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鶴機 亀輔

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第1章

0.01ミリメートルの防御壁3

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「それはそうだけど……」と男が口ごもる。「まだ朝まで時間があるんだよ。ピロートークをしてベッドで一緒に寝たり、お風呂へ入ったりしようよ。話す時間だってたっぷりあるし」

「必要性を感じませんね。時間の無駄です。じつにタイパが悪いと思いますけど」

 バーで話していた内容が本当なら、この人は二年前に私立のK大学を卒業。丸の内の一流企業で現在働いている有能なお兄さんだ。

 ゲイバーで、たまたま話しかけられ、お酒をおごってもらった。で、なんとなくラブホに入る流れになった。

 お兄さんは清潔な容姿をしていて、身なりが整っていた。すごく歳の離れた相手でもないし、せっかく有益なお話を聞かせてもらった恩もある。

 何より溜まっていたから、こんな美味しい話はないと、そのまま着いていった。

 絵に描いたようなエリートが、どうして時間効率を考えないんだろう? 彼は仕事のできない無能という訳じゃないのに。

 ヤることヤッた後もダラダラ過ごすなんて時間の無駄だ。意味がない。

 それなら大学の勉強をする。

 就職のために資格取得や就職情報誌に目を通したり、ネットの情報を確認する方が有益だ。

 友だちと話を合わせるためにゲームや映画に時間を注ぎ込んだ方が、ずっといい。

 男がベッド脇のデスクに置いた六千円を取りに行き、ぼくに突き返した。

「いらないんですか?」と訊けば、ムッとした顔をする。

「金をもらっても、うれしくないよ」

「ですがホテルの代金をすべて払っていただきました。割り勘で三千円を――」

「いいよ。そういう話をされた後で払われても、売春になっちゃうから困るんだ。そもそもオレだって一流企業で働いてい、お給料はいいほうなんだよ」

「申し訳ありません」

 謝れば、顔を覗き込まれる。

「オレが元・既婚者だからいや? それとも、これから大事な用でもあるの?」

「――すみません、どうしても大事な約束を学部の友人や先輩たちとしているんです。じゃないと次の試験に必要なノートを貸してもらえないし、過去問とか傾向についても教えてもらえなくなります」

 好きでも嫌いでもないゲームをやるのが、大切な用事だと社会人のこの人は思わないだろう。

 でも、それはぼくが大学でやっていくためには必要なこと。何より重要なことなのだ。

 どちらにしろ一刻も早くこの場を立ち去りたかった。

 裸のままの男が、ため息をつく。

 床に落ち、しわになったスーツの上着から名刺入れを取り出す。ベッド脇のデスクにあったボールペンを手に取り、名刺の裏に走り書きをする。

「これ、オレのプライベート用の携帯番号とLIMEライムのID」

 そうして男の本名と企業名、役職・部署の書かれた名刺を手渡される。

 一度寝ただけの相手に、こんな個人情報の塊を渡すなんて危機感なさすぎ。ネットでさらされたらどうするの?

 心の中でブリザードが吹き荒れる。

 無表情のまま男の名刺を受け取る。

 すると男に腰を抱かれ、口づけられる。バードキスじゃなくてディープキス。

 まあ、これくらいは応じておかないとだよな。

 目を閉じ、男に合わせて舌を絡ませあう。

 しばらくすると唇が離れる。

 どこか熱っぽく潤んだ目で見つめられる。が、どうでもいい。

 もうワンラウンドなんて言われたら、この後の予定が狂う。イライラ、ソワソワしていれば男の手が離れる。

「絶対に電話してね」

「……はい」

「時間に遅れるといけないよね、気をつけて。今日はありがとう」

「お気遣いいただき、ありがとうございます。お世話になりました。では失礼します」

 やさしい人でよかった。でも、それだけ。

 ドアを開けてエレベーターへ駆け込んだ。閉めるボタンを押すと「乗ります、乗ります!」

 あわてて男女のカップルが相乗りする。恋人繋ぎをしている。

 ぼくよりも二、三歳上のカップルだろう。多分、ベータの社会人。つきあい始めてからそんなに経っていない。セックスの回数も片手で数えるくらいだ。華金で食事デートの後に気分が高揚して、ラブホに立ち寄ったのだろう。

 彼らは、ぼくの存在を無視して、人目もはばからずイチャついた。聞き耳なんて立てていないのに、彼らの会話が自動的に耳へ入ってくる。

「すごく気持ちよかった」

「うん、おれも。もっと好きになったよ」

「うれしい、わたしも。あなたのことが大好き。ねえ、また来ようね」

「うん、そうだね」と小声で話している。



 エントランスにつくとカップルの方を先に出す。

 エレベーター横にステンレス製の筒状のごみ箱が目についた。

 さっき男からもらった名刺をスラックスのポケットから出す。なるべく細かく破いて、ごみ箱の中に捨てた。アパートにはシュレッダーがないし、月曜まで名刺を取っておいて大学のPCルームにあるシュレッダーにかける必要性を感じない。

 そのままスマホを取り出す。

 からのLIMEも、電話も、メールも来ていない。

 それがうれしくて、悲しくて寂しい。矛盾した気持ちに胸が痛む。

 こんなことをしている場合じゃない。早くしないと電車を逃してしまう。
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