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4話 家族
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「ここが、鸛良さんのお店、ですか……」
言われた通り、その店にはすぐに辿り着いた。絞り染めの青い暖簾が掛けられたその店は、間口が狭く奥に長い造りをしている。店先からそっと中を窺ってみると、色とりどりの反物が、お互いの美しさを競い合うように誇らしげに並んでいるのが見えた。
「おかえり、カンさん。その子が螢花さんの伴侶になったいう子?」
鸛良に手招かれるまま店の中に足を踏み入れると、おっとりした話口調の男性に出迎えられた。背丈は汐季と同じくらいの中肉中背、歳は三十過ぎくらいだろうか。品の良い藤色の着物を身につけて、狐のようなつり目に丸い眼鏡をかけている。
「ただいま、隼吉。なかなか可愛らしい子だろう? 着物を仕立てる甲斐もあるというものだ」
「え、あの、着物を仕立てるというのは……」
「ああ、うちは見ての通り呉服屋だからな。心配しなくても、私は人間の仕立て屋の下で長年修行していた事もあるんだ。腕には自信がある」
「いえ、そういう事ではなく……!」
微妙に話が噛み合わず困惑する汐季と、自慢気に胸を張る鸛良を見比べて、隼吉という男がため息を吐いた。
「カンさん、もしかして何も説明せんと連れて来たん? そうやって先走るのは悪い癖やでって、いっつも言うてるやろ」
西の言葉で話す男はすたすたと近づいて来て、汐季ににっこりと微笑みかけた。
「ごめんなあ、うちの人が強引に連れて来てしもうて。お世話になっとる螢花さんが嫁取りしはったって聞いて、お祝いとしてお相手の人に一着仕立てさせて貰おう言う話になってたんよ。あ、僕は隼吉いいます。よろしゅうな」
「あ、し、汐季です……」
流れるような話しぶりに釣られるように、汐季は自分の名を名乗った。それから戸惑いを浮かべて、隼吉と鸛良の顔を見比べる。
「あの、お二人は……」
「ん? 僕らは夫婦やで。……まあ、カンさん今こんな格好やからややこしいけど」
そう言って、隼吉は自分より背の高い鸛良の腕を突っついた。
「隼吉さんは、人間、ですか……?」
「そう。汐季くんとおんなじな……と、ずっと立ち話してるのもなんやし、とりあえず奥入り」
隼吉に促されるまま、さらに店の奥へと踏み込む。幅の狭い店内には、反物だけでなく既に仕立てられた着物も多く並べられていた。その中でも一層目立つ硝子の棚に、螢花がこしらえたであろう簪が並んでいるのが見える。
「フミちゃーん。お父さん、二階でお客さんのお相手するさかい、ちょっとお店番頼めるかー」
「はあーい」
隼吉が店の突き当たりにあるガラス戸を開けて声をかけると、可愛らしい声と共に階段を駆け下りてくる足音がして、十くらいの年頃と見える少女と、五つくらいの幼い少女が手を繋いだまま現れた。年上の少女の背中では、生まれて間もないと見える赤ん坊がすやすやと眠っている。
「長女のフミと、次女のツグミ、それから末娘のヒヨリです。ほら、お客さんにご挨拶しい」
「こんにちは、いらっしゃいませ!」
「…………ませ」
隼吉に促されたフミがハキハキと挨拶をすると、釣られるようにツグミもぺこりと頭を下げた。そのまま少女達は手を繋いで店頭に向かい、並んだ椅子にちょこんと腰掛けて、なにやら楽しそうにお喋りをし始める。
「私と隼吉に似て可愛い娘達だろう」
「今のカンさんにはあんまり似てへんけどね。ほら、おいで汐季くん」
素っ気なく答えて、隼吉はフミ達が下りて来た階段を上って行った。その後を追ってガラス戸をくぐり、汐季は鸛良の顔を見上げる。
「人と神様の間にも、子を授かる事があるんですね」
「というより、人の胎や種を借りねば子を授かる事が出来ないんだ。なにしろ私達は……ああ、なんと説明すれば良いかな。私達は、自然の中に溢れている生物や植物の意思が集まって形を成したものだから、親も兄弟もない。私達だけでは子を成す事も出来ない。だからこそ、命を紡いで、生命の輪に加わることに……家族を持つという事に、強い憧れを持つ者が多いんだ。この街は、その中でも“人”という存在に強く惹かれた者が集まって作った場所なんだよ」
「……そう、なんですか」
親も兄弟もないから、家族を持ちたいと強く願う。なんだか自分の事を言われているようで、汐季はそれ以上何も言うことが出来なかった。
螢花も、同じなのだろうか。一人に飽きて、家族を持ちたいと願ったから、沙恵を娶ろうと思ったのだろうか。だとすれば、あんな山奥で一人きりで暮らしていたのは何故だろう。あんなに寂しがりなヒトなのに。
「ちょっとカンさん、いつまでそんなとこで喋ってるん? はよ汐季くんにこっち来てもろて」
「ああ、分かった分かった。そう急かすなよ」
階上から聞こえてくる声に苦笑して、鸛良は頭を搔いた。
「私は店で娘達と一緒に反物を選んでいるから、上で隼吉に採寸して貰ってくれ」
「あの、鸛良さん……」
そもそも着物を仕立てて貰うことを了承した覚えは無い。
しかし、汐季がそう言う前に、鸛良はさっさと店に戻って行ってしまう。
「汐季くーん?」
階上からは、隼吉が汐季を呼ぶ声が聞こえてくる。それを無視して立ち去る訳にもいかず、汐季は仕方なく階段に足をのせた。
「失礼します……」
階段を上がりきってすぐの部屋に、おそるおそる顔を出してみると、そこはごく普通の座敷になっていた。壁際に寄せられた小さい座布団の上に、キラキラとしたビー玉が転がっている。
「ごめんなあ、散らかってて。下に作業部屋もあるんやけど、今カンさんが仕立てに使っとる最中で、もっと散らかっとるさかい」
「いえ、お構いなく……」
汐季がおずおずと中に入るなり、隼吉は穏やかに微笑みながら立ち上がり、手にしていた丸い何かを掲げてみせた。
「舶来もんの巻尺やで……ふふ、僕が向こうに住んでた頃は、鎖国やなんや言うて息苦しい時代やったから、こっちに来てからの方がいろんなもん手に入って楽しいわ。汐季くんは、どういう時代から来はったん?」
鎖国令などというものは、汐季が生まれるより前に無くなったはずだが、隼吉は一体いつここへ来たのだろうか。なんとなく違和感を覚えながらも、汐季は自分が人の世界にいた時のことを思い返した。
「……数年前に江戸幕府が無くなって、時代は明治になりました。俺が住んでいた田舎では大して変わったこともありませんでしたが、大きな街には洋装の人がたくさん居るそうですよ」
所在なく立ったままの汐季の答えを聞いて、隼吉は巻尺を伸ばしながら目を丸くした。
「はあ……人の世界はそないな事になってるん……時代は変わるもんやねえ」
汐季の肩に巻尺をあてて、隼吉は笑う。
「洋装、ええなあ。今度カンさんに相談して、うちでも取り入れてみよか。……ああでも、そんな話したら、また修行や言うて、カンさん向こうに洋裁習いに行ってまうかもしれんなあ」
「鸛良さんは、よく人の街に行かれるんですか?」
「ん? そうやねえ……今は落ち着いてるけど、昔はほとんど向こうで人に紛れて生活してたらしいわ。僕が知り合ったんも、そん時の事やったしなあ。まさか、ごっつええ男やと思って口説いた相手が、人間やないとは思わんかったけどな」
隼吉はそう言って、愉快そうに笑った。
「……お二人は、ちゃんと好きあってご結婚されたんですね」
「それは、そうやけど……汐季くんは違うん?」
「俺は……」
日焼けした畳の上に視線を落として、汐季は口ごもる。
「俺は、ここに来て初めて、螢花様にお会いしたので」
「……そうかあ」
汐季の態度から何かを察したのか、隼吉はそれ以上何も聞いてこなかった。
「まあ、ここの人らはみんな人間に友好的やし、螢花さんかて気難しいけど親切な人やさかい……それでもなんか困った事があったら、いつでもうちおいで。人間同士でないと相談できへん事もあるかもしれんしな」
そう言って、隼吉はいたずらっぽく笑った。
「なあ、そういえばその簪、螢花さんの作らはったやつやろ。よう似合ってるやん」
「……本当ですか? 俺は男ですし、こんなふうに飾り立てても、変に思われるんじゃないかと思っていました」
「変なことあらへんよ。……あんな汐季くん、ここはたぶん、君が思っとるより、ずっと自由な所や。みんな自分の好きなもん身につけて、好きなように生きとる。誰もそれを笑ったりせえへん。せやから汐季くんも、自分の好きなようにしたらええんやで」
「好きな、こと……」
自分の好きな事とはなんだろう。今まで考えた事すらなかった。貧しい村の拾い子の自分が、そんなことを考える余裕なんて、ある筈がなかったのだ。
「……隼吉さんの好きなことって、何ですか」
「僕? なんや難しいこと聞くなあ……そうやな、月並みやけど、僕はここで家族仲良く暮らしてる今が、一番好きやし大事やと思うで」
「家族……」
そうだった。この人には、好きあって結ばれた相手と、その人との間に産まれた子供が三人もいるんだ。
それなら、汐季にとっての家族……螢花との暮らしが、汐季の一番大切なことになるのだろうか。
いくら考えてみても、今はどんな答えも見つけられなかった。
*
「ほな、着物が出来上がった頃に渡しに行くさかい……カンさんがな」
暖簾を下ろした店の前で、隼吉は夕陽を横顔に浴びて笑った。
「すみません、結局着物一式いただくことになって……」
「ああ、そんなん構わへんよ。むしろ押し付けてしもうてごめんなあ。可愛らしい子がうちの着物着てくれてたら、ええ宣伝になるさかい」
そう言ってヒラヒラと手を振る隼吉の後ろから、娘のフミがひょいと顔を出した。
「お兄さん、また来るん?」
「え? ええと……」
日頃子供と接することの無い汐季が返事に困っていると、隼吉がすぐに助け舟を出した。
「フミちゃん、汐季くんが男前やから気になるんやろ? あかんなあ、螢花さんに怒られるで」
「もう、そんなんちゃうし! お父さんのあほ!」
ベシベシと容赦なく胸や腹を叩く手を笑いながら受け止めて、隼吉は汐季に視線を向けた。
「うちの子らも待ってるさかい、またいつでも来いや」
「ありがとうございます」
汐季がそう言って頭を下げた時、ようやく玄関から鸛良が顔を出した。
「遅くなってすまない。行こうか、汐季」
いつの間にか女の姿に戻っていた鸛良は、右手に赤ん坊のヒヨリを抱き、左手で次女のツグミの手を引いていた。誰が見ても温かな家族の姿に、少し胸が苦しくなる。
「ほら汐季、手を貸してくれ」
子供達を隼吉に預けた鸛良に、ぎゅっと手を握られる。その光景を見た隼吉が、ヒヨリを抱き上げながらため息を吐いた。
「それ、螢花さんに見られんときや。また怒られても知らんで」
「仕方ないだろう。私は螢花みたいに、出入口だけ別の場所に繋げたり、相手だけを離れた場所に飛ばすような器用な真似は出来ないんだから。何事も向き不向きがあるからな」
「ああ、はいはい。分かったから、はよ送ったり」
適当な返事に不満そうな表情を浮かべながら、鸛良はこちらに顔を向けた。
「それじゃあ行くか」
「またな、汐季くん」
「また来てなー」
「…………てな」
賑やかな家族の声に送られながら、鸛良と汐季の姿は光に包まれた。
そして、気づいた時には、汐季はまた山奥の一軒家の前にいた。
「ありがとうございます、送っていただいて」
「なに、もう暗くなる時間だからな。人間が歩いて山道を登るのは危険だ」
そう言って鸛良は微笑みながら汐季の手を離し、そして少し真面目な顔になった。
「なあ汐季。君のような普通の人間が螢花と……人ではない者と共に暮らしていくというのは、きっと想像以上に大変な事だと思う。私達は生き物としての形がまるで違う……いや、生き物とすら呼べない存在だ。私と隼吉だって、ずいぶん長く連れ添って子供も儲けたが、それでも本質的な部分では、どうしたって理解し合えないまま、私は彼からずいぶん多くの物を奪って、何度も傷つけてきたと思う」
突然の、冷たいとも感じる言葉の数々に驚いて、汐季は息を呑んだ。
「どうして、そんな事をおっしゃるんですか。お二人はあんなに仲が良かったのに」
「そうだな。私は隼吉を愛しているし、隼吉だって間違いなく私を愛してくれている。裏を返せば、理解は出来なくとも愛し合えるという証明になるのかもしれないが……いずれにせよ、今こうしていられるのは、隼吉がずいぶん歩み寄ってくれたおかげだ」
そう言って、鸛良は少し苦笑した。
「なあ汐季。君もこれから螢花の傍にいるのなら、理解できない出来事や、受け入れ難いような事実に直面することもあるかもしれない。その全てを受け入れてやれとは言わないが……どうかこれだけは覚えていて欲しい。あいつもただ、君を愛したいだけなんだということを」
「鸛良さん……」
どこか憂いを帯びた、それでいて慈しむような瞳を向ける鸛良の姿が、白い光に包まれた。
「すまないな、最後にこんな話をして。だけど、どうしても今伝えておきたかったんだ」
鸛良の姿が光の中に消え、その言葉の余韻だけが、夕暮れの気配の中に残った。
燃えるように赤い空を見上げる汐季の頭の中では、家族と生きる今が一番大切だと言った隼吉の声が、なぜかいつまでも反響して、消えないままだった。
言われた通り、その店にはすぐに辿り着いた。絞り染めの青い暖簾が掛けられたその店は、間口が狭く奥に長い造りをしている。店先からそっと中を窺ってみると、色とりどりの反物が、お互いの美しさを競い合うように誇らしげに並んでいるのが見えた。
「おかえり、カンさん。その子が螢花さんの伴侶になったいう子?」
鸛良に手招かれるまま店の中に足を踏み入れると、おっとりした話口調の男性に出迎えられた。背丈は汐季と同じくらいの中肉中背、歳は三十過ぎくらいだろうか。品の良い藤色の着物を身につけて、狐のようなつり目に丸い眼鏡をかけている。
「ただいま、隼吉。なかなか可愛らしい子だろう? 着物を仕立てる甲斐もあるというものだ」
「え、あの、着物を仕立てるというのは……」
「ああ、うちは見ての通り呉服屋だからな。心配しなくても、私は人間の仕立て屋の下で長年修行していた事もあるんだ。腕には自信がある」
「いえ、そういう事ではなく……!」
微妙に話が噛み合わず困惑する汐季と、自慢気に胸を張る鸛良を見比べて、隼吉という男がため息を吐いた。
「カンさん、もしかして何も説明せんと連れて来たん? そうやって先走るのは悪い癖やでって、いっつも言うてるやろ」
西の言葉で話す男はすたすたと近づいて来て、汐季ににっこりと微笑みかけた。
「ごめんなあ、うちの人が強引に連れて来てしもうて。お世話になっとる螢花さんが嫁取りしはったって聞いて、お祝いとしてお相手の人に一着仕立てさせて貰おう言う話になってたんよ。あ、僕は隼吉いいます。よろしゅうな」
「あ、し、汐季です……」
流れるような話しぶりに釣られるように、汐季は自分の名を名乗った。それから戸惑いを浮かべて、隼吉と鸛良の顔を見比べる。
「あの、お二人は……」
「ん? 僕らは夫婦やで。……まあ、カンさん今こんな格好やからややこしいけど」
そう言って、隼吉は自分より背の高い鸛良の腕を突っついた。
「隼吉さんは、人間、ですか……?」
「そう。汐季くんとおんなじな……と、ずっと立ち話してるのもなんやし、とりあえず奥入り」
隼吉に促されるまま、さらに店の奥へと踏み込む。幅の狭い店内には、反物だけでなく既に仕立てられた着物も多く並べられていた。その中でも一層目立つ硝子の棚に、螢花がこしらえたであろう簪が並んでいるのが見える。
「フミちゃーん。お父さん、二階でお客さんのお相手するさかい、ちょっとお店番頼めるかー」
「はあーい」
隼吉が店の突き当たりにあるガラス戸を開けて声をかけると、可愛らしい声と共に階段を駆け下りてくる足音がして、十くらいの年頃と見える少女と、五つくらいの幼い少女が手を繋いだまま現れた。年上の少女の背中では、生まれて間もないと見える赤ん坊がすやすやと眠っている。
「長女のフミと、次女のツグミ、それから末娘のヒヨリです。ほら、お客さんにご挨拶しい」
「こんにちは、いらっしゃいませ!」
「…………ませ」
隼吉に促されたフミがハキハキと挨拶をすると、釣られるようにツグミもぺこりと頭を下げた。そのまま少女達は手を繋いで店頭に向かい、並んだ椅子にちょこんと腰掛けて、なにやら楽しそうにお喋りをし始める。
「私と隼吉に似て可愛い娘達だろう」
「今のカンさんにはあんまり似てへんけどね。ほら、おいで汐季くん」
素っ気なく答えて、隼吉はフミ達が下りて来た階段を上って行った。その後を追ってガラス戸をくぐり、汐季は鸛良の顔を見上げる。
「人と神様の間にも、子を授かる事があるんですね」
「というより、人の胎や種を借りねば子を授かる事が出来ないんだ。なにしろ私達は……ああ、なんと説明すれば良いかな。私達は、自然の中に溢れている生物や植物の意思が集まって形を成したものだから、親も兄弟もない。私達だけでは子を成す事も出来ない。だからこそ、命を紡いで、生命の輪に加わることに……家族を持つという事に、強い憧れを持つ者が多いんだ。この街は、その中でも“人”という存在に強く惹かれた者が集まって作った場所なんだよ」
「……そう、なんですか」
親も兄弟もないから、家族を持ちたいと強く願う。なんだか自分の事を言われているようで、汐季はそれ以上何も言うことが出来なかった。
螢花も、同じなのだろうか。一人に飽きて、家族を持ちたいと願ったから、沙恵を娶ろうと思ったのだろうか。だとすれば、あんな山奥で一人きりで暮らしていたのは何故だろう。あんなに寂しがりなヒトなのに。
「ちょっとカンさん、いつまでそんなとこで喋ってるん? はよ汐季くんにこっち来てもろて」
「ああ、分かった分かった。そう急かすなよ」
階上から聞こえてくる声に苦笑して、鸛良は頭を搔いた。
「私は店で娘達と一緒に反物を選んでいるから、上で隼吉に採寸して貰ってくれ」
「あの、鸛良さん……」
そもそも着物を仕立てて貰うことを了承した覚えは無い。
しかし、汐季がそう言う前に、鸛良はさっさと店に戻って行ってしまう。
「汐季くーん?」
階上からは、隼吉が汐季を呼ぶ声が聞こえてくる。それを無視して立ち去る訳にもいかず、汐季は仕方なく階段に足をのせた。
「失礼します……」
階段を上がりきってすぐの部屋に、おそるおそる顔を出してみると、そこはごく普通の座敷になっていた。壁際に寄せられた小さい座布団の上に、キラキラとしたビー玉が転がっている。
「ごめんなあ、散らかってて。下に作業部屋もあるんやけど、今カンさんが仕立てに使っとる最中で、もっと散らかっとるさかい」
「いえ、お構いなく……」
汐季がおずおずと中に入るなり、隼吉は穏やかに微笑みながら立ち上がり、手にしていた丸い何かを掲げてみせた。
「舶来もんの巻尺やで……ふふ、僕が向こうに住んでた頃は、鎖国やなんや言うて息苦しい時代やったから、こっちに来てからの方がいろんなもん手に入って楽しいわ。汐季くんは、どういう時代から来はったん?」
鎖国令などというものは、汐季が生まれるより前に無くなったはずだが、隼吉は一体いつここへ来たのだろうか。なんとなく違和感を覚えながらも、汐季は自分が人の世界にいた時のことを思い返した。
「……数年前に江戸幕府が無くなって、時代は明治になりました。俺が住んでいた田舎では大して変わったこともありませんでしたが、大きな街には洋装の人がたくさん居るそうですよ」
所在なく立ったままの汐季の答えを聞いて、隼吉は巻尺を伸ばしながら目を丸くした。
「はあ……人の世界はそないな事になってるん……時代は変わるもんやねえ」
汐季の肩に巻尺をあてて、隼吉は笑う。
「洋装、ええなあ。今度カンさんに相談して、うちでも取り入れてみよか。……ああでも、そんな話したら、また修行や言うて、カンさん向こうに洋裁習いに行ってまうかもしれんなあ」
「鸛良さんは、よく人の街に行かれるんですか?」
「ん? そうやねえ……今は落ち着いてるけど、昔はほとんど向こうで人に紛れて生活してたらしいわ。僕が知り合ったんも、そん時の事やったしなあ。まさか、ごっつええ男やと思って口説いた相手が、人間やないとは思わんかったけどな」
隼吉はそう言って、愉快そうに笑った。
「……お二人は、ちゃんと好きあってご結婚されたんですね」
「それは、そうやけど……汐季くんは違うん?」
「俺は……」
日焼けした畳の上に視線を落として、汐季は口ごもる。
「俺は、ここに来て初めて、螢花様にお会いしたので」
「……そうかあ」
汐季の態度から何かを察したのか、隼吉はそれ以上何も聞いてこなかった。
「まあ、ここの人らはみんな人間に友好的やし、螢花さんかて気難しいけど親切な人やさかい……それでもなんか困った事があったら、いつでもうちおいで。人間同士でないと相談できへん事もあるかもしれんしな」
そう言って、隼吉はいたずらっぽく笑った。
「なあ、そういえばその簪、螢花さんの作らはったやつやろ。よう似合ってるやん」
「……本当ですか? 俺は男ですし、こんなふうに飾り立てても、変に思われるんじゃないかと思っていました」
「変なことあらへんよ。……あんな汐季くん、ここはたぶん、君が思っとるより、ずっと自由な所や。みんな自分の好きなもん身につけて、好きなように生きとる。誰もそれを笑ったりせえへん。せやから汐季くんも、自分の好きなようにしたらええんやで」
「好きな、こと……」
自分の好きな事とはなんだろう。今まで考えた事すらなかった。貧しい村の拾い子の自分が、そんなことを考える余裕なんて、ある筈がなかったのだ。
「……隼吉さんの好きなことって、何ですか」
「僕? なんや難しいこと聞くなあ……そうやな、月並みやけど、僕はここで家族仲良く暮らしてる今が、一番好きやし大事やと思うで」
「家族……」
そうだった。この人には、好きあって結ばれた相手と、その人との間に産まれた子供が三人もいるんだ。
それなら、汐季にとっての家族……螢花との暮らしが、汐季の一番大切なことになるのだろうか。
いくら考えてみても、今はどんな答えも見つけられなかった。
*
「ほな、着物が出来上がった頃に渡しに行くさかい……カンさんがな」
暖簾を下ろした店の前で、隼吉は夕陽を横顔に浴びて笑った。
「すみません、結局着物一式いただくことになって……」
「ああ、そんなん構わへんよ。むしろ押し付けてしもうてごめんなあ。可愛らしい子がうちの着物着てくれてたら、ええ宣伝になるさかい」
そう言ってヒラヒラと手を振る隼吉の後ろから、娘のフミがひょいと顔を出した。
「お兄さん、また来るん?」
「え? ええと……」
日頃子供と接することの無い汐季が返事に困っていると、隼吉がすぐに助け舟を出した。
「フミちゃん、汐季くんが男前やから気になるんやろ? あかんなあ、螢花さんに怒られるで」
「もう、そんなんちゃうし! お父さんのあほ!」
ベシベシと容赦なく胸や腹を叩く手を笑いながら受け止めて、隼吉は汐季に視線を向けた。
「うちの子らも待ってるさかい、またいつでも来いや」
「ありがとうございます」
汐季がそう言って頭を下げた時、ようやく玄関から鸛良が顔を出した。
「遅くなってすまない。行こうか、汐季」
いつの間にか女の姿に戻っていた鸛良は、右手に赤ん坊のヒヨリを抱き、左手で次女のツグミの手を引いていた。誰が見ても温かな家族の姿に、少し胸が苦しくなる。
「ほら汐季、手を貸してくれ」
子供達を隼吉に預けた鸛良に、ぎゅっと手を握られる。その光景を見た隼吉が、ヒヨリを抱き上げながらため息を吐いた。
「それ、螢花さんに見られんときや。また怒られても知らんで」
「仕方ないだろう。私は螢花みたいに、出入口だけ別の場所に繋げたり、相手だけを離れた場所に飛ばすような器用な真似は出来ないんだから。何事も向き不向きがあるからな」
「ああ、はいはい。分かったから、はよ送ったり」
適当な返事に不満そうな表情を浮かべながら、鸛良はこちらに顔を向けた。
「それじゃあ行くか」
「またな、汐季くん」
「また来てなー」
「…………てな」
賑やかな家族の声に送られながら、鸛良と汐季の姿は光に包まれた。
そして、気づいた時には、汐季はまた山奥の一軒家の前にいた。
「ありがとうございます、送っていただいて」
「なに、もう暗くなる時間だからな。人間が歩いて山道を登るのは危険だ」
そう言って鸛良は微笑みながら汐季の手を離し、そして少し真面目な顔になった。
「なあ汐季。君のような普通の人間が螢花と……人ではない者と共に暮らしていくというのは、きっと想像以上に大変な事だと思う。私達は生き物としての形がまるで違う……いや、生き物とすら呼べない存在だ。私と隼吉だって、ずいぶん長く連れ添って子供も儲けたが、それでも本質的な部分では、どうしたって理解し合えないまま、私は彼からずいぶん多くの物を奪って、何度も傷つけてきたと思う」
突然の、冷たいとも感じる言葉の数々に驚いて、汐季は息を呑んだ。
「どうして、そんな事をおっしゃるんですか。お二人はあんなに仲が良かったのに」
「そうだな。私は隼吉を愛しているし、隼吉だって間違いなく私を愛してくれている。裏を返せば、理解は出来なくとも愛し合えるという証明になるのかもしれないが……いずれにせよ、今こうしていられるのは、隼吉がずいぶん歩み寄ってくれたおかげだ」
そう言って、鸛良は少し苦笑した。
「なあ汐季。君もこれから螢花の傍にいるのなら、理解できない出来事や、受け入れ難いような事実に直面することもあるかもしれない。その全てを受け入れてやれとは言わないが……どうかこれだけは覚えていて欲しい。あいつもただ、君を愛したいだけなんだということを」
「鸛良さん……」
どこか憂いを帯びた、それでいて慈しむような瞳を向ける鸛良の姿が、白い光に包まれた。
「すまないな、最後にこんな話をして。だけど、どうしても今伝えておきたかったんだ」
鸛良の姿が光の中に消え、その言葉の余韻だけが、夕暮れの気配の中に残った。
燃えるように赤い空を見上げる汐季の頭の中では、家族と生きる今が一番大切だと言った隼吉の声が、なぜかいつまでも反響して、消えないままだった。
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