあ、依頼が持ち込まれた日に事務所で見たのは、三十代くらいの男だったよな?』
「そう、ですね」
『それ以降、お前が見たのは毎回若い女だったのか?』
「……あれ?言われてみれば、いつも違う人だったような」
そうだ、優也が泊まりに来た日は目しか見えなかったが、それ以降、よくよく思い返せば子供や老人の姿だった時もあった。
「なんで……?亡くなった人は、一人じゃないんでしょうか」
早坂の問いに、井ノ原はすぐには答えなかった。静寂の満ちる廊下に、微かな息遣いだけが聞こえてくる。
『……誰も、死んでないのかもな』
ぽつりと、独り言のように井ノ原はそう言った。
「どういう、ことですか」
『そのままの意味だよ。そこでは誰も死んでない。死んでるのは、ただの呪いだ』
「呪い?」
早坂の足下、埃っぽい廊下を染める空の色は燃えるように真っ赤で、まるで校舎全体が燃えているみたいだ。それなのに不意に寒さを覚えた早坂は、片手で自分の体をそっと抱いた。
『そう、呪いだ。それも特定の誰かに向けたモノじゃない。もっと曖昧な……お前だってあるだろ?たいした理由もないのにムカついて、誰でもいいからぶっ殺してやりたいと思ったりしたこと』
「はあ……」
明らかにピンと来ていない様子の早坂に、井ノ原は聞こえよがしなため息を吐いた。
『訊く相手を間違えたな……まあいい。とにかくそういう行く宛も無く吹き溜まった悪意が、誰かを何度も何度も繰り返し殺すことで、負の感情を発散しようとしてる。だが、その誰かは特定の人間じゃない。そいつらはみんな、殺されるために生まれた、“誰でもない誰か”なんだよ』
誰でもない誰か。
具体的に呪いたい相手がいるわけではないから、その“誰か"を自ら生み出して呪っているということなのだろうか。なぜそこまでして人を呪うのだろう。
早坂には、どうしても分からない。
「……そもそも、呪いなんてそう簡単にかけられるものですか?」
『思春期のガキなんて、良い意味でも悪い意味でもパワーの塊だ。そんな奴らを何百人もひとつ所に集めて生活させてるんだから、鬱屈した心の澱がどんな形で爆発したっておかしくない。お前と雛美結衣は、たまたまその矛先に当たってしまったんだろう。交通事故みたいなもんだ』
心の澱。その単語に、早坂は僧侶である宗明に以前言われたことを思い出していた。
心の底に大きな澱みを抱えた人間は、自身や他者を傷つけてしまうことがあるのだと。だから、そうなる前に“澱み”を吐き出させてやるのが自分の仕事だと彼は言っていた。
この呪いの主も、そうなのだろうか。吐き出すことの出来なかった澱みが、こんな形になってしまったのだとしたら。
「……井ノ原さん。俺は、どうしたらいいんでしょう」
早坂の問いに、少し考えるような間を置いて、井ノ原は静かな口調で言った。
『明日、やっぱりもう一度山本大紀に話を聞く。今度は建前無しで、だ。……そうしたら、後は本人次第だよ』
それ以上、井ノ原は何も言わなかった。
ちょうどいいタイミングで、階段の影から伊緒が顔を出す。どうやらタイムリミットのようだ。
校舎の外には、夜の気配が漂い始めている。
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