アブソリュート・ババア

筧千里

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齟齬

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「グルル……」

 唸り声を上げながら、じわじわとこちらに近付いてくるサーベルタイガー。
 魔物の強さとしては、ウィルの故郷では上位に位置する存在だ。少なくとも、人型に近いオーガーよりも敏捷性に優れ、並の人間であれば即座に噛み砕く顎の力は、災害にも及ぶものだった。オーガーと同じく、一匹現れたら警備隊全員で相手にしなければならない――そんな存在だった。
 だが、ウィルはそんなサーベルタイガーを相手にしながら、たった一人で剣を構える。
 この、体の内側から溢れてくるような力。ウィルの強さを、まさに乗算したようなこの力が、ウィルに自信をもたらしてくれる。

「そんじゃ、小僧。さっさとあれを殺してきな」

「う、うす!」

 にやにやと笑みを浮かべながら、そうウィルに命じてくるヒルデガルト。
 そして、もう一つの自信。それは、S級ハンターであり最強と名高い『無敵の女王アブソリュート・クイーン』――彼女が授けてくれた力でもあるからだ。
 長く迷宮で戦い続けてきたヒルデガルトが与えてくれた力ならば、この程度の魔物は何の問題もない――。

「はぁぁっ!!」

 にやにやと、笑みを浮かべてウィルを見るヒルデガルト。
 気の毒そうに眉を寄せて、ウィルを見るシャロン。
 そして、ウィルが一歩踏み出すと共に。
 そこで――違和感に、気付いた。

「うわぁっ!」

 ウィルはただ、自然に一歩を踏み出しただけだった。いつも通りに剣をとり、構え、敵を切り裂こうと一歩を踏み出しただけだった。
 だが、その一歩が。
 まるで、風にその背中を後押しされたかのような速度で、踏み出されたのだ。
 踏み出した右足が、思い切り大地を踏み抜く。それが膝に痺れのような形で伝わり、足が覚束なくなる。びきぃっ、と痛みと共に痺れが走る膝に、ウィルの体勢は崩れて。
 それと共に。
 サーベルタイガーの鋭い爪の生えた前足が、ウィルの顔面へと襲いかかった。

「――っ!」

 必死に、剣を顔の前に持ってくる。
 その動きは、ウィルが想定する自分の動きよりも、遥かに素早かった。だがその代わりに、素早く動かした反動を止めることができず、剣は空を切る。
 自分の顔の前で剣を止める――その、本来自分のできるはずの動きが、できない。
 奥底から湧き出てくる力に、自分の体が耐えられない。自分の感覚が狂ってしまう。

「グォォォォォォッ!!」

「ぐあっ!!」

 ざしゅっ、とウィルの顔面を襲うサーベルタイガーの爪。
 どうにか回避しようと動かした首は、ウィルの想定よりも遥かに素早く動いたものの。しかし回避しきることはできず、額の皮一枚を掠めた。
 額から流れる血の、熱い感覚が走る。
 どうにか致命傷は回避したが、まだウィルの体――その位置は、サーベルタイガーの射程距離の中だ。

「く、そっ!!」

「グォォォォォッ!!」

「畜生ぉぉっ!!」

 サーベルタイガーへ向けて、思い切り剣を振るう。
 だがそれも、ウィルの知るウィルの速度ではない。ウィルが一歩を踏み出し、そのままに剣を振るい、その想定が描くウィルの剣筋――それと全く異なるそれは、サーベルタイガーに届くことなく空を切る。
 にやにやと、そんなウィルの困惑を分かっているかのように、笑みを浮かべるヒルデガルト。

「はぁぁっ!!」

 自分の背中と肘と足の裏に、加速装置がついているような感覚だ。自分の思うままに、自分の体が動いてくれない。自分の思う自分の速度と、実際に出す速度の齟齬。それが、ウィルの剣筋を歪ませている。
 全く、思い通りに動いてくれない。突然身体能力が倍加するというのは、こんなにも自分の体を戸惑わせるものだったのだ。
 ヒルデガルトには、それが分かっていたのだろう。

「グォォォォォッ!!」

「う、ああああああっ!!」

 それでもウィルは、必死に戦った。
 どうにか自分の思う速度と実際に出す速度――そこを同一にしようと、必死に手繰った。暴れ馬のように言うことを聞かない自分の体を、どうにか操作しようと戦い続けた。
 良かったのは、反応速度も同じく倍加しているために、サーベルタイガーの攻撃のほとんどを紙一重で回避できたことだろうか。
 代わりに、自分の体に引っ張られて体勢を崩したときに襲いかかってくる攻撃は、避けることができなかったが。
 そんな戦いを、暫く続けて。



「ぜぇ、ぜぇ……」

「グルル……」

 サーベルタイガーが、僅かにウィルから距離をとる。
 その時点で、ウィルは満身創痍だった。爪や牙はどうにか回避し続けているものの、突進や尻尾の一撃など、死角からくる攻撃には対応することができず、全身が痛む。自分の体が言うことをきかないというのは、これほど精神的に追い詰められるものだったのか。

「小僧、あたしは退屈だよ。そろそろケリつけな」

「ヒルダ、あなたは本当に性格が悪いですね……」

「事実さ。サーベルタイガー程度に苦戦するとは思っていなかったよ」

「初めて闘気を解放したときの、あなたの様子を彼に話してあげてもいいですが」

「やめろ、シャロン」

 ヒルデガルトが初めて闘気を解放したとき――その話は、非常に興味があるが。
 だが同時に、ウィルに焦燥が走る。ヒルデガルトは、「退屈だ」と言った。サーベルタイガー程度に苦戦するとは思っていなかったと、そう言った。
 つまりヒルデガルトからすれば、ウィルは多少自分の体に振り回されたとしても、サーベルタイガー程度の相手ならば苦戦することなく倒せると、そう判断していたのだ。
 ならば、その期待には応えなければならない。

「は、ぁっ、ぜぇ……」

「グルル……」

 ただウィルとて、振り回されていただけではない。
 どうすれば自分の体で最適な動きができるか、それは必死に考えていた。思い通りに動かない体を、どうすれば制御できるか模索し続けていた。
 そもそも、何故自分の体が制御できないのか。
 それは少なからず、今まで鍛えてきた剣術――その認識が、最初から存在しているからだ。ウィルの考えるタイミングで足を踏み出し、ウィルの考えるタイミングで剣を振るう。その認識が、身体能力の倍加によって狂ってしまっている。
 だったら。
 流れに、身を任せればいい――。

「……」

 剣を、まっすぐ縦に構える。
 受け入れるのだ。自分の力を。自分の速度を。自分の考えているそれでなくとも、今のウィルはそれだけ強い。
 そんな自分の力を、信じて――。

「グォォォォォッ!!」

 襲いかかってくるサーベルタイガーの動き。
 それを視認し、反応する速度も、遥かに上がっている。冷静にそれを確認して、思うままに動かない体を制御することを諦めて、自分の体を信じる。
 ウィルの勝手な認識で振り回されているのならば。
 その認識を捨てて、ただ流れに身を任せて。

「ふっ――!」

 ひゅんっ、と振るわれる剣。
 疲労困憊の体は、そこに余計な力を使うこともなく。
 極めて自然に、その先に存在する――サーベルタイガーの首を、落とした。
 返り血がウィルにかかり、サーベルタイガーがそのまま首のない体で大地に倒れ伏し。
 そして。

「よくやった、小僧」

 短く。極めて短く、そうヒルデガルトは。
 ウィルをそう、褒めてくれた。
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