綾、夏廻る

せいのかつひろ

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第二話「言葉を喰う光」

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「――太れないんです。私」
 うだるような熱帯夜の中、僕の隣を歩く棗先輩が無感情にそう呟いた。その言い方だと、本当はもっと太りたいように聞こえるが、僕には何か別の意味が内包されているような気がした。
 大学二回生の夏休み、僕は棗先輩と再び会うことになっていた。勿論二人きりではない。
「けーっ! ここまで涼しい表情で言われると嫌味に聞こえるよなぁ後輩!」
「は、はぁ……そうすかね」
 ぐいぐいと僕の首を絞めながらスーツ姿の女性は言葉を吐いた。端的に言うと泥酔している。そしてそんな女性に、今僕は絡まれている。こういうのは綾瀬の役回りだろうに。
「美香、苦しそうだから放してあげて」
 棗先輩が苦笑しながら助け舟を出してくれるが、当然そんなことで言うことを聞くならまだ泥酔とは呼べないだろう。
「いやいや、こんな美人に絡まれてるんだから悪い気しないですって! な、阿須加」
 そう言うなら是非変わってくれ綾瀬。全体重を首にかけられるこの痛みを、お前はまだ知らないだけだ。美香と呼ばれたその人はフレームレスの眼鏡を、僕を捕らえていない方の手でくいと正してから綾瀬を見る。
「ふんふん、いやぁ君はまだダメだな、出直してきなさい……!」
「何を基準に僕は合格したんですかね……」
「ごめんなさい、阿須加さん。どうしても美香が面白そうだから会わせろって……」
 申し訳なさそうに棗先輩は僕に謝罪する。助けてはくれないが。
 彼女、東堂美香先輩は棗先輩と同期で、当時のサークルの部長を務めていたそうだ。今はこんな状態だが、普段は意見をまとめたり他人と調和を図る能力に優れている人物らしい。実際、最初に会った時の印象はスーツ姿も相まって「頭の良さそうな人」だった。東堂先輩は四年で大学を去り、現在は企業勤めをしているそうだ。棗先輩とは頻繁に連絡を取り合っているらしく、その時に僕達の話をしたら会わせろと煩かったようで、本日の召集に至る。
「まぁいいんですけどね……それより、太れないっていうのは……」
「……流石、阿須加さんは察しがいいですね」
 僕が続きを話す前に、棗先輩はそう言って薄く微笑んだ。つまり、その発言は単に体質の話をしたわけではないということだ。綾瀬がその発言に食いつく。
「え、やっぱ何かあるんですか! 昔やった儀式の代償みたいな……」
「ちょっと違うんですが……まぁ、今となってはそうなのかな、とも思っています」
 言ってから、棗先輩は空を見上げた。つられて僕も空を見上げる。今日の空は雲が多い。折角の十三夜月だというのに、その体を黒い影が隠している。
「おいお前らぁ、次もう一件行くぞぉ」
「痛い痛いですって……!」
「……丁度いいから、このままその人を私の家まで運んで頂けますか? 今日ならきっと、面白いものを見せられますから」
 東堂先輩を引き摺りながら、棗先輩に視線を向ける。面白いものと言う割りに、その顔はどこか憂いを帯びていた。いや、この人はいつでもそうか。綾瀬が僕の隣から棗先輩の隣へ移動する。
「え、なんですかそれ、俺も付いて行きたいです!」
「えぇ是非。構いませんよ」
 同意が得られると綾瀬はありがとうございますと叫び、一人歩を早めた。もう「価値観を変えた出来事」のことは忘れているのだろうか。或いは切り替えられたのか。はたまた棗先輩と一緒に過ごす時間をとったのか。まぁ変に黄昏ていたり、達観されているよりはずっといい。

 途中コンビニを経由してから棗先輩の家に到着したのが午後二十三時。僕は東堂先輩をソファに寝かせ、床に座り込んだ。額から流れる汗を拭う。シャツがびっしょりと濡れていた。ただでさえ暑いというのにこの東堂先輩とかいう人は、棗先輩の家へ向かう途中で突然意識を手放したのだ。正直かなり重かった。この人ともしまた会う機会があったら、次はお酒を控えさせよう。
「ありがとうございます、阿須加さん」
 棗先輩はそう言って僕にコップ一杯の水とタオルを手渡してくれる。ありがとうございますとコップを受け取り一息で飲み干した。家の中は、帰ってきたばかりだというのにとても涼しかった。
部屋の中は綾瀬に聞いていた通り、どこが作り物のような、生活感がないように感じた。けれどそれよりも圧倒的な存在感を放っていたのは、やはり綾瀬の言っていた通り、大きな水槽だった。綾瀬はその中に何もいないと言っていたが、今は、何かがいる……ように見える。というのも、淡青色に満たされた水槽の中に、鈍色に蠢く光。人の拳ほどの大きさのそれは、水の中を漂うように光り輝いていた。光というのも眩しいという感じではない。遮光フィルター越しに見る太陽のような色、と言えば分かりやすいだろうか。その様はまるで、こちらをじっと見つめているようにも見えた。綾瀬もそれに気が付いたのか、水槽を見て固まっていた。
「あ、あの。棗先輩……その、す、水槽に、何か……」
「はい、今日は月が隠れていますから。最初は、ちゃんと観賞魚が住んでいたんですけどね……あ、あんまり直視し続けない方がいいです。そうしなければ、私以外に害はありませんから」
 東堂先輩がソファを占拠してしまっているからか、棗先輩は僕の向かい側に座った。話をしている間、先輩は水槽を見なかった。綾瀬もようやく落ち着いてきたのか、僕の隣に座り込む。
「なんですか、あれ」
「……あれは、光です」
 なんとも抽象的な言葉が返ってきた。そこにあるものに対して「あれは光だ」なんて答える人はそういない。まぁそもそも僕の聞き方も悪かった。本来なら「あれ」ではなく、「あの光」はなんですか、と聞くべきところだ。まぁどちらで聞いても答えは同じだったかもしれないが。
「今日みたいに、月の出ていない夜に、光は現れるんです。……そして、お二人にお願いがあるのですが」
 話の流れを無視して、棗先輩は僕達を真っ直ぐ見据える。その視線は僕達に向いているようで、どこかずっと遠いところを見ているようだった。この人は時折、こういう時があると、数度会って理解する。僕と綾瀬は同時に姿勢を正してから、続きの言葉を待った。
「どうか、今夜一晩、私に付き合って頂けないでしょうか」
「え」
綾瀬が声を上げる。恐らくお前が期待している意味ではない。……いや、綾瀬もそれを直ぐに理解したのか、気まずそうに俯いた。
「理由を、教えてください」
「勿論です……といっても、大した話ではないのですが」
 そう切り出してから、棗先輩は淡々と、無感情に、無調律に話しはじめた。



――いつからそこに在ったのか、はっきりと覚えてはいません。この家に引っ越す前から、いつの間にかあの光は私の傍にいました。
 今は水槽を用意していますが、その前は冷蔵庫の中だったり、押入れの中だったり……とにかくどこか、私の住む場所の近くに、光はいました。月の無い夜であれば、見える人には見えるそうです。私には常にそれが見えているのですが。中には全く見えない人もいるようです。美香には、見えていないようでした。
 光は、月の無い夜に私の夢にも現れます。その夢は、眠っている私を光がただ見下ろすだけ、という夢でした。夢の中だとこの光は成人男性一人分ほどの大きさになっています。
 そして光は、寝ている私の顔の上で、少しだけ光を揺らすのです。すると、私の口から、言葉が溢れてくる。言葉は、私がかつてした発言したものからどこかで見聞きしたものまで。これまで私と一度でも関わりを持ったであろうありとあらゆる言葉が、私の口から勝手に溢れてくる。音はありません。私が音を発することもありません。苦しさや痛みもありません。ただ、言葉が実際に、私の口から浮かび上がってくるのです。そしてその言葉達を、光が吸い込んでいく。まるで、言葉を食べているようだ、と思いました。私はただ、それを見ていることしか出来ません。
 いつの間にか、光は言葉を吸い込むのを止め、私の口から溢れていた言葉も、無くなっていました――


「そこで私は、目覚めます。目覚めると、必ず激しいめまいと頭痛に襲われて……立っていられないほどでした。言葉を食べられているからか、私の体重はどんどん減っていくばかりで……おかしな話でしょう?」
「……それは、月が出ていなければ、必ず、ですか?」
 僕の問いに、棗先輩はゆっくり頷いた。これからは空を見上げる機会が増えそうだ。綾瀬はぼうっとした表情で、先輩の話に聴き入っている。
「最近になって、気付いたことがあるんです」
 棗先輩が、呟くように語る。 
「あの光……といっても、夢に出てくる方の話ですが、最初は、あんなに大きくなかったんじゃないかと、思うんです」
 そうして、今日初めて、先輩は水槽の方に視線を送った。僕も引き寄せられるように水槽の中の光を見つめる。初めて見た時と変わらずに、ただ光はそこに在った。
「……いつか、これ以上大きくなって、私の言葉を全て食べきったら。あの光は、私は、どうなるのかな、と、時々考えます」
「何か回避策はないんですか?」
「そ、そうです、このままじゃ死んじゃいますよ!」
 綾瀬が前のめりになって先輩に言う。僕達の様子を見て、先輩は少しだけ微笑んだ。
「……回避策はあります。眠らないこと、眠っても夢を見ないこと」
「……あぁ、それで」
 そう言えば、昨日の夜は、月が出ていただろうか。一昨日は……どうだっただろう。
「昼のうちに眠るというのも難しいのでしょうか?」
「同じこと、なんです。月が私から見えなくても、月は私を見ているので。寧ろ昼間の方が月が見えなかったりするので、怖いですね」
 誰でも思いつきそうなことだ、当然試したのだろう。棗先輩はその質問が飛んでくることが分かっていたかのように淡々と答えを返した。
「……そうでしたか」
「……本当は美香にお願いするつもりだったのですが、この有様ですから……」
「因みに今日は、何日目ですか?」
僕が問うと、先輩はゆっくり立ち上がり、窓から空を見上げた。雲で月が隠れているせいか、窓辺に立った先輩はどこかどんよりとした雰囲気をまとっている。そんなことに、ついさっきまでは気が付かなかった。
「もう、覚えていないです。気が滅入ってしまいそうだから、数えないようにしているので」
 振り返り先輩はそう言って笑った。余りにも儚げなその微笑に、僕達はただ、言葉を呑むだけだった。


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