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4.チョコレート
しおりを挟む「先生、お先にどうぞ」
「ありがと」
バスタブに湯が溜まると、リシャールに先に風呂に入るよう促される。僕の方が髪が長くて乾くのに時間がかかるためだ。
頭のてっぺんからつま先までしっかり洗って汚れを落とすと、やはり爽快で気持ちがいい。昨日からのもやもやが洗い流された気がする。でも、それはただの気のせいだ。こんなことで悩みがなくなったら、人々の寿命はもっと長くなっている。
「リシャールも、どうぞ」
脱衣所で髪を拭きながら言うと、リシャールはうなずいてダイニングでさっさと服を脱ぎ始めた。
「何でそこで脱ぐんだよ」
「だって、先生まだ服着てないから」
「えー、これまでそんなの気にしてなかったのに? もしかしてやっと思春期……というか、反抗期?」
そういえばリシャールは反抗期がなかったなと、今更ながらに思う。本来なら引き取った時がちょうど反抗期真っ盛りだったはずだ。急に環境が変わって、それどころではなかったのかもしれない。遅れて来る反抗期とは、一体どんなものなのだろう。心理学ももっと学んでおけばよかった。
「そういうわけじゃ……」
「まあいいけど、汚れた服はそこに置きっぱなしにしないでよ」
「はい」
素直に返答すると、彼は僕の横をさっとすり抜けて風呂に入って行った。その行動が何となく他人行儀な気がして、わずかに寂しさを覚える。
リシャールが風呂から上がると、またあの箱のチョコレートを一緒に食べることにした。「意地悪しないから」と言って、僕が食べたがったのだ。
「リシャール、もうあんなことしちゃだめだよ。いたずらの範囲を超えてるからね」
「あんなこと?」
「……昨日……」
「昨日、何ですか?」
リシャールの温まった体から僕と同じ石鹸の香りがほのかに匂い立ち、どことなく落ち着かない気分になる。彼は、わかって聞いている。たちが悪い。育て方を間違えただろうか。
「……昨日、僕の口の中のチョコレートを……」
「先生が意地悪したからです」
「うっ、それは、悪かったよ……ごめん」
「じゃあもう一回、食べさせて」
昨日と同じように、リシャールが僕の方を向いて口をあーんと開け、チョコレートを待つ。
「う、うん」
僕も昨日と同じように、チョコレートを指でつまんで彼の口へ持っていく。
「はい、どうぞ。今日は意地悪しないよ」
そう言って舌の上に小さなチョコレートを置いてやろうとしたら、リシャールの口が閉じて僕の指が閉じ込められてしまった。次の瞬間、ぺろりと親指と人差し指が柔らかな舌でなでられて、ぞくりと首筋に快感が走る。
「……っ!」
指ってこんなに感じやすかったっけ、と、医師らしからぬことを真っ白になった頭の隅で必死に考えていると、リシャールが「指先には神経が集まってるって、先生が」と言い、指が解放された。
「そ、そうだね、よく覚えてたね。でもいたずらの範囲を……」
驚きすぎて、自分で言ったことも思い出せなかった。いや、驚いたからというよりは――
「……もう、子供じゃないので」
「……え?」
唾液で濡れた指のやり場に困り、とりあえず自分の膝の上に置く。リシャールが何か言いたげにしているが、そちらを見ることができず、目のやり場にも困ってしまう始末だ。
「先生が男性だろうが女性だろうが、関係ないんです」
「……何? どういうこと?」
僕の挙動不審に泳いでいた目が、リシャールをとらえた。今度は本当に驚いたからだ。彼の目は、僕をからかったり、嘘を言ったりしているようには見えない。
初めて会った時、リシャールは衰弱していて、意識はあるもののその美しい瞳は生気がなく、栗色の髪はぼさぼさに乱れていた。細い手足が痛々しくて、頬だけがアンバランスにふっくらとしており、子供らしいあどけなさを持っていた。
でも、もう子供じゃない。彼の言う通りだ。働いて給料をもらっていて、酒を飲める年齢で、体も大きくなった。そのうち巣立ってしまうのだろうか。そう思うとまた、ちくりと胸が痛み出す。
「初めて会った時は女性だって勘違いしたけど。名前だって、女性っぽくても男性っぽくても、どっちでもいいんです」
「それ、って」
言葉が詰まってしまい、なかなか出てこない。昨日の出来事の謎と、女の子たちに囲まれているリシャールを見た時の、感情の乱れの謎が解かれそうなのがとても怖い。うれしさの背後に、後ろめたさもある。僕がもらってもいい言葉なのだろうかという疑問を拭うことができない。
「町の女の子たちが先生のこと狙ってて、気が気でなくて……今日も色々聞かれたし」
「それは、リシャールが格好いいから……」
「違いますよ。先生が人気あるから、です」
また胸がぎゅっと押し潰されるような感覚を覚え、僕は目をつぶった。ずっと続いている動悸が収まる気配も、全然ない。僕は昨日から心臓に負担をかけてばかりだ。ああ、負担をかけているのは僕じゃない、リシャールだ。
「リシャールが、モテてるんだな、って、思ってた」
「違いますって」
目を開けると、チョコレートの箱が視界に入る。僕は顔を上げられず、箱を睨みつけながら大きく息を吸った。
「そ、んなの、あの場ではわからなかったし……」
「……そうですね。やきもち、ですか?」
彼がどんな表情をしているかは、下を向いている僕には見えない。でも耳に届く声は優しくて、とても、甘い。僕の奥底の疼きと共鳴する、柔らかい声。
「……わからない。だって、おかしいよね、リシャールが女の子たちに囲まれてるのを見た時に、胸が痛くなったなんて……」
「おかしくないです。どうしよう、やきもちうれしい」
「やきもち……。ああ、そうか、僕はリシャールの保護者だから、きっと自分の手から離れる気がして寂しくなったんだね」
「あ、そっちにいっちゃうんですね……」
ここでやっと保護者としての体裁を整えて顔を上げることができた僕の目に映ったのは、眉尻を下げた残念そうな表情のリシャールだった。
そう、やきもちだったのだ。謎はもうすっかり解かれてしまった。あの時、やきもちが原動力となり、穏やかな日常生活というぬるま湯から手を伸ばし始めた自分がそこにいた。その手が寒さを感じ、ぬくもりを求めている。
「保護者だもの。……でも、男性でも女性でもいいって言ってくれたのは、うれしかったよ」
男らしくなりたいという思いはあった。でも、男として生きることに嫌気が差していた。こんな矛盾から必死に目を背けて、見ないようにしていた。リシャールの言葉は、僕の中のそんな矛盾を解決してくれたような気がした。性別がどちらでもいいだなんて、すごい口説き文句だと思う。恥ずかしさから保護者という体でいるけれど、本音は違う。
「正直に言うと、俺は母親の、その……、不埒な姿を見たりしてたので、女性には夢も希望もほとんど持ってなかったんです」
「うん」
「男性でも女性でも関係ないっていうのは本当だけど、もし女性が相手だったら、ちょっと苦労してたかも。母親の、そういうのが、どうしても……」
「そっか……、そうだよね……」
リシャールの軽く伏せた顔を色っぽくしているのは、長いまつ毛だろうか。額にかかるさらさらの前髪だろうか。それとも、引き結ばれた艶めかしい唇だろうか。彼から目を離すことができない。
「このチョコレート、ジェレミーの目と同じ色」
「……また、名前……」
「はい、食べさせてあげる」
顔を上げてわずかに微笑むリシャールが、ダークチョコレートをつまんで、僕の目の前に差し出している。そろそろと口を開けると彼の親指と人差し指が口の中に入ってきた。途端に僕は口を閉じ、リシャールの指をぺろりとなめてやる。
「お返し」
するとリシャールは、僕の頬に手を当てて唇を重ねてきた。温かい手の平と、柔らかい唇と舌の感覚が僕の『保護者』の部分を麻痺させる。
「ジェレミーが保護者でよかったです。俺は幸運でした」
「ぼ、くも」
僕も、幸運だったと思っている。あんなひどい母親にさえ感謝するくらい。だが、リシャールの唇に邪魔されて言葉を発することができない。
「甘いもの、買いに行きましょうね」
「う、んっ……」
「俺がいない時に飲みに行ったらだめですよ。すぐ真っ赤になってかわいくなるから」
「えっ、そ、んっ」
「俺はもう身長いらないんです。今くらいが、ジェレミーとちょうどいいでしょう?」
「あ、そう……」
リシャールが話し終えるとすぐに僕の唇がふさがれてしまい、全然しゃべらせてもらえない。
やっと唇が離れると、まだ少し水分が残っている僕の髪を、リシャールがふわりと手櫛で梳いた。
「もうっ、しゃべらせてよ」
怒ってみせる僕に、あははと明るく笑ったリシャールは、今まで見た中で一番きれいで格好いい。
「僕も――」
か細い声でどうにか言うことができた口に、また彼の唇が重ねられた。
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