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本編
10話
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鉱山の運営状況の報告に、元同僚のシンが屋敷を訪れた。会うのは記念式典以来だ。
「あのときは泥酔してしまって悪かった」
「いや、楽しかった」
「うん、誘ってくれてありがとう」
しばらく仕事の話をしてから一息つくと、シンはステファニーのことを尋ねてきた。
「今日はお姫さまは?」
「さあ…、家の仕事をしてるかな。分からない」
今朝、ステファニーはどこかに外出するとは言っていなかったので、家のどこかにいるんだろう。
ステファニーのことを思い出したオーウェンは、なんだか急に最近の自分の気持ちをシンに相談したくなってきた。もう自分一人で悶々と悩むのが面倒になってきたのだ。
「シンはさ、独身だろ」
「ああ、悲しいことに」
「その…、将来的に別れなければいけない相手に惹かれてしまった場合、どう気持ちに折り合いをつければいい?」
「はあ?」
シンは意味が分からない、というように眉を寄せた。
「なんだそれ、とんち?」
「いや…」
オーウェンは歯切れ悪くも事情を説明した。
「ステファニーは鉱山の褒賞でうちに来たし…色々面倒かけたから、将来王宮に帰してやりたいんだけど、ただなんというか最近、ステファニーが気になって仕方ないんだ」
「えっ、帰っちゃうのか?」
「いや、決まっているわけではないが、帰すのが誠実な対応かなと俺が思ってるだけで」
シンはまだ話がうまく飲み込めていないようで、考えている顔だ。
「帰すべきだけど、帰したくなくなっちゃったってこと?」
「そうだな」
「帰さなきゃいいじゃないか」
「本人に始めに、帰すと言ってしまっている」
そうだ、始めにあんなこと言わなければよかったとオーウェンは後悔した。
「お姫さまは帰りたがってるのか?」
「…分からない…」
「聞けばいいだろ」
「…聞けない…」
オーウェンは頭を抱えた。
何度か「帰りたいなんて言ってない」と言っていたように思うが、社交辞令かもしれない。もしも離縁する3年後を指折り数えているようだったら、ショックで立ち直れない気がする。
「なにをぐずぐず言ってるんだ。それなら簡単なことだろ。お姫さまに帰りたくないなと思わせるように好きになってもらえばいいんだ」
シンの言葉に、オーウェンはばっと顔を上げた。
確かにシンの言う通りだ。ステファニーに自分を、この家を好きになってもらえば万事解決だ。
「お前、お姫さまに嫌われているわけじゃないんだろ。仲良さそうだったじゃないか」
ステファニーに嫌われてはいないと思うが、しかし、男として見られていないことをオーウェンは思い出した。
なんていったって、彼女は自分のことを『毛並みが少しぼさぼさのひよこちゃん』と称したのだ。眠れるようになったので、毛並みは多少改善されたかもしれないが、しかしひよこちゃんだ。人間の男には程遠い。
「あー、だめだ。ステファニーは俺のことを男として見ていない」
シンは心底呆れた表情でオーウェンを見つめた。しかしオーウェンは前のめりになってシンに助言を求めた。
「シン、自分を男として意識していない相手に意識してもらうようになるのってどうすればいい?」
「えっ…」
黙り込んでしまったシンが口を開くのを待っていたオーウェンだが、シンはそのまま固まってしまった。
よく考えたら、シンも自分も大学では工学を専攻し、卒業後は鉱山にいた。極端に女性の少ない環境だった。
色恋沙汰はとんとご無沙汰で、そんな二人が考えたところで答えが出ないのは火を見るより明らかだとオーウェンは悟った。
「…なんのアドバイスもできないが、頑張れ」
「うん、ありがとう」
進展があったら報告することを約束して、シンは帰っていった。
♢
「なにか欲しいものはないか」
オーウェンは女性の気を引くには贈り物をすれば良いという浅い知識で、欲しいものを直接ステファニーに聞いた。ステファニーの欲しいものをこっそり調査検討することは不可能だと判断したのだ。
突然問われたステファニーは怪訝な顔でオーウェンを見つめた。
「…最近、なにかお礼してもらえるようなことしましたっけ?」
「いや…、なにかの見返りではなく。普通になにか欲しいものはないかと思って」
少し考えたステファニーはなにかを思いついて、あっ、と顔を上げた。
「オーウェン様の時間を2時間ください」
「えっ?」
「少し付き合って頂きたいところがあります」
それがどこだか教えてくれなかったが、オーウェンは了承して日程調整した。
約束した日、行きましょうと促されて特注馬車に乗った。
実はオーウェンはもう短時間ならば普通の馬車に乗れるようになっていたが、天気が良ければ特注馬車に乗ることが多かった。風が吹いて気持ちが良いし、愛着が湧いていた。
「どこに行くんだ?」
「すぐ着きますよ」
しばらく走ると、着いたのは街にある養護施設だった。ここでは親のいない子どもや、経済的に自立準備をしている女性たちが暮らしている。
どこに連れて行かれるのかと身構えていたオーウェンは拍子抜けした。
「なんだ、言ってくれれば普通に仕事に入れたのに」
「仕事にしてしまったら先触れを出さなければいけないでしょう?そのうちオーウェン様を連れてくると皆に言っていたので、今日はサプライズです」
ステファニーは時間ができたときに修道院やこういった養護施設に慰問に行くようになっていた。時には祖母も一緒のこともあるようだ。
なにか大きな籠を持ったステファニーは施設に入ると、迷うことなく部屋に入っていった。オーウェンがその後に続くと、広い部屋で女性たちが裁縫仕事をしていた。部屋の隅では子どもたちが大人しく本を読んだり勉強したりしている。
「こんにちは」
ステファニーの声に顔を上げた女性たちは、後ろのオーウェンに気付くと、きゃあと声を上げた。
「約束通り連れてきましたよ」
ステファニーの籠の中身はアップルパイだった。それを年配の女性に渡すと、自分は裁縫の輪に加わった。
オーウェンもそれを見学しようとすると、部屋の隅にいた子どもたちが、わっと集まってきた。
「領主さま!本読んで!」
「勉強見てよ!」
うろたえるオーウェンにお構いなしに、子どもたちは服を引っ張り部屋の隅に引っ張っていった。机には教科書が広げられており、それには数字が並んでいる。子どもが学ぶには高度な内容のように思えた。
「こんなことを学んでいるのか、すごいな。これは学校で?」
オーウェンに尋ねられた子どもは首を横に振った。
「ううん、昼間は働いていて学校には行ってないって言ったらステファニー様がこれで学べって。それで、ここが分からない」
子どもから示された問題を見て、オーウェンは解き方を教えてやった。それから子どもたちに請われるまま、本を読んだり遊んだりしてやった。
そういえば過去にも父に連れられて慰問したことがあるなとオーウェンは思い出した。その時も子どもたちの勉強を見てやった。
ステファニーは女性らと談笑しながら裁縫をしていたが、時間が来ると「帰りましょうか」とオーウェンに声をかけた。
皆からまたきてねと見送られて、二人は手を振って馬車に乗り込んだ。
「普段はステファニーが勉強を見ているのか?」
「ええ。やはり家庭環境が落ち着かなくて学校に行けない子もいるので、そういった子にはせめて読み書きと数字だけはと。それが出来ればとりあえず食いっぱぐれることはありませんからね」
「そうだな」
「ただ、今日オーウェン様が教えていた子は数字が得意で、どんどん難しい問題を解いていっているんです。私では教えるのが難しくなってきているので、オーウェン様が教えてくださって良かったです」
「ああ、そうだったのか」
どうりで年のわりに難しい問題を解いていると思った。
オーウェンも数字を扱うことが得意な子どもだった。生まれや環境に関わらず、勉強の得意な子どもはいるものだ。
全ての子どもが生活の心配することなく得意なことを伸ばせるような仕組みを作れたらとは思うが、それは今後の課題でもある。
「また時間ができたら行こう。声をかけてくれ」
「お忙しいんじゃありませんか?」
「いや、父と違って私の周りには仕事を分担してくれる人たちがたくさんいるからな。父に比べたら暇だ」
業務の棚卸しをした時には、余裕ができたら仕事をまた自分の手元に戻そうと考えていた。しかし今はもうこのままでいいか、とオーウェンは思い始めている。
手が空けば新しい仕事を検討することもできるし、領主にしかできないことがきっともっとあるはずだ。
♢
ステファニーの気を引くために欲しいものがないかを問うたのに、結局当初の目的を果たせていないことにオーウェンは帰ってから気付いた。
欲しいものや好きなものを本人に聞いてもなかなか良い答えが得られないと思ったオーウェンは、アンナを捕まえた。
「ステファニーの好きなものを教えてくれ」
「えっ…」
突然オーウェンに呼び止められたアンナは困惑しながらも、少し考えて答えた。
「…そういえば、お酒がお好きだそうです。ここに来るまであまり飲む機会がなかったけれど、今はたまに飲めるので嬉しいと」
「何の酒が好きなんだ?」
「ワインのようですよ」
良いことを聞いた。
しかし、オーウェンはさすがにまだ地下のワイン蔵に行く勇気はなかった。その上、ワインに詳しくもない。仕方ないのでダンに頼んで、適当に何本か持ってきてもらった。
その日の夜、寝室にワインとグラス、それに少しの食べ物を持ち込んだ。
「ステファニー、良かったら少し飲まないか」
「まあ、ぜひ」
ステファニーは嬉しそうに椅子をずるずると引きずってきた。オーウェンがワインを勧めると、にこにこして、香りを確かめている。ワインが好きだというのは本当のようだ。
「普段はあまり飲まないように思うが、酒が好きなのか?」
普段はオーウェンがほとんど飲まないし、夜会や会食に行ったときもステファニーはあまり飲んでいる様子はなかった。
「そうですね。でも伯爵夫人が会食などでたくさん飲んでたりしたらおかしいですよね?なので控えています」
「そうなのか…。昔から好きなのか?」
「うーん、好きでしたけど、以前は飲む機会が少なかったですからね」
「まあ、病気療養だもんな」
オーウェンがそう言うと、ステファニーはなにを思い出したのか、にやにやと笑っていた。
それからステファニーは鶏や庭の畑の話、屋敷の従業員の話などをオーウェンに聞かせた。その間も酒をどんどん飲んでいる。ペースが速い。
ステファニーにつられて飲んでいるうちに、オーウェンは自分に酔いが回ってきていることに気付いた。
ステファニーは酒が入ることでいつもよりもさらに饒舌になり、ぺらぺらと喋り続けている。しかし酔ったオーウェンの頭には内容が入ってこない。
だんだん生返事になるオーウェンの肩を、ステファニーが聞いてますか?と揺さぶる。
よくそんなに話すことがあるものだ。結婚した頃のようだな、それにしてもすごい勢いよく飲んでいるーーと思って以降、オーウェンは記憶がない。
次の日の朝、オーウェンは寝室のベッドで目が覚めた。夜中のうちに自室に戻ろうと思っていたのに、潰れてそのまま寝てしまったようだった。
すでにベッドにステファニーはいなかった。オーウェンが痛む頭を抑えて自室に戻ると、もう朝食を取ろうかという時間だった。
着替えて食堂に降りると、ステファニーはすでに席に着いていた。
「おはようございます、オーウェン様、お加減いかがですか?」
「…おはよう。あなたの方はどうなんだ」
「元気です。昨夜はありがとうございました。とても美味しいワインでした」
相当量を飲んだはずなのに、ステファニーはいつもと変わらず元気そうだ。「いただきます!」といつもと同じ大きな声が、がんがんと頭に響いてオーウェンはうなだれた。
なんだってこんなに酒が強いんだ。もう同じペースでは絶対に飲まない、とオーウェンは誓った。
今回、オーウェンの方が潰れてしまったので自分を男として見てもらうという点ではマイナスだったかもしれない。ただ、本人は楽しかったようなので、まあいいか、と思った。
離縁までの3年の間にだんだん仲良くなって、帰らないと言ってくれるかもしれない。それにステファニーは優しいから、いざとなれば、帰らないでと泣きつけば同情して留まってくれるかも、とオーウェンはぼんやりした頭で後ろ向きなことを考えていた。
「あのときは泥酔してしまって悪かった」
「いや、楽しかった」
「うん、誘ってくれてありがとう」
しばらく仕事の話をしてから一息つくと、シンはステファニーのことを尋ねてきた。
「今日はお姫さまは?」
「さあ…、家の仕事をしてるかな。分からない」
今朝、ステファニーはどこかに外出するとは言っていなかったので、家のどこかにいるんだろう。
ステファニーのことを思い出したオーウェンは、なんだか急に最近の自分の気持ちをシンに相談したくなってきた。もう自分一人で悶々と悩むのが面倒になってきたのだ。
「シンはさ、独身だろ」
「ああ、悲しいことに」
「その…、将来的に別れなければいけない相手に惹かれてしまった場合、どう気持ちに折り合いをつければいい?」
「はあ?」
シンは意味が分からない、というように眉を寄せた。
「なんだそれ、とんち?」
「いや…」
オーウェンは歯切れ悪くも事情を説明した。
「ステファニーは鉱山の褒賞でうちに来たし…色々面倒かけたから、将来王宮に帰してやりたいんだけど、ただなんというか最近、ステファニーが気になって仕方ないんだ」
「えっ、帰っちゃうのか?」
「いや、決まっているわけではないが、帰すのが誠実な対応かなと俺が思ってるだけで」
シンはまだ話がうまく飲み込めていないようで、考えている顔だ。
「帰すべきだけど、帰したくなくなっちゃったってこと?」
「そうだな」
「帰さなきゃいいじゃないか」
「本人に始めに、帰すと言ってしまっている」
そうだ、始めにあんなこと言わなければよかったとオーウェンは後悔した。
「お姫さまは帰りたがってるのか?」
「…分からない…」
「聞けばいいだろ」
「…聞けない…」
オーウェンは頭を抱えた。
何度か「帰りたいなんて言ってない」と言っていたように思うが、社交辞令かもしれない。もしも離縁する3年後を指折り数えているようだったら、ショックで立ち直れない気がする。
「なにをぐずぐず言ってるんだ。それなら簡単なことだろ。お姫さまに帰りたくないなと思わせるように好きになってもらえばいいんだ」
シンの言葉に、オーウェンはばっと顔を上げた。
確かにシンの言う通りだ。ステファニーに自分を、この家を好きになってもらえば万事解決だ。
「お前、お姫さまに嫌われているわけじゃないんだろ。仲良さそうだったじゃないか」
ステファニーに嫌われてはいないと思うが、しかし、男として見られていないことをオーウェンは思い出した。
なんていったって、彼女は自分のことを『毛並みが少しぼさぼさのひよこちゃん』と称したのだ。眠れるようになったので、毛並みは多少改善されたかもしれないが、しかしひよこちゃんだ。人間の男には程遠い。
「あー、だめだ。ステファニーは俺のことを男として見ていない」
シンは心底呆れた表情でオーウェンを見つめた。しかしオーウェンは前のめりになってシンに助言を求めた。
「シン、自分を男として意識していない相手に意識してもらうようになるのってどうすればいい?」
「えっ…」
黙り込んでしまったシンが口を開くのを待っていたオーウェンだが、シンはそのまま固まってしまった。
よく考えたら、シンも自分も大学では工学を専攻し、卒業後は鉱山にいた。極端に女性の少ない環境だった。
色恋沙汰はとんとご無沙汰で、そんな二人が考えたところで答えが出ないのは火を見るより明らかだとオーウェンは悟った。
「…なんのアドバイスもできないが、頑張れ」
「うん、ありがとう」
進展があったら報告することを約束して、シンは帰っていった。
♢
「なにか欲しいものはないか」
オーウェンは女性の気を引くには贈り物をすれば良いという浅い知識で、欲しいものを直接ステファニーに聞いた。ステファニーの欲しいものをこっそり調査検討することは不可能だと判断したのだ。
突然問われたステファニーは怪訝な顔でオーウェンを見つめた。
「…最近、なにかお礼してもらえるようなことしましたっけ?」
「いや…、なにかの見返りではなく。普通になにか欲しいものはないかと思って」
少し考えたステファニーはなにかを思いついて、あっ、と顔を上げた。
「オーウェン様の時間を2時間ください」
「えっ?」
「少し付き合って頂きたいところがあります」
それがどこだか教えてくれなかったが、オーウェンは了承して日程調整した。
約束した日、行きましょうと促されて特注馬車に乗った。
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「どこに行くんだ?」
「すぐ着きますよ」
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どこに連れて行かれるのかと身構えていたオーウェンは拍子抜けした。
「なんだ、言ってくれれば普通に仕事に入れたのに」
「仕事にしてしまったら先触れを出さなければいけないでしょう?そのうちオーウェン様を連れてくると皆に言っていたので、今日はサプライズです」
ステファニーは時間ができたときに修道院やこういった養護施設に慰問に行くようになっていた。時には祖母も一緒のこともあるようだ。
なにか大きな籠を持ったステファニーは施設に入ると、迷うことなく部屋に入っていった。オーウェンがその後に続くと、広い部屋で女性たちが裁縫仕事をしていた。部屋の隅では子どもたちが大人しく本を読んだり勉強したりしている。
「こんにちは」
ステファニーの声に顔を上げた女性たちは、後ろのオーウェンに気付くと、きゃあと声を上げた。
「約束通り連れてきましたよ」
ステファニーの籠の中身はアップルパイだった。それを年配の女性に渡すと、自分は裁縫の輪に加わった。
オーウェンもそれを見学しようとすると、部屋の隅にいた子どもたちが、わっと集まってきた。
「領主さま!本読んで!」
「勉強見てよ!」
うろたえるオーウェンにお構いなしに、子どもたちは服を引っ張り部屋の隅に引っ張っていった。机には教科書が広げられており、それには数字が並んでいる。子どもが学ぶには高度な内容のように思えた。
「こんなことを学んでいるのか、すごいな。これは学校で?」
オーウェンに尋ねられた子どもは首を横に振った。
「ううん、昼間は働いていて学校には行ってないって言ったらステファニー様がこれで学べって。それで、ここが分からない」
子どもから示された問題を見て、オーウェンは解き方を教えてやった。それから子どもたちに請われるまま、本を読んだり遊んだりしてやった。
そういえば過去にも父に連れられて慰問したことがあるなとオーウェンは思い出した。その時も子どもたちの勉強を見てやった。
ステファニーは女性らと談笑しながら裁縫をしていたが、時間が来ると「帰りましょうか」とオーウェンに声をかけた。
皆からまたきてねと見送られて、二人は手を振って馬車に乗り込んだ。
「普段はステファニーが勉強を見ているのか?」
「ええ。やはり家庭環境が落ち着かなくて学校に行けない子もいるので、そういった子にはせめて読み書きと数字だけはと。それが出来ればとりあえず食いっぱぐれることはありませんからね」
「そうだな」
「ただ、今日オーウェン様が教えていた子は数字が得意で、どんどん難しい問題を解いていっているんです。私では教えるのが難しくなってきているので、オーウェン様が教えてくださって良かったです」
「ああ、そうだったのか」
どうりで年のわりに難しい問題を解いていると思った。
オーウェンも数字を扱うことが得意な子どもだった。生まれや環境に関わらず、勉強の得意な子どもはいるものだ。
全ての子どもが生活の心配することなく得意なことを伸ばせるような仕組みを作れたらとは思うが、それは今後の課題でもある。
「また時間ができたら行こう。声をかけてくれ」
「お忙しいんじゃありませんか?」
「いや、父と違って私の周りには仕事を分担してくれる人たちがたくさんいるからな。父に比べたら暇だ」
業務の棚卸しをした時には、余裕ができたら仕事をまた自分の手元に戻そうと考えていた。しかし今はもうこのままでいいか、とオーウェンは思い始めている。
手が空けば新しい仕事を検討することもできるし、領主にしかできないことがきっともっとあるはずだ。
♢
ステファニーの気を引くために欲しいものがないかを問うたのに、結局当初の目的を果たせていないことにオーウェンは帰ってから気付いた。
欲しいものや好きなものを本人に聞いてもなかなか良い答えが得られないと思ったオーウェンは、アンナを捕まえた。
「ステファニーの好きなものを教えてくれ」
「えっ…」
突然オーウェンに呼び止められたアンナは困惑しながらも、少し考えて答えた。
「…そういえば、お酒がお好きだそうです。ここに来るまであまり飲む機会がなかったけれど、今はたまに飲めるので嬉しいと」
「何の酒が好きなんだ?」
「ワインのようですよ」
良いことを聞いた。
しかし、オーウェンはさすがにまだ地下のワイン蔵に行く勇気はなかった。その上、ワインに詳しくもない。仕方ないのでダンに頼んで、適当に何本か持ってきてもらった。
その日の夜、寝室にワインとグラス、それに少しの食べ物を持ち込んだ。
「ステファニー、良かったら少し飲まないか」
「まあ、ぜひ」
ステファニーは嬉しそうに椅子をずるずると引きずってきた。オーウェンがワインを勧めると、にこにこして、香りを確かめている。ワインが好きだというのは本当のようだ。
「普段はあまり飲まないように思うが、酒が好きなのか?」
普段はオーウェンがほとんど飲まないし、夜会や会食に行ったときもステファニーはあまり飲んでいる様子はなかった。
「そうですね。でも伯爵夫人が会食などでたくさん飲んでたりしたらおかしいですよね?なので控えています」
「そうなのか…。昔から好きなのか?」
「うーん、好きでしたけど、以前は飲む機会が少なかったですからね」
「まあ、病気療養だもんな」
オーウェンがそう言うと、ステファニーはなにを思い出したのか、にやにやと笑っていた。
それからステファニーは鶏や庭の畑の話、屋敷の従業員の話などをオーウェンに聞かせた。その間も酒をどんどん飲んでいる。ペースが速い。
ステファニーにつられて飲んでいるうちに、オーウェンは自分に酔いが回ってきていることに気付いた。
ステファニーは酒が入ることでいつもよりもさらに饒舌になり、ぺらぺらと喋り続けている。しかし酔ったオーウェンの頭には内容が入ってこない。
だんだん生返事になるオーウェンの肩を、ステファニーが聞いてますか?と揺さぶる。
よくそんなに話すことがあるものだ。結婚した頃のようだな、それにしてもすごい勢いよく飲んでいるーーと思って以降、オーウェンは記憶がない。
次の日の朝、オーウェンは寝室のベッドで目が覚めた。夜中のうちに自室に戻ろうと思っていたのに、潰れてそのまま寝てしまったようだった。
すでにベッドにステファニーはいなかった。オーウェンが痛む頭を抑えて自室に戻ると、もう朝食を取ろうかという時間だった。
着替えて食堂に降りると、ステファニーはすでに席に着いていた。
「おはようございます、オーウェン様、お加減いかがですか?」
「…おはよう。あなたの方はどうなんだ」
「元気です。昨夜はありがとうございました。とても美味しいワインでした」
相当量を飲んだはずなのに、ステファニーはいつもと変わらず元気そうだ。「いただきます!」といつもと同じ大きな声が、がんがんと頭に響いてオーウェンはうなだれた。
なんだってこんなに酒が強いんだ。もう同じペースでは絶対に飲まない、とオーウェンは誓った。
今回、オーウェンの方が潰れてしまったので自分を男として見てもらうという点ではマイナスだったかもしれない。ただ、本人は楽しかったようなので、まあいいか、と思った。
離縁までの3年の間にだんだん仲良くなって、帰らないと言ってくれるかもしれない。それにステファニーは優しいから、いざとなれば、帰らないでと泣きつけば同情して留まってくれるかも、とオーウェンはぼんやりした頭で後ろ向きなことを考えていた。
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